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Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics.  by Hiroshi Kobayashi


2001年8月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。※「人文レジ前」は2004年6月で連載を終了いたしました。

[2001年8月6日]

◆夏休みの読書に最適! その1:最高のラカン伝

ジャック・ラカン伝
エリザベト・ルディネスコ著; 河出書房新社; 6800円; 4-309-24249-9

待ちに待った邦訳である。『エクリ』や一連のゼミ録によって現代の精神分析を一新した無二のカリスマであるラカン――その生涯と交友、思想形成を綿密に追った膨大な評伝がついに邦訳された。「セルフメイド・マン」を自認する彼の思想が実は多くの知的交流によって成ったものであることを明かにし、自らの巧妙な演出によって「威光」をまとっていった過程が、本書ではことごとく脱神話化されている。ラカンの娘婿であるミレールによって出版を拒絶されたほどのその出来栄えは、ラカンをこき下ろすものではなく、彼とその時代を丹念に調査し描ききった堂々たる「20世紀フランス思想史」となっており、登場人物は千人を超える。読書家ならずとも手元に置いておきたい素晴らしい一冊だ。

※難解だが知的魅力に溢れるラカン理論の解読は→こちら


◆夏休みの読書に最適! その2:謎の人コジェーヴ

評伝アレクサンドル・コジェーヴ 哲学、国家、歴史の終焉
ドミニック・オフレ著; パピルス; 8500円; 4-938165-28-7

ロシアに生まれドイツで学び、その卓越したヘーゲル解釈によってフランスに多大な知的インパクトをもたらしながらも、その謎めいた生涯は未知の深い霧に閉ざされてきた異貌の人、コジェーヴ。本書は海外で第一級の研究書として広く歓迎された、著者積年の資料探究の賜物である。ロシアでの裕福だが波乱に満ちた幼少時代から、フランスの政府高官としてブリュッセルで客死するまでの生涯とその思想の生成過程を描き、特にこれまで知られることの少なかった政界での活躍も明らかにした。彼の非常に多角的な知的好奇心の軌跡がいかに多くの知識人を巻き込んでいったか、絢爛たるドラマの連続が読者をひきつけてやまないだろう。

※コジェーヴに心酔したバタイユの側から同時代を見ると↓
シュリヤ著『バタイユ伝』上下巻、河出書房新社

[別稿]コジェーヴの魅力。

とにかく博覧強記の俊才です。洋の東西、文系理系を問わない広大な思想領域をカバーし、古典語から各国語も堪能。ヘーゲル『精神現象学』を画期的に読み替えた「歴史の終焉」論が有名ですね。小説を読んでいるかのように面白い『ヘーゲル読解入門』は国文社から抄訳が出ています。この人の場合、本文だけでなく、脚注もすばぬけて面白い。かのフランシス・フクヤマが流用したのもこの脚注からです。

20世紀初頭というのはロシアからたくさんの頭脳がドイツを通ってフランスに流入した時代なんですね。コジェーヴの先輩のコイレをはじめ、レヴィナスとかベルジャーエフとかジャンケレヴィッチとかもそうですね。彼らが当時思想的にはドイツに遅れをとっていた「辺境地」フランスに大きな知的インパクトを与えたんです。

コジェーヴのヘーゲル講義にはフランス現代思想の基軸となる多くの知識人が参加していました。中でももっともコジェーヴに衝撃を受けていたのがバタイユです。ほとんどメロメロというか、可愛さ余って憎さ百倍なほれ込み方をします。フランスにおけるポストモダニズムの基礎をつくったのがコジェーヴだと言えるかもしれない。さらにコジェーヴはそのあと政府高官に起用されて、ヨーロッパ共同体を用意する政治的舞台で隠然たる影響力をフランス国内で持つようになります。

日本にはたしか二度ほど訪問しています。最晩年の二度目の訪日で、有名な「日本的スノビズム」という概念を練り出しました。つまり、日本という国は「型」を重んじる文化を持っており、長い間の鎖国によってその様式文化は純化されてきた。西洋諸国もいずれ自国の文化を洗練していけば、やがて「伝統」は消え去り、究極の形式美社会である日本的スノビズムに行き着くはずだ(趣旨)と言ったのです。

