◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
2002年8月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
02年8月5日
■中国とチベットの広大な精神宇宙を詩で表現したフランス人がいた
セガレン著作集 6-1 碑
ヴィクトル・セガレン著; 水声社; 3000円;
セガレン著作集 6-2 頌/チベット
ヴィクトル・セガレン著; 水声社; 3000円;
待望の第2回配本は、セガレンの著書の中でもとりわけ有名な、エキゾチックな散文作品3編「碑」「頌」「チベット」を2分冊で収める。翻訳者はわが国における仏文学の重鎮である有田忠郎氏。装丁造本は菊地信義氏。これで悪かろうはずがない、と予断をもっていい組み合わせである。第1分冊は詩集「碑」を収める。詩集と聞くと興味を失う読者がいるかもしれないが、この点に関しては予断や偏見を持たない方がいい。「碑」は中国語通訳時代の作品で、1912年に私家版が81冊限定で出版された。ナンバリングされた1番目はクローデルに、3番目はドビュッシーに献呈されたという。1914年に出版社が再刊。本書ではこの1914年版が底本となっている。エピグラフにある通り、本書はクローデルに捧げられたオマージュである。そのクローデルには、フランスの駐日大使として活躍した最後の年の1927年に刊行された『百扇帖』という詩集があって、その邦訳(所収『クローデル詩集』ほるぷ出版、絶版)をご覧になったことがある方なら想像できるだろうが、『百扇帖』と同じように、『碑』の原文では縦書きの漢字と横書きのフランス語が対比的に使用されている。邦訳されてしまうと若干趣が変わるのだが、それでも雰囲気は伝わってくる。ちなみにセガレンがインスパイアされたのは、上海領事代理だったクローデルの1900年(および1907年)の詩集『東方の認識
Connaissance de l'Est』(「東方所観」と題され、『筑摩世界文学大系』第56巻に抄訳されている)である。
通訳として異文化に接するセガレンのスタンスは、大使クローデルの立場と違っている。異邦人のままに留まるクローデルの観察眼に比べ、セガレンの視線は異邦人たることを放棄しつつある何物かではないか。彼の著名な「方位なき方位」の思想は、中国の庭園にヒントを得たもので、この「碑」に収録された「中」の章に萌芽が読み取れる。第2分冊には彼の死後に発表された2作品と、資料編で、1910年12月から1915年7月までの書簡集と、渡辺諒氏によるセガレン伝「中国にて(1909年4月〜1914年8月)」を収録。2作品とは、1926年の小詩集「頌」と1963年の長編詩「チベット」である。前者は中国時代に『詩経』よりヒントを得て書かれたもので、後者はチベットの叙事詩に刺激されて書き継がれ、1919年にブルターニュの森で41歳で死ぬまでセガレンが手を入れていた未完の作品である。アヘン中毒による健康不全やら世界大戦やらその他の理由で、チベットを訪問することは生涯叶わなかったが、セガレンはチベットの精神文化に魅惑され、そこにニーチェの超人思想へ通じる高峰を見出した。彼の絶筆はそのようなわけで、献辞に「精神の絶巓の永遠の征服者」と彼が賞したニーチェに捧げられている。
■図書館所蔵の1953年手稿から、世界に先駆け翻訳刊行
カール・マルクスと西欧政治思想の伝統
ハンナ・アーレント著; 大月書店; 4500円; 4-272-43059-9
