Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics.  by Hiroshi Kobayashi


2002年10月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。

[02年10月8日]

■新自由主義と新世界秩序の裏舞台を痛烈に批判した基本書

金儲けがすべてでいいのか グローバリズムの正体
ノーム・チョムスキー著; 文芸春秋; 1429円; 4-16-358970-8

ものすごいタイトルだが、ニュアンスとしては伝わりやすいかもしれない。原題の"Profit over People"というのは、つまり「人間よりも利益を優先する」という資本主義の論理を言い表している。「大衆にはさらなる貧困化と苦痛をもたらし、少数のエリートと外国の投資家を裕福にする」とチョムスキーが明晰に分析する資本主義の論理は、アメリカをはじめとする先進諸国が掲げるネオリベラリズム(新自由主義)と新たなワールド・オーダー(世界秩序)という名でこんにち知られている。「新自由主義と世界秩序」とは、原著の副題であり、冒頭でそれらの本質とは何かが追究される。本書は『9.11』に比べればやや上級者向けかもしれない。WTO(世界貿易機関)やIMF(国際通貨基金)、NAFTA(北アメリカ自由貿易協定)やMAI(投資に関する多国間協定)等々といった国際経済を動かす様々な取り決めについて、新聞で読むような知識があれば、より読みやすいだろう。しかしたとえ知らなくても、本書から学べばいい。90年代に発表された6つの論文と1篇の講演抜粋が収録されていて、どの文章からもチョムスキーの広い視野から見た世界情勢と市場経済の本質が読める。メキシコの民衆運動であるサパティスタ党の活躍などにも触れ、そうした大衆的怒りは、どの国にも存在している、と指摘する。少数者の独善的富裕化と大衆の貧困化。それが間違っているのは明らかだし、いかなる理由によっても正当化できるものではない。政府と一部企業の結託による悪政を、民衆の力によって是正し、打ち倒すことは可能なのだ。これが本書に通底する力強いメッセージである。繰り返し何十年も、よくこうした批判的情熱が続くものだ。間違っているものには従う必要はない。誰もがそう思えるわけではない。生涯ずっとそう思って行動できるかどうかと言えば、そんな風には生きていけないと誰もが思うだろう。だからこそ、チョムスキーの主張は多くの人々の心を揺さぶる。マクチェスニーによる序文にも書かれているが、チョムスキーは「選択はあなたの手の内にある」と述べる。It's all up to you. あなた次第で、世界の流れを変えることはできますよ、と。これは単なる挑発でも煽動でもない。世界を変えるのは不可能ではない――そう考える方がむしろ「常識的」なのだ、と本書は教えてくれる。


■住民基本台帳ネットワークって何だ? 充実した資料でわかりやすく解説

住基ネット」とは何か? 国民と自治体のための脱「住基ネット」論
桜井よしこ著、伊藤穣一著、清水勉著、本体価格: \1,000
出版:明石書店、サイズ:A5判 / 233p
ISBN:4-7503-1623-7、発行年月:2002.9

住基ネット? もう施行されているって? それ何? え、通知ハガキが届いてた? いや、実際そんな程度である。私たち国民の関心というものは。どことなく、不動産屋のホームページの名前のようなこの「住基ネット」とは、正確には「住民基本台帳ネットワーク」という。国とお役所が要するに国民に背番号を振って情報管理し、全国ネットで国の機関が個人情報を照会できるというシステムである。評論家の佐高信は「これ(本書)を読んで“監獄国家”を拒否しよう」と書いている。ジャーナリストの櫻井よしこは「私は番号になりたくない」と述べる。IT産業の立役者の一人の伊藤穣一は「プライバシーの危機だ」と。そういえばテレビのニュースでも、どこかの自治体が不参加表明をして、大臣が不愉快な顔をしていたっけ。各世帯にすでに届けられている番号通知書をまずは見てみよう。もう私たちは番号化済みである。私たちの同意とか、そうしたものとは関係なく、国民である以上は義務付けられてしまうのである。本当に義務なのか? 法律はどうなっている? 本書は解説がわかりやすいし、年表や条文など関連資料も豊富。しかもたったの千円である。読み進めると、さらにやっかいな「住基カード」という2003年8月から国民が利用できるICカードについても知ることになる。悪寒。ページをめくるごとに、国の「便利」が個人の安全を脅かしているんじゃないか、と気づく。進歩は退歩でもある。一番問題なのは、国の考えを国民があまりわかっていない、ということである。なぜこうなったのか。利便性をはかるばかりで取り残されるのが危機予防策であるという事実は、じっさい国民がここ最近様々な事件から思い知らされていることではないのか。国が安全を保障してくれるわけではない。いまや自分で自分の身を守る時代である。本書を読んで、そのきっかけをつかんでみたい。国政への議論の扉はもっと広く開かれていい。



