◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
2002年12月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
[02年12月2日]
■待望の新訳を読む前にこれだけは知っておきたい
夜と霧 新版
ヴィクトール・E.フランクル著 池田香代子訳 みすず書房
本体1500円 20cm 169p 4-622-03970-2 / 2002.11
一心理学者として自らのユダヤ人強制収容所体験をつぶさに描いた衝撃のロングセラーの新訳である。訳者は『ソフィーの世界』や『世界がもし100人の村だったら』など、数多くの話題作の邦訳を手がけてきた池田香代子さん。世界で読み継がれてきたフランクルの古典が、平易な日本語訳により新しい生命を得て、現代の読者へのまたとない贈り物として再び世に出された。清冽な新訳が胸に沁みる、みすず書房の快心作だ。この「新版」は、1956年に霜山徳爾氏による邦訳で刊行された旧版とはいくつかの点で異なるので、明記しておきたい。まず霜山版の底本だが、戦後間もなく刊行された1947年版である。この原著初版の邦訳である霜山版では、まず冒頭に「出版社の序」がおかれ、続いて、強制収容所を歴史的地理的に詳細に解説した、訳者による長編論考(2段組で70頁近くある)が掲載されている。そして本編の邦訳のあとには、資料編として強制収容所の実態を暴く写真や図版が多数収録されている。一方、池田訳新版の底本は、1977年刊の改訂版であり、初版とはかなりの異同があるうえ、幾つかの重要な加筆訂正がなされている。例えば初版で頻出した「モラル」というキーワードは改訂版ではわずか2箇所を残して大部分が削られている。また、初版では一度も出てこなかった「ユダヤ」という言葉は改訂版で明示される。これがなぜなのかという疑問については読者各自が思いを巡らせていただくとして、この改訂版をもとにした「新版」では、初代訳者の霜山氏によるフランクル回想録「『夜と霧』と私」と、池田氏による簡潔な訳者あとがきのほかには、邦訳旧版にあったような長大な時代背景の解説や、資料写真はない。そのかわり、本編を味読できるように、ゆったりと本文が組まれ、段落分けや節立てにも工夫が見られる。
勘違いしないように少し注意しておきたいのは、この新版の底本が、訳者あとがきで次のように明示されている点である――本書は『……それでも生にしかりと言う』(ケーゼル出版、1997年ミュンヘン刊)所収の「心理学者、強制収容所を体験する」を訳出したものである――、ここの事実関係に注意したい。と言うのも、フランクルをこれまで読んだことのある方はおわかりになると思うが、『……それでも生にしかりと言う』というタイトルは、春秋社から1993年に邦訳刊行され、これまたロングセラーになっている『それでも人生にイエスと言う』のことではないか、と誰しも考えるだろうからである。実際これらのタイトルは同じものだ。そこで要するに、春秋社版『それでも人生にイエスと言う』の一部が「心理学者、強制収容所を体験する」つまり『夜と霧』なのだろうか、と勘違いされる方がいるかもしれないが、それは違うのだ。講演集『それでも人生にイエスと言う』と『夜と霧』はまったく別のものである。原著の版元であるケーゼル出版がこのふたつの著作を一冊にまとめたから、上記のような訳者の説明になるのである。些細なことかもしれないが、これはそれぞれの邦訳と原書に当たってみないとわからないことで、特に新版にはそうした煩瑣な断り書きがないので、混乱されるかもしれない読者のために注記しておきたい。