これは多くの知識人を驚かせます。オリエンタリズム=東洋趣味で日本芸術について好意的な発言をする人はいても、こんなにも冷たい言い方で世界はいずれ近く日本化すると言ってのけたのですから、ほとんど「目からウロコ」の衝撃なわけです。フランシス・フクヤマさんは『歴史の終わり』(三笠書房、絶版)でこの辺の議論を使い回ししています。

今回パピルスから出た『アレクサンドル・コジェーヴ評伝』はこの異貌の哲学者の謎めいた生涯をはじめて克明に描いた変り種です。激動期ヨーロッパの華麗なる一幕であり、現代的な「賢者」の一代記です。「知ってるつもり」の10回分くらいは濃い内容かな。ちなみに同時代をコジェーヴの親友たちの観点から見た『バタイユ伝』『ジャック・ラカン伝』(いずれも河出書房新社)も傑作。これらをまとめ買いして読んだら、もうそれだけで仏文の授業をまるまる一年間分受けたのと同じくらい(それ以上かも)の情報量があると思います。

いわゆる「終末」を説いた思想家ははるか神話の時代からいます。北欧神話「エッダ」や「サーガ」を紡いだ無名の伝記者たち、口承者たちは、神々たちが戦いあって死滅する世界最終戦争ラグナロクを語ってきました。旧約聖書の「ジェネシス(創世記)」におけるノアの箱舟や、新約聖書の「アポカリプス(ヨハネ黙示録)」におけるハルマゲドンのイメージは各時代特有の解釈を施されて再生産されてきました。現代日本ではオウム事件やエヴァンゲリオンの世界観などがそれに近いでしょうか。

12世紀イタリアの人、フィオーレのヨアキムは当時西ヨーロッパを席巻していたエスカトニック(終末論的)な民衆感情を先取りするかのように、世界の終焉と来たるべき「聖霊の時代」を語りました。彼によれば、1259年に世界は「終わっている」のです。こうした伝統が、やがてヘーゲルによる人間精神の進化論につながっていき、マルクスは来たるべきユートピアを「自由の国」と規定し、ヒトラーは「第三帝国」を名乗ってローマ時代以来の大局的な時代区分を主張します。これらはすべて「ミレニアム/千年王国」の変奏なのですね。

マヤ神話の「ポポル・ヴフ」にせよ、あるいは終末の一変奏として釈迦の死後56億7千万年後に民を救済しにミロク菩薩が降臨するという「弥勒下生経」にせよ、大乗仏典が説いた「末法」を戦争論と結びつけた石原莞爾にせよ、人間は有史以来、それぞれ固有の歴史過程を持ちつつも、「創造譚と終末譚」のアーキタイプを心の深層に自ら埋め込んできたのかもしれません。それを見抜いて、東欧のある学者は「歴史の終わり」が実は終わりなき歴史の繰り返された姿なのだと指摘しました。あ、これもそういえばパピルスの本『世界の終末』でした。メチャクチャ面白い「学術書」です。

文献

*オフレ『アレクサンドル・コジェーヴ評伝』パピルス
*コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』国文社
*コジェーヴ『法の現象学』法政大学出版局
*コジェーヴ『概念・時間・言説』法政大学出版局
*バタイユ『非-知』平凡社ライブラリー
*バタイユほか『聖社会学』工作舎
*浅田彰『「歴史の終わり」を超えて』中公文庫
*シュリヤ『バタイユ伝』上下、河出書房新社
*ルディネスコ『ジャック・ラカン伝』河出書房新社
*『エッダ/グレティルのサガ』ちくま文庫
*『新共同訳聖書』日本聖書教会
*島田裕巳『オウム』トランスビュー
*リフトン『終末と救済の幻想 オウム真理教とは何か』岩波書店
*永瀬唯ほか『ターミナル・エヴァ』水声社
*マッギン『フィオーレのヨアキム』平凡社
*ヘーゲル『精神現象学』作品社
*マルクス『資本論』国民文庫など
*レシーノス『ポポル・ヴフ』中公文庫
*雲井昭善『未来のほとけ 弥勒経典に聞く』創教出版
*シュタイナー『釈迦・観音・弥勒とは誰か』水声社
*石原莞爾『最終戦争論』中公文庫
*ゲノン『世界の終末』平河出版社
*ボイア『世界の終末』パピルス


