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Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics.  by Hiroshi Kobayashi


2002年7月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。

02年7月1日

■グローバル経済下の科学技術による生命の植民地化に断乎抗する

バイオパイラシー グローバル化による生命と文化の略奪
バンダナ・シバ著; 緑風出版; 2400円; 4-8461-0210-6

ヴァンダナ・シヴァの理論的主著のひとつである本書は、1997年に原著が出版された。表題の「バイオパイラシー」とは、端的に言えば「生命の侵害」を意味する。シヴァは「現代は遺伝子工学と遺伝子特許の時代である」と指摘し、「生命自体が植民地化されてきている」と警鐘を鳴らす。歴史的に見て、西洋は非西洋世界を最初に植民地化したとき、「発見し、征服する」ことと「服従させ、占領し、所有する」ことを彼らの義務と感じたのだ、と彼女は喝破する。「西洋の権力は、現在でも植民化の衝動で動いているように思われる(……)西洋社会の『植民地』は、現在では生命体の『遺伝情報』という生体内部空間へと延長されてしまった」と手厳しい。彼女の立場は「エコ・フェミニズム」として知られている。科学者としての専門的な見地、フェミニストとしての社会学的立場、エコロジー運動家としての政治的意見が一体化したその思想は、微視的かつ巨視的である。特に、科学と権力との結びつきを糾弾する彼女の姿勢には、目を見張るものがある。

シヴァは、生物と文化の多様性を平和的共存のうちに保護する非暴力主義を唱える。それはガンジーの平和思想を独自に応用し発展させたものだ。「単一文化と暴力に基づく世界観」との根本的対決がそこにはある。彼女はそうした世界観を孕んだグローバリゼーションの負の側面を直視し、多様性と非暴力に基づく平和主義を提言して、次のように続ける、「多様性は闘争や混乱のレシピではないということを学ばなければならない。そうではなく、多様性を育むことは、社会的・政治的・環境的な面で、長期的に持続可能な未来をつくるための唯一のチャンスであるのだ。それは、我々の生存をかけた唯一の手段でもある」と。一行たりとも読み飛ばすことのできない、重要なメッセージと分析に満ちた、現代人必読の書である。なお、彼女とマリア・ミースとの共著『エコ・フェミニズム:脱開発とサブシスタンス社会に向かって』が、新曜社から近刊予告されている。

※世界的影響力を持つインド出身の知識人→「アマルティア・セン」「ガヤトリ・スピヴァク」「ホミ・バーバ」


■おじさんパワー炸裂! 映画から教育まで縦横に語る「交換日記」

大人は愉しい メル友おじさん交換日記
内田樹・鈴木晶著、冬弓舎、ISBN:4-925220-06-3、2002.6、\1,800

いま「おじさん」がアツい。いや、からかっているのではない。父性の復権や母性の終焉ではなく、「おじさん」的価値観が自己主張をはじめたのだ。トレンドを追いつづける「マーケティング」は「おじさん」を無視しすぎてきた。ここで言う「おじさん」に、もはやネガティヴなイメージはない。上野千鶴子は「おばさん」パワーについて語っていたが、内田樹氏はこのところの一連の著作活動で、レヴィナス研究家から一歩大きく踏み出した。共感層は厚い。鎌倉と神戸に離れて住む二人の大学教授がメル友になり、ウェブ上で交換日記をつけた。それを活字化したのが、本書である。冒頭に置かれた内田氏の「はじめに」からして、すでに「おじさん」ワールド全開だ。フランス語駄洒落天狗道場とは?! 思い切り爆笑している私はすでに「おじさん」ということか。ウェブ上のヴァーチャルな「自分」が、「生」の自分とは異なる、という議論から始まって、他者論や感情移入について語ったかと思うと、父性や母性、家族の考察に移り、教育論や大学論に発展する。「忠臣蔵とアンチ・オイディプス」というテーマは鈴木氏ならではだし、「師弟関係とタルムード」という話題は内田氏らしい。34通のやりとりのうちに、細かくは上記以外にも実に様々なことが語られるのだが、イモヅル式の連想の一貫性と言おうか、日記を読むスピード感が心地よい。「大人は愉しい」という題名は、成人たることの何たるかを洒脱に示している。「おじさん的読書」の快楽もここに創られたと宣言していいのではないか。

※この本も侮りがたい→小谷野敦『退屈論』弘文堂


■予定調和的共同体を脱構築する、来たるべき友愛の政治哲学

友愛と敵対 絶対的なものの政治学
アレクサンダー・ガルシア・デュットマン著、月曜社、ISBN:4-901477-02-1、2002.6、\2,200

こんにち、敵とは誰か。そして友とは誰か。「911」以後の世界において、暴力的で強制的な二者択一が民衆に押し付けられつつあるが、敵対関係といい友好関係といっても、話者が変わればその見え方はたちどころに変化する。デリダ以後の世代でもっとも将来を嘱望されている哲学者の一人であるガルシア・デュットマンは、本書において、敵や友の認知がどのように生成され、他者との関係性において構成され、決定され、つきまとうかを、政治学的に見ていく。本書は、「此岸と彼岸における敵たち:ラディカル化」と「友愛:解放についての試論」の二つの論考からなる。前半部では、カフカやデカルト、カール・シュミットを参照しつつ、抹消することのできない敵対幻想を分析する。後半部では、デリダの『友愛の政治』(未訳)における「最小限の友愛」論や、ハーバーマスの「討議倫理(Diskursethik)」概念を吟味しつつ、友愛の(不)可能性を綿密に検討していく。デリダの脱構築が政治学的、倫理学的にいかに応用され得るか、その地平を見極めようとした本書は、その射程の限界と批判的に対峙し、民主主義のありようを鋭く問う。「〈到来しており、到来し続けている〉民主主義への問いとは(……)改良主義や永続革命論への問い」ではなく、むしろ「無制限な平等の到来」と「無制限な単独性の到来」の一致した二重の到来という「不可能なアクチュアリティへの問いなのである」と彼は述べる。本書はその問いを開いたまま、読者へとバトンを渡すように終わる。若き俊英による、読み応えのある論考である。