1990年代からのアーレント・ルネサンスにより、日本でも、しばらく絶版のままだった邦訳書が文庫化されたり、新訳が出たり再刊されたり、アーレントの著作はほとんど邦訳が出尽くしたように思われていたが、真実はそうでもない。アメリカとドイツでは今もアーレントの書簡集や草稿の活字化が活発に推進されており、アーレント研究はいまこそ新局面を迎えていると言っていい。本書は、アメリカのワシントンに所在する議会図書館所蔵の手稿より翻訳されたもので、いまだに本国でも活字化されていない貴重なものであり、1953年にプリンストン大学で行われたセミナーの草稿として分類されている。アーレントの草稿は誰でも自由に出版する権利があるそうで、これは研究の促進のためには重要なことだと思う。『全体主義の起源』(1951年)のあとに書かれたこの草稿は、ふたりの著名なアーレント研究家、カノヴァンとヤング=ブルーエルによれば、『全体主義の起源』と『人間の条件』(1958年)とを架橋するものであり、『過去と未来の間』(1961年)や『革命について』(1963年)といった著作も、このマルクス研究が基礎になっているという。刊行はされなかったものの、アーレント自身の研究生活にとって確実な進展を生み出した源泉とも言うべき、貴重な思索ノート群の邦訳が、本書なのである。
本書は二種類の草稿に分かれる。第二草稿の方は、プリンストン大学での高名なガウス・セミナー用の講演原稿だったようだ。彼女は端的にこう述べる。「われわれの政治思想の伝統が開始されたのは、あきらかにプラトンとアリストテレスの教義からであった。そして、この伝統はマルクスの理論においてあきらかに終わりをむかえた」と。マルクスにおける、哲学の揚棄と世界変革の思想は、「ヘーゲルを転倒させたというよりはむしろ、思考と活動、観想と労働、哲学と政治との間の伝統的なヒエラルキーを転倒させた」とも書いている。アーレントはマルクスについて論じることの困難さと意義を明瞭に整理し評価して、マルクス流の「歴史と労働」の視点を再検討しつつ、古代ギリシア以来の政治思想の伝統において見出された「人間」像を、捉え直そうとする。ブルーエルの分析に添って編者が指摘するように、本書は『全体主義の起源』の続きとして、「マルクス主義における全体主義的要素」の分析から出発したが、マルクスの労働観と歴史観の批判的再検討を通じて、西洋政治思想の全面的見直しへと駆り立てられ、『人間の条件』に結実する議論の豊穣な前哨地を用意することになったわけである。草稿ゆえに議論の重複や反復は避けられないが、かえって完成稿を読むよりはアーレントの思索の生成する現場を如実に窺うことができる。巻末に『ハンナ・アーレント・ニューズレター』の編集責任者であるヴォルフガング・ホイヤー氏の特別寄稿「日本語版の刊行に寄せて」を収録。なお、本書の原文は、上記の議会図書館のホームページから、ウェブ上での閲覧が可能なので、オリジナルを常時参考にできるというのもうれしい。研究する環境はこうした開かれた場であって欲しいものだ。
■伝記的情報、著書、主要概念、関連人物など、網羅的な入門書
ハイデガーの知88
木田元編; 新書館; 2000円; 4-403-25062-9
定評ある新書館のハンドブックシリーズの1冊だが、それにしても木田元氏はハイデガー関連の入門書としてこのところ、2001年8月に『ハイデガー本45』を平凡社から、同月に『思想読本・ハイデガー』を作品社から立て続けに編纂し刊行してきた。そこにこの1冊である。柳の下のドジョウが云々と意地悪を言う人もいそうだが、さすがにその辺は内容的な重複を極力避けるよう、住み分けが考えられている。しかし共通するものがあって、それは、それぞれに付与された宣伝文句を読み比べてみるとわかる。『ハイデガー本45冊』では、「西洋哲学のハードコアを読み解く」。『思想読本・ハイデガー』では「20世紀最大の哲学者は何を問題にしたのか」。そして本書『ハイデガーの知88』では「ハイデガーがわかれば、哲学史がわかる!」と。つまり、この三つの文章はつなげて読むことができる。前世紀を代表するもっとも深遠な哲学者は(サルトルでもドゥルーズでもデリダでもなく)ハイデガーであり、彼の思想がわかれば西洋哲学の核心も歴史的推移も把握できる、と。ハイデガーを読んだことがない読者にとっては「まさかそんな」という感想だろう。しかし上記の主張はあながちウソでもない。もちろんかなり四捨五入した見方ではあるが、英米の分析哲学やフランスのエピステモロジーや日本の京都学派などの系譜を除けば、ハイデガーの影響は現代思想において甚大だった。現在、創文社から刊行中の『ハイデッガー全集』は、将来完結すれば実に百巻以上になるが、近現代の哲学者でそこまで収集されるのは、彼をおいて他にいない。