◆現代的シニシズムの惨めさを暴露するシニカルな本

汝の症候を楽しめ ハリウッドVSラカン
スラヴォイ・ジジェク著; 筑摩書房; 3200円; 4-480-84708-1

一作ごとに西側のアカデミズムにやっかいな知的爆弾を放り投げつづけてきたスロヴェニアの鬼才の、11番目の邦訳書である。今回も大衆映画をラカン理論によって読み解き、現代人のやみがたいねじれた心の世界を痛烈に、鮮やかに「風刺」している。ありていに言ってみれば、読者も本当は著者から小バカにされている一人ひとりにほかならないのだが、それに気付いたとしたら相当に読み込んでいると自信をもっていいだろう。手紙=文字、女、反復、男根、父、といったラカンの五つの概念をめぐって書かれた本書はしかし、現実(それこそラカンにとって「象徴」的なものなのだが)とどう渡り合い、妥協しあるいは価値観の罠から抜け出すか、実に豊富な武器を読者に惜しみなく与えようとする、「啓蒙」の実践書なのである。それを一風変わった映画論として読ませてしまうジジェクの筆力には誰しも脱帽せざるをえないだろう。


◆サイードの戦闘的主著、ついに完訳なる

文化と帝国主義 2 
エドワード・W.サイード著; みすず書房; 4200円; 4-622-03204-X

サイードは常に一方で歴史について語りながら、それと同時に必ず現代における様々な人種的国家的エゴイズムのあらわれを鋭く突いてくる。サイードのテクストの「熱」はほかならぬその歯に衣着せぬ義憤的な筆致にある。こう書くとまるで「正義の人」のように聞こえるが単純にそうではない。邦訳第1分冊の刊行後2年7ヶ月を経てようやく第2分冊が刊行され、完訳がなったわけだが、もしこの大著を通読するのが難儀なら、この第2分冊の索引から自分の関心のある項目を引いて読んでいくのもいい。例えばサイードが「日本」という表象をどのように理解しているのかがわかるだろう。

アメリカ国内においてはパレスチナ出身の「他者」であるサイードが、しかし日本人にとっては「一アメリカ人」に映ることもあるだろう。サイードが帝国主義的メンタリティの批判に全力を傾けた本書を私たちはどう読むか。最終章「支配から自由な未来」は、世界化するアメリカニズムと向き合うための姿勢と認識について多くを示唆してくれる重要なテクストであり、再読三読に値する。植民地主義(および植民地主義以後)をめぐる文学作品の読解が飲み込みにくい場合は、より現代的な政治問題を扱ったこの最終章でまずサイードのスタンスを確かめ、第1分冊に戻るのがいいかもしれない。

※「帝国主義」批判の様々な位相は→こちら[「帝国主義」のキーワード検索]


◆移民研究の第一人者が満を持して放つ代表作論文集

グローバリゼーションと移民
伊豫谷登士翁著 有信堂高文社 3800円 4-8420-6564-8

農村から都市へ、都市から外国へ。近代的資本主義体制下において労働者は国境を越えて移動しはじめ、「国々」と「諸国民」を誕生させた。やがて国民国家は次第にゆらぎはじめ、国際市場は劇的な変化のうねりに身を任せている。本邦における移民研究の第一人者である著者は、同じく移民研究のエキスパートであるサッセンの翻訳者としても知られている。本書はグローバリゼーションをキーワードに、国単位の枠組みでは見えてこない、国から国へ移動する労働力をダイナミックに捉えた論文集であり、「地球規模」の移動を把握することは単なる統計の問題ではないことをつぶさに示している。「日本経済のグローバル化と外国人労働者」と題された第三部は著者の果敢な分析と提言が光る。在日外国人の政治参加と市民権について論じた最終章は、イベント的「政治熱」に浮かれがちな「現地人」である日本人は、熟読すべきだろう。

※「ポストモダン」から「グローバリゼーション」へ。

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[2001年8月13日]