※併読をお奨めします→ナンシー+バイイ『共出現』松籟社


■「黒板絵」に続く、シュタイナー思想の生成を跡づける貴重なノート群

ルドルフ・シュタイナーの100冊のノート
ルドルフ・シュタイナー著; 筑摩書房; 5800円; 4-480-84710-3

ワタリウム美術館で2000年に開催された「ルドルフ・シュタイナーの100冊のノート展」をきっかけに出版された本書は、1996-1997年に同美術館で行われた「黒板ドローイング展−地球が月になるとき−」を書籍化した『遺された黒板絵』(筑摩書房、1996年刊、品切)に続く、シュタイナー自身が書いた貴重な原資料を公開した第二弾である。彼の著書は数多くが邦訳されているが、こうした原資料を紹介した書目は非常に稀で貴重だ。『黒板絵』では、シュタイナーが講義の際に色とりどりのチョークで板書した彼自身の思想の図式化が、漆黒の画面に浮かぶ鮮烈で生々しいイメージでもって迫り、多くの読者の心を揺さぶった。今回刊行された『100冊のノート』は、彼が遺した膨大な数の思索ノートからピックアップされた貴重な手記が、すべて写真版で公開されている。彼はしばしばすみれ色の色鉛筆を好んだらしく、走り書きや描画が淡い彩りを帯びて、連想と沈思の道筋を刻んでいる。シュタイナーはけっしてこれらのノートを見直すことがなかったという。つまり彼は自身の魂に書きつけるようにノートを使用したのだ。活字化される前の諸々の断片は、完成された姿ではないが、思想の豊かな胎動を感じさせるフレーズやシンボル、独創的な図表に満ち満ちていて、いまなお全貌の知れない鉱脈を思わせる。100冊は12のテーマに分類されて紹介される。すなわち「人間」「自然」「身体・魂・精神」「太陽と惑星」「らせん」「十二感覚と十二宮」「医学」「療法」「建築」である。ルドルフ・シュタイナー文書館館長のヴァルター・クーグラーによる解説「絵で思考する」を併載。



■稀代の神秘主義者の生涯を綿密に検証、記述した決定版

グルジェフ伝 神話の解剖
ジェイムズ・ムア著 平河出版社 6000円 4-89203-316-2

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフは1866年、ロシア=トルコ間の都市アレクサンドロポールの、カッパドキア系ギリシア人地区に生まれ、1949年、フランスはヌイーイに所在するアメリカン・ホスピタルにて病死した。彼の生き様の片鱗は、ピーター・ブルックが1978年に監督した映画『注目すべき人々との出会い』や、ウスペンスキーの著書『奇跡を求めて』でも伝えられているが、本書は弟子たちの証言や、世界に散らばる文書資料、関連史料を広範に渉猟し、この稀代の神秘主義者の人間像に迫った伝記決定版である。三部に分かれ、第一部「自己神話化」では1866年から1911年までの彼の前半生を記述し、第二部「思想の顕現」では彼特有の思想の素描を試みる。第三部「同盟者の記録保管所」は、1911年から1949年までの後半生を詳細に記したものだ。この第三部が本書の大部分を占め、第一部と第二部を足しても100頁に満たないが、第三部は16章立てで400頁近くある。

1911年とは、彼がその超自然的知識を体系化した年であり、モスクワではじめての弟子を集めることになる直前の時期でもある。ウスペンスキーが弟子入りしたのは1915年、モスクワでのことだ。ロシアからグルジア、トルコからドイツへと移動を続け、やがてパリに落ち着く彼は、数多くの音楽を作曲し、神聖舞踏を創設し、弟子とともに「ワーク」を実践しながら、数々の著書をものした。フランスでの最初の弟子はシュルレアリスムの鬼才ルネ・ドーマルだった。第二次大戦中はパリに留まり、ユダヤ人の弟子たちに隠れるよう示唆していた。1924年以来、頻繁にアメリカへ訪問しており、彼の死を見取った医師もアメリカから呼び寄せた人物だった。死後に葬られたのはパリ郊外の墓地で、彼の友人であるイギリスの作家キャサリン・マンスフィールドの墓のそばだ。興味深いエピソードは尽きない。数多くの出会いと別れが織り成す彼の生涯は万華鏡のようだ。もうひとつの20世紀がここにある。

※同じく弟子の一人による回想録→ノット『回想のグルジェフ』コスモス・ライブラリー
※神聖舞踏→郷尚文『覚醒の舞踏』市民出版社

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02年7月8日

■ナチスの神話的回帰主義を解明し、その伝統と未来を透視する

ナチ神話
フィリップ・ラクー=ラバルト+ジャン=リュック・ナンシー著
守中高明訳、松籟社、ISBN:4-87984-220-6、2002.7、\1,700

1991年に原書がフランスで出版され、新版が1996年、その後も版を重ねている本書のテクストが最初に発表されたのは、1980年のことだという(邦訳初出は、『批評空間』第II期第7号および第8号。1992年/1993年、太田出版)。そもそも著者の二人は、独仏の国境に隣接しているストラスブール大学での同僚同士として、70年代にラカン批判の書『文字の資格』(未訳)や、ドイツ・ロマン主義研究『文学的絶対』(未訳)などの共著を発表したり、いくつかの論文集の共編や、ニーチェの翻訳を共同で行ったりしてきた。また「政治的なものをめぐる研究センター」を共同主宰し、80年にはジャック・デリダの思想をめぐる「人間の諸終焉=目的」と題された高名なコロック(合宿討論会)を共に手がけている。フランス現代思想においては、ドゥルーズとガタリのコンビ以来、注目すべき精力的な活動を続けていた二人であり、ともに1940年生まれ(ナンシーの方が3ヶ月ほど年下)でもある。