つまり旧版と新版はそれぞれ別個の書物であり、それゆえ、旧版というより「霜山版」は新版発売後も絶版にはならない。これはなかなか面白い試みだ。霜山版と池田版、2点同時に購入してもまったく損はない。ちなみに本書はいわゆる「研究書」ではないので、収容所特有のユダヤ人のスラングについて細かい注記はない。中でも特に意味を測りにくいスラングのなかに、「ムスリム」がある(霜山版では「回教徒」と訳されている)。これは字義どおりにイスラム教徒を意味している、というわけではない。「ムスリム」は、限りなく死に近づいた被収容者を指すスラングである。精根尽き果てて身を折り伏しうずくまる姿が、イスラム教徒の礼拝の外見に似ていたから、そう呼ばれるようになったのだ、という説が有力である。もはや、生きているとはとても言えない、魂が抜けたようになり肉体だけがかろうじて現存しているような死にかけた姿、それをムスリムとユダヤ人たちは呼んだのである。この計り知れない絶望への道程において、フランクルはいかに生き延び、周囲のことを見つめていたか。漆黒の闇のように暗い非人間的体験の最中に時折、人間性の輝きが一閃する。現代の日本人を「平和ボケ」だと自嘲することはたやすいが、平和ボケとは平和が日本人をダメにしたということではない。平和とは何であるか、大切な一事を日本人が忘れつつあるということなのであり、忘れつつあることすら忘れかけていることこそ、問題なのである。そうした意味での平和ボケの中で、フランクルが本書に描いた悪の深淵と人間性の煌きは、現代人の目を醒ます衝撃を今もなお持ちうるだろう。本書とあわせて読むべき書物は数多いが、さきほど触れた「ムスリム」という極限状況について哲学的に考察した書物に、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』(月曜社)がある。参考になるだろう。
[02年12月9日]
■世界各地の戦場で人道支援する外科医が明かす、想像を絶する現実
ちょうちょ地雷 ある戦場外科医の回想
ジーノ・ストラダ〔著〕 荒瀬ゆみこ訳 紀伊国屋書店
サイズ:B6判 / 244p ISBN:4-314-00929-2 1,600円 発行年月:2002.12
「値打ちのある作品を著したなどと、思いちがいはしていません。ただ、これを読もうとお決めになった方には、戦争はすべからく恐ろしいものだと、確信していただければと思います。そして、どれほど多くの人が黙って苦しみに耐えているか、目をそらさないでいただきたいのです」(著者による「まえがき」より)。ちょうちょ地雷(あるいは「緑色のオウム」とも言う)とは、子供を標的にした卑劣な対人兵器だ。上空からヘリで何千個とばら撒かれるロシア製の小型の地雷で、蝶か鳥のように舞い降りてくる。かつて、かのアフガニスタンでも使用され、おもちゃだと思って手にとった無辜の子供たちが手足や視力を奪われた。本書は、そうした戦地の真実を44の短編で断章風に描き出した卓抜なエッセイである。著者は、アジア、中近東、南米、アフリカなどの各国の紛争地で長年医療活動に従事してきた外科医であり、戦災者の治療とリハビリに携わる非政府人道組織を創設したイタリア人男性だ。911事件以後のアメリカの報復戦争に反対する立場から、ベルルスコーニ政権による35億リラにものぼる資金援助を断乎拒否したこともある、気骨ある人物である。紛争地域で繰り返される愚行を淡々と描写していく本書を読み進めるごとに胸に迫ってくるのは、「こんなことがあってはいけない、絶対にいけない」という思いである。あまりに残酷な現実に、引用すらためらわれるほどだ。ページをめくるたびに、各地の戦火について、安全な場所でただ漫然と読んでいる自分に気づいて、責め立てたくなる。これはいまも世界のどこかで起きていることであり、また今日も数多くの人々が死んでいくのだ。読み終えればすっかり喉が細り、食事が通らなくなっている。それでも、知らないでいるよりかはましだと痛切に感じる。殺されるのは兵士たちだけではない。子供たちは「未来の希望」ではなく、「将来の兵士」であるがゆえに標的にされる。死神の手に委ねられた人々、助けようとする人々、不衛生な診察所と不十分な器具、慢性的な人材不足。例えばエチオピアのとある病院では、向かいの赤十字本部に在庫してある血液の利用を許されないまま死んでいく少年がいた。紛争地域においては、本当は生き延びることができるはずのけが人や病人すら、緩慢な死に追いやられていく。外科医はあまりにも不条理な事態に激怒する。日常と言うには冷酷すぎる現実。どんなに恐ろしくとも、本書から目をそらさずにいたい。ストラダ医師は現在も、アフガニスタンのカブールで医療活動を続けているという。