■激しいヤジの飛び交うさなかの決然たる最終講義

社会学講義
アドルノ著; 作品社; 3400円; 4-87893-395-X

「いいですか、みなさん[絶え間のない激しいヤジ]。みなさん、私は残念です(……)気に入らない意見があっても、そういう意見を野次り倒すならば、それは議論という概念に反していると思います」。1968年7月11日、新入生のための入門講義の最終回での出来事だ。折からの「学生革命」の騒乱のただなかで行われた最晩年の講義は、「批判理論」としてのアドルノ社会学の真髄を懇切に伝えるものだった。学生たちは自分たちの「異議申し立て」の実践方法をアドルノにたしなめられると、すかさず激烈な罵声を浴びせた。「社会批判」と「革命」の似て非なる内実が浮き彫りになる本書は、時代の貴重な証言でもあるだろう。

※時事的関連書はこちら→「五月革命」「学生運動」


■ヨーロッパ精神史を体現するものとしての「書物」

書物について その形而下学と形而上学
清水徹著; 岩波書店; 4600円; 4-00-023359-9

書物とはそもそも何だろうか。何であったのだろうか。これからは何でありうるだろうか。著名な仏文学者が積年の思索と薀蓄とをかたむけた、待望の書物論が刊行された。書物と図書館の誕生から中世における写本、ルネサンス期における印刷技術の革命、現代における出版の多様性と氾濫を検証しつつも、それらはいわゆる通史的な平板な記述には終わらない。プラトン、ダンテ、マラルメ、ユゴー、ビュトールらを参照しつつ、物体としての書物、精神としての書物、そして宇宙としての書物を考察し、書くことと読むことの長い歴史、そして書物に託された「絶対的なるもの」への人間の欲望の深層に迫る。必読の一書である。

※関連書をさがす→「シャルチエ」「ボルヘス」「マクルーハン」、「アレクサンドリア図書館の謎」工作舎、「記憶術と書物」工作舎、「記憶術」水声社、「普遍の鍵」国書刊行会、「近代読者の成立」岩波現代文庫


■出版されるや大論争を呼んだ生態学的解釈人類学の原点

インボリューション 内に向かう発展
クリフォード・ギアーツ著; NTT出版; 2500円; 4-7571-4031-2

現代アメリカを代表する文化人類学の泰斗であり、東南アジア研究のスペシャリストであるC・ギアーツ(1926-)。本書の中核をなす、彼特有の解釈人類学の原点である1963年の論文「農業のインボリューション:インドネシアにおける生態学的変容の諸過程」はジャワの農村社会の発展について論じた一見地味なものだが、そこで記述さ
れた生態学的な社会モデルの斬新さは無数の論争を巻き起こす大きな火種となった。

インボリューションとは、安定化したり新しい別のかたちに変化することなく、内的に複雑化することによって発展しつづける文化パターンを記述するための概念である。このインボリューション論の現代的意義を明確にした原洋之介氏の解説や、ギアーツ自身による、論争の総括論文と日本語版への書き下ろし序文を加え、アクチュアリティにあふれる一冊として再編集された。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』と並び、吟味されるべき古典であるだろう。

※「東南アジア研究」の諸相を概観する→こちら[キーワード検索]


■ドイツ観念論の最終的進化としてのシュタイナーの実像

シュタイナー自伝 1
ルドルフ・シュタイナー著; ぱる出版; 2600円; 4-89386-888-8
シュタイナー自伝 2
ルドルフ・シュタイナー著; ぱる出版; 2600円; 4-89386-889-6

昨今ではもっぱら神秘思想家・教育家としての側面が強調されているシュタイナー(1861-1925)のキャリアはしかし若手のゲーテ研究家として嘱望されたのが最初であり、それ以前はドイツ観念論に深く親しんでいた。本書は1982年に人智学出版社から刊行されていた名著の待望の再刊であり、随所に改訂が施されている。オーストリアの片田舎での幼少期から、ウィーンでの学生時代、ワイマールのゲーテ=シラー文庫でのゲーテ全集編纂者時代、転機となったベルリンでの神智学協会時代、そしてそこから人智学協会を独立させる1913年頃までの道のりが率直につづられている。彼の人智学が、ブラヴァツキー夫人らのオカルト的な神智学とどう違うのか、シュタイナー自身が語るエピソードは興味深い。

