◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
2002年4月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
02年4月1日
■滅びることのない革命性を見取る、鬼才の躍動的なセザンヌ像
セザンヌの楽園
フィリップ・ソレルス著 書肆半日閑 三元社(発売)
5800円 4-88303-085-7
数々の先鋭的小説で知られるフランス文学界の鬼才ソレルスによる卓抜なセザンヌ論とともに、セザンヌ自身の絵画をフルカラーで18点収めた贅沢な本である(原著は1995年刊)。ソレルスはこれまで、フランシス・ベイコン論(三元社)やピカソ論(書肆半日閑より近刊)などを刊行し、本書のように画集とエッセイとを巧みに組み合わせた大判の書籍をいくつか刊行してきた。印象派の巨匠セザンヌの一見荒々しい、大胆な絵筆のタッチと共鳴するようにして、ソレルスの想像力がセザンヌを生き生きと捉え、時にはまるで彼自身が語っているかのように、絵画の本質を自在にそして骨太に語る(じっさいソレルスはセザンヌの書簡集などから引用してもいる)。この「革命児」のアクチュアリティを語るソレルスの畏敬の念は大きい。セザンヌにおいて、絵画とは何か。自然とは、エロス(あるいはタナトス)とは、視線とは。対象に深く没入しその存在を体感するという画家の個性に寄り添い、その霊感の源泉を「再現」しようと試みた高著である。なお発行元の書肆半日閑は2000年秋に設立された出版社で、本書の訳者自身が所属している。
※セザンヌ関連書は→こちら
■従来の文化人類学的まなざしを批判的に乗り越える野心作
ルーツ 20世紀後期の旅と翻訳
ジェイムズ・クリフォード著 月曜社 3800円 4-901477-01-3
現代アメリカを代表する文化人類学者クリフォードの主著の待望の邦訳である。原著は1997年刊。主に90年代に発表してきた論文九篇に書き下ろし二篇を加えたものだ。クリフォードのこれまで編著書として『文化を書く』(紀伊國屋書店)が邦訳されているが、単独著が邦訳されるのは本邦初である。クリフォードの独自性は、従来の人類学の静的な文化把握を批判して、文化間を横断していくような「旅」や「翻訳」といった動的モーメントに着目した試みにある。タイトルの「ルーツ」とは経路(route)の複数形であるが、同音異語の根(root)を示唆してもいる。現代において「根」なるものはすべてに先立つ起源的なものではなくなっている。クリフォードは「ナショナルな境界線や共同体を複雑化し、横断し、撹乱するような文化的プロセス」を分析し、「差異の新たな秩序」の不確実性を見据える。カルチュラル・スタディーズに大きな影響を及ぼしている彼の方法論は、訳者解説「人類学的歴史批評の冒険」に詳しい。なお、彼の80年代の主著"Predicament
of Culture"が人文書院から近刊予定である。
※関連書→アーリ『観光のまなざし』法政大学出版局、ロサルド『文化と真実』日本エディタースクール出版、マクドゥーガル『太平洋世界』共同通信、マーカスほか『文化批判としての人類学』紀伊國屋書店、ヒューム『征服の修辞学』法政大学出版局。
■こころの働きを包括的に捉える古典的名著を豊かに読み解く
アリストテレス『デ・アニマ』注解
水地宗明著 晃洋書房 5800円 4-7710-1321-7