本書は4部に分かれる。第I部は「生涯と時代」と題され、「フライブルク時代」「マールブルク時代」「『存在と時間』以後」「ナチスとハイデガー」「第二次大戦後」など12項目が立てられる。第II部は「思想の展開」であり、『存在と時間』から『現象学的研究入門』までの24点の著作や講義録を解題。第III部「キーワード」では、「現存在」から「放下」までハイデガー特有の20の概念が説明され、第IV部「哲学のコンテクスト」では、プラトンからデリダまで、31名の哲学者の紹介と、ハイデガーの各種評伝を総括する解説が収録される。巻末には詳細な年譜とブックガイドが付され、索引は人名と文献に分かれる。関連入門書としては最後発ゆえに、いっそう充実しており、執筆者も一様ではないから、以前の二つの入門書を購入した読者も本書を買わねばなるまい。ひとつだけ惜しむらくは、キーワードの説明で、原語表記のないものがあること。入門書だからそこまでは必要ないと言えなくもないが、ハイデガーはことさら「ことば」に拘泥する思想家であったがゆえに、その辺の配慮はあってよかった。ハイデガーの重要な術語はすでに改良の余地がないほど完璧に訳されているわけではない。今後もハイデガー読解はさらに続行されなければならない重要な知的作業と認められるから、本書のように24点もの著書を個別に解説したり、キーワードやキーパーソンの布置を示唆したりすることによって、多くの読者にとっては来たるべき未来の読解への門戸がさらに開かれるだろう。とりあえず、『存在と時間』の邦訳書と(できれば原書も)この入門書があれば、かなり面白い読書になるのではないか。
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02年8月19日
■デリダとローティの政治的差異がくっきりと浮かび上がる討論
脱構築とプラグマティズム 来たるべき民主主義
C.ムフ編; 法政大学出版局; 2000円; 4-588-00741-6
ラディカル・デモクラシー論の旗手であるシャンタル・ムフ女史が主宰した、1993年春のパリの国際哲学学院でのシンポジウム「脱構築とプラグマティズム」の記録である。小さい本だが、ジャック・デリダとリチャード・ローティの政治思想をめぐる重要な論点が提示されており、多くの示唆に富んだ必読書となっている。本書は7つの論考からなる。冒頭におかれているのは、ムフによる論文「脱構築およびプラグマティズムと民主主義」であり、議論全体を整理し、鳥瞰図を与えている。次にローティの「脱構築とプラグマティズムについての考察」が続き、末尾にはデリダによる、ローティのと同名の論考が収録されている。アメリカとフランスにおける二人の特異な思想家が、それぞれ民主主義をどう考えているか、またいかに政治と向き合うかという点で、互いを認めつつも微妙な距離感を率直に語っており、たいへん興味深い。ローティとデリダの論考のあいだには、ムフが招いた二人の思想家の論文が挟まっている。サイモン・クリッチリーの「脱構築とプラグマティズム――デリダは私的アイロニストか公的リベラルか」と、エルネスト・ラクラウの「脱構築・プラグマティズム・ヘゲモニー」である。二人ともどちらかと言えばデリダ寄りであり、脱構築の政治的効用を評価しているわけで、ムフの招聘はあまり公平とは思えないが、ローティはこの二人のコメントに対してそれぞれに応答を寄せており(これをカウントして全部で7論文)、あくまでも自身の政治的実感を明瞭に表明するローティの弁舌は見劣りのするものではない。むしろデリダ的韜晦になじめない読者にとっては、実に爽快なデリダ批判であろう。