[02年10月15日]

■私たち自身の生活が、世界のどこかで新たな奴隷制を生むという衝撃

グローバル経済と現代奴隷制
ケビン・ベイルズ著; 凱風社; 2500円; 4-7736-2701-8

鳥肌が立った。間違いなく今年一番の衝撃作である。本書はタイトルにある通り、グローバル経済下における奴隷制をめぐるレポートである。奴隷制というと過去の遺物のように思えるが、ベイルズが本書で明るみに出したのは、現代における「新たな奴隷制(ニュー・スレイヴァリー)」である。何が新しいのか。かつて、奴隷制は「合法」だったが、廃止され非合法化してから、巧妙に実態が隠蔽されるかたちで組織化されるようになったというのだ。苛酷で劣悪な労働環境と労働条件、搾取の陰湿化をともない、非合法であるがゆえに、雇い主は労働者を保護せず、使い捨てにする。本書の原題は「ディスポーザブル・ピープル」すなわち、使い捨て可能な人々、である。多国籍企業の「下請けの下請けのそのまた更に下請けの下請け」であったり、借金を返すために賃金の安い労働に一生を捧げたり、あるいはそうした最底辺の労働者の寄せ場で少女のうちから売春を強要されるといった人々が実在する。その数は全世界で「かたく見積もって2700万人」!という。先進国の日常生活は、この奴隷制による労働力によってまかなわれた物品製造やサービスによって、支えられているのだ。著者はタイ、モーリタニア、ブラジル、パキスタン、インドで実地調査を行い、「新たな奴隷制」の本質と実態を本書にまとめた。この本の衝撃は数知れないが、中でも、売春を拒否して「処刑」される少女と、その処刑に喝采を送る労働者たちのエピソードは、新たな奴隷制の残酷さと歪んだ密室的メンタリティを暴露して、あまりあるものがある。ベイルズはそうした奴隷制をストップさせるために私たちにもできることがある、と言う。そして詳しくその方法と対策を明かすのだ。奴隷制に関する無知こそ、助長の原因となる、とベイルズは指摘する。そして、この本を本棚に置いたままにしないでほしい、もし置いたままにするのなら誰かにあげて、読んでもらってください、と読者に呼びかける。著者は現在、解放された奴隷の「心のリハビリ」にかんする著書をまとめているところだそうだ。鶴首して待ちたい。


