◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
2002年9月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
[02年9月2日]
■戦後現代美術のキーワードとキーパーソンを網羅したハンドブック
現代美術を知るクリティカル・ワーズ
暮沢剛巳編; フィルムアート社; 2000円; 4-8459-0236-2
「現代思想、映画、音楽、政治を横断……最新アートを読み抜くキーワード283」というのが本書のセールス・ポイント。1950年代から10年ごとの区切りで、60年代、70年代、80年代、90年代におけるキーワードとキーパーソンを事典風にピックアップ。コンパクトにまとめられており、美術出版社より先般刊行された『20世紀の美術と思想』と併せ、必携のハンドブックである。それぞれの年代は次のように分節される。「ヨーロッパからアメリカへ、抽象表現主義を中心とする50年代」「カウンター・カルチャーの衝撃、ポップ・アートとミニマリズムが台頭する60年代」「コンセプチュアル・アートと悪趣味、オルタナティヴを求めた70年代」「ポストモダニズムの対等、速度と盗用のシュミレーショニズムへの80年代」「マルチカルチュラリズムとヴァーチャル・ミュージアムの90年代から現代へ」。それぞれの時代のアート・シーンのアウトラインを説明するイントロ論文に続いて、様々なキー・コンセプトやムーヴメント、アーティスト、グループ、批評家、思想家が相互参照的に解説される。このほか、現代美術に特徴的なトピックを取り上げたコラムや、巻末に「ひとめでわかる現代美術の流れ1950-2000」と題された年表と、年代ごとに腑分けされた参考文献が収録されている。題名通り「クリティカル(批評的)」な視点に貫かれた入門書だ。編者の暮沢剛巳氏はさいきん広済堂出版から『美術館はどこへ? ミュージアムの過去・現在・未来』と題された第一評論集を刊行した気鋭の若手評論家として注目されている。
■マクルーハン以後、もっとも問題提起的なメディア論の出現
レジス・ドブレ著作選 4 イメージの生と死
レジス・ドブレ著; NTT出版; 5500円; 4-7571-0072-8
ドブレの提唱するメディア学の新展開「メディオロジー」理論の姉妹篇であり、ドブレ著作選の第4巻。日本人にとって、ドブレは2つの顔を持っている。すなわち、60年代後半から70年代にかけてさかんに邦訳紹介された、中南米におけるゲリラ的革命家としての彼であり、90年代後半以後から紹介され始めたメディオロジー理論家(メディオローグ)としての彼である。80年代を挟んで、彼はほぼ20年近く、日本ではほとんど等閑視された左翼知識人だったものの、近年来日を果たすほど再注目されている。本書は92年にフランスで刊行されたもので、原題は「イマージュの生と死――西洋における眼差しの一歴史」。イメージの時代をメディオロジー的観点で三つに区分し、それに準じて三部構成となっている。すなわち、古代から中世までの時代の、文字の発明から印刷術の発明に至る、「偶像」の世界である言語圏(ロゴス圏)、近代における印刷術からカラーテレビに及ぶ「芸術」の時代としての文字圏、20世紀後半以降の「ビジュアル」の時代に対応する映像圏である。これら三つのメディア圏は別々の法則を持っているから、混同してはならない、と著者は警告する。偶像は土着的で、ギリシア語によって理解され、芸術は西欧的で、イタリア語を母語とし、ビジュアルは世界的で、アメリカ英語で理解される。それぞれは、神学、美学、経済を反映する、と説かれる。古代から現代に至るイメージの変容を、美術史や技術史、宗教史などを学際的に横断しつつ記述したこの大著は、大胆な分析と洞察に溢れ、警句と未来予測を読者に提示する。マクルーハン以後、もっとも刺激的なメディア論であることは間違いないだろう。なお、本書と同時期に現代企画室から『娘と話す国家のしくみってなに?』が刊行されている。日本人にとってのドブレの「空白の80年代」に、彼はミッテラン政権下の要職についていたが、その頃の経験に基づく政治的実感が読み取れるだろう。
■間違いなく最高のピカソ論、オールカラーで楽しむ迫力の70作品
ピカソ、ザ・ヒーロー
フィリップ・ソレルス著; 書肆半日閑 / 三元社;
7800円; 4-88303-089-X
フランシス・ベイコン論、セザンヌ論に続いて3冊目となる、ソレルスの画家論の邦訳である。前2作ともそれぞれ画集としても楽しめる大判だったが、本書もピカソのダイナミックな絵画70作品をフルカラーで収録。ベイコンもセザンヌも確かに偉大な「革命的画家」だったが、やはりその生涯における変遷において、ピカソほど大胆な革命家はいまい。ソレルスは本書のエピグラフにピカソの以下のような言葉を大きく掲げている、「絵画とは感性の問題ではない。権力を奪取しなければならないのだ。自然に取って代わらなければならず、自然が提供する情報に左右されてはならない」。ソレルスの自由闊達なエッセイは、訳者が「つきあいを重ねるにつれて、彼の息遣いのリズムのようなものを多少は感じ取れるようになった」ようだと書いている通りの訳文の出来具合で、彼の尽きることないお喋りを読み進めるのが楽しい。『アヴィニョンの娘たち』や『ゲルニカ』に言及しながら、彼はこう述べる、「この30年間を通じて、ピカソは変革しつづける。それが彼のリズムなのだ。(……)ピカソは、実際、無限主義者である。数学的に。肉欲的に。絵画的に。彼が書く人物たちは無限という帽子を被っている。それが彼らの習わしなのだ」。「なにひとつ予想通りには進まなかった。ピカソは1907年には革新的であった。1937年にもまだそうであった。1970年と1972年には何百倍もそうなる」。ピカソが90歳の折に描いた作品『若い画家』を、本書のしめくくりに取り上げるソレルスの筆致は、感動的ですらある。彼の画家論の中で間違いなく最高傑作だ。
■父子関係をめぐるトラウマのありかを暴露する手紙を含む草稿集
カフカ小説全集 6 掟の問題ほか
カフカ著; 白水社; 4300円; 4-560-04706-5