「万学の祖」アリストテレスの著書の中でも、『デ・アニマ』は中世のアラビア思想やスコラ哲学における重用以来、多くの注釈を生んできた。ここ日本では近年で実に三度も新訳されており、他の著作と比べても異例である。さらに言うなら、主題とされているギリシア語の「プシュケー」をどう訳すかがいまだに確定的でなく、したがって書名が新訳ごとに異なるというあたりも異例である。1999年の桑子敏雄訳(講談社学術文庫)では『心とは何か』、2001年の中畑正志訳(京都大学学術出版会)では『魂について』、そして今回の水地宗明による新訳と注解ではラテン語訳の表題としてよく知られている『デ・アニマ』が採用されている。岩波版の全集では『霊魂論』とされ、これがもっとも人口に膾炙しているが、いわゆる東洋的な「霊魂」とは意味が異なる。五感や意識や知性の働きを包括する、広義における「こころ」についての記述、というのが差し当たりの理解の前提になろうか。なお本書ではプシュケーの訳に「魂」が採用されている。
本書は1907年のヒックス校訂版を底本にし、訳者による丁寧な補足を付与した新訳と、その訳文の分量を上回る詳細な注解を一冊にまとめた労作である。注解において参照されるのは、四世紀のテミスティオス、六世紀のフィロポノスとシンプリキオスなどによる古い注釈をはじめ、トマス・アクィナス、トレンデレンブルク、ブレンターノ、カッシーラ、ホルンなど、中世から1990年代の最新成果までの数多くの文献であり、そのうちの代表的文献だけでも15点を下らない。まさに欠くべからざる模範的研究書である。注解のあとには二つの解説「アリストテレスの心理学説」「能動的知性のいろいろな解釈」が続く。前者は『デ・アニマ』の簡潔な鳥瞰図であり(いわゆる近代的な「心理学」のことではない)、後者は後世に様々な解釈を呼び起こした概念「能動知性」をめぐる議論の整理である。「思考させる知性」である「能動知性」は果たして人間のものなのか神のものなのか。アリストテレスを読むことがどれほど広大な視野を読者に与えるか、本書はその冒険の手引きとして最良の成果である。
※アリストテレス関連書→こちら
■プラハ言語学サークルから構造主義、ポスト構造主義への通史
現代フランス思想とは何か
J・G・メルキオール著 河出書房新社 4200円 4-309-24253-7
1986年に英語圏で刊行された原著タイトルは『プラハからパリへ――構造主義思想およびポスト構造主義思想への批判』という。フーコー論(『フーコー』河出書房新社)に続くメルキオールの邦訳第二弾である。本書は五つの章に分かれる。第1章「構造主義の隆盛」、第2章「プラハ・クロスロード――フォルマリズムと社会-記号論との岐路」、第3章「クロード・レヴィ=ストロース――社会科学における構造主義の誕生」、第4章「文学的構造主義――ロラン・バルト」、第5章「構造主義からポスト構造主義へ――概観」となる。それぞれ著者自身の説明を踏まえて要約すれば、第1章と第2章は言語学や文芸批評、社会科学における構造主義理論の主要な基盤にかんする手短な概観であり、特に第2章ではヤーコブソンとムカジョフスキーなどロシア・フォルマリズムの担い手について解説し、30年代のプラハ構造主義の先進性と独自性を論じる。第3章と第4章では、レヴィ=ストロースとバルトに的を絞り、パリ構造主義の展開について分析する。第5章では構造主義を否定するポスト構造主義の挙措について、特にジャック・デリダの議論を批判的に分析する。全体として概説的(しかし本書は「早分かり」の類とは根本的に一線を画している)ではあるものの、原題が示す通り、パリ構造主義前後の思潮を、広域的で長期的な視点からダイナミックに捉えた野心的な思想史であり、300名以上の登場人物が織りなす華麗なドラマである。
※構造主義関連文献→こちら
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02年4月8日
■幻の懸賞論文を含む、著者60年代の批評の出発点
柄谷行人初期論文集
柄谷行人著、批評空間、ISBN:4-86041-003-3、2002.4、\2,000