■美術史研究の不滅の金字塔2作を全7巻で完訳する壮挙
美術史 1 古代美術
エリー・フォール著 国書刊行会
本体4500円 22cm 342 10p 4-336-04461-9 / 2002.10
古典的名著がついに完訳される。フランスの美術史家フォールといえば、これまで法政大学出版局の叢書ウニベルシタスより『約束の地を見つめて』(1973年)というわずか一点のみが邦訳されていただけだったが、このたび彼の主著であり、名作の誉れ高い『美術史』4部作(1909-1920年刊、1921年、1924年、1926年改訂版)および、この4部作の理論的集大成とみなされている『形態の精神』(1927年刊、1933年新版)の二大著書が、全7巻で邦訳刊行される運びとなった。関係者の並々ならぬ意気込みを感じるが、国書刊行会の優れた美術研究書と言えば、これまでも例えばバルトルシャイティス著作集などがある。そのバルトルシャイティスの岳父であるアンリ・フォシヨン(1881-1943)と同時代を生きた美術史家の双璧の一方がフォールなのである。作家のヘンリー・ミラーが緒言で示唆しているように、本書には、美を永遠なものとして不滅たらしめる高貴な輝きがある。この輝きを前にしてミラーは次のように讃嘆した。「すべてが失われ、すべてが忘れ去られてもいい、何も失われない、何も決して忘れ去られることはないことをわれわれが思い出すのであれば」。フォールは本書序文の冒頭でこう述べている、「芸術とは生を表現するもの、それは生と同じように神秘的である」。芸術は世界の意味を開示するものであり、人類が一体になることへの「誘い」である、とも彼は書いた。これらの定義は決定的である。なぜならば、本書は、芸術によって表現された、世界と人間とを包み込む美の高みについて語り、歴史を通覧しつつ美の謎を解き明かそうとするものであるからだ。初回配本となる第1巻「古代美術」では、先史美術、エジプトおよび古代オリエント美術、ギリシアおよびローマ美術が扱われる。図版多数。続刊は、第2巻「中世美術」、第3巻「ルネサンス美術」、第4巻「近代美術I」、第5巻「近代美術II」、第6巻「形態の精神I」、第7巻「形態の精神II』となる。次回配本は2003年2月に刊行予定の第6巻『形態の精神I』。以後四ヵ月ごとに配本予定であるという。一度読み始めれば、読者の胸の内に、人間の生と直結した「かたち」の美の輝きが、奔流のように流れ込む。驚異の書である。
■日本文化論という以上にアメリカ人の日本観が透かし見えてくる一冊
現代日本のアニメ『AKIRA』から『千と千尋の神隠し』まで(中公叢書)
スーザン・J.ネイピア著 神山京子訳
中央公論新社 サイズ:四六判 /
478p 図版16p
ISBN:4-12-003328-7 2,600円 発行年月:2002.11
著者はハーヴァード出身の才媛で、専攻は近現代日本文学。未訳だが『荒野からの逃走――三島由紀夫と大江健三郎の小説におけるロマン主義と写実主義』(1991年)という著書のほか、泉鏡花から小松左京、筒井康隆、倉橋由美子までを論じた幻想文学論(1996年)もある。日本アニメを研究するきっかけになったのは、大友克洋の名作コミック『AKIRA』を学生に見せてもらい、衝撃を受けてからだと言う。それが1989年のことで、爾来、本書がアメリカで刊行される2001年まで、数々の日本アニメを見てきたようだ。本書で取り上げられるのは主に劇場映画である。『AKIRA』『うる星やつら』『攻殻機動隊』『新世紀エヴァンゲリオン』、そして『風の谷のナウシカ』から『千と千尋の神隠し』に至る宮崎駿の映画など、合計23作品にのぼる。当初は女史は、日本アニメを異色な別世界のものと見ていた。