カフカ自身の手稿をもとに編まれた新校訂版全集から小説部門を完訳した「カフカ小説全集」の最終巻。マックス・ブロートによって「整理」されたテキストではなく、この小説全集で、より「生の」カフカに近づけることになった。最終回配本であるこの第6巻は、カフカが結核で倒れ、人生の節目を迎えた1917年秋から1924年の死去までのノート、草稿、断片をすべて収めている(なお、1917年秋以前の草稿類は小説全集の第5巻に収められている)。本書のタイトルに掲げられた「掟の問題」は、1920年8月から12月にかけての創作ノートの中の一節。かの『審判』の中の一エピソードである「掟の門前」を思わせるが、こちらはほんの断章であり、直接的な関連性はない。この草稿集には、『断食芸人』『ある犬の研究』『夫婦』『巣穴』『小さな女』『ヨゼフィーネ』などの晩年作のノートや異稿のほか、数々の断片やアフォリズムなどがこと細かく収められているが、なにより読者を戦慄させるのは、1919年11月、彼が36歳の折につづった「父への手紙」である。長文という以上にいつ果てるとも知らないこの手紙でカフカは、昔から徹底して威圧的に子供と接し、絶えず不条理な強権を振り回してきた父への、不満やいらだち、抗議や悲嘆を延々と書き記し、いかに自分が惨めな自虐と自己不信に縛られているかを切々と訴え、堰き止めてきた感情を思い切りぶちまけている。この手紙は母親に渡され、彼女の配慮で結局父親の目に触れることはなかったが、カフカの小説全体を彩る暗いトーンのおおもとの淵源がたしかにここにあると直観させる生々しい手紙である。例えば『判決』(1912年)という短編でカフカは父の絶対的命令のもと、入水自殺する息子を描いた。カフカの小説において、父とは神聖な法を体現する至上にして不可解な存在の記号であるが、この根深い悪夢のような不条理の個人的真相が、まさにこの手紙で明らかになる。読み通すにはあまりにも切ない手紙であり、そのおぞましい幼さというか父子関係の歪み(かといってそれほど奇特な家庭状況とも思えないが)によって、カフカの小説世界を神秘化するヴェールがはがされたような気分になる。手紙であるにもかかわらず小説部門に収録されたのも頷ける。作品と人生は同一のものではなくても、まったく別個のものであるわけでもない。おそらく本「小説全集」でもっとも暗い最深部がこのような無防備なかたちで公開されることになろうとは、衝撃的ですらある。途切れとぎれの断片が多い中、長くまとまったテキストはカフカの強い意志を感じさせる。すべての断章を含め、本書は作家の苦悩と執筆の苦闘、諦念や挫折を反映している。カフカの作品は様々な思想家が分析の対象にしてきたが、これらの断章はそれ自体が思想の「原石」として読み手の胸に突き刺さる重みをそなえている。
[02年9月9日]
■分かったつもりで使っていた術語をあらためて見直してみる
完訳キーワード辞典
レイモンド・ウィリアムズ著; 平凡社; 3200円; 4-582-83118-4
1983年刊行の原著第2版の完訳である。初版の邦訳『キイワード辞典』(岡崎康一訳、晶文社、1980年)の品切から長い時間が経っていただけに、ようやくこのイギリス・マルクス主義批評の古典的名著が再び読めるようになったことを喜びたい。ウィリアムズは周知の通り、イギリスのニューレフト(新左翼)を牽引した知識人として知られている社会思想家・作家・演劇研究家であり、カルチュラル・スタディーズ(CS)の牙城であるバーミンガム大学現代文化研究所の初代所長R・ホガートや、歴史家のE・P・トムスンと並び、CSの先駆者と見なされている。本書は、世代や家庭環境や社会関係などによっておのずから異なる無意識的な「言葉遣い」の違いに着目し、辞書的権威に依存せず、文化の歴史的動態を反省するためのメモランダムとして、1976年に出版された。この初版では110の最重要術語について、語源から意味の変遷までを解説する。本書の底本である第2版では21の術語が追加された。著者自身の説明によれば、本書は「わたしたちが『文化』と『社会』として分類するさまざまな実践と制度について、英語で行なう、きわめて一般的な議論において共有されている言葉と意味の集合体」である。これらの術語群が「キーワード」と名付けられたのは2つの意味があるという。「ひとつは、これらの言葉がある種の活動とその活動の解釈を連結する重要な言葉になっているという意味」であり、「二つめは、これらがある思想形態において、重要で暗示的な言葉であるという意味」である。本書はもともと彼の著書『文化と社会』(ミネルヴァ書房、品切)の付録として構想されたものだったが、20年以上にわたる収集と研鑚、選択によって一冊の本となったわけである。議論する際に一般的によく使う言葉でも、その意味内容が話者の間でかならずしも同一ではない場合、同じ語彙を使っていながらしばしば話者同士の意味付けの違いによって議論が錯綜してくる、といった事態はしばしば起こるものだ。本書が刊行後数十年を経ても古びないのは、収録された語彙が一過性の流行語ではなく、長い歴史を持つ基本的術語だからであり、それらの言葉の来し方についてじっくりと調査したためだろう。こうした研鑚は生半可にできるものではないし、類書がありそうで無いのはむしろ本書の成果が得がたいものだからである。アルファベット順に配列されており、例えばTで始まる項目なら、taste(趣味・審美眼・味・嗜好)、technology(テクノロジー・科学技術)、theory(理論)、tradition(伝統)といった語彙が収録されている。それぞれの言葉は常に別のキーワードへと参照されており、一種の思考マップとでも言うべき体裁である。ウィリアムズの業績を再評価する丁寧な「訳者あとがき」と、興味深い「参考文献」など、読者の便への配慮もうれしい。必読書である。
■強靭な精神力に支えられた鏤骨の詩篇、待望の再刊
ルネ・シャール全詩集
ルネ・シャール著; 青土社; 7800円; 4-7917-5985-0