著者が20代の折に執筆した7本の評論を収録している。これらは数々の出版社から何度も単行本化を請われていたものの、すべて拒んでいたものだという。著者であるというには遠い過去でありすぎるものの、後年の思索に近似するところもある、と著者は回顧して、あとがきではそれぞれの執筆経緯を明かしてもいる。同時代を共有していない若い読者にとっては、それらのエピソードすべてが新しい発見かもしれない。東大新聞の懸賞論文で佳作を二年連続受賞した、批評家としての原点とでもいうべき「思想はいかに可能か」(1966年執筆、初出『東京大学新聞社』1966年5月)、「新しい哲学」(1967年執筆、初出『東京大学新聞社』1967年5月)では、前者で三島由紀夫、吉本隆明、江藤淳を論じ、後者でマルクスを扱っている。東大大学院英文科に提出した英文の修士論文を書き直した「『アレク
サンドリア・カルテット』の弁証法」(1967年執筆、初出『季刊世界文学』第7号1967年12月)ではロレンス・ダレルを、「「アメリカの息子のノート」のノート」(1968年執筆、初出『新批評』1968年10月号)ではジェイムズ・ボールドウィンを取り上げる。
後半を成すのは、ヘーゲルやエリクソンなどを参照しつつ人間の年齢(成長と老い)について社会的関係性の切り口から見た「自然過程論」(1968年執筆、初出『情況』1970年8月号)と、蟻二郎や森常治と共同編集した現代英米批評の翻訳アンソロジー集に寄せた長文解説「現代批評の陥穽――私性と個体性」(1969年執筆、初出『現代批評の構造』思潮社1971年。柄谷氏は本書でジョージ・スタイナーのレヴィ=ストロース論を翻訳している)であり、掉尾を飾る「サドの自然概念に関するノート」(1970年執筆・初出『ユリイカ』1971年4月号)では『閨房哲学』や『食人国旅行記』を参照している。いずれも著者の思索の原石であり、若さに溢れ瑞々しい。近年の総決算の書『トランスクリティーク』刊行のすぐ後に、もっとも初期の著述をこうしてひもとくことができる機会が与えられたのは、非常に興味深いことではないか。
※季刊誌『批評空間』の既刊は→こちら
■最晩年のフーコーが語り、書き継いだこと。凝縮された一冊
ミシェル・フーコー思考集成 10 倫理・道徳・啓蒙
ミシェル・フーコー著 筑摩書房 6500円 4-480-79030-6
1984年6月25日、フーコーはエイズで亡くなった。死因が知られるようになったのはそう遠い昔ではない。50代後半という早すぎる死だった。本巻で『ミシェル・フーコー思考集成』(原書では『言われたことと書かれたこと
1954-1988』全4巻)は完結する。今回収められているのは、1984年から死後の1988年までに公表された彼のエセーやインタビュー、講演録や序文など26本である。それらは最後の灯火というよりは、『性の歴史』全3巻(本当は全4巻で、第4巻『肉の告白
Les Avoeux de la chair』は原稿が出来上がっていたものの、遺言により未刊)に端を発した「自己の技法」論がより深められようとする途上の、いわば新たなるかがり火だった。フーコーは自らの老いを感じつつも、さらに前進しようとしていたのだ。84年5月29日に行われた生前最後の鼎談「道徳の回帰」の末尾で、彼はこう述べる、「私がおこないたいのは、もろもろの知の分野に境界を画するのを可能にするような哲学の活用なのです」と。本巻の稜線を象るピークの一角であるカント論(『啓蒙とは何か』『カントについての講義』)は「自己」をめぐる最晩年のフーコーの思索の転回点を跡づける重要論考である。彼の問いはいまも生き生きと脈動している。
※関連書→『自己のテクノロジー』岩波書店
■祝祭と闘争と虐殺、16世紀後半の南仏の小都市で何が起きたか
南仏ロマンの謝肉祭(カルナヴァル) 叛乱の想像力
E.ル・ロワ・ラデュリ著 新評論 5500円 4-7948-0542-X
