Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi


20031月に、bk1人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。

03年1月6日

■ギリシア悲劇の代表的古典をラディカルに読み直す、近年随一の傑作

アンティゴネーの主張 問い直される親族関係
ジュディス・バトラー著 竹村和子訳
青土社 サイズ:四六判 / 199p
ISBN:4-7917-6013-1 \2,400 発行年月:2002.12

現代アメリカにおけるフェミニズム理論の旗手による最新成果が早くも邦訳された。もともとは1998年5月に行われた連続講演であり、ソフォクレスの戯曲『アンティゴネー』のラディカルな再読を試みた、短編ながら濃密なテクストである。『アンティゴネー』はその前段である『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』(いずれも岩波文庫)とともに数多くの思想家によって論じられてきたが、バトラーはそうした先行研究(特にヘーゲルとラカン)に言及しつつ、国家に反抗するフェミニズムの一形態としてのアンティゴネー像に鋭く迫っていく。彼女自身の数奇な宿命によって、アンティゴネーはジェンダーや親族関係の規範を逸脱する存在として、また、国家の秩序や正義に反発する強力な一個人ゆえに必然的に死へと追いやられる存在として、原作では描かれる。バトラーは、彼女を「人間性の新しい領域を生み出す契機」であると見る。彼女は一見倒錯的ではあるが、「前例のない未来の新しい社会形態」の可能性を示唆してもいるのだ。鮮やかな読解が、フェミニズム政治学の新たな地平を切り拓いた、近年随一の快作である。


■音楽の現在を透視する、驚くほど斬新なメディア文化批判

アドルノ音楽・メディア論集
Th.W.アドルノ著 渡辺裕編 村田公一訳 舩木篤也/訳 吉田寛/訳 平凡社
本体2800円  20cm 356p 4-582-70241-4 / 2002.10

1920年代から彼の死去する1969年までに発表された音楽論の中から、特にメディアや文化産業、大衆的音楽に関するテクストを集めて一冊にした、日本独自の論文集である。収録作は次の通り。「音楽の社会的状況によせて」(1932年)、「流行歌分析」(1929年)、「ポピュラー音楽について」(1941年)、「ラジオ・シンフォニー」(1941年)、「ラジオ音楽の社会的批判」(1945年)、「レコード針の溝」(1927年/1965年改訂稿)、「レコードのフォルム」(1934年)、「オペラとLPレコード」(1969年)、「テレヴィジョンの音楽は鳴りもの入りの空騒ぎ」(1968年)、「専門馬鹿が質問に答える」(1968年)。いずれのテクストも現在の視点から見て十分に新鮮な議論を提示しており、その端的な斬新さに驚くほどだ。音楽は社会状況を反映するものだが、社会状況から深く断絶してもいるとアドルノは書く。ベンヤミンは複製技術時代の芸術について語ったが、アドルノは商品化時代の音楽について、社会学的に分析していく。最後の二編は「シュピーゲル」紙のインタビューと、その反響への応答であり、アドルノの歯に衣着せぬ毒舌ぶりが楽しめる。アドルノはマスメディアが生み出す幻想的効果に手厳しく釘を指す。しつこく繰り返される愚にもつかぬ文化談義によって祭り上げられたスター音楽家たちを「最高峰」だと見せかける「仕掛け」にアドルノはうんざりしている。仕掛けられた「文化」が「民主的」であると僭称されているが、それは本当のところ、似非民主主義に過ぎない、と。実際このインタビューとそれに続く弁明はかなり面白い。音楽社会学的なテクストは多少読み慣れないかもしれないが、丁寧で読みやすい翻訳が読者を大いに助けている。いまこそ読み返されるべき古典である。


■映画を国民によって問い、国民を映画によって問う

映画と国民国家
ジャン=ミシェル・フロドン〔著〕 野崎歓訳
岩波書店 サイズ:四六判 / 231,15p
ISBN:4-00-022262-7 \3,000 発行年月:2002.10