■哲学とは自分で考えることだ。シンプルで明晰、必読の入門書

哲学はこんなふうに
アンドレ・コント=スポンヴィル著; 紀伊国屋書店; 2000円; 4-314-00925-X

『ソフィーの世界』以来の哲学ブームで、近年入門書がたくさん出版されている。テツガクに興味があるけれど、どれを読んだらいいか迷う、という読者もいるかもしれない。実際たくさん出版されはするが、大げさではなく、本当に出来がいいものは数年に1冊あるかないかだ。本書はその1冊だ。ちなみにそのひとつ前の名作が、アラン・ド・ボトンの『恋愛をめぐる24の省察』(白水社)であることも間違いない。さて、コント=スポンヴィルと言えば、清々しく機知に富んだ『ささやかながら、徳について』などの著書で、アラン以来のモラリストと目されて良い哲学者である。彼はここしばらく、数々の古典作品からの抜粋に序文を付したノート「哲学手帳」を作成しており、本書はそのノートから生まれたという。全12章からなる。各章で扱われるテーマは、道徳、政治。愛、死、認識、自由、神、無神論、芸術、時間、人間、叡智、である。普段ならこうした干からびた骨のような字面を見ているだけで頭が痛くなるというか退屈するところだが、本書は違う。それらはまるで息を吹き込まれたかのように、生きいきと血肉を帯びてくるのだ。入門書だと思ってバカにしてはいけない。並み居る教授や先生方にだって、こんな風には書けないだろう。「哲学するとは自分で考えることだ」と著者ははじめに述べる。自分で考えるからこそ、それをどう表現するかもまた、本当は難しい。「それをうまくやれるようになるには、まずほかの人たちの、とりわけ過去の偉大な哲学者たちの思想に頼らざるをえない」。哲学は場当たりの思いつきではなく、さまざまな努力や読書や道具なしにはやっていけないものだ。けれど、「その最初の数歩を踏み出すのが難儀で、それ以上に進む気をなくしてしまう人が多い」。だから、本書をつくったのだ、と。それでも、本書を読むことすら挫折してしまったら? 「安心してほしい。真理は道の終わりにあるのではなく、この道そのものなんだ」。哲学は、生きるすべを学び、考えるすべを、愛するすべを学ぶことだから、本書はたとえ読まなくとも、いつもあなたのすぐ隣に在る。訳文は堅苦しくなく、すんなり読ませてくれる安心感がある。巻末の3種類の詳細な文献案内にも注目。特に、フランスにおける哲学史研究の基本図書を紹介した「入門書案内」がいい。彼が注目している哲学史家の中にドゥルーズが特異な位置を占めているのは、なかなか興味深いことである。著者は1952年生まれ。ポスト構造主義の思想家たちの著書を読み、彼らの難解なスタイルを踏襲せず、むしろきわめてシンプルかつ明晰に徹しようとする世代の一人である。これからも邦訳が出されることを期待したい。


■相対主義と反相対主義をともに乗り越えるには。日本独自編集本。

解釈人類学と反=反相対主義
クリフォード・ギアツ〔述〕、小泉潤二編訳、みすず書房、4-622-03682-7、2002.6、\3,500

アメリカにおける文化人類学の重鎮による論文集。1980年代から90年代にかけての三度の日本講演を核に、著者の方法論と思想遍歴、インドネシアのフィールドワークなどを記した8つの論文、講演録、インタビューを収録。日本独自編纂の選集である。表題は、ギアツの思想的立場を示すキーワードで、特に「反=反相対主義」については、同名の論考を読むことができる。ここで彼は、人類学者たちの文化相対主義に向けられた反論と嫌悪の数々を、発言者の実名をあげながら引用し、反撃を試みている。相対主義は、主観を重んじるあまり道徳的または知的に論理が一貫しておらず、倫理や美などの普遍的価値を失なうニヒリズムと化している、と非難されることがある。しかしそうした反相対主義は、「文化性を越えるところに道徳性を位置づけ文化性も道徳性もさらに越えるところに知性を位置づけ」ようとしており、「コンテクストから独立した『人間の本性』」や「人間の心性」といった概念を再興しようとしているのだ、とギアツは分析する。確かに、時として文化人類学者には「特異性を謎に、謎を神秘に、神秘をたわごとに仕立てあげ」るという行き過ぎもあっただろう。だが、常識や普遍主義、科学主義が安心して浸っていられるような実体的確信を揺るがし、事実と現実に即して認識を改めることが文化人類学の仕事なのであって、そうした作業によって、反相対主義を乗り越え、単なる固着した相対主義の陥穽をも乗り越えることができるだろう。ギアツはそう示唆しているようだ。彼の著作はフィールドワークを基礎にしながら時として非常に思弁的に響く時があるが、本書に収録されている講演録やインタビューは比較的に読みやすい。反相対主義的還元論に対する反=反相対主義をめぐる、編訳者による長文の論考が、議論をきっちり整理しているので、より理解しやすいだろう。