1999年に刊行された初版はほどなく品切になった。詩集で、なおかつけっして廉価な本ではないにもかかわらず、である。シャールは南仏出身の詩人で1907年に生まれ、1988年に没した。シュルレアリズム運動とかかわったのち、戦時中には対独レジスタンス運動の闘士の一人だった。多くの一流作家や芸術家、思想家と交流があり、中でも戦後のハイデガーとの交流という興味深いエピソードもある(1955年、1966年)。底本はシャール自身が生前に決定版と認めた1983年のプレイヤード叢書『ルネ・シャール全集』であり、1995年に刊行された改訂版に収録された二つの詩集『ヴァン・ゴッホのあたり』(1985年)と、『疑われる女への賛辞』(1988年、死後出版)も訳出されている。情熱と静寂、闘争と休息――シャールの詩世界の振幅は劇的であり、人間性の深みと飛翔を感じさせる。シャールにとって詩とは何だったのだろうか。いくつかの詩片を拾ってみる。「詩は、欲望のままの欲望の実現された愛だ」「詩人であることは、それが行きつくところまで行くと、存在し予感される事物の総体の渦の中で、終わる瞬間に、至福を引き起す不安への欲求を持つことだ」「証明の崩壊のたびに、詩人は未来の祝砲で答える」「詩は、あらゆる澄んだ水の中で、自分の橋の像に最もこだわらない水だ。詩、再び名づけられた人間の内部の未来の生」「嵐の最も激しい時に、私たちを安心させるためにいつも一羽の鳥がいる。それは未知の鳥だ。それは飛び立つ前に歌う」「詩、死者たちの太陽が、完全で滑稽な無限の中で、暗くすることのできない、人間たちのただ一つの上昇」「詩は万人の危険に立ち向かう(……)それは肉体的な死に明らかに打ち克つ唯一のものだ」「私たちを豊かに表現する、薄暗がりの同じ対象を名づけながら、毎回もっと前へ、もっと裸になって進む天賦の才、それは文字通り〈生命を取り戻すこと〉だ」。これらはシャールのほんの一面に過ぎない。この一冊の中にいったいいくつの泉と森があるのだろう。訳者による詩人の作品と生涯についての解説、略年譜、書誌リストなども過不足なく充実している。本書に含まれなかった散文集『基底と頂上の研究』(初版1955年、増補版1965年)の邦訳が待ち遠しい。
■墓に始まり墓に終わる、幻想的な詩論・芸術論集の深い味わい
ありそうもないこと 存在の詩学
イヴ・ボヌフォワ著; 現代思潮新社; 4600円; 4-329-01014-3
フランスの高名な詩人であり批評家による第一評論集の、ようやくの邦訳である。原著初版は1959年刊で9篇のエッセイが収録されていたが、1980年には19篇を加え、大幅に増補された。この後者の版が底本になっている。本書の一部はかつて『第二の単純性』(平井照敏訳)として思潮社から1970年に刊行されていたが、現在は絶版、ひさしぶりの新訳となる。ボードレールやヴァレリー、セフェリスなどを扱った詩人論や、「詩の行為と場所」「フランス詩と自己同一性の原理」といった卓抜な詩論、サド研究家レリーや哲学者シェストフを論じたエッセイ、バルテュスやR・ユバック、J・ヴィヨン、G=L・ルー、ジャコメッティなどの同時代の芸術家や、ドガ、イタリア15世紀絵画、バロック建築その他を取り上げた芸術評論、いくつかの旅の覚書まで、盛りだくさんである。特に、画家ユバックについては繰り返し触れており、交流が窺える。ボヌフォワの高密度な文体は、阿部良雄氏をはじめとする信頼できる研究者によって破綻なく日本語に移されている。格調高いエッセイを読むための「心地よさ」を提供してくれる流麗な訳文というのは、そうそうあるものではない。本書はそうした安定感を達成しているだろう。中でも冒頭のエッセイ「ラヴェンナの墓」は、故・宮川淳氏によるもので、ボヌフォワの評論では日本でもっとも早く訳されたものだ(『ボンヌフォワ詩集』所収、思潮社、1965年、品切)。哲学者は死については考察してきたが、墓については思索していない。そうボヌフォワは書く。「いまここに、仕える偉大な石がある、それなしにはすべてが悲惨と恐怖の中に亡んでしまっていたことだろう。ここに死を怖れない生(私はここでヘーゲルを揶揄しているのだ)があり、死の中においてまで自らを取り戻す生がある。それらを理解するためには、概念とは別の言語が、もうひとつの信仰が必要だ。概念はそれらの前で沈黙する。理性が希望の中で沈黙するように」。この旅の覚書は、夢とうつつのはざまをさまようように書かれたもうひとつの旅(と夢)の記録、すなわち「七つの火」と題された、掉尾を飾るエッセイと響きあう。あまりにも鮮やかな「現実の輝きを帯びていた夢」を書き記したこの上なく美しいテクストの最後には、こう刻まれている、「アレクサンデル七世の墓の《真実》――息を吹きかけられた炎のようにふたたび立ち上がる真実――の彫刻家ベルニーニの思い出に、七つの火の煙の中を行く、外界へのこれらの歩みが捧げられんことを」。ボヌフォワは冒頭の墓論でも、「墓の石は立ち上がる自由である」と論じていた。墓に始まり墓に終わるこの評論集は、詩的なものと美的なものの結晶化をめぐって、ふたつの幻想的なエッセイによってふんわりと閉じられた、一幅の魅惑である。タイトルにある「ありそうもない」ものの奇跡的存在を捕捉する著者の感性の鋭さは、甘美な読書のひとときを与えてくれる。
[02年9月17日]
■「極上のパノラマ特等席」から魅せる、ヴィジュアル文化の近代
表象の芸術工学(神戸芸術工科大学レクチャーシリーズ)
高山宏著、鈴木成文監修、工作舎、A5判 /
307p、ISBN:4-87502-364-2
発行年月:2002.9、本体価格: \2,800
視覚文化論の鬼才が神戸芸術工科大学で2000年に通年で行った講義の再編集版である。毎回三時間ぶっ続けで行われ、配布される資料も常にA3判で数十枚に及んだという講義は、全部で13回。高山ワールドの一大パノラマともいうべき講義録である。博覧強記ぶりを惜しげもなく存分に開陳した怒涛のライブとして、全11章にまとめられている。デザインを専攻する大学院生向けに、古今東西の視覚文化を通じて、表象とは何か、デザインとはそもそも何かを、豊富な図版を示しつつ縦横に語った。江戸文化、マニエリスム、ミシェル・フーコーの18世紀表象研究、E・A・ポーの小説世界、英国式庭園、グロテスクなもの、百科辞典、コレクション文化としてのヴンダーカンマー、エンブレム、インテリア・デザイン原論、デザイン・スタディーズ……おそるべきスピードで膨大な参照項が拓かれていく。本のなかほどにある60頁以上の「ヴィジュアル・ページ」や、巻末の参考文献も楽しい。一度「生」で講義を聞いてみたいと思わずにいられなくなる。神戸芸術工科大学レクチャーシリーズは、本書で5冊目。既刊書の『円相の芸術工学』『「めくるめき」の芸術工学』『「ふと…」の芸術工学』『「まだら」の芸術工学』もみなすべて素晴らしい内容だ。装丁・造本は、杉浦康平氏の絶妙なアート・ディレクションによるもので、手に取るだけで喜びを感じる。本書を含め、5冊まとめ買いしてもまったく損はない、出色のシリーズである。
