◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
2002年11月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
[02年11月11日]
■生前最後の論文集は、老いと病いにもかかわらず喜びに満ちている
批評と臨床
ジル・ドゥルーズ著 守中高明訳 谷昌親訳 鈴木雅大訳
河出書房新社 サイズ:四六判 / 310p
ISBN:4-309-24263-4 \3,500 発行年月:2002.10
原著は93年刊。その2年後に著者は投身自殺しているから、文字通り最後の書である。未発表のものを含め、17篇の論考を収録。著者好みの作家や哲学者たちを縦横に論じた卓抜なエッセイ集だ。かつて彼は『消尽したもの』では疲労について語り、ガタリとの最後の共著『哲学とは何か』では、老境を迎えて初めて問うことのできる哲学と、哲学者の使命としての「概念の創造」について語った。本書では、『意味の論理学』や『カフカ』以来の本格的文学論が展開される。ドゥルーズの著作は強いて言えば三つに立て分けられるかもしれない。すなわち哲学史家としての業績と、政治哲学者としてのガタリとの共著、そして本書のような批評家としての成果である。それらは分かちがたく結びついており、この最後の著書の重要性はそうした結合のエッセンスを端的に示していることにある。何度読んでも味わい深い。彼の哲学書についていけなかった読者も、本書なら割合に入り込みやすいのではないか。彼はルイス・キャロルやベケット、ホイットマンやメルヴィル、T・E・ロレンスなどの英米語圏出身の作家を好んで取り上げる。特にアメリカ文学はドゥルーズにとって、普遍的人民の語りが生み出される場所である。ここで言う普遍とは、永遠にマイノリティの側にある言葉であって、抽象的な「人類」を指すわけではない。移民たちのそれぞれの言語は、グローバルな支配の言葉とは正反対のものであるとドゥルーズはとらえる。常に未完成で常に自らを生み出しつつある生成変化。接近の途上の中間地帯にあって働き続けるような創造力。逸脱や錯乱から生を解き放つひとつの「健康の企て」。それが文学であり、書くことの力であると彼は考える。この自らの内発的な創造力について語ることこそ、ドゥルーズが考察対象のジャンルを問わず、生涯を通じて焦点としてきたものではないかと思う。本書において文学論は、併載された哲学論と相通ずる。プラトン、スピノザ、カント、ニーチェ。特にスピノザだ。本書で最後に置かれているのは、『エチカ』の三層構造を見事に概括したテクストである。ドゥルーズは『エチカ』に還る。本書は「最後の著書」ではなく、ここからもう一度ドゥルーズの諸著作に往還していけるゲートのようなものだ。読者は本書の最後のページから、『スピノザ』(最近改訂版が平凡社ライブラリーより刊行された)の第四章「『エチカ』主要概念集」に移動することもできる。例えば「自由」の項目に行き、内発的な創造力を自らのうちに発見することができるだろう。哲学はそこから開始される。生成変化の喜びがそこにはある。ドゥルーズとは、哲学の開始そのものである。
■近代の制度的知によって異常視された人々の系譜を丹念にたどる名講義
ミシェル・フーコー講義集成コレージュ・ド・フランス講義
5
異常者たち 1974−1975年度
ミシェル・フーコー著 慎改康之訳
筑摩書房 サイズ:A5判 / 403,10p
ISBN:4-480-79045-4 \4,800 発行年月:2002.10
大感激だ。フーコーの幻のコレージュ・ド・フランス講義がいまここに一個の全体として甦る。優秀なヘーゲリアンであり哲学史家であったジャン・イポリットの死後、そのあとを継いで、彼は「思考諸体系の歴史」と総題を付された講義を1971年から開始し、エイズで死去する1984年まで続けた。本書では、5年目にあたる1974年から1975年にかけての、「異常者たち」と題された講義を収録。全部で11回の講義の中で、精神医学や司法の価値基準から逸脱する人々の群を、セクシュアリティを軸に丹念に追っていく。性的逸脱者はなぜ犯罪者とされたのか。近代社会は彼らをどのように囲い込み、位置付け、定義したか。そもそも何が異常とされたのか。