[02年10月20日]

■オートマトン、暗号解読、形態形成論……天才数学者の成果の今日的意義

甦るチューリング コンピュータ科学に残された夢
星野力著; NTT出版; 2400円; 4-7571-0079-5

コンピュータの生みの親であり、第2次世界大戦中には暗号解読者としても活躍、42歳の若さで自殺した、イギリスの天才数学者アラン・チューリング(1912-1954)。彼の生涯と業績を振り返り、その先見性を再発見し、今日的意義をさぐった、良質な入門書である。そもそもなぜ半世紀も前の彼の研究が注目されているのか。独創的な計算理論と計算機械(いわゆるチューリング・マシン)の構想はすでに1930年代の論文で明かされており、これらはこんにちのコンピュータ・サイエンスの嚆矢であるとされている。むろんもっと遡れば、チューリングの母校であるケンブリッジ大学出身の数学界の先達チャールズ・バベッジ(1791-1871)が制作した「階差機関」や「解析機関」(いずれも未完成だった)といった成果は無視できないし、チューリングの同時代人には、ジョン・フォン・ノイマン(1907-1957)というハンガリー出身の天才数学者がいて、アメリカで活躍していた。コンピュータの開発は、世界大戦において科学者たちがしのぎを削った暗号解読機械や弾道計算機械の開発そのものであり、当時、チューリングもまた暗号戦争におけるイギリスの勝利に貢献している。しかし余人にもましてチューリングが独創的だったのは、彼が人間の心や学習、自意識に関心を持ち、今で言う「人工知能」を構想し追究した点にある。「機械は考えることができるか」どうか、をチェックするいわゆる「チューリング・テスト」は、特に有名である。

さらに彼は、生命、生物の形態形成(モルフォジェネシス)に重大な注目を払い、数理生物学における先駆的な論文も残している。それはコンピュータ開発競争の中では特異であり、異端ですらあったかもしれないが、後世の複雑系科学や自己組織化理論、場の理論などに今なお示唆を与えている。遺伝子による決定論を乗り越える視座はたしかに新鮮だ。彼が特異であったのは研究においてばかりではなかった。チューリングはゲイだった。晩年、ふとしたきっかけでその事実が警察の知るところとなり、その頃はまだ同性愛が自由化されていなかったため、有罪判決(執行猶予)を受ける。彼は飄々とやり過ごすのだが、2年後、突然服毒自殺してしまう。自殺の真相は謎に包まれたままだ。本書に先立つ総合的なチューリング紹介の文献には、彼の母親のサラによる『アラン・チューリング伝』(講談社、1969年)があったが、現在は絶版。研究専門書は数あるものの、チューリング自身の論文のまとまったかたちでの邦訳集はこれまでなかったようだし、あったとしても数学(だけでなく、生物学や化学まで)の基礎知識がなければ容易に読めるものではない。さらに、少しは知識と興味があるから原文にチャレンジ、と思ったとして、1992年にノース・ホランド社から刊行されている著作集3巻本はそれぞれ1万円以上する高価な学術書であり、研究者ならまだしも一般読者にとってはお手頃とはとてもいえない。その意味で本書はまたとない絶好の入門書であり、コンパクトながら、アンドリュー・ホッジスによる大部の古典的伝記(未邦訳)とともに、チューリングの全体像について展望を与えてくれる基礎文献であると言えるだろう。