著者は現代フランスを代表する映画批評家の一人。本邦初訳である。蓮實重彦氏と親交があり、年に一度は日本に訪れているという。この初訳本の刊行後も、来日して講演会を開いている。本書の原題は『国民の投影――映画と国民』。1998年に刊行されたものだ。映画と国民には「投影」という共通のメカニズムがある、と著者は指摘する。ソ連、ドイツ、フランス、アメリカ、イタリア、日本、イギリスなど、世界各国の映画作品を取り上げ、映画に投影された国民像、映画が投影した国民像を論じる。「映画を国民によって問い、国民を映画によって問う」試みであり、黎明期から現代にいたるまでの映画史を「国民国家」という断面から照射した優れた研究であるとともに、映画というメディアを通じた国民像の形成過程を分析した、卓抜な国民国家論である。「物語は共同体を、つまり国民国家を創設する」。レジス・ドブレのメディオロジーに啓発されたという本書では、わけても第7章「新興諸国」、最終章「ネットワーク時代の映画と国民」が非常に刺激的で、インターネットも含めた世界の現在と未来を読み解く、鋭利な映像文化論となっている。巻末には、訳者による著者インタビューが付されており、横顔が伺える。こんにち、私たち諸「国民」は、映画や映像文化によって包囲されている。映像は環境であり、この環境は私たちを日々再創造する。そのような時代において、本書は読者に大きなヒントを与える。つまり、私たちが誰であり、また誰になろうとしているのかについてのヒントを、である。教養人の必読書と言えよう。

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03年1月14日

■「妻殺しのマルクシスト」の戦慄の生涯が赤裸々に告白される

未来は長く続く アルチュセール自伝
ルイ・アルチュセール著 宮林寛訳
河出書房新社 サイズ:四六判 / 517p
ISBN:4-309-24266-9 \4,300 発行年月:2002.12

背筋が少し寒くなる写真である。本書の表紙に刷られた、アルチュセールのポートレイトの、なんとも言えない表情のことだ。「以下に読まれる文章は、日記でも、回想録でも、自伝でもない。余計な部分はすべて切り捨て、私は自分の生き様を印づけ、私が見ても自分の姿であり、他人の目にも私の姿と見えるだろう形を与えた、心をゆさぶる情動の衝撃だけを残そうと思ったのである」。『マルクスのために』(平凡社ライブラリー)や『資本論を読む』(初版:ちくま学芸文庫、改訂版:合同出版)で、20世紀におけるマルクス読解の刷新に絶大な影響力を及ぼした彼は、1980年11月16日朝、妻を絞殺し、残りの人生を精神病院で費やした。重度の抑鬱症だった。本書は、彼の人生を振り返りつつ語られる弁明の書である。1985年春、わずか数週間で大半が書き上げられたものだという。妻の絞殺現場の描写から始まり、幼年期からエレーヌとの出会いまでの個人的体験、高等師範学校の教師としての体験、共産党員としての波乱の日々、そしてふたたび絞殺後の自分へと、記憶と自意識の水流がうねるようにほとばしる。すべてが赤裸々である。とりわけ、彼の特異なセクシャリティ形成は無視しがたく、母親とのねじれた関係は痛々しい。親友や教え子たちの相次ぐ自殺など、本書を覆う暗雲のような沈んだトーンの合間に、同時代の著名な知識人たちがかわるがわる登場する。例えば、アルチュセールはサルトルには辛辣だが、デリダには高い評価を与えている。コジェーヴはまるでヘーゲルを理解していないが、イポリットは優秀。自分が学問的に一番恩恵を受けたのは、カンギレムである……等々。大冊だが小説を読むように一気に読めてしまう。事件後は強制入院を繰り返し(実は事件前も幾度か入院していたのだが)、発言の自由を奪われた彼は、うっぷんを晴らすように精神病患者としての自らの立場を執拗に書きつける。ラカンとの間の数々のエピソードも興味深い。弟子のバリバールによる『ルイ・アルチュセール』(藤原書店)や、ヤン・ムーリエ・ブータンによる未完の『アルチュセール伝』(筑摩書房)などの綿密な研究は素晴らしいが、本人の告白にはやはり迫力がある。1976年に執筆され、生前は未公表だった、未完成の自伝『事実』を併載。著者略年表や訳者あとがきの丁寧な解説までじっくり読ませる、出色の一冊である。