「闘いが始まったのは、ちょうどその時だった。二月一五日、肉食の月曜日の、時間はおそらく夜の九時か一〇時。(……)仮面舞踏会を見るためにそこにいたポーミエ一派から正体を見破られ、ヤマウズラの者たちは、武器を携えたまま、舞踏会場から出て、襲いかかった。そして(……)ポーミエ派を手当たり次第虐殺したのだ」。まるで小説のような、スリルとスピード感に溢れる叙述が続く。しかしこれは、フランスにおける知の牙城アナール学派の第三世代の代表的研究者、エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリによる、れっきとした「歴史書」なのだ。舞台は1570年2月、フランス南東部の地方都市ロマン。ここでカルナヴァル(謝肉祭)が営まれた二週間のあいだに起こった出来事について、歴史資料を博捜し縦横に駆使して、濃密に記述したのが本書である。本文だけでも633頁ある大著だ(原書のガリマール・フォリオ版でも400頁を超えるボリューム)。階級対立に基づく農民や手工業者たちによる反税闘争と、それを圧し潰そうとする貴族やブルジョワたちによる民衆虐殺は、なぜ起こったのか。それらの事件とカルナヴァルとの関係は。課税台帳や土地台帳、裁判官や公証人が作成した文書など、数多くの資料と文献をもとに、史的背景を詳細に記述し、事件の顛末を再構成した力業である。ルネサンス末期のヨーロッパの縮図がここに見える。
※アナール学派の巨匠たち→リュシアン・フェーヴル、マルク・ブロック、フェルナン・ブローデル、フィリップ・アリエス、ジャック・ル・ゴフ、ジョルジュ・デュビー、フランソワ・フュレ、ジャン=ルイ・フランドラン、ジャン=ピエール・グベール、ロジェ・シャルチエ、アラン・コルバン、ジャン=クロード・シュミット、ミシェル・パストゥロー
■ユダヤ思想の政治的淵源にモーセがいることを考えてみよう
マルティン・ブーバー聖書著作集 第1巻
マルティン・ブーバー著
日本キリスト教団出版局 4800円 4-8184-0449-7
20世紀を代表するユダヤ人思想家であり、宗教哲学者であるブーバーはローゼツヴァイクとともに聖書の現代ドイツ語訳を敢行した偉業でも知られるが、このたび刊行が開始された『聖書著作集』では、第一巻が「モーセ」、第二巻が「神の王国」、第三巻が「油注がれた者」と、ブーバーの聖書読解の粋を集めたものになっている。今回翻訳された第一巻「モーセ」は、1945年にヘブライ語版が出版されて以来、英語版やドイツ語版など、多く版が重ねられ、改訂されてきた書目だ。本書は、フロイトの著名な最晩年作『モーセと一神教』(1939年)への反論として書かれたという(ただしブーバーにとってフロイトの議論は検討に値しない代物である)。『エクソダス(出エジプト記)』の精密な解読を通じてモーセ像に肉薄した快作であり、モーセを空想的聖人としてでなく、一個の具体的な個人としてとらえ、その生涯と歴史的業績を詳述している。宗教的伝承や既成の学問的諸説に囚われず、独自の批評的立場から、モーセ(および彼の信仰)のアクチュアリティを描き出すブーバーの筆致は冴える。モーセは選ばれしイスラエルの民の指導者とされる象徴的人物であるだけに、現代人は中東和平が希求されるいまこそ、本書をはじめハシディズムやシオニズムなど、ユダヤ思想の政治的側面を学び直す必要があるだろう。
※20世紀ユダヤ思想の代表者たち→ショーレム、フロム、ヴェイユ、ジャンケレヴィッチ、レヴィナス、デリダ
■1961年から1988年に公表されたインタビューを集成
プリーモ・レーヴィは語る 言葉・記憶・希望
プリーモ・レーヴィ著 青土社 2400円 4-7917-5950-8