■伝達者としての天使をめぐる、この世でもっとも美しいテクストのひとつ

天使の伝説 現代の神話
ミッシェル・セール著; 法政大学出版局; 2800円; 4-588-00747-5

もともと原書初版は、1993年にフラマリオン社から画集かと見まがう大判で刊行され、フルカラーの図版が見開きごとにあるような、豪奢な書物だった。その後、テクストだけが抽出され、本訳書の底本となる新版が刊行された。訳者が惜しんでいるように確かに初版が再現できないのは残念だが、あれだけ大判(手元にある現物の実寸を測ってみたが、なにせ215×285×26ミリある)で、カラーページが多いだけに、そもそも邦訳出版は無理ではないか、と思っていた読者もいるかもしれない。しかし本書を読めばわかる通り、テクストの魅力は減じられてはいない。ちなみに初版に掲載された多くの図版は、いわゆる天使像のコレクションではない。テクストが単に神学的形象としての天使のみを対象としているのではないように、図版も古典的天使像だけではなく、いわば天使の「場」を示唆するものが多かった。確かに天使は一種の「場」である。神と人、人と人、人ともの、ものともの、ものと精神、精神と神を結ぶ、メッセンジャー(伝達者)としての。本書は、シャルル・ド・ゴール空港の早朝から深夜にかけての出来事のあいまに、エール・フランスのインスペクターであるパントープと、空港の医務室に勤務する女医のピアとが交わす会話の形式で語られる。舞台の設定といい、登場人物の名前といい、象徴的である。職業柄、世界を飛び回り、いま空港に降り立ったパントープに、女医のピアが、天使を信じるかどうか尋ねる。彼女によれば、天使はあらゆる場所にいる。「ここ[空港]は全世界に接続するさまざまのネットワークの結節だもの……わたしは天使の群れがブンブンうなっているのが聞こえる」。唯物論者であるらしいパントープは、ピアの言うことにいちいち反論を試みる。

特に詳しい註釈が付されているわけではないが、そもそもパントープとは、「あらゆる場所」を意味する名だというのが面白い。そしてピアとはピウスの女性形であり、敬虔や誠実を意味する(時として死者をも意味する)。彼らの名を繋げると、「パントピア」となり、それは一種の汎「場所」論として、ユートピア(原義は「どこでもない場所」)と鮮烈な対照をなす。ピアは言う、「パントープ、ここでパントピアがユートピアにとって代わるのね。かつて空想の世界の旅行者が描いたユートピアの島は、どこを探してもサイト[場所]をもたなかったけれど、今ではまったく反対で、いたるところが天使的な都市だものね」。「ここで」というのは、前後の文脈から読むと、新しいコミュニケーション技術とメディアが高度に発達した現代社会において、という意味だろう。天使はあらゆる場所に存在し、行き交う。この場所は、あらゆる場が楽園ともなりうることを暗示してもいるだろう。彼女と彼以外の登場人物にも、象徴的な名前が使われている。登場待合室で衰弱死に瀕していたホームレスの名はガブリエル。大天使の名だ。空港に到着したピアの兄の小さな娘の名はアンジェリック。兄のジャックはこうピアに教える、「天使の身体はおそらく波動の形をしているのだ。(中略)神はいたるところに同時に不在という形で現前する。神のこの遍在の空隙を利用して天使たちがやってくる。神の(中略)不在の代理人としてね」。天使は無数に存在し、ざわめく。彼らは見えない秩序を可視化する存在でもある。敬虔なるピアにそう教えるジャックとはつまり、かのヤコブ(のフランス語形)なのだ。表題にも使用されている、伝説を意味する「レジャンド」はまた、凡例を意味する。凡例的存在としての天使。本書はおよそ語り尽くせない広がりと博識とで読者をめくるめく連想へと導くだろう。小説仕立ての上質の哲学書である。


■漢訳経典の現代語邦訳。仏陀はなによりまず対話の名手だった

現代語訳「阿含経典」長阿含経 第5巻 梵動経種徳経 究羅檀頭経 堅固経 ら形梵志経 三明経沙門果経 布咤婆楼経 露遮経
丘山新ほか訳注; 平河出版社; 4500円; 4-89203-319-7