本書は、このように長いあいだ協働してきた彼らが、推敲を続けてきたもので、小編ながら濃密なテクストとなっている(ラクー=ラバルトはハイデガーのナチズム加担を問うた『政治という虚構』(藤原書店)でも関連するトピックを扱っていた)。いかにしてナチスの全体主義的イデオロギーが形成されえたのかを糺す本書は、人種主義へのナチスの傾倒の理由を哲学的に解明しようとしている。ナチスはドイツ国家に、古代から続くゲルマン神話的幻想を与えようとしたのであり、そのアイデンティティの埒外にある「離散の民」ユダヤ人を、自分たちの形成しつつある神話的同一性の世界から、ぞっとする方法で除去しようとしたのである。このナチズムのメンタリティは遠く過ぎ去った錯乱ではなく、何度でも繰り返される可能性のある、執拗な幻想に根付いているのだ。実際、戦後に台頭してきたネオナチは、いまも根絶やしにされることがない。外国人排除に象徴されるような、他者への憎悪を抱えた国粋的極右陣営は、全世界で勢力を伸ばしつつある。本書はそうした野蛮さの起源を繰り返し反省し確認するための論点を提供する、もっとも簡潔な分析である。


■政治的感情としての「怒り」と、来たるべきコミュニズムを語る雄編

共出現
ジャン=リュック・ナンシー+ジャン=クリストフ・バイイ著
大西雅一郎+松下彩子訳、松籟社、ISBN:4-87984-221-4、2002.7、\2,600

待ち望まれた全訳である。湾岸戦争とソ連崩壊というふたつの歴史的事件に挟まれた本書は、日本ではまずナンシーの論文のみが雑誌『批評空間』第II期第3号に邦訳掲載された。コミュニズムをナンシー特有の「分有(パルタージュ)」概念と「実存=脱自性(エグジスタンス)」概念から捉え直した感銘深いテクスト「共出現」は、心臓病を患っていた彼の切迫感を反映するように、断想的でありながら力強い政治的マニフェストともなっていた。「怒りとは優れて政治的感情である。怒りにおいて問題なのは、容認し難いこと、絶え難いことであり、また拒絶や抵抗である」とナンシーは情熱をこめて書いている。カントの『永久平和のために』から説き起こしたバイイの才気溢れる「序文」と論文「地峡(イスム)」は今回初めて訳されたもので、それぞれ手短なものだが、病床にあったナンシーが遺した「序文のためのノート」(同じく初訳)と論文「共出現」を的確に適切に補足している。原書では副題に「来たるべき政治」とあったが、まさに10年を経たいまでもアクチュアルな輝きをまったく減じていない。ナンシーの著書の邦訳を精力的に翻訳出版してきた、大西雅一郎氏と松籟社のコンビと、ナンシーとの間の信頼感のパイプが太いためだろう、本書にはナンシーの未刊行論文が3篇も併録されている。「民主主義の様々な意味」1999年、「ユートピアの場に/代わりに」2000年、「すべては政治なのか」2000年である。訳者による各論文の周到な解説が、巻末に「あとがき」として付されているのもありがたい。松籟社はナンシーの邦訳続刊に、『複数独異存在』原書1996年、『映画の明白さについて:アッバス・キアロスタミ論』原書2001年、『訪問』原書2001年など、3点を挙げて予告している。非常に楽しみだ。


■テクスト編纂と全集プロジェクトの変遷から見たマルクス主義

未完のマルクス 全集プロジェクトと二〇世紀
的場昭弘著、平凡社、ISBN:4-582-84217-8、2002.5、\2,600

1883年3月14日午後、マルクスはロンドンの自宅で椅子に坐ったまま65歳で息を引き取った。彼の死後、遺稿は誰が相続し、管理したか。本書はそこから説き起こされる。相続したのはマルクスの末娘エレナー、管理したのはエンゲルスである。12年後、エンゲルスも74歳で死ぬ。マルクスの遺稿は改めてエレナーに、エンゲルスの遺稿はドイツ社会民主党の党員二名に相続された。エレナーはその三年後、内縁の夫の裏切りに失望し、服毒自殺。遺稿はマルクスの次女、ラウラ・ラファルグに引き継がれるが、彼女は管理を社会民主党に委ねた。マルクスとエンゲルスの遺稿を管理していたのは、のちに「修正主義者」とレッテルを張られるベルンシュタインだった。社会民主党はマルクスの思想を「崇め」てはいなかったために、「聖典」としてのちにマルクス=エンゲルス全集(MEGA版)を刊行するソ連の共産党は、それらの遺稿をなんとか入手しようと躍起になった……。

本書はマルクスとエンゲルスの遺稿の争奪戦と、テクストが編纂され校訂され注釈されていく過程をたどり、各国における複数のマルクス主義が「真のマルクス」をいかにして追い求めていったかを分析する。党派のイデオロギーを帯びて訓古学化していくなかで、あらためて草稿に戻り全集を企画したマクシミリアン・リュベルの仕事や、MEGA版の成立、マルクスの伝記を書いた人々の紹介をはじめ、マルクスに寄り添おうとした、日本ではほとんど知られていない編纂者・校訂者・注釈者たちや、各国の研究機関の研鑚が取り上げられる。全18章はそれぞれ簡明にまとめられており、一種の通史として興味深く、読みやすい。ソ連崩壊後、MEGA版を支える基盤は破綻してしまう。1992年、従来の党派性から脱しようと、新MEGA版構想が各国研究者の協力のもと立ち上がるが、時代の求心力や経済的援助は弱まっており、いまもなお新MEGA版は計画の端緒にある。著者は本書をこう結んでいる、「テクストをめぐるマルクス・エンゲルスの歴史は、実はマルクス主義の発展と衰退の大きな鍵を握っていたのだということをあらためて認識すべきであろう。『完成されたマルクス』とは、正しいマルクスを求めようとして結局虚偽のマルクスを捏造する過程に他ならなかったのである。その意味で『未完のマルクス』のままの方がよいのかもしれない」と。ここ百年の間にマルクス思想がたどった数奇な運命を振り返り、こんにちにおける「マルクス主義以後のマルクス」を捉え直す視座を模索した好著である。