両性具有者、道徳的怪物、矯正されるべき者、自慰する子供などをめぐって、フーコーの肉声を実際聞いているかのように、その知的刺激に興奮しながら読み進めることのできる、稀有な書物である。当時の講義の様子を伝える証言によれば、すし詰め状態の教室に彼は颯爽と登場し、準備した原稿を息せき切って読み上げる。聴衆を感化せずにはおかない明晰な講義が終わると、「学生たちは教壇へと走る。彼と言葉を交わすためにではなく、テープレコーダーを停めるために。質問はない。人込みの中に、フーコーは唯一人残される」。フーコーはこう漏らしたという、「私が提示した問題について議論を交わす必要があるのです。ときには、たとえば講義の出来がよくなかったときなど、ほんの一つの質問によって全体が軌道修正されることにもなるでしょう。しかしそうした質問が出ることは決してありません。(……)フィードバックの手段がないために、講義は舞台上演のようなものになってしまいます。(……)そして講義を終えたとき、私には完全な孤独感が……」。聴衆がなぜ質問をしなかったのか、あるいはできないほどに圧倒されていたのかは、本書を読めばその雰囲気が分かるかもしれない。毎回の講義時間はわずか一時間ちょっと。フーコーにしてみれば、質問攻めにあって時間を延長することは少しも苦ではなかったろうが、聴衆はたしかに、あたかも演劇や映画に接したように、溢れかえる感想を胸に、講義の断片を反芻して陶然と帰途についたのかもしれない。当時フーコーは40歳代後半、その名声は『言葉と物』や『知の考古学』、『狂気の歴史』などの優れた著書を通じて、すでに広く知られていた。いまや本書の読者は、各講義を読み終わるごとに教壇に駆け寄って、自由にフーコーに質問することが可能だ。いや、これは比喩ではない。幸いにも日本ではフーコーの著作のほとんどが邦訳されている。彼は探索するに足る領域を読者に残しているのだ。「講義集成」シリーズは全13巻を予定している。原書もまだ数点しか出ていないから、完結まで遠大な計画になるだろう。
[02年11月17日]
■単行本未収録の重要テクスト満載、全2巻で41篇を収める論文集
アーレント政治思想集成
1組織的な罪と普遍的な責任
アーレント〔著〕J.コーン編 斎藤純一共訳 山田正行共訳 矢野久美子共訳
みすず書房 サイズ:A5判 / 285p
ISBN:4-622-07012-X \4,800 発行年月:2002.10
再評価の機運が近年ますます高まって、新訳改訳や文庫化が着々と進んでいるアーレントだが、その中でもこの「政治思想集成」全2巻はぜひ読んでおきたい論文集である。1930年から1954年までに発表されたものを主体に、単行本未収録だがアーレントを理解する上でたいへん貴重なテクストが満載されている。第1巻には22篇、続刊予定の第2巻には19篇を収める。編者はアメリカの学者でジェローム・コーン。原書は1994年に英米で出版された、"Essays
in Understanding"だ。もともとドイツ語で書かれてあるテクストについては、訳者の判断で、英訳ではなく(ちなみに英訳はいずれもアーレント自身によるものではない)ドイツ語原典から訳出したり、あるいはドイツ語原典と英訳双方を参照したりしているようだ。第1巻には、1930年から1946年にかけて発表された論文や書評を収める。冒頭を飾るのは、ギュンター・ガウスによる1964年(この日付だけ例外だが)の長編インタビュー「何が残った? 母語が残った」であり、亡命ユダヤ人アーレントの私的な経歴とその学問的政治的姿勢を知る上で非常に重要だ。何はなくともこれだけは読まなくてはならない。続いて読んでおきたいのは、ドイツ語で書かれ、1946年に英訳が先行発表された「実存哲学とは何か」である。ヤスパースの元で学び、ハイデガーとも交流のあった彼女が、彼らの哲学の要諦や、彼ら以前のキルケゴールやシェリングなどの思想を要約し、実存哲学のコンパクトな解説を試みている。さらに、「『ドイツ問題』へのアプローチ」「組織的な罪と普遍的な責任」「ファシスト・インターナショナルの種」など、いずれも1945年に英語で発表されたテクストにおけるナチズム批判も丹念に読みたい。彼女はドイツ敗戦直後にこう書いていた。「ファシズムがひとまず敗北したことは疑いないが、私たちは同時代のこの悪の極みを完全に根絶したとはとうてい言いがたい。その根は深く、こう呼ばれている――反ユダヤ主義、人種主義、帝国主義」。彼女は終わりなき人種主義の影に敏感だった。それは終戦が実際彼女には開放感をもたらさなかったことを意味しているだけでなく、終戦に伴う暗澹たる気持ちが根拠のない感情的なものではなかったことを示している。現代人の原体験がここにはある。