■21世紀の学問方法を刷新する、画期的な入門実践の書

質的研究入門 〈人間の科学〉のための方法論
ウヴェ・フリック著 小田博志〔ほか〕訳 春秋社 A5判 / 410p
ISBN:4-393-49909-3 \3,700 発行年月:2002.10

人間の生のリアリティをいかに捉えるか。いま、時代は量的研究から質的研究に移行しつつある。数量化や標準化による分析調査から零れ落ちるものがある。あらかじめ決められた枠組みの中に現実を押し込め、当てはめようとする研究方法は、はたして正しい実証を導くか。心理学、社会学、文化人類学、教育学、福祉学、経営学等の人文社会系の諸科学や、看護学、医学、とりわけ精神医学や心身医学、公衆衛生学などにおいて、質的研究はジャンルを問わず重視されつつある方法論である。本書はその初めての本格的で体系的な入門書だ。質的研究には4つの特徴がある。研究対象に適した方法と理論を選ぶこと。異なった様々な視点を考慮に入れ分析すること。研究者の自分の研究に関する反省をもデータとして取り入れること。多様なアプローチと方法を用いること。従来のカタいアタマで考えると、果たしてそんなご都合主義のような方法が学問たりえるのかという疑問が湧くかもしれない。しかし量的研究が見落としてきたものを無視することはもはやできなくなっている。訳者の小田氏は質的研究の特徴をこう述べる、「現場に近い研究」「生きる側に近い研究」「日常の智慧や現場の智慧を発見させる」「他者に開かれた姿勢」。恐らくこれらは、古くは現象学が「事象そのものへ」というスローガンのもとに生活世界を理解した方法論、また近年のカルチュラル・スタディーズの政治的姿勢に、相通じるものがあるのかもしれない。

本書は22章から成る。序説に当たるのが「第1章:質的研究とは何か――その意義、歴史、特徴」である。以下は6部に分かれる。第I部:理論からテクストへ(第2章:理論的立場。第3章:テクストの構築と理解)。第II部:研究デザイン(第4章:プロセスと理論。第5章:研究設問。第6章:フィールドへの参入。第7章:サンプリング戦略)。第III部:口頭データ(第8章:半構造化インタビュー。第9章:データとしてのナラティブ。第10章:フォーカス・グループ・インタビューとディスカッション。第11章:口頭データ収集法の概観)。第IV部:視覚データ(第12章:観察、エスノグラフィ、視覚データ法。第13章:視覚データ収集法の概観)。第V部:テクストから理論へ(第14章:データの文書化。第15章:コード化とカテゴリー化。第16章:シークエンス分析。第17章:テクスト解釈法の概観。第18章:質的研究の基礎づけと評価基準。第19章:質的研究の執筆)。第VI部:新たな展開(第20章:質的研究におけるコンピュータ。第21章:質的研究と量的研究。第22章:質的研究の質――基準を超えて)。以上、第I部と第V部は質的研究の理論的骨子を明かし、第II部、第III部はデータをいかに収集し扱うかを解説した実践篇となっている。第VI部では研究の最前線を展望。全体として非常にプラクティカルな内容で、図表や参考文献を多数提示し、ページレイアウトも整然として見やすく、入門書の構成としても一級品である。超領域的な驚くべき参考文献(洋書・和書)、懇切な用語集と訳者解説なども素晴らしい。スタンダードと呼ぶにふさわしい好著である。


■こんにち「知識人」であるとはどのようなことか。激越なる考察

問われる知識人 ある省察の覚書
モーリス・ブランショ著 安原伸一朗訳
月曜社 \1,800 サイズ:B6判 / 124p
ISBN:4-901477-04-8 発行年月:2002.12