仏教経典は日本文化に根本的な影響を与えているものの一つであるが、それこそ「根本的」なまでに日本人は諸々の仏典について知らない。葬式の折に僧侶が読誦するのを聞き、あるいは法要の折に自分ではさっぱり意味のわからない経文を皆と一緒に音読して、宗派によって異なるとはいえ、たとえば人によっては般若心経の末尾の「ぎゃーてーぎゃーてー」のくだりだけどうも耳に残ってしまう、ということは、ありうる。正月は神社に初詣し、年末にはクリスマスを祝うというバラエティぶりにさして疑問を感じない日本人が多いなか、仏教経典の奥深さを現代語訳で甦らせる本書のような試みは、たとえ奇異な目で見られるとしても注目されていい。阿含経典は、釈迦一代の説法のうち、大きく立て分けて第二期のものにあたる(第二期という言い方は仏教学にはない表現であるが、説明の便宜のため仮に使用する)※。すなわち、第一期であり序曲といえる華厳経典で壮大な形而上学的生命哲学を開陳した後、釈迦はより具体的でわかりやすい教えから説き直すことをはじめた。それが阿含経典である。本書はその経典の中の主要部分といえる「長阿含経(じょうあごんぎょう)」を現代語訳したもの(全六巻)の一冊である。長阿含経は漢訳仏典で全二十二巻三十経に上るが、本書では巻第十四・第二十一経の梵動経から巻第十七・第二十九経の露遮経までの九つの経文を収める。経文ごとに現代語訳と漢文とを併記し、解題と注を付す。函に印刷されている一節「戒はとりもなおさず智慧であり、智慧は戒にほかならない。戒と智慧があってはじめて、言うことが真実で、虚妄がなくて、私は婆羅門と名づけます」は、本巻に収録されている種徳経が出典。種徳という婆羅門(婆羅門とはインド社会におけるカースト制の最上位に位置する階級の人々で、人民の指導者層)との対話を通じ、釈迦が種徳に、婆羅門たることは、出自階級や学識、容貌が必須条件なのではなく、戒律を守ることと智慧を持っていることがもっとも重要なのだ、と悟らせ、自覚した彼自身に答えさせる場面である。釈迦は対話の名手であり、どのような身分のどのような境遇の相手とも言葉を交わし、相手を感化した。徹底した現場主義だった。その教えによって必ず相手を回心させ、歓喜させ、相手は自ら進んで実践するようになる。例えば、かの高名な父親殺しの暴君である阿闍世王との対話を通じ、ついに王が自らを懺悔して仏道に帰依するという、沙門果経にあるくだりは、圧巻である。ら[にんべんに果]形梵志経の後半で説かれる「獅子吼(ししく)」とは、大衆の中にあって真実を勇敢に怖れることなく説く仏の振る舞いを指す。仏教とは俗世を離れた儀式なのではなく、本質的に社会運動なのであり、生きた仏教とはそのようなものなのであろう。なお、阿含経典を含む膨大な仏典の邦訳は、一大シリーズ「新国訳大蔵経」として、大蔵出版からも出版されている。

※ただし、この「第二期」という時系列分類は、釈迦自身のものではなく、ここでは天台の「五時」のシェーマを借りている。こんにちの仏典成立史研究においては実際には2番目に成立したというわけではないとされており、また諸経典が釈迦の真説であろうものから敷衍され発展された成果であることもまた学問的に知られている。上記の説明は記者の釈迦像に基づく解釈と紹介であり、本シリーズの長阿含経についての全体的解説に記載されているものを引用したものではないことをお断りしておきたい。



[02年10月27日]