※同時再刊された座右の入門書改訂版。併買を強くお奨めします↓
シュタイナー入門
ヨハネス・ヘムレーベン著; ぱる出版; 2400円; 4-89386-887-X


■好奇心こそが人間精神の駆動力。思想史学の傑作

近代の正統性(2)
ブルーメンベルク著、法政大学出版局、4300円、4-588-00607-X

現代ドイツにおける思想史家の巨星ブルーメンベルク(1920-1996)の主著を三分冊で邦訳刊行する期待の力業の第二弾。「好奇心」をテーマに古代から近代にいたる知性の道程を描いた出色作で、各時代の思潮において知的欲求とはどのようなものであったかが論説される。原著第1部第2部にあたる翻訳第1巻は1998年6月に刊行され、第
4部にあたる翻訳第3巻は2001年秋に刊行予定となっている。1999年刊行と予告されていた翻訳第2巻(原著第3部)である本書が実際は今夏(2001年)になったのだから苦労が知れようものだが、ブルーベンベルクの深い教養と知識から編み出される豊潤なテクストを読むにあたっては、訳者が費やした以上の努力が求められるだろう。読書の愉悦はここにある。

※近代を別の視座から見る→「ハーバーマス」「フーコー」「リオタール」「イリイチ」「アリエス」

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[2001年8月19日]

◆文庫未収録問題作?を含む「哲学病」的エッセイ集

生きにくい…… 私は哲学病。
中島義道著; 角川書店; 1000円; 4-04-883680-3

クリーム色の紙にモディリアーニの名画が刷られている一見可憐な装丁で思わずジャケ買いしたくなる。ページをめくるとまず「なぜなぜ病」にとりつかれた少年を描いた童話「イマヌエルちゃん」が目に入る。これはもともと約30年前、著者が大学院生の頃に書いたもので、1994年に晃洋書房から刊行された『時間と自由』に収録されたが、同書が1999年に講談社学術文庫より再刊された折には同文庫の「性格上」、削除されたといういわくつきの作品だ。今回の再録にこの新刊の刊行意図の半分があると著者自身が言うのだから、書き下ろされた注釈とともにぜひ一読してみたい。著者は哲学的エッセイより小説の方に文才があるのではないかと思える。

“「哲学病」と言うとみんな笑うが、じつは恐ろしい病気なのである。「ほんとうのこと」が見えてしまう病気なのだから。いや、正確に言い直せば「ほんとうのこと」に至る道が微かに見え、そしてその未知をたどっても決して終点に行き着かないことが見えてしまう病気なのだから”と著者は書く。なんとなくピンと来る読者がいたら、本書を手にとってみることをお奨めしたい。

愛読しているという三島由紀夫や師匠である大森荘蔵について語る第三部「哲学者と文学者」はもっとも印象的だ。このほか大森氏の仕事を継ぐ時間論や最近没頭している感のある騒音論(「うるさい日本の私」新潮文庫、「騒音文化論」講談社+α文庫、「うるさい日本の私、それから」洋泉社などの既刊がある)、そして人生の理不尽を生き抜くための読書案内などを収録。「女性の哲学者はいない」というのが著者の理論上の卓見だが、池田晶子氏のような筋金入りの「哲学者」と対談する本がこのさき企画されてもいいのではと思った。

※名エッセイストでもある哲学者といえば、中島義道、池田晶子、土屋賢二の御三家のほかに永井均、鷲田清一の両氏にも注目。


◆堅牢なる孤高の城塞をあなたは踏破できるか――カントの新訳

カント全集 4 純粋理性批判
カント著; 岩波書店; 5600円; 4-00-092344-7

第六番目の勇気ある登攀である。先人に敬意を表すれば、1920年代から1960年代にかけて断続的に天野貞祐、安藤春雄、篠田英雄、高峯一愚、原祐の各氏によって、通称『純理』は邦訳されてきた。1980年代後半からの国際的なカント再評価の機運が追い風になったのか、わが国でも1999年の年末から『カント全集』が久しぶりに岩波書店から刊行され始めた(なお日本で初めての全集は理想社から1965年から1988年にかけて全18巻で出版された)。『純理』ほどの大古典になると、新訳も容易ではない。訳者の有福氏はアカデミー版を底本に使用しつつ、異なる六つの主要な版を参照し、八つの他国語訳と邦訳既刊書に目を通している。さらに数十を下らない国内外の主要な研究論文への目配りも欠かせず、とうてい一般人がなしうる次元ではない。