■古代ギリシア世界にさかのぼり、真理を語ることとは何かを問う
真理とディスクール パレーシア講義
ミシェル・フーコー著; 筑摩書房; 2800円; 135.57;
02043345; 4-480-84712-X
エイズによる死去を目前にした1983年秋、フーコーはカリフォルニア大学バークレー校で「ディスコースと真理」と題された全6回の連続講義を行った。テーマは「パレーシア(真理を語ること[ギリシア語])」。その講義録が、本書である。真理を語ることとはどのようなことか。エウリピデス悲劇、アテナイの民主制における言論の力、ソクラテスの生とパレーシア、エピクロス派、キュニコス派、プルタルコス、ガレノス、セネカ、エピクテトスなどが取り上げられ、古代ギリシアにおけるパレーシアの様々な質とその変遷が分析されている。フーコーは単なる歴史研究を開陳しているのではない。真理を語る主体とは何か。その主体は、どのような切り口で語り、どのような社会的影響力があるのか。真理を語ることと権力との関係はどのようなものか。そうした問いは、戦後フランスにおける政治と知とのせめぎあいにおいて、フーコーが意識的に追究してきた当のものであった。問いの眼目が、真理とは何か、ではなく、「真理」とされるものを語る立場のあり方と効果とは何か、という点にあることが、重要である。自己と真理との関係性が問われているのであり、西洋におけるそうした「批判的問い」の系譜がたどられる。それは現代哲学の根源的系譜の探索であり、同じギリシア哲学を扱っているにせよ、ハイデガーとは非常に異なるアプローチと言えるだろう。パレーシアとは「率直に語ること」「すべてを語ること」でもあり、自由な言論をも意味する。「発言の自由の問題は、個人の存在にかかわる問題、個人の生き方の選択にかかわる問題」であり、その言論は社会に益をもたらすことも、害をなすこともできる。現代における自由な言論の可能性と、知識人としてのおのれを見据える、フーコーの思想的到達点と言えようか。筑摩書房では2002年10月下旬から、『ミシェル・フーコー講義集成』全13巻(予定)の邦訳刊行を開始する。『思考集成』全10巻に続く壮挙である。
■倫理学はここから始まる。いまなお古びない古典的名著の新訳
ニコマコス倫理学
アリストテレス著; 京都大学学術出版会; 4700円; 4-87698-138-8
必ずしも普遍的な時代背景があったわけではない。当時の哲学者の社会的立場の特異性などを考えれば、アリストテレスの思索が現代に至るまでそのアクチュアリティを減じていないというのは、本当に驚くべきことである。「あらゆる技術、あらゆる研究、同様にあらゆる行為も、選択も、すべてみな何らかの善を目指していると思われる。それゆえ、『善とはあらゆるものが目指すもの』と明言されたのは適切である」。本書の冒頭にはそうある。倫理学とは、最も善きものを対象とする学だ。善とは何か、幸福とは何か、徳とは(そして悪徳とは)何か、勇気とは何か、正義とは(そして不正とは)何か、正しい道理や見識、思慮、理解力とは。アリストテレスは順を追ってきわめて明快に論じていく。原著は全10巻からなるが、第7巻以降は特にクリティカルな問題へ踏み込んでいく。すなわち、快楽や幸福とは何か、それらの関係はいかなるものか、抑制のなさとは何かといった問題系と、友愛をめぐる問題系である。特に友愛については多くの考察があてられている。人間にとって必要不可欠であり、なおかつ美しいものであるとされる友愛は、三種類あると分析される。有用性や利益に重きをおいた友愛と、快さや快楽に重きをおいた友愛、徳に基づく善きものに重きをおいた友愛。前二者は不完全であり、徳に基づいた善き人々の友愛こそ完全なもので、稀なものだが永続的なものである、と論じられる。話が抽象的になるかというとそうではない。友愛と好意との違い、友愛と協調との違い、友愛と上下関係、友愛と平等、恩返し、自己愛、共生などが考察され、人間にはどれくらいの友が必要なのかといった問いも出てくる。国と家族とをアナロジカルに比較した考察もある。彼の著作はもともと講義のためのノートであったとされるが、本書は結びの言葉が示唆するように、別の著書『政治学』へと続いていく。倫理学とは一種の政治学である、と彼は述べる。この2冊はしたがって、セットで読むべきだろう。『ニコマコス倫理学』の新訳は、流麗な訳文もさることながら、的確な注や詳細な解説と索引のほかにも、読みやすさや後学のための工夫が文中に行き届いており、訳者の配慮と愛情が感じられる。文庫版に比べればたしかに高価だが、この本の価値は値段では測れない。ぜひお奨めしたい名著である。
■精神分析の深層にひそむ倫理を明かす、ラカン思想の一大ピーク
精神分析の倫理 (上下)
ジャック・ラカン著; 岩波書店; 各5000円; 4-00-023629-6/4-00-023630-X
ラカンの娘婿であり、現代フランスの哲学者である、ジャック=アラン・ミレールの編纂による、ラカンのセミネール(講義録)の第7巻(原著1986年刊)がついに邦訳された。これまでにセミネールは『精神病』全2巻、『フロイト理論と精神分析技法における自我』全2巻、『精神分析の四基本概念』までが邦訳されてきたが、毎回訳文が洗練されてきている気がする。『エクリ』の仕組まれた難解さに比べると、相対的にがぜん明解であり、ラカンの註釈によっていかにフロイト思想の射程が見直され、整理され、時には深化されているかが見えてくる。本書はそうした名講義の中でも、特にスリリングな内容だ。何がそう感じさせるか、というと、本書は、精神分析の秘密とも屋台骨とも言うべき次元に、まっすぐ切り込んでいるからである。精神分析の骨組みを露呈させる作業において、ラカンほどぞっとするくらい画期的な取り組みをした思想家はいまい。フロイトの晩年に集中した一連の文明論や宗教論(『トーテムとタブー』『快楽原則の彼岸』『文化への不満』『人間モーゼと一神教』ほか)に見られるような、善悪や罪の問題、死の欲動の問題、神の問題をめぐる考察を、「倫理」の問いとして見事に整理し、それらの議論の根本的意義を敷衍している。そうした倫理的次元は、快楽原則と現実原則の対立をめぐる考察として、すでに『夢判断』以前の1895年の『草稿』以来、フロイトが一生涯追究してきたものだ、とラカンは見ている。