パウル・ツェラン、1970年4月末頃入水自殺。ジャン・アメリー、1978年10月17日睡眠薬自殺。プリーモ・レーヴィ、1987年4月11日飛び降り自殺。ブルーノ・ベッテルハイム、1990年3月13日窒息自殺。ユダヤ人強制収容所からの生還者たちのうち、けっして少なくない人々が自ら氏を選んだ。何故? 生き残れたことは幸運ではなかったのか? その答えは本書にある。イタリアのユダヤ人作家プリーモ・レーヴィが1961年から死後翌年の1988年にかけて発表したインタビューおよびインタビュー記事を集成した本書は、ある意味で、彼自身が問わず語りで書いたいくつもの収容所体験記よりずっと痛ましい。なぜなら彼は率直な質問を次々に浴びせられ、いやおうなく防御的で複雑な応答を強いられているように見えるからだ。それは収容所より解放されてから42年後に死を選んだ彼の身振りの痛ましさと繋がっている。証言するのは強いからではない、「語らずにはいられなかった」弱さゆえなのだ。本書は「人生」「文学」「ラーゲル」「ヘブライ主義(ユダヤ人であること)」の4章から成り、27編が収められている(原著とは収録数が若干異なる)。次回作について尋ねられた彼はあまり語りたがらず、神経質になっている。自著について幾度も説明し直す苦痛以上のものがここにはあるのだ。印象的なのはイスラエルについての発言。彼はユダヤ人のディアスポラ(離散)状態に多中心的な積極的意味を見出し、ヘブライ主義の主流をイスラエルに置くことを好ましくないと考えている(1984年)。シャロンに代表されるような右翼的傾向に疑義を呈する声は、四半世紀を経た今も意義深いものがある。
※参考書→ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』月曜社
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02年4月15日
◆「乳房」のエロティシズムはいかに文明化されたか。異色の民族学
挑発する肉体:文明化の過程の神話 4(叢書・ウニベルシタス733)
ハンス・ペーター・デュル著、藤代幸一訳、津山拓也訳、法政大学出版局、
ISBN:4-588-00733-5、2002.4、\6,600
本書は、ドイツの民族学者デュルの畢生の大著『文明化の過程の神話』全5巻のうちの第4巻にあたる。第1巻『裸体とはじらいの文化史』、第2巻『秘め事の文化史』、第3巻『性と暴力の文化史』はいずれも法政大学出版局から邦訳が出ており、原著第5巻は現在執筆中で未刊。書名に明らかなようにこれまでデュルは、裸体と恥じらい、性交、猥褻と暴力を題材に、前近代人に対する近代人の文明的先進性と優位性という神話の虚妄を暴いてきたが、今回邦訳された第4巻『挑発する肉体』では乳房を題材に、女体のエロティシズムと文明化の関係性を博捜している。乳房の性的魅力は近代化の過程でいかに捉えられてきたか。ある時は「覆われ」てタブー視され、あるいは極度に嗜好化・商品化されることもあれば、ある時は恥じらいとは無縁に「晒され」ることもある。いわゆる「未開社会」をはじめ、日本やインドを含むアジア圏、イスラム圏、西洋の中世から現代に至る様々な地域や時代における乳房の表象を、豊富な図版と民族学的資料を渉猟しつつ、解明していく。本文、原注ともに大部な著書だが、飽きさせない。巻頭の序論「失われた模範。文明化理論に対する理論的所見」と巻末の付録「これまでの批判に対する回答」は、エリアスやハーバーマスらへの鋭い批判を含むデュルの文明論の基礎と、多数のデュル批判への反論を明らかにするもので、必読である。本書は科学哲学者ファイヤアーベント(1924-1994)の思い出に捧げられている。
※関連書→ロミ『乳房の神話学』青土社、シービンガー『女性を弄ぶ博物学:リンネはなぜ乳房にこだわったのか?』工作舎、伴田良輔『恋する写真』マガジンハウス
◆全体性と多元性と曼荼羅の宇宙。密教思想の魅力を丁寧に語る
密教 21世紀を生きる
松長有慶著; 法蔵館; 1800円; 4-8318-6354-8