自らの能力を超えていて答えることができないにもかかわらず背負わなければならない宿命的な問いによって人間の理性は悩まされる、とはあまりにも高名な本書序文の書き出しの言葉である。これはカントのいわゆる三批判書(『純理』『実践理性批判』『判断力批判』)の出発点でもある。経験によってではなく理性によって事象を認識する、その認識のあり方の根幹と限界を批判的に検討する本書は、すべての思考を超越に向けて発出させる強力なカタパルトであり、生半可な読者を容赦なく拒絶する城塞である。『純理』は全三巻に分かれ、中下巻は追って刊行される。下巻には『純理』の再論ともいうべき『プロレゴメナ』を併録。全集のピークはここにあるが、マニアックなハイライトとしては第18巻『諸学部の争い・遺稿集』に最注目だ。

※関連書をさがす→「『純粋理性批判』入門書・研究書」「カント研究」


◆思わず息を呑む高密度の神学――使徒文書の詳細な読解

ローマ書講解(上・下)
カール・バルト著、平凡社ライブラリー、各1600円

20世紀を代表するスイスのプロテスタント神学者であり、キリスト教思想における無二の理論的改革者であるバルト(1886-1968)の出発点となる重要書の全面的改訳版(初版は1968年に河出書房新社より刊行)。「ローマ書」とは新約聖書の「ローマの信徒への手紙」のことで、原始教団におけるもっとも果敢な伝道者・使徒であるパウロの思想を伝えるものとされる。バルトはこの「ローマ書」の一字一句に独自の注釈を加え、先人の解釈を吟味しつつ従来の史的読解を刷新。新しい神学運動を呼び起こすことになった。「小さな者として偉大であり、弱さにおいて強くある」信仰のダイナミズムを雄渾な筆致で描く本書は、いまなお来たるべきテクストとして現代人の前途を照らし続けている。

※関連書を探す→「弁証法神学(危機神学)」「ロマ書」「トレルチ」「ブルトマン」「ブルンナー」「トゥルナイゼン」「ティリッヒ」「ニーバー」


◆厳密なる論理学者が当時の超一流学者を容赦なく論評した顛末

フレーゲ著作集 5 数学論集
G.フレーゲ著 勁草書房刊 \5,200

弟子筋にあたるラッセルやウィトゲンシュタインと比して、一生を不遇のうちに過ごした、ドイツの孤高の哲学者フレーゲ(1948-1925)。本邦初の規模で画期的著作集が勁草書房から刊行されはじめたのは1999年秋のことだ。全六巻のうち今回発売された数学論集も含めて五点が刊行済み。残るは日記を含む書簡集である第6巻のみとなった。本書ではそれぞれフレーゲを酷評したカントールやフッサールやシュレーダーらへの辛辣な反論、ヒルベルトをこれまた厳しく論難した「幾何学の基礎について」と題された諸論文、シェーンフリースの集合論への論駁など、いずれもフレーゲが論理の厳密さにおいて、また容赦ない舌鋒において、うわてだったことが伺える。最晩年の数論の斬新さを含め、19世紀末から20世紀初頭に書かれた13編を収録した本書は、ついここ数十年の間に再発見されてきた財宝なのであり、「フレーゲ・ルネサンス」を彩る欠かせない光なのである。

※フレーゲ研究書は→こちら


◆「一」から「十」まで、日本の数字に秘められた民俗誌

和数考
郡司正勝著; 白水社; 880円; 4-560-07351-1

伝統芸能史研究の大家である著者(1913-1998)の最晩年の名編(初版1997年)が求めやすい新書で再刊された。漢数字は日本の場合「音読み」「訓読み」のそれぞれの場合において、意味内容が異なる。ものごとを数えるために使われる時と、数字がなにかしらの象徴的な含みをもつ時があること(「八」が「末広がり」を意味する縁起の良い数字であるなどの例)は、日本人にとって日常的な出来事であるにもかかわらず、意外に意識されていないのではないか。軽妙洒脱、リズムよくつぎつぎに例証される「数の象徴的民俗誌」の読後感はさわやかで、ちょっぴり知恵がついた気分になる。読みたい本が特に思い浮かばない時など、もってこいの知的娯楽である。本書に刺激を受けた読者には『数のつく日本語辞典』(東京堂書店)もお奨めしたい。