ブランショは1907年生まれだから、もう数年経てば100歳だ。まだ存命中で、過去の作品の再編集であったり、版元の移動であったりはするが、新刊もぽつりぽつりと出ている。本書はもともと1984年にフランスの雑誌に発表されたもので、翌年には日本でもいち早く雑誌『ユリイカ』のブランショ特集号に邦訳が掲載された。その後加筆されて1996年に単行本化。さらに新編集で2000年にも再刊されている。知識人像の過去と現在、そしてその社会的役割を論じたエッセイであり、小さい本だが濃密で、パッションに溢れたテクストだ。かのドレフュス事件において、「知識人」という言葉は蔑視的な表現として誕生した。冤罪に異議申し立てをした一部の人々は、「非国民」的なゴロツキとして罵られたこともあったのだ。幸い、ゾラをはじめとする論客たちの言論活動によって、ドレフュスの冤罪は晴らされる。知識人は、正義のために異議申し立てをする積極的な人物像に変容したわけである。ブランショはこう述べる、「ドレフュス事件からヒトラー、そしてアウシュヴィッツに至るまで、確認されてきたのは、知識人に知識人たることをもっとも啓発してきたのが、反ユダヤ主義(人種差別、外国人嫌いも含む)だということである。言いかえれば、こういう形での他者への配慮からこそ、知識人は、自己の創造的孤独の外に出るのを余儀なくされた(あるいは余儀なくされなかった)のだ。定言命令は、カントによって与えられた理念的一般性を失いながらも、アドルノによってほぼ次のように定式化された命令となった。アウシュヴィッツが二度と繰り返されないように考え、行動せよ。これはアウシュヴィッツが一個の概念になってはならないということ、そして、一つの絶対がそこで到達されてしまい、他の一切の権利や義務はその前で判断されるということを含意している」。いつ回帰してもおかしくない、人種差別やファシズムや戦争といった暴力に対抗すること、それが知識人の使命のひとつであるわけだ。知識人は無関心でいてはならない、とブランショは強く警告する。誤解しないでおきたいのは、彼はアウシュヴィッツを神聖化したいのではないということだ。繰り返されてはならない愚行、忘れるべきではない真実、アウシュヴィッツはそうした契機において絶対的なるもののひとつとなるのである。絶対化は必ずしも神聖化ではない。さらに本書では、知識人像の変遷について語りつつ、当時を代表する作家のヴァレリーの微妙な立場に言及しながら、転向の問題についても一言述べているあたりも興味深い。訳者による親切な注としっかりした解説に加え、ブランショの近況を伝えるあとがきも必読である。

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03年1月20日

■サイードの嘆きと怒りを十二分に肉化した素晴らしい翻訳

戦争とプロパガンダ 3 イスラエル、イラク、アメリカ
E.W.サイード著 中野真紀子訳 みすず書房
本体1600円 20cm 130p 4-622-07025-1 / 2003.01

狂った世界を前に怒りが灼熱の炎となってほとばしる。世界はその怒りを暗く押し包み、繰り返しひねりつぶそうとする。エドワード・サイード、66歳(本書執筆当時)。白血病に蝕まれた彼が、死神の吐息を間近に予感しながら、ペンという剣をもって、暴力の暗黒に完全包囲されたパレスチナの悲惨になおも立ち向かっていく姿は、人を感動させるという以上に、大いに動揺させる。日本独自編纂の論文集『戦争とプロパガンダ』の第三弾。2002年の春から秋にかけて主に『アル・アーラム』誌に発表された、8つのエッセイを収録している。発表順に列挙すると、「アメリカのユダヤ人の危機」「パレスチナの選挙が浮上」「一方通行」「細目にわたる懲罰」「不統一と党派対立」「無力のどん底」「イスラエル、イラク、合衆国」、「生まれついてか、選び取ってか」である。私たちが本書を読んで動揺せざるをえないのは、ここまでパレスチナが追い詰められているにもかかわらず、日本人の認識はまだまだ甘いことを、サイードに痛烈に教えられるからである。彼のペンの戦いを前にただただ呆然とするだけの自分であっていいのか。偏重報道や歪んだ政治的正義などによって、「パレスチナ人が経験させられている日々の細かな出来事は隠蔽され(…)、自衛やテロ撲滅という理屈で覆い隠されてしまう。テロリストのアジト、テロリストの爆弾製造所、テロリスト容疑者等々、無限にリストが続くテロ撲滅は、シャロンや嘆かわしいジョージ・ブッシュにはうってつけの仕事だ」とサイードは辛口に述べる。