■2002年上半期の思想書ベスト1は本書で決まりだ

みんなのトニオちゃん
菅原そうた著; 文芸社; 1600円; 726.1; 02033383; 4-8355-4595-8

引きこもり論や若者論でがぜん注目を集めている精神分析学者の斎藤環は本書の解説でこう書いている、「いずれ菅原には、哲学や精神分析の啓蒙書をぜひとも描いてもらいたい。そんじょそこらの入門書には太刀打ちできない、すごいモノができそうな予感がする」。この言葉が誇張でも冗談でもないことは、本書を一読すればたちどころにわかる。なんというドライヴ感! これは、単なるCGコミックではない。真理と誤謬、科学と妄想のはざまをハゲしく疾駆する、新しい「哲学書」だ。主人公の「トニオ」ちゃんは5歳のかわいい幼稚園生。同級生の暴れん坊「ジャイ太」とその舎弟「スネ郎」とつるんで、パシリとしてこき使われている。じっさいは5歳を装っている謎多き7歳児で、自分のことを人間ではなく「ジャガイモ」だとも語っている。本書は「FUCK THE WORLDでちゅ編」の11篇と「全てをゼロから考えるでちゅ編」の12編に分かれる。作者自身の説明によれば、前半はサブカルエッジ全開のトニオワールド、後半はディープ全開の哲学ワールド、とのこと。オビ文にあるコーネリアスの小山田圭吾のコメントでも触れられているように、前半部の最後に収録された「アルバイト(BUTTON)」の回から後半にかけて、脳やリアリティ、夢や幸福、死や時間、宇宙や人類の存在をめぐる怒涛の考察(!?)が展開される。「みんなもFUCK THE WORLDな現実に今、生きちゃってるからにはボクといっちょに全てをゼロからかんがえてみまちょー」とトニオくんは語る。

本書の特異性は、読んでも消化しきれない、物語の自由な枠組みにある。その自由度たるや、主人公や登場人物が幾度も死んでしまい、続くストーリーではその都度すっかり肉体も精神も元通りになっているという、テレビゲームのリセット感覚のような、「プレーヤーの万能感」であるとも言える。そうした現代的感覚の徹底は他に類を見ない。たとえば『ソフィーの世界』に代表されるような哲学小説は、プロットの素晴らしさと教養の深さを感じさせる一面はあるものの、物語として消費されてしまいがちで、そこで紹介されている原典まで読み進んでみよう、となる読者は少ないようだ。けれど本書では、物語的な消費が無効であるだけでなく、作者自身の剥き出しのイマジネーションが、読み手を様々な思索と探究へ刺激し、いざなってやまない。内容面で科学的には厳密でない部分も含まれているだろうが、そんなことはまるで問題外だ。私はこれを読んだ直後、まず養老孟司の『唯脳論』やブルーバックス系の「時間論」(相対性理論のみならず、プリゴジンやグールドなどの議論も含む)、青山拓央の『タイムトラベルの哲学』、埴谷雄高の『死霊』、デカルトの『方法序説』やスピノザの『エティカ』を参照せずにいられなかった(もちろんこうした参考書や専門書は無視して構わない)。斎藤環は本書における「時間」のテーマに触れ、「ベルグソンの『持続』の哲学やデレク・パーフィットの人格論にまで及ぶ『時間と人格』という重大な問いかけをはらんでいる」と述べた。この作者には、まったく独自の探究からそうした次元まで突き抜けていく勢いというかポテンシャルがある。とにかく読んでみてほしい。「なんじゃこりゃ」と思うだろう。こういう野蛮さというか未成熟な妄想系はいまもっともリアルなのではないか。「To be continued」とあるから、続編がいずれ出版されるのだろう。この先どうなってしまうのか、まったくわからない。そんなところが面白い。