著者が80年代から2002年までに発表してきた評論と随筆、合計21本を四つの章に配列し、加筆のうえ収録している。高野山の高僧であり、宗教学者でもある著者が執筆してきたこれまでの入門書や研究書に比べて、本書はより砕けた、親しみやすいエッセイ集となっている。第一章「近代人の密教観」では、明治から平成にいたるまでの、国内外の密教評価の変遷を客観的に跡づけ、21世紀の社会における密教思想の有効性を問い直している。第二章「真言密教の教えを生かす」と第三章「随想」では、ホリスティックで多元的な密教の教えの豊かさを論じつつ、それをこんにちの教育問題や社会問題や日常生活などに活用していく、柔軟な精神的価値のありようを示唆する。第四章「現代思想と密教」では比較宗教学的観点から、井筒俊彦や中村雄二郎らの思想との対話を展開するほか、オウム真理教問題を虚心に咀嚼した論考もある。学者的大上段からの高説は一切なく、自然体で語られた密教の世界が、身近に感じられることだろう。
※密教関連書→こちら
◆30年以上も図書館で眠っていた貴重な録音テープを活字化
ボルヘス、文学を語る 詩的なるものをめぐって
ホルヘ・ルイス・ボルヘス述 岩波書店 1800円 4-00-002104-4
ハーヴァード大学で1967年から1968年にかけて行われた、詩学講義全6回の記録である。文学者「チャールズ・エリオット・ノートン」の名を冠したこの特別授業は、すぐれた作家や芸術家を毎年一名招いて、半年にわたって連続講演してもらうもので、これまでに文学者ではウンベルト・エーコやイタロ・カルヴィーノなども講義を行っている。アルゼンチンを代表する作家ボルヘスは講義の冒頭にこう述べる、「実際には、皆さんにお教えするようなことは、私には何もありません。(……)自分の抱えている迷いを皆さんにご披露するだけなのです」。もうすぐ70歳になろうとするこの大作家の素朴な言葉に聴衆はさぞかし震えただろう。なぜならボルヘスこそはその「迷い」と「問い」によって、文学の底知れぬ深みへと数知れぬ読者を放り込んできた人物であったからだ。「私の信ずるところでは、生は詩から成り立っています」と彼は続ける。詩は風変わりな何物かではなく、日常の場にふいに姿をあらわすものなのだ、と。「詩という謎」「隠喩」「物語り」「言葉の調べと翻訳」「思考と詩」「詩人の信条」と題されたこれらの連続講義では、ホメロスからジョイスまで、古今の名著が縦横に召喚され、詩の創造をめぐる神秘の古層への接近が試みられる。詩を享受することの喜びに溢れた本書において、読者は文学だけでなく哲学や歴史学の源泉でもあ
る「詩」の世界を垣間見るだろう(実際数多くの哲学者、神学者、歴史記述者が登場する)。編者カリン=アンドレイ・ミハイレスクによる解説文「気紛れな芸術のあれこれ」が巻末に付されている。
※ボルヘスの文学講義→『ボルヘス・オラル』水声社、『七つの夜』みすず書房、『「神曲」講義』『イギリス文学講義』『北アメリカ文学講義』以上三点はすべて国書刊行会
◆数々の植物の隠喩の読解を通じて読み解くツェランの新局面
ツェラーンもしくは狂気のフローラ 抒情詩のアレゴレーゼ
平野嘉彦著 未来社 2800円 4-624-61036-9
強制収容所を生き延びたドイツのユダヤ詩人パウル・ツェラン(1920-1970)の詩篇を、そこに多用される数々の植物を手がかりに、寓意的読解(アレゴレーゼ)を試みた画期的成果が、ついに単行本化された。初出は2000年4月から2001年6月にかけての『未来』誌への連載と1996年の学会誌『ドイツ文学』掲載論考である。「植物めいたものへの想念」が、ツェランの詩行につねに「まとわりついて」いる、と著者は述べる。ブナ、ハコヤナギ、ポプラ、ハンノキ、バラ、エニシダ、アスター、クロッカス等々といった、実に多くの木々や草花が隠喩として登場するツェランの詩の植物相(フローラ)的秘密を、解明していく。ある時は死者や殺戮、またある時はユダヤ人や土地をめぐる隠喩の体系がスリリングに読み解かれる。それらの植物は、著者によれば「依然としてひとつの美的仮象」ではあるもの