■英米語圏で「基本図書」と好評の、現代思想を読み解くキーワード集
現代思想芸術事典
アンドリュー・エドガー編 ピーター・セジウィック編 富山太佳夫訳者代表
青土社 サイズ:四六判 / 389,58p
ISBN:4-7917-5967-2 \3,200 発行年月:2002.11
原著は1999年に英米で刊行された『文化理論の基本概念集』である。フランクフルト学派や構造主義などの独仏の哲学潮流や英米の分析哲学、さらに文化人類学、マルクス主義、精神分析、社会学、政治思想、言語学、芸術、批評理論とカルチュラル・スタディーズ等々を横断するもので、まさに現代思想を読み解く絶好のツールとなっている。索引が人名だけなのは少々残念だが、279項目に及ぶキーワードが丁寧に解説されており、手堅い内容。項目の大半には参考文献が指示されていて、その書誌一覧は巻末にまとめられている。また、項目として立てられているキーワードは、各解説文の中ではゴシックで表記されているから、それらを頼って、各項目へとサーフィンしながら、自分なりに思想地図を描いていくこともできるだろう。どのような項目が掲載されているか、「さ行」の一部から例を挙げると、政治経済学−精神分析−制度−世界観−セクシャリティ−接合−セリー音楽−全体論……といった具合。ちなみに全体論には11頁も充てられている。本書は二段組なので、これは長文の部類だ。英米語圏では基本図書として評価が高いとのことである。
■13年ぶりの待望の第二版は、項目・付録ともに大幅増補
岩波仏教辞典
中村元ほか編集 岩波書店 本体7000円 20cm 1246p
4-00-080205-4 / 2002.10
『キリスト教辞典』『イスラーム辞典』に続く、岩波の小型辞典の快挙。初版の刊行は1989年で、今回刊行された第二版では、チベット、東南アジア、インド思想、近代などの関係用語を重点にして、約600の新項目が追加され、合計4800項目を収録。年代的にも地域的にも仏教の伝播したほぼ全域をカバーしたという。近年の仏教学の成果をふんだんに取り入れて、旧項目を全面的に加筆訂正。中村元氏をはじめとする編纂の中心者のほとんどはすでに死去しているものの、仏教学者のみならず、中国哲学や国文学の研究者を糾合し、数多くの執筆者と協力者が動員された学際的な労作である。仏教ゆかりの用語や経典、典籍、人名、寺名、地名、仏具、儀礼、習俗についての事項のほか、美術、建築、文学といった領域も渉猟し、多数の日本文学の古典から用例を収録している。また、サンスクリット語やパーリ語などの原語が表記されているだけでなく、原語から引ける索引も充実。付録に簡潔な「サンスクリット語の手引き」を収録している。付録はほかに、寺院や仏塔、仏像や曼荼羅などの図解や仏教史略年表などであり、こちらも増補されている。仏教の多様性を凝縮した一冊だ。
■現在の社会秩序に対する果敢な政治的挑戦のヴィジョンを示す
正義の根源
ドゥルシラ・コーネル著 仲正昌樹監訳 川久保文紀〔ほか〕訳
御茶の水書房 サイズ:菊判 / 328p
ISBN:4-275-01931-8 \3,200 発行年月:2002.7
『自由のハートで』(情況出版)に続く、邦訳第二弾。きわめて理論的ではあるが、労働運動や反人種主義の実践の場から生みだされてきた強靭な知の結晶である。原書は2000年に英米で刊行された"Just
Cause"。「正当事由」とか大義とかいった意味合いだ。副題には「自由、アイデンティティ、諸権利」とある。本書は二部から成る。第一部は「法と政治における表象と理想」と題し、5つの論考が収められている。彼女独自のフェミニズム法哲学が目指すのは、ポストモダンの現代における新たなセクシャリティ観や家族観の構築であり、それは広く同時代の思想家やフェミニストたちとの討論へと開かれている。カントやヘーゲルなどの古典的哲学、ラカンやデリダなどの現代思想の再読解を背景に、労働者や民族的マイノリティの権利を擁護し、自由なイマジネーションの拡張を訴える。第二部「何故権利なのか?」では、3つの論考が収録されている。