■二千年の時を超えていまその中枢が現代語訳された「聖書の中の聖書」

『七十人訳ギリシア語聖書 1 創世記』
秦剛平訳; 河出書房新社刊; 2,800円

西暦1世紀後半のユダヤ人歴史家ヨセフスによる浩瀚な『ユダヤ古代誌』や『ユダヤ戦記』の邦訳者として高名な秦剛平教授が、ついに『セプチュアギンタ』すなわち『七十人訳ギリシア語聖書』の邦訳を開始した。日本の聖書受容史上画期的な、新しい一ページがここに開かれる。全五巻で、『七十人訳』の心臓部である「モーセ五書」を完訳。「モーセ五書」とは聖書の冒頭の五つの書「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」のことで、この度は「創世記」が刊行された。ユダヤ教の伝承によれば、『七十人訳』の「モーセ五書」は、紀元前三世紀の後半、エルサレムからエジプト北端の国際都市アレクサンドリアに派遣された七十二人のユダヤの長老たちが七十二日間でへブル語からギリシア語へ訳し終えたものだという。端数を切り捨てた「七十人(セプチュアギンタ)」の数字がこの聖書の通称となった。『七十人訳』はつまり最古のギリシア語版『旧約聖書』であり、それはやがてキリスト教がユダヤ教から独立し、ついにはローマ帝国下で国教となる過程で、欠くべからざる聖典となった。今回の邦訳の底本は、現在刊行中である信頼性の高いゲッティンゲン版。預言書や諸書を除く「モーセ五書」の全容が、生き生きとした現代語で、詳細な注と解説を付して刊行される。ヘブル語原典との異同がある箇所は、太明朝体やゴチック体で一目瞭然なのが良い。本巻「創世記(ゲネシス)」では例えば天地開闢のくだりなどで、その違いが味わえる(『新共同訳』が手元にあるとなお良い)。神が七日間の天地創造のはじめに「光あれ」と言い、光が原初のカオス(混沌)から現れたのを見て「良しとされた」、というのが『新共同訳』などの定番であるが、『七十人訳』ではこの部分はこうなる、「神は言った。「光が生まれよ。」すると光が生まれた。神は光を見た。美しかったからである」。天と海を分け、海と陸を分け、植物や生物でそれらを満たし、人間をつくった。その都度、神はそれらを見た。「それらは非常に美しかった」から。「良しとする」という訳語では、この一連の行為は、自分がつくった世界の出来を神が指差し確認をしているかのような風情だが、「美しかったから」と言葉が変わるだけで、こんなにもヴィヴィッドな表現になる。それはこの壮大な一幕が、読者の心や記憶のうちにあるもっとも美しい光景を強く喚起するからだろう。このような新鮮な発見が、本訳書にはある。聖書を読んだことのない人にもぜひお薦めしたい。エデンの園への途上に置かれた神の未知なる創造物「ケルビム(通例、智天使として知られる)」や、神の子らと人間の娘たちとの間に生まれた「巨人たち(ギガンテス。ヘブル語ではネフィリム)」、ノアが六百歳の折に起きた、神による大洪水と箱船物語、悪徳の町ソドムが神によって殲滅されるさま、こうした情景はまるでSFを読むように楽しむこともできるから、まずはそうした興味からひもとくのでもいい。旧約聖書は神と人間との契約の物語だ。その中心にいる神は「エル・シャダイ」「エル・ロイ」「キュリオス(主)」等と呼ばれ、その正体は明らかではない。今回の現代語は、聖書世界が喚起するイメージやメッセージ性の多様さの不思議を再認識させる効果があると思われる。