「テロリズムという観念はひとり歩きしはじめ、何度も重ねて正当化されているが、そこには何の証明も、論理も理屈も合理的な議論もない」。そもそもテロリストという言葉は、かつて第二次世界大戦期にドイツのファシスト体制がユダヤ人を評するためにもっとも頻繁に使った表現だ、と彼は指摘する。なんと言う皮肉だろうか。散々「テロリスト」呼ばわりされてきたユダヤ人が、その歴史的教訓を脇において、今度は自ら抑圧するパレスチナ人たちをその名前で呼ぶ。サイードはパレスチナ人の自爆テロを「テロではない」と言いたいのではないし、むしろ「それはテロだ」と明言している。彼が言いたいのは、自爆テロは、けっしてイスラエル軍のパレスチナ人への暴力的蹂躙や最悪の侮辱、思いつくままの虐殺、長期にわたる占領等々を正当化しうるものではない、ということだ。占領政策とそれを後押しするアメリカによって、パレスチナ人は非人間的な状況に置かれている。その具体的事実を繰り返し説明しながら、なおもサイードは戦う。ブッシュ政権のパレスチナ再生計画はまやかしであり、対イラク戦争は断乎反対すべきものである、と彼は考えている。ユダヤ人とパレスチナ人(アラブ人)は民族的宗教的争いを超えて、「できるだけ早く、二つの国民で構成される世俗主義の一つの国家(バイナショナル・セキュラー・ステイト)に所属する完全な一員としてお互いを受け入れるようにするのが賢明というものだ」。サイードのヴィジョンは明晰である。彼と比べて言えば、あれこれと問題点をあげつらって事態を複雑に語ることだけに終始する一部の知識人は、ほとんど陳腐な現実逃避にしか見えなくなる。


■宗教と法律と医学の三大権威からの独立を謳う、哲学のマニフェスト

カント全集 18 諸学部の争い 遺稿集
角忍〔ほか〕訳
岩波書店 サイズ:A5判 / 546,9p
ISBN:4-00-092358-7 \5,800 発行年月:2002.11

本巻では、「諸学部の争い」(1798年)とその準備草稿、そして、その他の著作の準備草稿や覚え書き、補遺など、合計七篇を収める。「諸学部の争い」はもともと三つの異なる論文だったが、後に著者の判断で一冊にまとめられた。神学部、法学部、医学部といった当時の「上級諸学部」に対して、「下級学部」である哲学部の独自な地位を宣言した、重要書である。カントは、上級諸学部を国家と政府によって保証された権威であるとし、一方、哲学部は国家的権威ではなく理性の立法のもとにあるのだ、と述べる。「自律によって判断する能力、すなわち自由に(思考一般の原理にしたがって)判断する能力」である理性を重んじるのが哲学であり、真理か否かを問うことによって哲学部は「上級三学部を統御し」、「三学部にとって有用となる」。カントがこれらの国家的権威に対抗する姿勢にはなかなか狡猾なものがある。彼は三つの権威を亡ぼそうとしているのではなく、それらを真理探究の見地から表向きには「保証」し、そのかわり上級学部の抑圧や政府の禁令から自由な批判者として哲学部を位置付けるのである。真理の探究があらゆる学問の根本であって、哲学がそれを司るのだから、哲学はもはや神学等の単なる「侍女」ではなく、「松明を掲げた先導者」たりうるのだ。

「諸学部の争い」は、聖書を理性に照らして読み、戦争の廃絶を訴え、健康とは何かを問う三つの論考からなる。国家や諸々の権威と哲学との関わり方を規定しようとするこのテクストは、その政治性ゆえにすぐれて現代的である。カントは、国民が盲目的に聖職者や司法官、医者を信じ、「指導されること」を望むことによって、自ら判断する面倒を省いてしまうという現実を揶揄している。政府はそうした三者を通じて国民に働きかける。「学部の学者たちの純粋な洞察から生じた理論をではなく、実務者[三者]が用いることで国民におよぼしうる影響力をあてこんだ理論を、学部に押しつけるよう」、政府は「誘惑」されているのだ、と。18世紀も21世紀もその意味では状況に大差がないようだ。なお、本巻に収められたその他のテクストは「遺稿集」として一括されている。詳細を列記しておくと、「『美と崇高の感情にかんする観察』への覚え書き」、「『理論と実践』準備草稿」、「『永遠平和のために』準備草稿」、「『人倫の形而上学』準備草稿」、「自然地理学」補遺」である(前述した通り、「諸学部の争い」の準備草稿もある)。「全集」と謳っていることもあり、この遺稿集の中にかの「オプス・ポストゥムム」が収録されるのを楽しみにしていた読者がいたかもしれない。結局それは叶わなかったようだ。カントが晩年に十年以上をかけて取り組んだ「オプス・ポストゥムム」は彼自身にとっても主著と呼ばれるべきものであり、三批判書をはじめとする彼の哲学体系の基礎は根本的な変容を遂げつつあった。恐らくいつかは邦訳を手にすることができるのだろうが、できればそれが今回の全集に入っているのなら、なおよかった。