中でも、重要論文「労働者の権利と正当事由を求める法律の擁護」と、それに対するリチャード・ポズナー判事の批判的コメント「ヘーゲルと解約任意の雇用契約」は、冒頭で述べた言葉を繰り返すが、極めて理論的かつ実践的な成果である。本書を彩るのは、そうした討議的な過程であり、その継続的姿勢だ。彼女の存在は、ロールズ哲学が幅をきかせるネオリベラリズム思想の分野では異端であり、カルチュラル・スタディーズの相対主義的潮流からも一歩外れており、かといってフランス現代思想を流用する批評家ほど政治的実践から超然としているわけでもない。アメリカ的「自由」のメリットを最大限に活用しながら社会民主主義的諸価値も追究するというハイブリッドな姿勢が、その魅力なのかもしれない。
[02年11月26日]
■グローバリゼーションの功罪を学ぶ上で必読の基本図書
〈徹底討論〉グローバリゼーション賛成/反対
スーザン・ジョージ著 マーティン・ウルフ著 杉村昌昭訳
作品社 サイズ:A5判 / 157p
ISBN:4-87893-521-9 \1,500 発行年月:2002.11
タイトルにある通り、グローバリゼーションの是非をめぐって、賛成派と反対派が喧喧諤諤の議論を展開する「徹底討論」の書である。世界屈指のエコノミストであるウルフ(賛成派)と、世界資本主義批判の論客ジョージ(反対派)が2001年秋に、二日間にわたって討論したものの記録だ。ウルフは厳密に言えば、賛成派というよりは、市場を通じた国際的な経済統合としてのグローバリゼーションを改良しながら促進する、「推進派」であるといった方がよさそうだ。こんにち、ちまたに賛成、反対のそれぞれの立場の本は多く出回っているが、異なる意見がこうして一冊の書物にまとめられているのは、読書の便宜としてはベストだろう。また、本書は対談集であり、理論書のような難解さがないのがいい。豊富な情報量は対談につきものだが、これも魅力である。端的に言えば、ウルフの議論は大枠では世界経済を理想主義的に是認するものであり、ジョージはそこに各国の具体的な例を持ち出して、理想のほころびを指摘している。ウルフ側の見地に立てば、ジョージの改革案こそラディカルな理想主義であり、現実のエコノミストたちはせいいっぱいに最大限有効な経済改革を推進してきた、ということになるかもしれないが、だからと言って、どっちもどっちだ、と賢しらに読むのはほとんど無益である。ウルフの紳士的な口調の背後に弱肉強食の残酷な論理が見え隠れしているのをどの程度読み取れるかが、本書を読み解くポイントのひとつだろう。さらに、ジョージのグローバリゼーション批判、つまり大国中心の「自由」を世界に押し付ける過程としてのグローバリゼーションに対する様々な角度からの批判が、どのようにして有機的に繋がりあった代替プランとして機能しうるか、真摯に考えてみることが、第二のポイントになるだろう。編集上の配慮として、各頁の上段に、ウルフとジョージ双方の主張から抜きだした「一言」が掲げられており、ここを一通り拾い読みするだけでも得るものはある。巻末には、パリ在住の日本人研究者によるジョージへのインタビューが特別掲載されている。ひとくちにグローバリゼーションといってもその問題規模の大きさゆえに、とても勉強してみる気になれないでいる読者は多いと思う。そうした読者にとって、本書はまず最初に読んでみるべき基本図書のうちの貴重な一冊だろう。強くお奨めできる好著である。
■サパティスタとは何か。前史から現在まで、充実の本格的研究書
インターネットを武器にした〈ゲリラ〉反グローバリズムとしてのサパティスタ運動
山本純一著、慶応義塾大学出版会、ISBN:4-7664-0952-3、2002.9、\3,800
メキシコの大衆的な社会活動のひとつである「サパティスタ運動」にかんする、日本初の本格的研究書であると言っていいだろう。著者の希望でタイトルがこのように決まったようだが、「9.11」の影響で少し誤解される節がある。サブタイトルがもしなかったら、本書は書店店頭で「不当な」扱いを受けるところだったかもしれない。しかし、著者がサパティスタ運動を考察する上で「インターネット」を重要なキーワードにしているのは訳がある。サパティスタ運動はメキシコ合衆国南端のチアパス州で90年代に起きた革命武装蜂起であり、その目的は先住民をはじめとする国民を抑圧する悪政の撤廃と草の根民主主義の実現であった。