ローティは要するに脱構築の政治的効用など認めないのだが、クリッチリーはデリダはローティの言うような単なるアイロニストではなく、倫理的にも政治的にも影響を及ぼす思想家だと分析し、むしろネオ・プラグマティストであるローティと自由主義とのかかわりに倫理的破綻はないかと疑問を投げかける。ローティの昨今の「愛国主義的」言説を知っている読者なら、クリッチリーの綿密な考証による指摘には頬が緩むだろう。また、ラクラウが得意のヘゲモニー論と脱構築をリンクさせるのを読むにつけ、ローティの痛いところをついてくるなと感じるかもしれない。ただ、クリッチリーとは異なり、ラクラウの立場は必ずしもデリダのみを持ち上げてローティを貶めているわけではなく、ラクラウはムフの同盟者として、デリダやローティの議論を自らの政治理論へと貪欲に摂取していることを誇示しているように見える。ローティにとってはデリダもラクラウ=ムフも同列に「政治を過度に哲学化している」と映っているようだが、デリダはラクラウ=ムフの民主主義観に必ずしもぴったりと合致できるわけではない。本書はまずデリダとローティの哲学的議論が政治といかに関わりあっているかを知るうえで非常に有効であり、二人の際立って異なる政治姿勢によってデリダ的難解さが説明的に緩和されているという点で必読書と言える。哲学者一般の万能主義(何でも議論できるということ)について極めて懐疑的な、ローティの態度に学ぶ点も多い。そして、さほど表立ってはいないが、二人の政治性にラクラウ=ムフのラディカル・デモクラシー論がどう絡んでくるか、そこを読み解くと、ヨーロッパとアメリカを横断するポスト・マルクス主義の潮流が見えてくる、という点でも、本書は必読に値する。なお、本邦初訳となるクリッチリーについて本書で特に解説されていないので付言すると、彼は1960年生まれのイギリスの現象学者で、主ににレヴィナスとデリダの思想を導きの糸に、倫理学への独特のアプローチを続けている注目の若手だ。エセックス大学哲学教授。いずれも未訳だが、『脱構築の倫理――デリダとレヴィナス』『倫理-政治-主体』『大陸哲学』などの著書がある。
■自伝的エッセイを含む、現代の代表的プラグマティストの信念
リベラル・ユートピアという希望
リチャード・ローティ著; 岩波書店; 3200円; 4-00-025556-8
「哲学と社会的希望」と題され1999年にアメリカで出版された論文集を、著者自身が新たに編み直したヴァージョンの邦訳である。原著の約三分の一にあたる10論文が割愛され、911のテロ事件後に書き下ろされた「日本の読者に」という巻頭言が付されている。本書は4部に分かれ、「日本の読者に」と「はじめに」「序」「あとがき」を加えると14のテクストが収録されている。いずれも90年代に書かれたものだ。第I部は「トロツキーと野性の蘭」と題された自伝的エッセイを収録し、第II部「知識の代わりに希望を――プラグマティズムの一形態」では前節の自伝を引き継ぐようにして、ジョン・デューイに啓発された自身の思想の根幹を3つの論文で提示している。第III部「プラグマティズムの適用」では、3つの論考――宗教論、トマス・クーン論、ハイデガー/ナチズム論――が収められ、第IV部「政治」では、グローバル時代における民主主義とユートピアをめぐる3論文を収録。本書の前年に原著が刊行された『我々の国を完成させる』(邦訳『アメリカ 未完のプロジェクト』晃洋書房)などの著作で、ネオリベラリズムに与する愛国主義者ではないかとも指弾されたローティだが、彼の主張はそれほど単純なものではないということが、本書を一読すればわかるだろう。そのもっとも端的だが複雑な表明は、自伝的エッセイにおいて見える。「一般にわれわれデューイ主義者は、アメリカについて感傷的なまでに愛国者である。つまり、アメリカがいつなんどきファシムズに陥るかもしれないと認めるのにやぶさかではないが、その過去については誇りを持ち、その将来については慎重ながらも希望を抱いている」。彼はやはり「愛国者」ではあるが、年来唱えているようにファシズムではなく「人類の連帯」を目指しているのであり、民主主義には希望を持ちうる未来があると主張しているのだ。もっとも論争的なのは、その歴史観だと言えるだろう。ローティの思想を誤解したり「悪用」しないためには、まず本書を注意深く読む必要がある。