「私は皆さんに私の蜜をもたらそうとしているのです。私が、もう数年前からなしてきたことについての私の考察の蜜です」。1959年から1960年にかけて行われたこれらの講義でラカンはそう語り、まず、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』への参照からはじめる。続いて『草稿』の再読により、フロイトの精神分析の枠組みにおける〈他者〉の表象であり、存在しない最高善としての「もの
Das Ding」概念を見直す。さらにこの議論はサドとカントの対比を通じてより鮮明にされる。圧巻は下巻の「享楽のパラドックス」の各章とソフォクレスの悲劇『アンティゴネ』の註釈だろうか。神の死、隣人愛、侵犯の享楽、死の欲動、善の機能、美の機能、と進んでいく講義は、ユダヤ=キリスト教に対する精神分析のスタンスを明確に打ち出している。ラカンがイエズス会士であることは周知の事実だが、はっきりと彼はこう述べている、「我々分析家は、宗教経験のなかで固有の用語で語られてきたこと、たとえば自由と恩寵との葛藤などに関心を持っていますが、だからといっていかなる宗教的真理――それは法と呼ばれる次元にまで広がっているかもしれません――にも同意する必要などまったくありません」と。ただし、それでもなおラカンの立場が微妙であることは、読者が直接確認すると良いだろう。また、ラカンは次のようにも言う、「デカルト、カント、マルクス、ヘーゲルなどの人たちはいまだに乗り越えられていません。というのは彼らは研究の方向、真の方向性を指し示しているからです。フロイトもまた乗り越えられていませんし、彼の容積を測り、収支決済をしようとも思いません。そんなことをして何の利益がありますか。我々はフロイトを利用し、その内部で動くのです。我々は彼が方向として与えてくれたものによって導かれているのです」と。フロイトへの回帰をモットーに掲げた彼らしい言葉だが、フロイトとラカンのもっとも繊細な差異は、本書に見られるような宗教観、倫理観に隠されていると言えなくもない。熟読吟味に値する名講義である。とても40年以上も前のものとは思えない新鮮さだ。
■道徳哲学、人間学、論理学。3種の講義録の抄訳を収める
カント全集 20 講義録II
カント著; 岩波書店; 6400円; 4-00-092360-9
本全集第19巻の『講義録I』では、形而上学講義2篇を収めたが、この『講義録II』では、「コリンズ道徳哲学」「人間学講義」「ペーリッツ論理学」のそれぞれの抄訳を収録している。700頁近くあるヴォリュームであることもあり、抄訳はやむを得ないのかもしれないが、全集と銘打っているだけに惜しいことだ。一方で確かに、抄訳のわけは、講義録ゆえの困難もあってのことと思われる。すなわち、講義のテーマごとに学生の筆記録が複数存在するため、活字化するにはそれらの筆記録を比較対照し、校合しなければならない。したがって、編者の方針や考えによって、講義録はヴァージョンが異なってくるし、翻訳するというのであれば、主要な各国語(訳)のヴァージョンに目を通し、望むらくは、筆記録そのものにあたって、新たな校合と編集を試みねばなるまい。今回のカント全集では講義録に割り当てられたのはたったの2巻だけだったが、来たるべき全集では(気が早い話だが)、より拡充されるよう希望したい。本巻ではずばり、「人間学講義」から読まれることをお奨めする。カントの卓抜な人間観察論とその基礎付けは、彼の哲学の中でももっともとっつきやすいものである。「人間学の大きな効用の一つは交際にある。それはわれわれが交際に熟達するようにし、また歓談のためにすばらしい材料を提供してくれる」。このくだりを読むと、なるほどこれは「講義」であり、聴衆は興味深く耳をそばだてたことだろうと推察できる。学問は、学生を満足させ得る熟達した専門性を備えていなければならないが、一方でそうした知識を「広める」ためには、専門性に閉じこもるのではなく、世間というものを知って、いかに相手に伝わるように話すかを学んでいなければならない――そうカントは率直に語る。世間知とはつまり人間の多様性や特徴を知ることである、と。この講義の次は「道徳哲学」を読むといい。人間学と密接に結びついており、例えば、復讐についてであるとか、他人を中傷する人についてといった具体的な行為や性格をめぐるリジッドな考察があって、いかにもカントらしい。「動物と霊に対する義務について」や「身体に対する義務について――性的傾向性に関して」等といった言及も、読んでいて飽きが来ない。「論理学講義」はさすがに哲学に興味がないと読むのが辛いかも知れないが、それでもカント哲学の枠組みを知る上では、3批判書よりは平易な点で有益だろう。とっつきやすいカントであることに変わりはない。
[02年9月24日]
■「911」以前から変わっていない諸悪の原因を鋭く分析
チョムスキー、世界を語る
ノーム・チョムスキー著、トランスビュー、2002.9、\2,200
フランスのジャーナリスト2名が、1999年の暮れに行った著者インタビューの記録である。フランスで2001年に『明晰なる二時間』と題され、出版されている。チョムスキーの政治的立場はアメリカ本国だけでなく、フランスでもほとんど誤解され、無視されてきたようだ。実際、彼ほどまっとうに現代社会を牛耳る巨悪に対してきっぱりと「ノー」を突きつけてきた人物もまれなのだが、そうした誤解がなぜ生じているのか、インタビュアーの一人のドゥニ・ロベールがまず序文できっちり説明してくれているのがありがたい。チョムスキー自身は本書所収の「言論の自由」の章で、フランスの歴史修正主義論争に誤解というかたちで巻き込まれたことについて言及している。一度でもチョムスキーの政治的発言を読んだことのある読者ならご存知だろうが、彼の論説はきわめて明快である。グローバル化時代におけるアメリカの資本主義経済や外交政策の失敗、多国籍企業の裏の顔、民主主義の成熟度について、ラディカルな考察を展開。権力に迎合しないからこそ、言葉を濁すようなこともないわけだ。「911」以前に取られたインタビューだが、諸悪の根源はテロ事件前後も変わらないわけで、チョムスキーの議論を常識的前提とするところまで国際世論が達していないことに、読者は愕然とするかもしれない。愕然とするとともに、彼の強い信念に勇気づけられるだろう。ありのままの現実に即して真実を語ること、これが彼の言う知識人の役割だ。当たり前そうで、実は簡単なことではない。