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02年7月15日

◆アニミズム的古代美術からシュルレアリスムまで、一貫した魔術性を問う

魔術的芸術
アンドレ・ブルトン著; 河出書房新社; 3800円; 4-309-26566-9

異様な書物である。この一冊が本棚にあるだけで、部屋の空気を一変させてしまうような書物だ。シュルレアリスムの法皇ブルトンの晩年における最重要作である本書は、1957年、フランスの会員制クラブの読者向けの限定版として、刊行された。稀覯本である。フランスで新装版が出版されたのは、ブルトンの没後25周年にあたる1991年だった。そしてその邦訳がついになったのは1997年のことだ。事件と呼ぶにふさわしい出来事だった。今回刊行された「普及版」は、97年版から巻末の膨大な「アンケート」部分を割愛しており、判型も一回り小さいものだが、97年版が28,000円だったことに比べれば、本書はじつに3,800円、驚くべきコストパフォーマンスである。それだけではない。この値段にして、収録図版は、原本(や写真)がモノクロのものを除き、すべてがフルカラーなのだ。これもまた驚きである。本書には色彩が溢れている。審美家ブルトンが言及しているそれらの古今東西の美術品のコレクションは、人間の想像力の異様さを十二分に示しており、頁をめくるごとにめまいがする。これが「人間の業」なのか、と戦慄させる迫力が、本書を構成している。ブルトンは、「芸術作品は魔術そのものを起源としている」と論じる。「あらゆる芸術は少なくともその発生において魔術的」であり、本書では「芸術を生んだ魔術をなんらかのかたちで自分から生み直すような芸術だけを、とくに魔術的な芸術として取り上げる」と。この場合の魔術とは一神教以前から存在してきたアニミズム的想像力を広く指すもので、ブルトンはシュルレアリスムがその復興を担っていると解説する。本書は言ってみれば、人類がいまだにパズルの諸断片としてしか発見できていない精神の古層が、曲折を経て連綿とこんにちまで続いていることを、再度明視化した重要作である。より大型の判型を好み、ハンデガーやバタイユ、カイヨワ、レヴィ=ストロース、マグリット、マンディアルグら76名にも及ぶアンケート回答をご覧になりたい方は、97年版をご購入いただきたいが、本書を書棚に飾るだけでなくより楽しむために繰り返し繙きたい向きには、この普及版が必備であると強調しておきたい。


◆第二次世界大戦末期のパリ空爆の一夜を濃密に描ききった実験作

セリーヌの作品 第6巻 ノルマンス
L=F.セリーヌ著; 国書刊行会; 4800円; 4-336-03070-7

1978年に「なしくずしの死」上下巻がこの驚嘆すべき著作集(全15巻)の第2、第3巻として発売されてから、四半世紀に近い月日が流れている。おそらくその間に亡くなった読者は多いだろうが。当初編纂者として名を連ねていた生田耕作氏もまた、すでに逝去している。途絶することなくこんにちまで刊行されつづけてきた偉業に、最大の賛辞を贈りたい。本書「ノルマンス」は、1944年春の連合軍によるパリ空爆の当日を濃密に描いた小説で、空爆前夜を描いた「またの日の夢物語」(第5巻)の続編にあたる。市街地を揺るがす爆音、切れぎれの叫び声、右往左往する群集、主人公の意識の流れをそのまま写し取ったような、緊迫し迷走する感嘆符の連なりは、「なにもかも書いておかなければ!」というせりふに象徴されている一種の終末的逆光のもとに、読者をまさに戦争の現場へ引きずりこむ。永遠に続くとすら思われるような、しかしじっさいはたった一夜の出来事である。コラボ(対独協力者)だった彼の戦後の転回点を成す本書のしめくくりの言葉は、「以上が事実だ、まちがいない」である。この最後の一言は、小説ではなく、作者自身の呟きであるかのように、異様に響く。ここまで読んできたのはセリーヌの告白であって、読者はこの一言とともに、戦場から、一冊の書物を前にした現実の自己意識へと、突然締め出される。読者は呆然とするしかない。この疾走感。目の前に残像として留まるのは、三方を墨色に塗られた暗黒の書――杉浦康平氏によるずばぬけてすばらしい造本の賜物である。堅牢な函には、燃え尽き朽ち果てる黄昏のような色合いの朱の紙を黒く塗りつぶしたカバーがかかっており、暗闇の中の炎のように、朱の地から文字を浮かび上がらせている。この装丁は昔も今も変わることなくこの著作集のトレードマークであり、こんにちの流通上のルールをものともせず、デザインを優先させてバーコードを排除し、美観を保った。こうした美にはもはやほとんど100%お目にかからなくなっただけに、感動的だ。本書が刊行されたあとは、残すところ著作集完結まであと一点、第10巻の「虫けらどもをひねりつぶせ」が2002年のうちに刊行されるようだ。


◆特殊翻訳家の手で甦る、19世紀の倒錯者111例のカルテ集

クラフト=エビング変態性慾ノ心理
R.v.クラフト=エビング著; 原書房; 2400円; 4-562-03528-5

たぐい稀な症例集である。1886年にラテン語で書かれた初版が刊行された本書"Psychopathia Sexualis"はもともと浩瀚な研究書だ。版を重ね、最終的には240例におよぶ性的倒錯の症例とその分析的解説を収録した、精神医学の古典である。日本でも何度か邦訳されているか、それは1950年代までのこと。古書店で求めようにも、図書館で借りようにも難しい書目だ。だから、特殊翻訳家として知られる訳者によって、本書はようやく復活したのだと言っても過言ではない。クラフト=エビングは「マゾヒズム」概念の初めての提唱者でもあるが、本書ではこのマゾヒズムのほか、サディズム、フェティシズムの症例が紹介される。いささか時代遅れになった恨みのある、個別の症例への分析的解説は邦訳されず、きっぱりとはぶかれ、クラフト=エビングが収集した症例を、生のかたちで読んでもらう、というふうになっている。それが本訳書の趣旨なのだ。いやはや、出てくる出てくる、ヘンタイさんたちの群。奇行と特異な嗜好の数々。どこかの小説やドラマで読んだり見たりしたおぼえのある倒錯話の「元ネタ」はすべて本書にあるのではないか、と思わせるほどの典型ぶりと紹介数の豊富さである。まことに、人間は昔から変わらないものだと感嘆する。本訳書に収録されたのは、240例のうちの111例。「厳選」された(!?)人々の滑稽さ、悲しさ、可笑しさは、正常と異常との境というのが本当はぼんやりしているものなのだ、と教えてくれる。それは、異常と正常とは紙一重だ、という達観であるというよりは、そもそも正常とは何なのかという明白には解きがたい疑問である。あるいは本書はいくつもの「正常」の確率変動値を示した、という意味においても重要だろう。ここには、読む者すべての隠された内的真実が、断片的に示されているのだ。