※数をめぐる様々な本たち→「数字の魔術」青春出版社、「虚数の情緒」東海大学出版会、「バビロニアの数学」東京大学出版会、「数の怪物、記号の魔」現代思潮社、「ゼロから無限へ」講談社ブルーバックス、「芸術における数学」紀伊國屋書店、「暗号の数理」講談社ブルーバックス
※この人の話も読んでみては?→ファインマン教授

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[2001年8月27日]

◆1940年代ポーランドのユダヤ人ゲットーを活写した秘蔵写真

シークレット・カメラ ユダヤ人隔離居住区ルージ・ゲットーの記録
メンデル・グロスマン写真; BL出版; 1400円; 4-89238-593-X

絶句……そして胸に込み上げるなんとも言えない感情。1939年秋、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻、翌年には都市にユダヤ人ゲットーをつくった。ユダヤ人の写真家であるメンデル・グロスマン(1913-1945)は同朋の身分証明書に使用する写真を撮るようナチスから命じられていた。ユダヤ人迫害を目の当たりにしていた彼は、仕事のかたわら、ひそかにゲットーの写真を撮り続けたのだった――この惨劇の証拠とするために。膨大な写真の中で戦火を免れたものがあった。本書はそれらの写真から編まれた。あまりにもあまりにも現実は……これが「歴史」なのだ。ここには死者は写っていない。死を前にしてなお生きる人間たちがいる。写真家は絶滅収容所への強制連行の途上で死んだ。その手は最後までカメラを離さなかったという。

※「ユダヤ人」関連書新刊↓
世界を動かしたユダヤ人100人
マイケル・シャピロ著; 講談社; 2500円; 4-06-210832-1


◆美術商から買い戻され散逸を免れた、精神分析史上の貴重な資料

フロイト フリースへの手紙
フロイト〔著〕 誠信書房刊 \8,500

31歳のウィーン大学神経病理学私講師だったフロイトは、2歳年下のすでにベルリンでは名のある耳鼻咽喉科専門医ヴィルヘルム・フリースと文通をはじめた。1887年のことだ。以来17年間に渡り両者はかなりの量の手紙をやり取りし、二人が疎遠になる1904年まで続けられた。フリースと打ち解けていたフロイトは研究のことや私的なことをこまめにつづった。フリースの死後、美術商の手にわたったこの書簡群をまとめて買い取ったのはフロイトの弟子でありデンマーク王妃だったマリー・ボナパルトである。論文草稿を含むこの書簡群はボナパルトからフロイトの娘アンナの手を経て、現在アメリカ国会図書館で厳重に管理されている。

フロイトの書いた手紙はフリース宛てのものも含め、生涯二万通に及ぶと言われる(その中には『エクリ』を贈ってきたラカンにたった一言だけ礼を述べたそっけない返信も数えられるわけだ)。フリースとのやりとりは精神分析の黎明期におけるフロイトの思惟の変遷を如実に物語る第一級の資料であり、本書では287の手紙と17の論文草稿および覚書が収録されている。何事も率直に書き送っているフロイトはまるで別人のようだ。書簡集はかつていみじくも『精神分析の起源』と題されて公刊されたが、今回邦訳されたのはその旧版を大幅に増補改訂した「完全版」と言われる文献。ここに「生」のフロイトがいる。

彼自身は公刊を望んでいなかった(ボナパルトに読まれることすら望んでいなかった)が、彼特有の技法が生成される裏舞台を見ることができるのは、王族の地位を生かしてナチスや戦火から徹底して書簡群を守ったボナパルトのおかげかもしれない。当時ナチスは、フロイトをはじめユダヤ系知識人の著書を次々に焚書していたのだから。アーネスト・ジョーンズによる『フロイトの生涯』(邦訳は1980年に紀伊國屋書店より刊行。現在品切)の執筆資料の中核ともなった、最重要文書の待望の邦訳である。