■型破りな歴史家の自伝的インタビューが明かす同時代像

歴史と日常 ポール・ヴェーヌ自伝
ポール・ヴェーヌ著; 法政大学出版局; 2800円; 4-588-00746-7

ヴェーヌを読んだことがないからこの本は読まない、と言わないで欲しい。ヴェーヌ自身はこのインタビュー集を「自己中心的」と説明しており、たしかに彼自身のことについての質問に答えているわけで、それゆえ「自己中心的」なのは避けがたいのだけれど、人生とは他人や環境との係わり合いの中から生まれるものなのだから、本書はつまりヴェーヌが生きた時代の同時代史でもある。例えば、ミシェル・フーコー。ヴェーヌは彼のようになりたかったと告白し、フーコー自身の言葉からは窺い知れないようなその日常のエピソードを披露する。「フーコーのうちには、幾人ものフーコーがいて、その多様性が彼を苦しめていました。それがヒステリーのもとで、自己嫌悪に陥っていました」。フーコーをスキャンダラスな目付きで見ようとする研究者と違い、ヴェーヌが明かす友人としてのフーコーの姿には、その多様性ゆえの素晴らしさと魅力がある。「フーコーの思想は難解ですが、それは実は誤解からきていて、その思想が理解されたら、ある直観の統一性と整合性のあることが分かります」。また、レイモン・アロン。彼はコレージュ・ド・フランスの教授職へヴェーヌを推挙しておきながら、後にヴェーヌとは思想的にも信条的にも対立する。ヴェーヌがアロン派の学生の前で、古代ギリシアにおける「自由と平等」の観念はこんにちのそれと意味が異なる、ということを教授して、「価値の普遍性」を訴える学生たちの怒りを買った、という一幕は象徴的だ。彼がコレージュ・ド・フランスでローマ史講座の教師になったのは、型破りな歴史書『パンと競技場』(法政大学出版局)が認められたからだが、本人きっぱりと「あれは失敗作です」と述べる。彼にとってそもそも「知的な仕事」とは、「きわめて利己主義的なことだ」という。「わたしにとって重要な問題は学問を発展させたり、真実を普及させることではなく、ただしく考え、自分をみがきあげ、何も見逃さず、自分を変え、自分を完成すること」であり、それは実は自己愛というよりは義務感なのだ、と。本書はアナール学派とは一線を画した彼自身の歴史観の一端を示しているが、ほかにも、共産党への入党と離脱の興味深い経緯や、詩人ルネ・シャールへの傾倒(彼は『詩におけるルネ・シャール』法政大学出版局刊という大著をものしている)といったエピソードもある。何より根っからの登山愛好家としての自分を語る時が生き生きしている。キリスト教が「苦手」なこともあって、キリスト教以前であるギリシア・ローマ史の研究を選んだという歴史家の素顔によぎる陰影を、インタビュワーが巧妙に引き出しており、たいへん面白い読み物となっている。


■出版文化が技術革新とともに大きく花開き大衆化した江戸時代を活写

江戸時代の図書流通
長友千代治著; 仏教大学通信教育部 / 思文閣出版; 2200円; 4-7842-1119-5

グーテンベルクの発明による活版印刷が西欧で開始されたのが、15世紀半ば以後で、それから数百年ののち、17世紀頃より、江戸期日本では木版による印刷本が登場する。それまでの時代は、書物といえば写本が主流で、読者も家柄の良い階級に限られていたが、木版による摺本の誕生は、書物が平民を含む広い読者層へと普及していく端緒となった。本書はそうした江戸時代の出版事情について、当時の典籍を駆使しながら解説した、興味深い成果である。その昔、出版社は小売書店でもあり、書籍の製作は、規模の上で現在の出版業と比べて言えば、完全な手仕事として、あたかも家内工業的な趣があった。作者の存在は売文家としてのそれであり、著作権はなく、原稿料をもらうだけで、版元の立場の方が断然上だったようだ。今で言う写植や組版の仕事をするのが筆耕、挿絵を描くのが画工、製版をするのが板木師と呼ばれる彫刻師で、印刷は版摺が行う。摺られた紙を折って丁合を取り、包丁で断裁し、表紙掛けをして冊子に綴じるという製本過程はそれぞれ分担されており、技術を要する表紙がけは丁稚が、糸で綴じる作業は女性が行う仕事だったようだ。行商による販売や貸し本などが盛んで、男女を問わない売り子が宣伝文句もなめらかに客へ本を薦める様が、当時の多くの図版付きで説明される。今も昔も変わらないのは、教養書よりも「重宝記」の類の家庭向きの実用書や好色本が売れたということで、民衆の読書に対する姿勢は自由で気軽なものだったようだ。寛永15年(1638年)頃刊行された『清水物語』は当時、2000部から3000部も売れたというから、たいしたものだ。2万件を超える書店が存在する現代と比べれば、本屋の数は大坂や京都を中心にその1%にも満たないし、そもそも人口が違いすぎる。正確な記録かどうかは別として、江戸時代の日本はいわば出版ルネサンスを迎えていたわけである。本書ではさらに出版広告の起源や、本屋が製薬や売薬および売薬の取次事業へと多角化していった例などを取り上げている。今でいうところの「読み聞かせ」である、本の講釈や講談の発展のエピソードも興味深い。読書人必読必携のユニークな研究書である。


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