「911」以後、チョムスキーはますます忙しく各地を講演して回っている。日本ではもっぱら、変形生成文法を提唱した言語学者として高名だが、反体制の知識人として言論活動を継続してきたことが知られていなかったわけではない。『知識と自由』(川本茂雄訳、番町書房、1975年刊、絶版、原著:Problems
of knowledge and freedom)、『チョムスキーとの対話 :
政治・思想・言語』(ミツ・ロナ編、三宅徳嘉ほか訳、大修館書店、1980年刊、品切、原著:Dialogues
avec Mitsou Ronat)、『知識人と国家』(河村望訳、TBSブリタニカ、1981年、品切、原著:Intellectuals
and the state)などのほか、近年では、『アメリカが本当に望んでいること』(益岡賢訳、現代企画室、1994年、原著:What
Uncle Sam really wants)が邦訳されてきた。「911」以後では、
『9.11』(山崎淳訳、文芸春秋、2001年刊、原著:9-11)、『「ならず者国家」と新たな戦争』(塚田幸三訳、荒竹出版、2002年刊、原著:Rogue
Statesほか)、『アメリカの「人道的」軍国主義』(益岡賢ほか訳、現代企画室、2002年刊、原著:The
New Military Humanism)が邦訳され、「911」一周年を迎えた最近では、本書のほか、ドキュメンタリー映画「チョムスキー9.11」と連動して刊行された日本独自のインタビュー集『ノーム・チョムスキー』(鶴見俊輔監修、リトル・モア、2002年刊、さらに『金儲けがすべてでいいのか』(山崎淳訳、文芸春秋、2002年刊、原著:Profit
over People)と続く。いまや、
もっとも頻繁に邦訳される知識人の一人なのである。
■地球も人類もこのままでは生き残れない。なら、どうすべきか。
地球が生き残るための条件
ヴッパタール研究所編; 家の光協会; 2400円; 4-259-54627-9
国会議員全員、いや、自治体に属する議員も含めた政治家全員に本書を購読してもらうべきである。本書に目を通した後には強烈に、わが国ではドイツに比べて政治レベルでの環境=経済議論が見えてきていないことを感じた。インパクトが強いのは、人類が生き残るためには、この先、いわゆる「先進国」が贅沢な消費をきっぱりと控えることだ、という主張。精神論ではなく、清貧のすすめでもなく、じっさいこのままでは人類はやっていけないんですよ、地球の資源は有限ですよ、と明確にデータを示して分析していく。ヴッパタール研究所はドイツ政府が1990年に設立したシンクタンクで、持続可能な社会づくりの条件と可能性をめぐって、気候と環境とエネルギーの分野にわたる研究を進めている。「持続可能」性(サステイナビリティ)とはここしばらく、経済成長の限界を踏まえた社会問題を語る上での不可欠のキーワードとなっているが、本書では、早くもこの「持続可能性」があいまいな常套句として濫用されている危険を指摘し、より明確に、「資源利用の削減」を推進する「未来可能な」社会のシナリオを打ち出している。「未来可能な
zukunftsfaehig」とはいささか聞きなれない言葉だが、つまりは、将来性がありうる社会とはどんな条件のものか、ということをさぐっているわけである。
原著は1996年にドイツで刊行され、大ベストセラーとなった。本訳書はいわば日本独自に編集された「縮刷版」で、ドイツの国内事情にかんするトピックが割愛され、「先進国」に共通している問題群に絞って訳出されている。未来可能な社会の条件として提起されている論点には次のようなものがある。「時間と空間を適正なものにする」、つまりスローな社会、地域性を重視する社会を設計するということだ。「グリーンマーケットを構築する」、これは公害を出さないための技術革新の可能性を言っており、「ものづくりを直線型から循環型にかえる」というもうひとつの論点と繋がる。「もの持ちであるよりもよりよい生き方を選ぶ」とは、スローなライフスタイルの見直しとも関連してくる。そうしたライフスタイルを補助するためにも、社会のインフラを合理化することが必要である。「地域性の重視」と並行して、寄生的都市であることをやめ、コミュニティを再構築するために、具体的には有機的循環を重視した農業の再生をはかり、土地利用の多様性を取り戻し、加工産業への原料供給者であることをやめ、世界中から仕入れるスーパーマーケットで買い物をするのもやめ、ファーマーズマーケットで買うようにする、と。退行ではないか、と眉をひそめる向きもあろう。本書をよく読んで各自確認して欲しいが、「そんなことはできない」と決め付ける方がよっぽど馬鹿げていることに早晩気が付くだろう。「国際的公正と全地球的連帯」と題された節では、グローバリゼーションの難問に正面から取り組もうというポリシーのあらわれを読み取ることができる。賛否はあろうが、やはり日本が学ぶべき点は多い。
■生命倫理をごく身近な問題だと気づかせてくれるキーワード集
生命倫理とは何か
市野川容孝編; 平凡社; 2400円; 4-582-70242-2