※代表的なフロイト伝および関連書はこちら→ピーター・ゲイ著『フロイト(1)』みすず書房、『フロイト夫人の場合』山口書店


◆ロラン・バルトの名著との対決を試みた、新世代写真論

明るい部屋の謎 写真と無意識
セルジュ・ティスロン著; 人文書院; 2000円; 4-409-03064-7

『明るい部屋』とはかのロラン・バルトが交通事故死する直前に刊行した写真論であり、母の死を悼むバルトが自らの記号論的分析を映像批評に向けた名作として知られている。1948年生まれの精神分析家であるティスロンは写真、映画、マンガ、絵画をはじめとする「映像全般」と、精神分析的な「家族の秘密」をテーマにして著作活動を続けており、バルトの乗り越えを企図した本書は彼の代表作であると言えよう。カルティエ=ブレッソンやアヴェドンらの作品を参照しつつ、刻印ではなく痕跡として写真をとらえ、「暗い部屋」としてのカメラは光の反射によって対象をフィルムに定着させる「保存願望」機械であると論じている。あまり「精神分析臭さ」を感じさせない流麗な文体が魅力的。「写真を撮る幸福」と題された日本語版序文も印象的である。

※写真論の基本書→ソンタグ『写真論』晶文社、ブルデューほか『写真論』法政大学出版局ISBN:4-588-00290-2、リヒター『ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論』淡交社ISBN:4-473-01466-5、ベンヤミン『図説写真小史』ちくま学芸文庫ISBN:4-480-08419-3


◆独力で考えて考え抜く孤高の哲学者の足跡が甦る

『論考』『青色本』読解
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著; 産業図書; 3300円; 4-7828-0137-8

「世界は、成立している事柄の総体である」で始まり、「人は、語りえぬものについては、沈黙しなくてはならない」に終わるそれぞれが短い命題群である『論理的-哲学的論考』、そして「語の意味とは何か」という問いから始まる口述記であり、『論考』以後の言語論的転回のプロローグとなった『青色本』、これらふたつの新訳と解説を一冊にまとめたもの。先に『「哲学的探究」読解』(産業図書)を刊行した訳者にとって、これで哲学者の変遷をリンクしたかたちになる。『論考』は中央公論新社版、大修館書店の全集版、法政大学出版局版に続いて四番目の新訳となり、『青色本』は大修館書店全集版に続いて二度目。

『論考』はその内容の深さにもかかわらず、哲学的な予備知識がなくても十分味わうことができる稀有の書物であり、当時「完成作」とされた『論考』から後にさらに深く「ことばの生態」の暗闇に入りこんでいったのが『青色本』だ。これらをこの一冊で読むことができるのは嬉しい。難しいところは多少読み飛ばしても、この哲学者がいったいどんな問題の前に立っているのかを感覚として受け取るだけで意味がある。哲学の出発点はここにある。

※波乱の人生を生きたウィトゲンシュタインの評伝→レイ・モンク著『ウィトゲンシュタイン』全二巻みすず書房、『ウィトゲンシュタイン評伝』法政大学出版局


◆民族問題をマルクス主義に接合する古典がついに全訳

民族問題と社会民主主義
オットー・バウアー著; 御茶の水書房; 9000円; 4-275-01862-1

これまで部分訳(『帝国主義と多民族問題』成文社)があるのみで全体を読むことのできなかった古典的名著がついに全訳された。細かい字の本文が二段組で480頁もある菊判の大著である。原著が刊行されたのは1924年、執筆されたのはさらに遡って1906年頃。じつに当時バウアー(1881-1938)は25歳の若さで本書を書き上げたのだ。20世紀初頭のオーストリアにおけるマルクス主義をリードした彼の特異な視点は、ユダヤ人を父にもつその出自によるものか、本書に結実する民族問題への卓越した寄与を中軸としている。ハプスブルク帝国以後の多民族国家を分析し、少数民族の自治について語った本書はこんにちあらためて注目を集めた。民族自治を擁護する彼のマルクス主義は、西欧型でもソヴィエト型でもない第三の道を示唆する。ユダヤ人問題について、趣旨として「性的淘汰が問題を最終的に解消する」と述べたのは彼の若さによるものだったか、ユニークである。

※関連書を探す→「民族問題」「ユダヤ人問題」

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