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02年7月22日

◆人類史と個人史を貫通する、美しき色彩たちの慎ましくも華やかな饗宴

クロマ
デレク・ジャーマン著; アップリンク / 河出書房新社; 3200円; 4-309-90494-7

異色の映画監督デレク・ジャーマン(1942-1994)がエイズで死去した年に刊行された最後の書である。彼の色彩へのこだわりは、死の前年に発表された二編の映画『ヴィトゲンシュタイン』『BLUE』にも端的に表れているが、本書における細やかなセンスと卓抜なエスプリ、そして博識は、彼以外の作家による色彩をめぐる幾多のエッセイに比して、際立っている。人文諸科学や神秘学、自然科学、文学、美術などあらゆる西洋(東洋も少々)の文化が参照される。それらは彼が見た景色や心象風景、記憶や想像、物語などの断章のもとに、次々と召喚される。ジャーマンが愛してやまないウィトゲンシュタインもまた、色彩論(『色彩について』新書館)を書いたが、この哲学者の探究が基本色の知覚論的存在論へ向かったのに対し、ジャーマンはじつに多様で豊かな色合いを見つめようとする。白から始まって世界を取り巻くさまざまな彩りを描写し、角度によって違って見える「玉虫色」を取り上げ、最後には「透明」へ至る。全十九章。なんとも周到な展開だ。なかにはマルシリオ・フィチーノや、レオナルド・ダ・ヴィンチ、アイザック・ニュートンに捧げられている章もある。やはり一番の力作は「青の中へ」と題された一章だろうか。「青の光。亡霊のような光。ドロミテ=アルプスの水晶の洞窟の中へと降り注ぐレニの満月。村人たちは窓のカーテンを引いてその青い光を遮断する。青は夜を連れてくる。ある青い月の晩……」。本書は色彩から見た人類史のスナップショットとも言えるし、著者本人による色彩論的自伝、詩的で内面的な自伝とも言える。自伝という「物語」――しかしそれは虚構ではない。これ以上に見事で繊細かつ豪奢な色彩論には、近年ではお目にかかれないのではないか。「彼女が消えるとき/僕は自分の亡霊に祝杯をあげる/アクア・ヴィータ[生命の水、酒]の中で/光り輝く存在/ここにいながらにしてもういない」。「透明」について書いた彼の最後の言葉は、本書全体がそうであるように、非常に映像的だ。本書の執筆が進むにつれ、ウィルスに冒され著者は徐々に失明していったという。


◆ボッティチェッリの残酷絵巻と17世紀の解剖蝋人形に見るエロスの諸相

ヴィーナスを開く 裸体、夢、残酷
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン著
宮下志朗+森元庸介訳、白水社、ISBN:4-560-03886-4、2002.7、\2,800

こんにちもっとも刺激的な美術史家ディディ=ユベルマン(1953-)の名は、フランス本国だけでなく、世界的に知れ渡っているが、邦訳は必ずしも多いとは言えない。本書はその四番目となる。15世紀イタリアの画家ボッティチェッリの高名な絵画『ヴィーナスの誕生』や、彼が同年代に描いた残酷絵巻『ナスタージョ物語』、17世紀の蝋細工師スジーニによる解剖人形『医師たちのヴィーナス』『腹を裂かれたヴィーナス』などを題材に、裸体描写という身体の「開示」における、生(あるいは性)と死の交錯する位相を分析している。もっとも興味深いのは、『ナスタージョ物語』という、激情に駆られた騎士が彼の想いに応えようとしない女性を惨殺する夢を描いた四つの戒告的絵画(もちろん男性への戒告である)にかんする論考だろうか。著者はこの連作のうちに、「異質性」を見る。ボッティチェッリの描く裸体は、彼の作品におけるヴィーナスと聖女マリアの相似的同質性の枠組みにのみ回収されるものではない、と著者は指摘する。フロイトやラカン、バタイユやサドを適宜参照する彼のスタイルは、その美術分析に特異な奥行きを与えている。同じく第一線の美術史家ティエリー・ド・デューヴ(1944-)もまた精神分析を参照するものの、分析対象として選ばれる素材の違いだろうか(ド・デューヴは現代美術を研究している)、ディディ=ユベルマンのスタンスはユベール・ダミッシュ(1927-)により近いように思える。これまでの三つの邦訳に比してコンパクトな本書は、著者の個性的な研究に親しむ上で格好の入門篇になるだろう。


◆大ヒット作『図説日本呪術全書』に続く、「呪い」系第二弾

図説憑物呪法全書
豊嶋泰国著; 原書房; 2800円; 4-562-03527-7

本書と同じ時期に重版された前著『図説日本呪術全書』(1998年)の奥付を見て驚いた。3200円の分厚い本にも関わらず、かなり売れているのである。一年に少なくとも三〜四回は版を重ねてきたようだ。昨今の「呪い」ブームはここまで来たのか。姉妹篇の本書も前作同様に情報がぎっしり詰まっており、図版も多く、さながら「読むオバケ屋敷」である。憑物つまり「人に乗り移ったものの霊で、動物霊や人間霊、祖霊や神霊などが憑くとされる現象」を扱うこの書物は、全七章に分かれる。各章ごとに狐、管狐(イヅナ=鼠ほどの小さな狐)、オーサキ(ヤマイタチ)、犬神、蛇、狸、猫ときて、「その他」の章では蟇や鼠、猿、ヒダル神(餓鬼)、イチジャマ(沖縄特有の、女性の生霊)等々が出てくる。祟り(時として幸運)をもたらす「憑物」の数々が丁寧に解説され、古文書や伝承に見る対処法も抜書きされている。本書の大きな部分を占める第一章「狐」では、狐霊の細かな種類から、様々な史的「実例」、憑かせる方法やお祓いの各種方法まで、じつに多層的に記述されており、読み応えのある民俗学書ともなっている。これでまったく「研究書」臭いところがなく、アカデミズムからは無視されるのだろうが、決して「キワモノ」本にもなっていない。巻末に掲げられた「主要な」参考文献だけでも60点ある。要するに著者が渉猟し調査した成果をこうしてやすやすと手にできるわけで、読者はとにかく得である。人の情念の渦巻く、夏の夕闇の奥に広がるものは、涼しくも恐ろしい異界。その魅力をたっぷりと味わえる。