生命倫理(バイオエシックス)に関連するキーワード22項目を小事典風に集めたもので、気鋭の医療社会学者として注目を集めている市野川氏が編者をつとめた。それぞれが独立した小論文となっており、どこから読み始めるのもどこで読み終えるのも自由だ。通例の生命倫理学ではあまり主題的に扱われない論点も盛り込んだことが特徴だ、と編者は述べている。医療過誤、薬害、障害学、といったものがそうだ。編者による序「〈生命倫理〉の軌跡と課題」は、コンパクトにまとめられた生命倫理学史であり、国内外の思潮を鳥瞰する。22の項目は6つの章に分かれている。第1章「医師と患者」では、医療プロフェッション、人体実験、インフォームド・コンセント、QOL(クォリティ・オヴ・ライフ)、医療過誤、薬害、が扱われる。第2章「出生をめぐる問題」では、中絶の権利、生殖技術、出生前診断。第3章「死をめぐる問題」では、脳死、臓器移植、ターミナル・ケア、安楽死・尊厳死。第4章「ゲノム」では、ヒトゲノム計画、遺伝子診断と遺伝子治療、優生学。第5章「障害」では、障害学、ノーマライゼーション、自律生活運動。第6章「医療経済」では、医療保険、高齢者医療、人体の資源化・商品化。執筆者は、金森修、小松美彦、立岩真也、柘植あづみの各氏ほか、編者を含め17名。いずれも第一線の書き手だ。テレビや新聞等のニュースで耳にした言葉からあまり聞きなれない言葉まであるが、現代人の日常に無関係なものは、じっさいなにひとつ無い。人は誰しも生老病死を経験する。生命倫理は21世紀を生きる人間にとっての常識的知識だろう。入門書はちまたに多数あるが、問題圏の広がりと諸相、それらの歴史と展望を簡潔に整理した本書は、読者の関心を多方向に啓いてくれる良書である。
[02年9月30日]
■「テロをやめさせたいなら、テロに参加しなければいいのです」
ノーム・チョムスキー
ノーム・チョムスキー著; リトル・モア; 1000円; 4-89815-081-0
「9.11」一周年を迎え、ノーム・チョムスキーの邦訳新刊が続いている。『チョムスキー、世界を語る』トランスビュー刊、本書、『金儲けがすべてでいいのか』文芸春秋刊、そして『新世代は一線を画す──コソボ・東チモール・西欧的スタンダード』こぶし書房近刊、といった具合である。まだまだほかにも予定があるようだが、それらの中でも、チョムスキーをはじめて読む方に特にお奨めしたいのが、本書『ノーム・チョムスキー』だ。ジャン・ユンカーマン監督のドキュメンタリー映画『チョムスキー 9.11』(2002年・シグロ作品、74分)の「公式パンフレット」という位置付けだが、内容が充実しているし、1000円ぽっきりという驚くべき低価格で、本当にお買い得である。本書は講演録とQ&A、インタビュー、そして監修者鶴見俊輔のあとがきから成る。チョムスキーのこれらのスピーチや質疑応答はすべてニューヨーク州やカリフォルニア州などの各地で2002年3月から5月にかけて行われた講演行脚におけるものであり、インタビューは監督のユンカーマンによって同年5月に行われたもので、本書では映画に収録し切れなかった部分も収録されている。チョムスキーが「9.11以後」を主題に語った最新発言に接することができる、日本独自の編集本である。一般聴衆や学生を前にして語られる彼の言葉は、アメリカの政治的軍事的蛮行と世界情勢を扱うというテーマの重さにもかかわらず、生き生きした輝きを帯びている。聴衆も、チョムスキーがブッシュ大統領の発言やマスコミ報道の偏向についてさらりと揶揄する場面で大いに笑っている。愛国的アメリカ人の姿しか報道で見ていない日本人にとっては、興味深い再発見であると言えまいか。チョムスキーの講演会のチケットは、ある場所では6時間で3000枚が売り尽くされ、会場は満席、老若男女の真剣な眼差しと熱気で溢れていた。こうした人々を見るとき、アメリカという国の言論も、けっして一枚岩ではないことがわかる。
チョムスキーは1928年にフィラデルフィアで生まれたユダヤ人であるが、本書ではイスラエル/パレスチナ問題に鋭く切り込む彼の発言が読める。「私が『イスラエル』と言うときはアメリカ合衆国とイスラエルを指しています。なぜならイスラエルは何をするにせよアメリカが指示して良しとする範囲で行っているからです」。イスラエルはアメリカの軍事基地であり、アメリカは中東のエネルギー資源すなわち石油をめぐる覇権を維持したいというのが本音なのだ、と。チョムスキーの米国批判の微妙な彩りは、Q&Aつまり各講演会場での質疑応答に顕著に表れている。彼は慎重に言葉を選び、既成の「チョムスキー像」を軽やかに拒絶したりもする。アメリカの主要マスコミがしたように、彼の発言は揚げ足をとろうと思えばとれるだろう。チョムスキーはすべてを語り尽くしたわけでもない。しかし、ユンカーマン監督のインタビューでは、日本人が彼から一番聞きたかったことの多くを読むことができる。彼は「9.11」事件が起きたのをいかに知ったか、当時の状況を語っている。また、彼が活動的知識人になった経過や、言語学と政治との関係性も語っており、行き届いた内容だ。印象的な一節を引いておきたい。「ユンカーマン:あの攻撃(9.11のテロ事件のこと)の現場となった世界貿易センターが、いまグラウンド・ゼロと呼ばれています。広島と長崎で原爆を経験した日本人が『グラウンド・ゼロ』という言葉を聞くと、複雑な思いにとらわれるそうですが。/チョムスキー:この問題に関しておもしろいと思うのは、ほとんど誰もそれについて考えないということですね。調べてごらんなさい。新聞を見ても、たくさんの論評を見ても、この問題に関するコメントを見かけたことはありません。アメリカの国民はまったく気づいていないのです。/ユンカーマン:しかし、この言葉は……。/チョムスキー:その通り、まさに爆心地という意味です。それは疑いようもないことです。私は、すぐにピンときましたよ。/ユンカーマン:だから、日本人がその言葉を耳にすると心に響くものがあるのでは。/チョムスキー:わかります。しかし、アメリカではそういう意味を持ちません。毎度のことですよ。(アメリカが)どこか他(の国)で引き起こした残虐行為は存在しないのです(以下略)」。
■初回配本から10年。全20巻の掉尾を飾る、神学的宇宙論の精髄
中世思想原典集成 8 シャルトル学派
上智大学中世思想研究所編訳・監修; 平凡社;
10000円; 4-582-73418-9