の、同時に「美的仮象にたいする致死的なシステム」であり、寓意(アレゴリー)であるのだ。自然誌的な分類学と詩学の結合は、これまでツェランに親しんできたすべての読者にとっても啓発的であり、驚きの発見となるだろう。
※パウル・ツェランとは誰か?→ハルフェン『パウル・ツェラーン』未来社、ベッティガー『パウル・ツェラーンの場所』法政大学出版局、デリダ『シボレート』岩波書店、ラクー=ラバルト『経験としての詩』未来社、ガダマー『詩と対話』法政大学出版局
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02年4月22日
◆思考がたどる存在そのものの必然的道筋としての「論理」
論理学
ヘーゲル著; 作品社; 4600円; 4-87893-461-1
ここ十年(1990年以後)で、ヘーゲルの著書の邦訳書は新訳のほか、再刊や復刊を含めると30点近く刊行されている(上下巻のものは1点と数える)。その数は他の哲学者の古典と比べても群を抜く多さであるが、特にヘーゲル新訳について、根気強くコンスタントに訳書を公刊しつづけてきたのが長谷川宏氏だ。本書はヘーゲルの哲学体系の根幹をなす書であり、通例『エンツュクロペディー』として知られてきたが、長谷川氏は『哲学の集大成・要綱』と訳している。ヘーゲルの意を汲んだ柔軟な翻訳は、氏が広く評価さていれる所以だ。今回邦訳されたのは、『哲学の集大成・要綱』の第一部「論理学」。ヘーゲルによれば、哲学とは概念的な思考活動の円環をなす体系であり、三つの理念にしたがってに次のように立て分けられる。すなわち「絶対的な理念の学としての論理学」「疎外された理念の学としての自然哲学」「疎外の状態を脱して自分へと還ってきた理念の学としての精神哲学」である。本書のあとには第二部「自然哲学」と第三部「精神哲学」が邦訳刊行される予定だ。論理学はさらに、思考という抽象的な場で展開する理念の学として説明され、そうした「純粋思考」を駆使する実力と熟練を要するので、「もっとも難しい学問」であるとされる。「現実的なものは理性的である」という有名な言葉は本書にある。本文には注解と口頭説明が組み込まれ、ヘーゲル独特の「論理」観が丁寧に示されている。彼の哲学体系の出発点は本書にある。
※ヘーゲルの著書およびヘーゲル研究書は→こちら
◆従来の情報工学を超え諸学問を横断する、哲学の野心的な試み
情報学の基礎 諸科学を再統合する学としての哲学
米山優著; 大村書店; 4500円; 4-7563-2028-7
「情報」という概念は、いわゆるIT(情報技術)などの枠に収まらない広がりがある。著者は、物質・生命・精神・社会とかかわりあう、秩序としての情報という概念を切り口に、学問全体を問い直し、その体系の再編と諸科学の再統合を、本書で企図している。前著『モナドロジーの美学』(1999年、名古屋大学出版会)での考察をさらに推し進めたもので、もともとは、著者が奉職する名古屋大学で情報文化学部が設置されたおりに開始された「知的生産論」講義とその発展形態である「社会情報学基礎論」講義のために準備した草案が土台となっている。目次は以下の通り。第一章「情報学という学問」、第二章「個別諸科学に即した科学の問い直し」、第三章「人間による創造と情報学」、第四章「情報学のモデル構築とその具体的展開のためのヒント」、第五章「テクストの未来」。アランの『諸芸術の体系』(岩波書店、絶版)の「散文論」からインスピレーションを受けたという著者は、古代から現代にいたる幅広い哲学的潮流を参照しつつ、暗黙知やKJ法、TRONプロジェクトや編集工学といった諸領域をも、本書の問題系の中軸に大胆に取り込んでいく。「人間を立て直し、解明し、再建する」(アラン)ためのひとつの方策としての情報学の未来を展望する、学際的挑戦の端緒が開かれる。
◆フーコーが大いに思想的恩恵を受けた科学哲学者の名論文集