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02年7月29日

■南米現代思想の源流を原典で読ませる、魅力溢れる貴重な論文集

現代ラテンアメリカ思想の先駆者たち(人間科学叢書 34)
レオポルド・セア編、小林一宏+三橋利光訳、刀水書房、ISBN:4-88708-296-7
2002.6、\4,700

題名が示す通り、本書は19世紀後半から20世紀にかけて活躍した南米の先駆的思想家10名の代表的論文を集めた、貴重な論文集である。編者のレオポルド・セア・アギラールは1912年生まれのメキシコの哲学史家で、本書には南米思想通史とも言うべき長編の序文が収録されている。10名の思想家とは以下の通り。マヌエル・ゴンサーレス・プラーダ(1848-1918、ペルー)、ホセ・マルティー(1853-1895、キューバ)、ホセ・エンリ−ケ・ロドー(1872-1917、ウルグアイ)、ホセ・バスコンセーロス(1882-1959、メキシコ)、アントニオ・カーソ(1883-1946、メキシコ)、ペドロ・エンリーケス・ウレーニャ(1884-1946、ドミニカ-メキシコ)、アルフォンソ・レージェス(1889-1959、メキシコ)、エセキエル・マルティーネス・エストラーダ(1895-1964、アルゼンチン)、ホセ・カルロス・マリアテギ(1894-1930、ペルー)、エドゥアルド・マジェーア(1903-1982、アルゼンチン)。邦訳書があるマルティやマリアテギを除けば、日本ではほとんどの人物が初訳となるのではないか。セアは「本撰集にはかつて一度は等閑に付されたラテンアメリカ固有の現実をはじめて直視した世代の作品の中から数点を収録した。彼らはそれぞれに出発点となるラテンアメリカの具体的な現実を捉え、それに基づいてさまざまな発言をした。彼らはラテンアメリカについて本物の文化の誕生に繋がる意味付けを真剣に試みた最初の人々である」と説明している。たとえばバスコンセーロスは、「地球人」と題された1925年のテクストにおいて、「今日、世界中のさまざまな人種はますます混血への道を進みつつある」と述べつつ、南米大陸に住む混血民族の過去と現在における潜在能力について、また、今後彼らが「地上初の総合民族」となる運命について論じ、「帝国を建設したかの巨人たち(……)は先住民を全滅させるという罪を犯し、我々は逆に先住民を自分たちの中に取り込んだ。これによって我々には史上前例のない使命を果たす権利と希望が与えられている」と書いた。彼の一種の弁証法的予言をこんにちではそのまま受け入れるわけにはいかないにせよ、彼の主張はある種の真理をいまなお含んでいるように思える。本書で取り上げられた思想家たちのある者は革命家であり、ある者は作家、またある者は哲学者だ。イスパノアメリカ(ラテンアメリカのこと。イベロアメリカとも言う)の思想的独自性を原典から学ぶための絶好の機会を、本書は与えてくれる。


■西洋中心主義的世界観を打破する、南米の視点を包括的に紹介

ラテンアメリカ従属論の系譜 ラテンアメリカ:開発と低開発の理論
クリストバル・カイ著; 大村書店; 4800円; 4-7563-2029-5; 2002.4

本書の著者クリストバル・カイは、1944年にチリで生まれた農業経済学者であり、イギリスで長らく教鞭を執った後、現在はオランダで研究活動を続けている。1989年に原著がイギリスで刊行された本書は、ラテンアメリカの社会科学者たちによる開発理論の様々な思潮を取り扱っており、構造学派や従属論者による世界システムをめぐる実り豊かな論争の推移を一望している。「ラテンアメリカ学派」と著者が総称する研究者たちの著作群を総括的に評価し、年代順に系統的包括的に紹介を試みた。全9章からなるが、第8章「新自由主義とラテンアメリカ理論」と第9章「新自由主義時代における構造学派と従属論」は、日本語版のために新たに書き下ろされたもので、80年代以後の新自由主義とグローバリゼーションのもとでの新構造学派と従属論の意義が論じられている。ちなみに第1章から第7章までの題名は次の通り。「周辺からの挑戦」「構造学派」「国内植民地論」「周縁性論」「従属論――改良主義派とマルクス主義派」「従属論――論争・批判・超克」「ラテンアメリカの貢献」。

戦後の西欧や北米の開発経済学は、自らの学問的枠組みを普遍的なものと捉えがちだったが、ラテンアメリカ学派はそうした「北の論理」への懐疑から出発している。彼らは「周辺諸国」の特殊性に注目し、国ごとに異なる社会的現実を説明するには新たな理論が必要だと主張した。アルゼンチンの経済学者ラウル・プレビッシュはこう述べている、「『北が考えること』を啓示された真理であるとして受け入れることはできない。私は北の思想にはすべて敬意を持っているが、しかしそれらは必ずしも額面どおりに受け取ってはならない。いつの日か、我々すべてが(北の人間も、南の人間も)、一定の共通基盤に到達するまで、ドグマや先験的な思考を放棄して、我々の問題の本質の探究に取りかかることが肝要である」と。プレビッシュもその内の一人に数えられる構造学派は、中心と周辺、すなわち先進国といわゆる「第三世界」は、相互に密接に関連してひとつの世界経済を形成し、それらの不均等性は国際貿易を通じて再生産されると説いた。彼らの後に登場した従属論者たちは、より進んで、先進諸国が進んだ道の後を第三世界諸国が辿っているのではなく、先進国の発展と第三世界の低開発は同時的な過程であり、世界資本主義システムに第三世界は強制的に組み込まれ従属させられているのだ、と論じた。後者で邦訳のある研究者の中には、例えばアンドレ・グンダー・フランク(彼は南米人ではないが)やテオトニオ・ドス・サントスといった面々がいて、彼らはマルクス主義的従属論者として分類されている。本書はラテンアメリカ学派の総括的な見取り図を提示するとともに、それらの限界点や課題を示し、今後の理論的貢献を展望している。新自由主義的世界観にとってかわるパラダイムが模索されているこんにち、本書が示唆するものは大きいと言えよう。