EZLN(サパティスタ国民解放軍)が1994年1月1日に起こした武装蜂起の3ヵ月後、チアパスから遠く離れたアメリカのペンシルヴァニア大学の一学生が、彼らの情報を網羅的に収集し公開するために、非公式ホームページを開設する。メキシコ南部で何が起こっているのか。当事者や為政者たちはどう発言しているのか。ラカンドン密林という「辺境」での出来事は、インターネットを通じ、世界中に知られることになったのだ。EZLN自体も当初から言論活動を展開していたが、彼らの発言は支援者たちによってより広範な人々から、同時代の世界史的問題として注目を浴びることになった。そもそも「サパティスタ(サパータ主義者)」とは、1910年のメキシコ革命の指導者の一人エミリアーノ・サパータに由来する言葉である。メキシコ革命は植民地主義から民衆の解放をもたらした重要な事件であり、サパータは解放戦線のリーダーの一人であったが、主流派から暗殺された。その主流派は民主化ではなく、革命の名のもとに一党独裁体制を敷き、その圧政は2000年まで続いたのだった。サパータは革命の体現者であるとともに、反体制のシンボルでもあったわけだ。本書はEZLNの運動史であり、歴史的背景を含め、インターネット上の言論闘争の意義と変遷を細かく検証する一方で、現実世界で起きた政府軍による虐殺と「低強度戦争」の実態も分析している。詳細な年表や、関連主要ウェブサイトとメーリングリストの情報、資料と文献の一覧なども充実。「あとがき」で著者は、「残りの人生をかけてサパティスタの研究を継続」し、「大学を退職したら、チアパスにも居を構え、研究対象とするだけでなく、文字通りサパティスタと共闘、共生できればと強く思う」と述べている。本書のように非常に充実した研究書が生まれたのは、著者のこの愛情によるものだろう。一「辺境」で起きた事柄を扱った専門書としてではなく、市民運動がいかに言論戦を展開し、政府と関わりあいながら事実的な成果を獲得していくかを知るための貴重なモデルケースとして、政治に高い意識を持っている(あるいは持とうとしている)市民に広く読まれて欲しい快作である。
■サパティスタ運動の副司令官が赤裸々に語る、政治闘争の真実
マルコスここは世界の片隅なのかグローバリゼーションをめぐる対話
イグナシオ・ラモネ+マルコス〔著〕、湯川順夫訳
現代企画室、新書 / 223p、ISBN:4-7738-0202-2
発行年月:2002.9、本体価格: \1,600
メキシコの民衆的革命勢力であるEZLN(サパティスタ国民解放軍)の副司令官マルコスのインタビューと、彼らの政治的な宣言集10編を収める。インタビュワーは、フランスの月刊紙「ル・モンド・ディプロマティーク」の編集総長イグナシオ(あるいはイニャシオ)・ラモネ。マルコスらの肉声に触れることのできる手頃な一冊だ。マルコスは、米ソ冷戦を「第三次世界大戦」ととらえ、冷戦後の情況を「第四次世界大戦」と比喩する。それは「グローバリゼーションの信奉者とさまざまな方法でそれに反対しているすべての人びととの間で戦われて」いる戦争である。「グローバリゼーションの理想は、世界を一つの大企業に変えてしまい、この大企業をIMF、世界銀行、OECD、WTO、アメリカ合衆国大統領から成る取締役会によって管理すること」だ、と彼は批判する。グローバリゼーションに反対する一切の対案はネオリベラリストたちから「空想的、ユートピア的で非現実的であり、かつ危険でもある」とみなされがちだが、そうしたネオリベラリストたちは、グローバリゼーションの論理がメキシコをはじめ、全ラテンアメリカにおいてとりわけ先住民たちを周辺的境遇へと追いやっている悲劇を無視しているのである。金融資本の強権と市場の基準が人類の一部を容赦なく切り捨てるような世界経済の現状に対し、「もうひとつの世界が可能であるという確信にもとづいて別の異なる人間関係を建設できるという可能性」を表明するのが、サパティズム思想である。マルコスは本書で、そうしたサパティズムの基本的信条のもと、EZLNがいかに政治活動を行い、言論闘争してきたかを振り返りながら、将来的な展望をも述べている。平易で物静かな語り口だが、内に秘めた情熱的な熱い思いが伝わってくる。読者は彼から「諦めない」ための勇気を得るだろう。励まされる小品である。
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