しかし、「文化的な背景により、日本独特のもの」でありながら、その魅力は「普遍的なもの」である、と理解するに至るのだ。饒舌な大冊であり、精神分析や社会学、独仏現代思想やフェミニズム思想などを援用した見事なカルチュラル・スタディーズの成果である。特に、宮崎作品における「少女」を論じた諸篇や、ポルノアニメやSF作品における「身体」観を追った数編には見るべきものがある。全体としては間違いなく力作であり、国境を越えた秀逸な同時代論ともなっている。ただし、『はだしのゲン』や『火垂るの墓』を、戦争犠牲者の歴史性という観点から論じた第九章には、どうしても違和感が残るかもしれない。戦勝国に生きる者の視線が、敗戦国のトラウマの内奥にまで到達することはないのだろうか。『火垂るの墓』が見せる絶望の静けさを、実際彼女はもてあましているように見える。この静けさの真下にいかに深い淵が横たわっているか、見通しがたい水底に降りていくことが困難なのは、彼女だけではない。もとより彼女が重視しているのは文化を論じ尽くすことではなく、文化を「経験」することだった。日本のサブカルチャーを扱う研究は国内でも多く存在するが、一「ガイジン」の視線が照らす日本像を、いわゆるオタクたちがどう受け止めるか、興味深いものがある。余談だが、エピグラフに『美少女戦士セーラームーン』の名台詞がクレジットなしで掲げられているのは、日本のというより、海外のオタクたちへのちょっとしたウィンクだろうか。女史は小谷真理・巽孝之夫妻とも旧知の仲だそうだ。
■いまここにふたたび甦る、弟子たちが聞いたブッダの肉声
ブッダの教え スッタニパータ
宮坂宥勝訳 法蔵館 A5判 / 514,25p
ISBN:4-8318-7235-0 \7,600 発行年月:2002.10
仏教の膨大な諸経典のうち、もっとも古層に属するもののひとつとされ、ブッダの肉声を伝える経典であろうとみなされてきたのが、本書の原典「スッタニパータ」である。一部が漢訳大蔵経のうちに「義足経」として収められているが、パーリ語から日本語への翻訳としては、中村元博士による岩波文庫版(ワイド版も刊行)など数種ある。本書は高名な仏教学者による最新訳であり、「最初期の仏教について」と題された序文と、詳細な註解および長文の解説を付した大冊である。翻訳は明晰なので初心者でも親しめるだろうが、一般向けと言ってしまうにはいささか定価が高いし、ある程度の知識がないと、論文調で書かれた序文や解説をよどみなく理解するのは若干難しいかもしれない。しかしそれでも本書は定価に見合う、訳者の長年の研鑚成果であって、購入して損することはない。本文訳は5章に分かれる。解脱を蛇の脱皮に喩えた「蛇の経」など12篇からなる「蛇の章」、「宝の経」など14篇からなる「小さな章」、「出家の経」など12篇からなる「大きな章」、洞窟(=身体)、悪意、清浄、最上に関する「八つ〔よりなる詩句〕の経」など16篇からなる「八つの〔詩句よりなる〕章」、ブッダがバラモンおよびその弟子たちと質疑応答する「アジタ学生の問い」など18篇からなる「彼の岸への道の章」である。これらの章で説かれているブッダの教えは、いずれも具体的な例と巧みな比喩を用いた説得力に富む指針の数々であり、啓示宗教的な超越性には支配されていない。全篇が忘れがたい印象を残すが、例えば「口は災いのもと」であることを説いた第3章第10番目の「コーカーリヤの経」は、言論の混乱した現代に対し、なお多く教えるものがある。「人は生まれたときに、口の中に斧が生じる。愚者は悪しき語を話しながら、斧によって自分を斬る。非難されるべき者を誉め、あるいは誉めるべき者を非難する者は、口によってカリ(=賭博において最悪に不利な賽)を集める」。このカリはわずかばかりであっても、あらゆる財の損失に等しい、と。現代人が目の当たりにしているのは、まさにこの「カリ」であり、個人的な人間関係から民族間や国家間の関係に至るまでの様々な社会的文化的次元においてカリが引き起こしたところの、癒しがたい混乱ではないだろうか。様々な「正義」が乱立するこんにち、この仏典が説いた「善く生きる者を憎むことは最大のカリとなる」という教えには、よくよく熟慮すべきものがある。「善く生きる」とはいったいどのようなことか。答えは本書にある。