■こんにちの民主主義において、「左翼」思想とはいったい何か
偶発性・ヘゲモニー・普遍性 新しい対抗政治への対話
ジュディス・バトラーほか著; 青土社; 3200円; 4-7917-5957-5
ジェンダー/セクシュアリティ論の旗手ジュディス・バトラー、南米出身のポスト・マルクス主義の論客エルネスト・ラクラウ、スロヴェニアのラカン派マルクス主義者スラヴォイ・ジジェク、といったこんにちの英米語圏を代表する思想家3名が、ポストモダンの現代における民主主義のラディカルなありようを考察し、ヘゲモニーや普遍主義、政治的主体などの問題をめぐって活発な議論を交わしたのが本書である。しょっぱなから通約不可能なそれぞれの問題提起に始まり、各3回ずつ発言している。各人の論点がすでに重層的である上に、三者三様の議論が重なり合い、かなり高密度な書物になっている。ただし、以下のようないくつかの明瞭な参照項があるので念頭におくといいかもしれない。まず最初に、議論のきっかけにはラクラウ=ムフの共著『ヘゲモニーと社会主義の戦略』(邦訳『ポスト・マルクス主義と政治』大村書店)があり、彼らのラディカル・デモクラシー論が前提にあるということ。これが第一の参照項である。第二には、ヘーゲルとマルクスがある。強いて第三の参照項を挙げるとすれば、ラカンとフロイトだが、これは第二項との関連においてのみ有効である。ラクラウは興味深いことに次のように三者の関係を言い当てている、「わたし(ラクラウ)はジジェクと組んでバトラーに対してラカン理論を擁護し、バトラーと組んでジジェクに対して脱構築を擁護し、バトラーとジジェクは互いに組んで私に対してヘーゲルを擁護している」と。ほとんど喜劇のような三つ巴だが、ラクラウは「逆説的にも、この同盟関係の行き詰まりこそ、わたしたちの対話のいちばんの成果である」とも述べている。ジジェクの相変わらずの毒舌に目がくらんでいると、バトラーの反論やラクラウの整理が見えにくくなってしまうが、一言で言うならば、本書の面白さはラクラウとバトラーによるジジェク批判にある。もちろんジジェクは彼らの反論をあっさりとはねつけ切り返すのだが、ジジェクのペースに巻き込まれず、自説を展開しながらきっちりと批判していく姿勢は注目すべきだろう。ジジェクの本を読んで「納得していないわけじゃないんだけれど、なんだかだまされている気がする」と感じている読者には本書はうってつけの贈り物である。三者の議論を通じて、こんにちの最先端の左翼思想の議論のありかがわかる。
■誰が「全体主義」という言葉を使用しているかを見れば世間がわかる
全体主義 観念の(誤)使用について
スラヴォイ・ジジェク著; 青土社; 2800円; 4-7917-5963-X
現代思想界のケンカ家ジジェクが2001年に出版した『誰か、全体主義と言ったかい?――ある観念の(誤)使用に対する5つの介入』の邦訳が早くも出た。ドゥルーズ=ガタリ以来の知的インパクトと賞されるジジェクの著書のほとんどは、青土社から同時代的に翻訳されている。単著としては本書のあとには911テロ事件を論じた小論文『現実界の砂漠へようこそ』(邦訳所収『現代思想』2001年10月臨時増刊号:総特集=これは戦争か、青土社)が出版されているが、よりまとまった一冊としては本書が最新作となる。本書はこんにちの自由主義陣営が、ラディカルな知識人を「全体主義」呼ばわりすることに対しての、大々的な反論である。正確に言えばそうした名目において書かれた、ジジェクによる現代思想批判である。さらに突っ込んで言えば、ありうべきジジェク批判にあらかじめ先回りして答えた、用意周到な自己弁護の書である。例えば第5章において、ジジェクはカルチュラル・スタディーズ批判を敢行するのだが、こうした彼の態度はジュディス・バトラーによってすでにこう批判されている、「彼は脱構築や歴史主義やカルチュラル・スタディーズを一緒くたにして、それよりも上位に、それらに敵対するかたちで、哲学を価値づけようと」している、と(『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』青土社刊)。