ついに完結である。その空前絶後であろう壮挙に思わず鳥肌が立つ。全20巻のうちの最終回配本として掉尾を飾るのは、第8巻『シャルトル学派』。いわゆる12世紀ルネサンスの中心地として、パリと並んで人材を輩出したシャルトルにゆかりのある神学者たち9名のテクスト11篇を収めている。学派の端緒であるシャルトルのフルベルドゥスによる『詩集』に始まり、シャルトルのベルナルドゥス『プラトン註釈』、ギルベルトゥス・ポレタヌス『ボエティウス デ・ヘブドマディブス註解』、コンシュのギョーム『宇宙の哲学』、同『プラトン・ティマイオス逐語訳註釈』、シャルトルのティエリ『六日の業に関する論考』、同『ヘプタテウコン(七自由学芸の書)』、ベルナルドゥス・シルヴェストリス(またはトゥールのベルナルドゥスとも)『コスモグラフィア(世界形状誌)』、ソールズベリーのヨハネス(またはソールズベリーのジョンとも)『メタロギコン』、アラスのクラレンバルドゥス『創世記についての小論考』、アラヌス・アブ・インスリス(またはリールのアランとも)『アンティクラウディアヌス』を収録。全編本邦初訳。シャルトル学派を特徴づけるのは、そのプラトニズム的宇宙観である。15世紀を中核期とするいわゆる「ルネサンス」におけるギリシア古典の再読解に先立つ、先駆的潮流だ。もちろんここで言う「宇宙」とは、星々の世界であるマクロコスモス(あるいはメガコスモス)を意味するだけでなく、ミクロコスモスとしての人間存在をも意味する。つまり、神のわざとしての天空と大地と人間の関係性が大局的に論じられているわけである。それは世界の創造の神秘を語ることでもある。論理的に繊細かつ峻厳な、どちらかといえば無味乾燥なその他のスコラ学に比べて、シャルトル学派の言説にはどこかロマンティックな響きと美しさがある。「神に酔える人」スピノザは幾何学的倫理体系によって世界を表象しようとしたが、シャルトル学派は宇宙論的神学体系によって知を照らす。キリスト教思想とプラトニズム(特に『ティマイオス』における宇宙観)の壮麗な融合。どの論考も滋味あふれる名編だが、特にアラヌスの『アンティクラウディアヌス』における天地(あるいは霊魂と物質)の「和合(コンコルディア)」からの人間の誕生は、絶え間ない争いと分断を繰り返すこんにちの私たちに訴えかける何かがある。人間は、アラヌスが直観したようなハーモニーをいったいいつ、忘失してしまったのだろう。中世思想は過ぎ去った過去でも暗黒でもなく、人間(の知)のありようを鋭く問い返す終わりなき「現在」の異名であるのだ。この一冊は現代人への痛烈な一打である。別巻として2002年11月には「総索引(付:K・リーゼンフーバー『中世思想史』)が刊行される。それは単純な事項の分類や検索ではなく、時空を貫徹するあらゆる思考の可能性の函数を開示するものであるだろう。
■ポストモダニズムを超えていく意識の進化の未来像を提示
万物の理論 ビジネス・政治・科学からスピリチュアリティまで
ケン・ウィルバー著; トランスビュー; 2800円; 4-901510-08-8
ウィルバーの名は、80年代のニューエイジ・サイエンスの流行を知っている世代にとっては懐かしいものかもしれないが、彼の思考はここ20年の間も前進しつづけている。本書は、『万物の歴史』春秋社刊と同様、『進化の構造』全2巻・春秋社刊の巧みな要約入門版である。ウィルバー自身も「私の研究へのいちばんいいイントロダクションである」と述べている。副題に「ビジネス・政治・科学からスピリチュアリティまで」とあって、読者の中にはこれを、原書にはない欲張った邦題にちがいない、と色眼鏡で見る方がいるかもしれないが、そうではない。原書副題は「ビジネス、政治、科学、スピリチュアリティのための、ある統合的ヴィジョン」なので、つまり忠実に著者本人の構想を表しているのである。はっきり言わねばならないが、本書は、そんないかがわしい大風呂敷を広げて、と眉をひそめたり、あるいは最初から無視しようとする読者こそが読むべき書物なのである(とは言え、ウィルバー自身は本書の主張に納得しない読者がいるだろうことを予測している)。ウィルバーはトランスパーソナル心理学の諸成果を援用しながら、哲学思想、科学、宗教、政治、教育、医療、エコロジー、ビジネスなど、人間がかかわる知識と信条と行為の営みの全域をマッピングしようとする。自分以前の思想家のあらゆるコンセプトを自らの史観の範疇に取り込みながら、人間精神の進化論を唱える本書は、イメージとしては現代の「ヘーゲル」による新たな「精神現象学」といったところだろうか。「主と奴の弁証法」は「スパイラル・ダイナミックス」にとって代わる。特に、人種差別的に「肌の色」で人を見るのではなく、「ミーム」(発達の段階)の差異でとらえるという視点は興味深い。
「万物の理論」とは、広い学問分野のできるだけ多くの研究に敬意を払い、首尾一貫したかたちでそれらを包括しようと試みる視点である、とウィルバーは述べる。ポストモダンにおける価値相対主義や文化多元主義はたしかに人類にプラスの成果をもたらしたが、一方でそれはナルシシズムと民族的分断の温床であり、結論なき際限のない議論に終始している、と彼は見る。人類は、様々な思想や文化が「互いに覇権を握ろうとして攻撃しあう、全地球的な『自己免疫疾患』の犠牲」であるほかはないのだろうか。ウィルバーの答えは「ノー」である。時代の趨勢は提携と統合に向かうのであり、その進化は直線的単線的なものではなく、ウィルバー特有の言葉遣いによれば「超えて含む」プロセスで進めることができる。彼の言うホーリズムや統合主義への移行(専門用語で言うところの「第二層の意識へのジャンプ」)は、グローバリゼーションの容認とは異なるということに留意しなければならない。そうした差異は、こんにちの3つの代表的な文明論の読解に表われている。F・フクヤマの『歴史の終わり』(上下巻、三笠書房、品切)や、S・ハンチントンの『文明の衝突』(集英社)、Th・フリードマンの『レクサスとオリーブの木』(上下巻、草思社)の独特な読解は、ウィルバーがアメリカの一部論壇をどう見ているかが窺えて、興味深い。現代文明の分析を終えて、彼が最後に読者一人一人に勧める「統合的な意識の実践」とは一種の至高体験だ。これはひとつの宗教なのだろうか。そうだとも言えるし、そうでないとも言える。本書はウィルバーに惹かれる人にも反発する人にも刺激を与える。だまされないぞ、と思って読んでもいいのである。
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