[02年12月17日]
■批判理論とシステム理論を乗り越え、新しい文化の視座を拓く試み
世界コミュニケーション
ノルベルト・ボルツ著 村上淳一訳 東京大学出版会
サイズ:四六判 / 290,15p ISBN:4-13-010090-4
3,800円 発行年月:2002.12
現代ドイツ屈指の論客が2001年に刊行した著書の邦訳である。ハーバーマスなどフランクフルト学派による批判理論の有効性の破綻を大胆に宣言し、現代社会を捉え直すための新しい枠組みを提示しようとする野心作だ。ボルツは現代を「世界コミュニケーション」の時代と呼ぶ。「経済がグローバル化し、政治が国家の枠を超え、世界規模のコミュニケーションが日常的現象になっている」のは疑問の余地がない、と。この時代を特徴づけるのは、世界とは「コミュニケーションの及ぶ範囲」であると理解されるという点と、知覚の対象から空間の次元が後退し、現在的で一時的な時間が前面に出てくるという点である。さらにこの時代には、メディアによる現実操作の魅惑と「技術のフェティシズム」が社会を覆い、世界中を結ぶ「単一世界」が演出される。フランクフルト学派が掲げる「理性」信仰はもはや頼りにならない。ボルツはそう指摘して、ルーマンの社会システム論を援用しつつ、批判理論でもシステム理論でもない、新たな世界像と文化理論を練り上げていく。空間論から時間論およびメディア論への移行。それは例えば隣国フランスのヴィリリオやボードリヤール、レジス・ドブレらが多くを語ってきた分野だが、ドイツでもボルツやキットラーを代表格に、従来の知のあり方を鋭く再審する機運は高い。本書では知のあり方を問う姿勢が、知識社会やユートピア像を問う姿勢ともなる。コミュニケーション技術の加速的進歩によって社会は変容し、そこに接続された人間の新しい身体が、今度はやがて知を変容させていく。そうした一種の「変容のループ」にボルツはたどり着くことになる。このループにおいて哲学もまた変容する。理性や道徳による自己権威化を脱するために、宗教的問いが示唆するものをボルツは再評価しようとするのである。日本人にとってこうした「宗教への回帰」は陳腐なもののように映るかもしれないが、それは甚だしい勘違いだ。宗教的問いとは、「意味」を問うことである。それは、学術的探究が目指す〈真理と非真理との峻別〉や〈倫理的分別〉とは異なる次元を開く問いなのである。「宗教的な問いは、信仰の盲点から学術の盲点へと、注目の視線を移動させる。そうなれば、神とは学術の盲点の一シンボルであることが判るであろう」。そうボルツは述べる。彼が回避しようとしているのは、学術的「神学」であり、神学的なものと宗教的なものの混同ではなかろうか。メディア(論)の究極的進化の彼方に神が立ち現れるわけではない。その意味で、ボルツは単に新しいだけの知の形態を水平的に拡張したいのではなく、知の淵源へと垂直的に掘り進んでもいるのである。ともすれば難解になりがちなあまたの翻訳書と違い、村上氏の翻訳は文脈を活かした読みやすいものとなっていることを、最後に特記しておきたい。
■ヘーゲル以来の包括的な法哲学が民主政治を根底的に基礎付ける
事実性と妥当性 法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究 上
ユルゲン・ハーバーマス著 河上倫逸訳 耳野健二訳 未来社
本体3800円 22cm 359p 4-624-01162-7 / 2002.11