バトラーはまったく正しい。しかしそれが彼の明白な戦略なのだ。本書におけるカルスタ批判では、批判対象となる個人名がいっこうに挙がらない。いったい誰の何を弾劾しているのか。ジジェクはつまり「時代の雰囲気」を巧みに捉えて、そこに充満する「不穏な空気」を弾劾しているわけで、その辺に気づかないとジジェクのスリリングな論理展開にはついていけない。例によってフロイト=ラカン理論を駆使しながら、また、『トゥルーマン・ショー』や『マトリックス』『ガタカ』『007』など数多くの映画批評を彼特有の文化理論の参照項として掲げながら、こんにち全体主義とは本来的に何であるか、ザクザクと掘削機のように論じ進んでいく。ものすごい勢いの無制限なオシャベリであり、同時代のある知識人からは「ほとんど無意味」となじられつつも、なおも語りやまないこのヴァイタリティは、本書ではじっさい無内容どころではなかった。第2章、第3章に素描されている卓抜な、ナチズムおよびスターリニズム批判は特筆に値する。一見目障りで倒錯的な感じがする彼の議論は、実際に全体主義であるものと、全体主義であると見誤られているものとの峻別をうながす。「リアリズム」――事物を「現実通りあるがままに」とらえること――は、最悪のイデオロギーなのだ、とジジェクは言う。あるがままという、本当はみせかけの虚構ほど怖いものはない、と彼は警告するのだ。
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02年8月26日
■猥褻文学の政治的科学的変遷に見る、西欧近代の文化的起源
ポルノグラフィの発明 猥褻と近代の起源、一五〇〇年から一八〇〇年へ
リン・ハント編著; ありな書房; 6500円; 4-7566-0274-6
抜群に面白い本だ。西暦1500年から1800年までの3世紀にわたる近代ヨーロッパ初期におけるポルノグラフィ(その多くは発禁本だった)の歴史的変遷を多角的に究明したアンソロジーである本書は、1991年秋にペンシルヴェニア大学で開催された「ポルノグラフィの発明」をめぐる学会の記録である。編者であるハント女史による総論的「序章」を含め、合計10編の論考から成る。ハントはこう述べる、「ポルノグラフィは、出版文化、科学や自然にかんする新しい唯物論哲学や既存の体制がもつ権力にたいする政治的攻撃と結びついていたため、民主主義的な含意を発展させた」と。本書の第一部は「初期の時代における政治的文化的意味」と題され、イタリア・ルネサンス、17世紀フランス、王政復古期イングランドにおけるポルノグラフィの文化と政治との関係性を3人の学者(フィンドレン、ドシャン、ウェイル)が論じる。暴れまわる男根や貪り食う女陰というイメージ、また、淫婦や売春の隠喩など、政治の風刺とポルノグラフィ的表現は近しい関係にある。第二部「哲学的形式的特質」では、17世紀後半以後の唯物論的科学革命の時代におけるポルノグラフィ的表現の機械論的変化を分析したジェイコブ論文と、18世紀フランス文学における猥褻語の諸相を概観したフラピエ=マジュール論文を収録。第三部「18世紀の恵まれた条件」では、啓蒙主義時代の英仏における自由思想とポルノグラフィの相関的発達について、ノーバーグとトランバックが論じる。さらに、メインハルトはオランダ共和国の政治を背景に、編者ハントはフランス革命と絡めて、それぞれポルノグラフィの歴史を考察。ヨーロッパ近代の歴史的発展に影のように寄り添ったエロティシズムの文化を理解する上で欠かせない必読文献である。小説の挿絵や版画など、図版を多数収録。学術論文集ではあるが、読み物としてもこのうえなく面白い。本書を読了後は、たとえばサドの小説を読むにしても今までとは見え方が違ってくるだろう。単なるポルノ小説だと言ってあなどれなくなること請け合いである。
■世界宗教から無神論まで、宗教の本質と信仰の自由を丁寧に解説
娘と話す宗教ってなに?