生命の認識(叢書・ウニベルシタス 735)
ジョルジュ・カンギレム著、杉山吉弘訳、法政大学出版局、
ISBN:4-588-00735-1、2002.4、\3,400
20世紀を代表する科学哲学者のひとりであり、フランス特有の認識論(エピステモロジー)の代表的論客であるカンギレムの、1945年から1951年までの講演や論考、合計6本と、1962年の論考1本を収録した文集である。原著は初版が1952年、増補改訂版が1965年に刊行され、本訳書では、1962年の論考が追加収録された後者が底本となっている。収録作の明細は以下の通り。「動物生物学における実験」「細胞理論」「生気論の諸相」「機械と有機体」「生体とその環境」「正常なものと病理的なもの」「奇形と怪物的なもの」。これに付録として三つのテクスト(二つの覚書と、引用原典からの抜粋)が加わる。生命のダイナミズムを損なうことなしに、生命を科学的に認識は可能か。著者は次のように喩える、「数学を学ぶためにはわれわれにとって天使であるだけで十分であるが、生物学を学ぶためには、知性に助けられるとはいえ、ときには自分が獣であると感じる必要があるのではないか」。理性主義の限界を認めること、生命のオリジナリティを認め、受け入れること。科学的知には、それぞれに来歴と構造があることを明らかにする著者のスタイルは、フランス現代思想の隠れた決定的な駆動力となった。アルチュセールはこう証言している、彼に対する明白なあるいはひそやかな負債をわれわれは認めなければならない、と。著者のあまり知られていない戦中の対ナチス運動をふくめた、詳細なプロフィールを記した訳者あとがきも秀逸だ。カンギレムの論文集『イデオロギーと合理性』の邦訳が続刊予定であると予告されている。
※フランス・エピステモロジーの系譜→ピエール・デュエム、アレクサンドル・コイレ、ガストン・バシュラール、ジル=ガストン・グランジェ、フランソワ・ダゴニエ、ミシェル・フーコー、ミシェル・セール、アンリ・アトラン、ドミニック・ルクール
◆古代メキシコのシャーマンから継承された「別の知の体系」の真髄
時の輪 古代メキシコのシャーマンたちの生と死と宇宙への思索
カルロス・カスタネダ著; 太田出版; 1550円; 4-87233-537-6
最晩年に著者が自らまとめた、メキシコのヤキ族の呪術師ドン・ファン・マトゥスの語録である。彼が世に問うた8冊の著書(『呪術師と私』から『沈黙の力』二見書房まで)のエッセンスだ。まずなにより、組版を含めて造本が素晴らしく美しい。装丁を担当した竹智淳氏は本書のエッジを際立たせることに成功している。その特異性とは何か。それは、本書がドン・ファンについて書かれたことを再録したものなのではなく、ドン・ファン自身の言葉のみを抜き出したという点であり、「売られている本」というよりは、まるで読者一人一人への「贈り物」のようなたたずまいである。一頁ずつに象嵌された短いセンテンスと空白が、読む者の胸の内で不思議な空間をつくり始める。ドン・ファンは語る。世の中のしくみについて人々が自身に言い聞かせているあれこれの思い込みが、彼ら自身を日々の暮らしに縛りつけている。大切なのはそうした思い込みを棄てることだ、と。人間はその思い込みの通りに生きてしまうものだが、それは生のひとつの形象に過ぎない。シャーマンはそうしたひとつひとつにはこだわらず、生の全体像を見て、そこからあらゆる可能性を引き出すのだ。その全体像が「時の輪」と呼ばれるものである。8冊の著書が8つの章になり、それぞれに注解が付される。心の片隅に、「常識」に縛られない空間をつくるために、手元に置きたい一冊だ。
※カスタネダの最後の本と最近の研究書→『無限の本質』二見書房、島田裕巳『カルロス・カスタネダ』ちくま学芸文庫
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