ハーバーマス(1929-)の90年代の主著のひとつである『事実性と妥当性』(1992年)がついに邦訳される。全二巻で、まずは上巻の刊行だ。上巻では、序言と第一章から第六章までを収録。第七章から第九章までと、三篇の補論は、下巻に収められる。『公共性の構造転換』や『コミュニケイション的行為の理論』(いずれも未来社)における理論的成果を、民主主義の実践的徹底と法治国家論の基礎付けのための新たな法哲学の可能性へと拓いた重要作である。ハーバーマス特有の語彙にかんする予備知識が要求されるし、そのまま読んでもかなり噛み応えがある著書だが、避けて通れない一書であることは間違いない。ドイツではハーバーマス以後の世代の、ボルツ(1953-)やキットラー(1943-)、スローターダイク(1947-)やテーヴェライト(1942-)、マンフレート・フランク(1945-)といった面々がすでに長い年月を第一線で活躍しており、いまや彼らのさらに次の世代が台頭著しいわけであるが、それでもなおハーバーマスの発言の影響力は大きいようだ。本書は、法理論、法社会学、法史、道徳理論、社会理論などに分化し専門化した法哲学を、彼特有の「コミュニケイション的行為の理論」の多元主義的構造を反映させるかたちで、統合的に再構成しようとする果敢な挑戦であると言っていいだろう。彼自身の見取り図によれば、上巻では次の議論がなされる。
第一章は、コミュニケイション的行為の理論の基礎に関連する、事実性と妥当性の関係を論じ、従来の政治理論と法理論におけるこの二項の分裂を克服しようとする。第二章では、社会学的法理論と哲学的正義論との間の広大な領野を素描し、両者を包摂する理論的視座を準備する。これらの前振りのあとに、第三章と第四章では「法の再構成」と題し、権利の体系と法治国家の諸原理を彼の言う「討議倫理(ディスクルスエティーク)」(『道徳意識とコミュニケーション行為』岩波書店刊を参照)に則りつつ整理する。具体的に言えば、「自由で平等な市民の法的自己組織化というかつての理想が複合的社会においてどのように解釈し直されるのか」という問題が現代の議論を踏まえ、明らかにされる。続く第五章と第六章では、ハーバーマスが依拠している討議理論の試みが、法理論の中心的対象である、裁判実務の合理性問題や、憲法裁判の正統性問題との関連で検証される。討議理論は「科学的主義的還元や審美的同化に対して独自の規範的特徴を擁護しうるよう」、近代の道徳的-実践的自己理解を合理的に再構成する試みである、と彼は論じる。戦争や虐殺などの非理性の猛威によって、人間の理性への素朴な信頼は失墜し破壊されたが、それでもなお私たちは、自己批判的な「理性」を失ってはならないのだ、というのが、彼の信念だ。理性批判もまた理性の産物である、と。この理性と討議理論の中枢に「法」への考察が据えられる。ヘーゲル以来の彼の包括的な法哲学は、ロールズ亡きあと、いやましてその高峰ぶりを私たちに示している。
■現代社会の深層を照らす、いまなお極めてアクチュアルな時事論集
アーレント政治思想集成 2 理解と政治
アーレント著 J.コーン編 斎藤純一共訳 山田正行/共訳 矢野久美子/共訳 みすず書房
本体4800円 22cm 309 6p 4-622-07013-8 / 2002.11
第1巻刊行の翌月に第2巻が順調に世に出るとは、待ちきれない読者にとってはまことに吉報である。1940年代後半から50年代前半までに執筆ないし発表された論考、書評、講義原稿など19篇を収めている。時事に添った発言が主であり、強制収容所、ナチス、ヒトラー、テロル、全体主義など、ドイツについて語ったもののほかに、共産主義や、宗教と政治、原子爆弾についてのエッセイや、ヤスパースへのオマージュやハイデガー評などもある。若い頃、浅からぬ交流があったハイデガーをめぐる「罠」の寓話は掌編ではあるが、非常に興味深い。ハイデガーの哲学はひとつの罠だが、その罠について一番よく知っているのはハイデガー自身だ、というのである。アーレントがナチスを徹底的に批判し、全体主義が生まれる条件について綿密に分析しつづけたのは、まさにハイデガーからの意識的な離脱ではなかったかとも思える。この論文集はけっして体系化された著述ではないが、時代の趨勢に添って生まれた分、かえって主著よりもアーレントの政治的立場を浮き彫りにしているように思われる。