ロジェ=ポル・ドロワ著; 現代企画室; 1000円; 4-7738-0206-5
好評の「子供と話す」シリーズ第三弾。例によって親子の対談形式で、簡明かつ概論的にテーマを解説していく。ドロワは『暮らしの哲学』や『虚無の信仰』などのベストセラーで知られるフランスの哲学者。後者は西洋における仏教受容を分析した重要作だ。本書では、娘の質問に答えて、「パパ」がまず宗教religionの語源から語りはじめ、ラテン語の二つの単語「結ぶ」「読み直す」が起源になっているという説があることを紹介。神と人間とを「結ぶ」ものであり、結ぶための儀式作法を厳密に「読み直す=なぞる」ことが重要だったと説明。続けて、宗教における「聖と俗」「狂信と寛容」を語り、宗教と政治、新教の自由について説明。章があらたまって、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教や、ヒンドゥー教、仏教などの個別の解説に進み、無数に宗派が存在することに留意しながら、諸宗教の根っこはひとつであるという説や、一枚の大きなパズルの断片が個々の宗教だという説、さらに不可知論や無神論についても言及していく。専門書的なかたくるしさがない分、触れられる話題は限られているが、フランスでもそうであるように日本でも公立学校で宗教教育があるわけではないから、本書に書かれてある程度の知識は、親としても、また学生としても身に付けておいた方がいいということだ。基本中の基本を教える本書に書かれてあることすら、現代の日本人のほとんどは知らないのではないだろうか。解説は中沢新一氏による「宗教はほんとうはもっと面白い」。続刊予定には、タハール・ベン・ジェルーンによる「イスラム」や、ジャッキー・マムーによる「人道援助」などのタイトルがエントリーされている。
■日本の歴史認識問題に鋭く切り込んだ、海外からの視線が教えるもの
批判的想像力のために グローバル化時代の日本
テッサ・モーリス=スズキ著; 平凡社; 2400円; 4-582-70235-X
オーストラリア在住のすぐれた日本研究家による、90年代後半から2001年にかけて雑誌等で発表された9つの時事論文と、最新インタビュー1編をまとめたのが、本書である。日本研究のジャンルでは、ハリー・ハルトゥーニアンやテツオ・ナジタ、マサオ・ミヨシらと並んでわが国でも著名であり、オーストラリアにおけるカルチュラル・スタディーズの学際的シーンでも、イエン・アング、ガッサン・ハージ、エリザベス・グロス、エルスペス・プロビンらと同様、活発な発言力で知られている。イギリス生まれの彼女がスズキという姓を持っているのは、かの「常打ち博徒」森巣博氏との婚姻によるものだ。彼女はこれまでも『日本の経済思想』(岩波書店)や『辺境から眺める』(みすず書房)などで、日本の近現代史に対する卓抜な観察力を発揮してきた。海外の知的視線と日本の状況とが接続され、双方の図式がより明瞭になる。そうした刺激と興奮をもたらしてくれるのが本書である。第一部は彼女の思想的スタンスがわかる入門的な著者インタビュー「誰が語るのか」であり、第二部は歴史教科書や加藤典洋『敗戦後論』、石原都知事、天皇制、移民と市民権などをめぐる諸問題に顕在化している日本のナショナリズムについての6つの考察を収める。グローバリセーションとデモクラシーの現在を扱う第三部では、911と原理主義、記憶と記述、内なる多文化主義といった問題系をタイムリーに論じる。キーワードは「批判的協働」と「越境的対話のフォーラム」である。知識人たちの対話のすれ違いの数々を振り返りながら、彼女は、圧力なしに発話可能な「会話」の空間を創出せねばならない、と強調する。「批判的ディスコースが、調停の見込みのない破片として自壊することなく、差異ある見解としてぶつかり火花を散らし合う、そういった空間の創成が何よりも重要である」と。混乱した現代日本の言説空間において、彼女の明晰で冷静な文化分析はひときわ輝いている。
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