■ハイチの黒人奴隷革命の劇的成功を描ききった歴史的名著

ブラック・ジャコバン トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命
C.L.R.ジェームズ著; 大村書店; 5800円; 4-7563-2030-9; 2002.6

1991年の初版以来の増補新版である。今回増補されたのは、監訳者の青木芳夫氏の論文「ハイチ民衆史 一七九一−一九九一:トゥサンからアリスティドへ」(初出は1992年)だ。もともとこの訳書には、3種の地図や2種の年表のほか、石塚道子氏による解題「ジェームズ、ハイチ、カリブ・アイデンティティ」など、資料が充実しており、大著の手引きとなっていた。ファノンやセゼール、エリック・ウィリアムズらと並ぶカリブの代表的知識人であるジェームズの主著である本書は、原著が1938年に刊行されて以来、63年に新たな序文と補論「トゥサン=ルヴェルチュールからフィデル・カストロへ」が加えられて本文も改訂され、さらには80年にも新しい序文が付されて再刊された。ハイチ革命とその指導者トゥサン=ルヴェルチュールについて詳細に検証しており、単なる史実としてではなく、黒人たちや混血人たちが体験した生々しい「西洋からの解放」の諸過程を示した真実として、広く読み継がれてきた。フランスによる植民地主義の支配下にあった18世紀末のサンドマングにおいて、黒人奴隷たちはいかに白人への恐れを克服し、フランス革命の2年後に大規模な組織的叛乱をおこしたか。トゥサンの強力なリーダーシップのもと、彼らは12年間にわたり、フランス、スペイン、イギリスなど、度重なる列強の大軍勢を撃破した。ハイチ革命は「史上唯一成功した奴隷反乱」となり、世界初の黒人共和国が打ち立てられることになる。その苛烈なみちのりと史的背景を、叙事詩的な壮大さをもって記述したのが本書であり、本書以前にあったハイチ革命史はほとんどが少なからず西洋中心主義に毒され歪められた部分があったと言っていい。その意味で本書もまた「革命的」だったのだ。1802年、指導者トゥサンはフランス軍に捕らえられ、翌年獄死する。捕縛された時、彼はこう言ったという、「私を打破しはしたが、あなたがたはサンドマングの自由という名の樹の幹を倒したにすぎない。やがてふたたび根から幹が成長するであろう。自由は、いまやしっかりと無数の根をおろしているのだから」と。獄死の翌年、ハイチは独立した。先進国による帝国主義的搾取からのアフリカおよびアフリカ系人民の解放と独立を展望した本書の情熱的なメッセージは、いまも輝いている。


■ポストモダンにかんする議論を通覧的に総括した格好の入門書

ポストモダニティの起源
ペリー・アンダーソン著; こぶし書房; 2800円; 4-87559-170-5; 2002.4

イーグルトン(1943-)やジェイムソン(1934-)、ネグリ(1933-)らと並んで、マルクス主義の現在を代表する思想家であるアンダーソン(1938-)は、1998年(原書)に刊行された本書で、「ポストモダニティ」という思想の歴史的起源の空間的・政治的・理論的位置づけを明らかにしようと試みている。議論のきっかけになっているのは、ジェイムソンの著書『カルチュラル・ターン』(未訳、作品社近刊)だ。ポストモダン的文化現象をめぐる彼の数々の研究における分析を評価しつつ、アンダーソンは「史上かつてないほどの豊かな資本主義社会における支配的文化」としてのポストモダニズムの生成と構造の深層に迫る。通例、ポストモダンという用語はアメリカの建築家チャールズ・ジェンクスの発案(1970年代)に帰せられることが多いが、アンダーソンは、ヒスパニック文学の評論家フェデリコ・デ・オニスによる分類「モダニスモ/ポストモダニスモ/ウルトラモダニスモ」(1930年代)や、イギリスの歴史家トインビーが大著『歴史の研究』第8巻で普仏戦争(1870-71)以後を「ポストモダンの時代」と定義した(1950年代)こと等に注目するところから議論を開始する。ポストモダン的文化を論じる思潮は、文学や芸術の分野で目立っていたわけだが、それらが思想的な「お墨付き」を得ることになったのは、70年代後半のジェンクスの『ポストモダニズムの建築言語』(a+u、品切)、リオタールの『ポストモダンの条件』(水声社)、ハーバーマスの『近代――未完のプロジェクト』(岩波現代文庫)以来である。そうした来歴をおさらいしながら、アンダーソンはジェイムソンのポストモダニズム研究の業績を抽出し再検討を試みる。その中には、カリニコスの『アゲインスト・ポストモダニズム』(こぶし書房)、ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』(青木書店)、イーグルトン『ポストモダニズムの幻想』(大月書店)をはじめとする、論壇の様々な議論のおおまかな総括もある。スペクタクル化する消費社会の末路に現れた「ポストモダン的なもの」の正体とは何か。本書は「ポストモダン」という資本主義的イデオロギーを文化・芸術・経済・政治といった切り口から複合的に検証した、格好の歴史教科書であり手短な入門書である。好評シリーズ「こぶしフォーラム」の第5弾。


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