本書の中核をなす論考と言える「人類とテロル」「理解と政治(理解することの難しさ)」「全体主義の本性について――理解のための試論」は特に重要だ。人間は誰しも余所者であり、世界と和解する必要がある、と彼女は考える。「絶え間ない変化や変動のなかで私たちがリアリティと折り合い、それと和解しようとする、すなわち世界のなかで安らおうとする終わりのない活動」を、彼女は「理解すること」だと定義する。「理解することは、生きることのすぐれて人間的なあり方である」。和解は理解に内在するが、それはけっして「赦すこと」とイコールではない。ここがポイントだ。彼女は全体主義を理解しようとするが、それは全体主義を赦そうということとは違う。「全体主義を可能にした世界と私たちが和解すること」――そこを見据えるアーレントの眼差しは、和解と赦しとの微妙な差異を読者に教示するものである。訳者が明らかにしているところによれば、1955年以後の論文集がまた編まれることがあれば、この「政治思想集成」の続刊として翻訳されるだろう、とのことだ。
[02年12月24日]
■「私」から「公」へ、政治の現在を問い直す論争的好著
政治の発見
ジグムント・バウマン著 中道 寿一訳
日本経済評論社 サイズ:四六判 / 314p
ISBN:4-8188-1434-2 \2,800 発行年月:2002.10
ポーランド生まれのユダヤ人で、現在はイギリスで活躍している高名な社会学者による、1999年の著書の邦訳である。バウマンは80年代後半からほとんど毎年重要作を発表しており、その精力的執筆活動によって本書刊行の前年(98年)には、アドルノ賞を受賞した。本書は、個人主義の蔓延する現代社会が見失なった、公的なもの、善なるもの、正義と公正といった諸価値を、いかに再発見していくかを問うた力作だ。さまざまなかたちで自由が享受されるこんにち、現代人は何を不安に感じているか。自由は幸福をもたらすものではなかったのか。自由主義がもたらす逆説的な帰結としての自主規制や画一化を指摘しながら、著者は、「自由主義は煎じ詰めれば『選択肢なし』という信条となる」と喝破する。「個人的自由の増大は、集団的無気力の増大と表裏一体」であり、政治はますます無内容なものになっていく。私的なものと公的なものとの断絶が深刻化する現代に根源的な批判的分析を加え、ありうべき公共性と政治のヴィジョンを構築し直す。それは現代人の人間性を問い直す作業でもある。個人的自由は社会の中から生まれる。つまり個人的と言えども、共同性と相互性の恩恵のうちに自由はあるのだ。そうした意識が希薄になると、社会はどうなるか。自らの生きてきた共産主義体制の崩壊の原因をよくよく承知し、イデオロギーの現実やユートピアの幻想を厳しい目で見てきたバウマンならではの、鋭い危機意識の現れである。
■戦時下の日本帝国をめぐる8つの鋭い視線。好評の岩波講座より
岩波講座近代日本の文化史
7 総力戦下の知と制度 1935−55年 1
著者: 〔小森 陽一ほか編集委員〕
本体価格:3,400円 出版:岩波書店 サイズ:A5判
/ 326p
ISBN:4-00-011077-2 発行年月:2002.9
岩波講座「近代日本の文化史」(全10巻・別巻1)は、19世紀から敗戦後までの日本史を捉え直す試みであり、中でも第7巻と第8巻は1935年から1955年までの戦中戦後を扱う、いわばシリーズ中のクライマックスとも言える。国内外の第一線の書き手が様々な主題を論じており、読み応え十分である。第7巻は三部構成で8つの論考を収録している(詳細目次はこちら)。冒頭の酒井直樹による「総説」は、台湾人作家や日系アメリカ人作家による3つの小説を題材に、戦時下の国民統合を論じている。第I部「問題としての近代」はミリアム・シルバーバーグと岩崎稔による二論文を掲載。前者は「エロ・グロ・ナンセンス」をキーワードに大衆社会の文化的生成を考察。後者は、戦中の一部知識人が拘泥した「世界史的」立場の実態を追う。第II部「総力戦体制と文化」では、J・ヴィクター・コシュマンと中野敏男、駒込武の三論文を掲載。コシュマン論文は、戦時下の科学技術をめぐるイデオロギー状況を分析。三木清の『技術哲学』への言及も見られるが、三木の政治姿勢については続く中野論文が、マルクス主義から大東亜共栄圏思想への「転向」という観点から考察している。駒込論文は、台湾における公民化政策に先立つ、キリスト教学校排撃運動を扱う。第III部「戦中と戦後の間」では、米谷匡史と細見和之による二論文を収録。米谷論文は、「東亜新秩序」をめぐる議論の沸騰と日中戦争のインパクトのさなかにおける、天皇制の再定義および国体論の揺らぎの変遷を見る。掉尾を飾る細見論文では、在日作家の金素雲と金時鐘の文筆活動を取り上げ、言語と翻訳という観点から日朝関係史が問い直される。以上、いずれの論考も紙幅の都合上、トピックを絞ってコンパクトにまとめられており、そのため通読しやすく、なおかつ啓発的だ。一見していかめしいこうした学術書然とした装いに紛れがちだが、右傾化する昨今の民族主義的歴史概説書より一層鮮烈な展望を切り開いているという優れた点を見逃さぬよう、読者はよくよく注意されたい。
■戦中戦後の日本史を見直す優れたアンソロジーの続編
岩波講座近代日本の文化史
8 感情・記憶・戦争 1935−55年 2
小森陽一ほか編集委員 岩波書店 サイズ:A5判
/ 353p
ISBN:4-00-011078-0 3,400円 発行年月:2002.11
シリーズ第7巻に続き、この第8巻でも、1935年から1955年までの戦中戦後の日本が様々な角度から再検討される。成田龍一による総説「戦争とジェンダー」を巻頭に、二部構成に分かれる収録作は以下の通り。第I部「感情の動員」では、ハリー・ハルトゥーニアンによる「民衆を形象化する」、大内裕和による「「国民」教育の時代」、牟田和恵による「女性と「権力」――戦争協力から民主化・平和へ」、トーマス・ラマールによる「帝国と国民のあいだ――戦後の和歌批評における帝国の影と国民的反動」の四論考を収録する。成田論文は、占領期や戦後責任の問題をも視野に入れ、日本の戦時および戦後のジェンダー像を読み解く。ハルトゥーニアン論文は、柳田国男の読解を通じ、民俗学と民族主義の関係性を論じたもので、これは書下ろしではなく、彼の著書『近代による超克』(岩波書店近刊)からの一節である。大内論文は、総力戦下における愛国イデオロギーの徹底と労働力の育成を推進する、教育システムの変化を跡づける。牟田論文は戦中戦後の女性運動を検討し、困難な時代から現代を照射する歴史的教訓を引き出す。ラマール論文は、西郷信綱の『日本近代文学史』や鈴木日出男の『古代和歌史論』を取り上げ、戦後の和歌批評が9世紀の和歌の「出現」を近代日本国家の形成といかに結びつけ、国語を古典詩と融合させたかを見ている。
第II部「記憶の戦争」では、キャロル・グラックによる「記憶の作用――世界の中の「慰安婦」」、タカシ・フジタニによる「戦下の人種主義――第二次大戦期の「朝鮮出身日本国民」と「日系アメリカ人」」、戸邉秀明による「沖縄 屈折する自立」、川村湊による「トカトントンとピカドン――「復興」の精神と「占領」の記憶」の四論考を収載。グラック論文は、戦争をめぐる公的記憶の生成について考察し、その記憶が一国の文化的特性の内部に留まらず、人類の遺産として国境を越えていくという過程について論じている。フジタニ論文は、大戦期の日米両国における「在日」「在米」をめぐる人種主義とナショナリズムの関係を問いただす。戸邉論文は、沖縄人の自立の試みを総力戦期の「文化の動員」との関連から分析している。川村論文はエッセイ風の筆致で、太宰治の『トカトントン』を枕に、戦後のヒロシマ復興への道をたどり、戦争の記憶の現在を問うている。岩波講座「近代日本の文化史」では各巻に月報がついており、収録論文のほかにもここで数編、優れた小論を読むことができる。読書の贅沢な楽しみである。
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