■ロシアの未公開対外政策文書を駆使して、中ソ関係史を洗い直す

中国革命とソ連 抗日戦までの舞台裏〈1917-37年〉
ボリス・スラヴィンスキー著 ドミートリー・スラヴィンスキー著 加藤幸広訳 共同通信社
本体4600円  22cm 408,6p
4-7641-0513-6 / 2002.11 

20世紀前半の中ソ関係について論じた西側の研究はさほど多くなく、それらの研究は中国、日本、米国の資料に偏っていたものだという。本書の著者であるスラヴィンスキー親子は、ロシアにおける数多くの未公刊文書を含む対外政策公文書を駆使して、歴史学の最新成果をも参照しつつ、1917年から1937年に至る中ソ関係において、日本が重要な役割を演じていたことを明らかにした。本書は年代順に並べられた次の6章からなる。第1章「一九一七−二四年の中ソ関係」、第2章「中国国民革命とソ連――一九二五−二七年」、第3章「東支鉄道紛争――一九二八−三一年」、第4章「満州事変と中ソ関係の回復――一九三一−三二年」、第5章「日本の華北進出と中ソ関係――一九三三−三四年」、第6章「中国における抗日統一戦線の形成――一九三五−三七年」。巻頭に地図、巻末には人名索引が付されている。本書出版時、息子のドミートリーは若干27歳。極東関係史のエキスパートとして著名な父のボリスが息子の書いた原稿に助言を与えつつ加筆し、完成させた。出版の翌年(2002年)、ボリスは66歳で死去している。絶筆は20世紀前半の日ソ関係史。息子があとを引き継いでいるという。

本書の記述は実にヴィヴィッドで、中ソ関係をほとんど知らない読者も楽しめるだろう。それは、この時代の中国が、内側では複数の軍閥の割拠から共産党支配へと至る国家的な試練の途上にあり、対外的には複雑な時代状況の中でソ連や日本の侵略と繰り返し戦ってきた、いわば怒涛の「形成期」にあったためで、そのドラマティックでダイナミックな展開が、読者の心をとらえて離さないだろうからである。また、ロシアの研究家が自らの過去を振り返って、イデオロギー上の理由から旧体制によって歪められ隠蔽されてきた史実を明らかにしようする筆致に、読者に訴えかける必然的なある種の迫力が備わっているからでもある、と言えようか。同じ共産党勢力でありながら、中ソは互いの利害から決して和解し得ぬ戦略を戦わせており、抗日戦線を通じて、中国とソ連の利害は次第に一致するようになった。満州事変をはじめ、日本の侵略が中ソ関係に多大な影響を及ぼすのは当然だった。強制連行や慰安婦問題、南京大虐殺、大東亜戦争の「正義」の是非、靖国参拝問題、これらの諸問題の根幹を解明するという意図も、スラヴィンスキー親子にはあった。そのひとつひとつに回答が与えられているわけではないが、少なくとも同時代の背景は描写されている。和田春樹氏の大著『朝鮮戦争全史』(岩波書店)もそうだったが、ロシアの未公開資料からは今後も新たな研究が生まれそうである。

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03年1月27日

■21世紀の偉大な「抵抗と革命の書」、ここに完訳なる

帝国 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性
アントニオ・ネグリ著 マイケル・ハート著 水嶋 一憲〔ほか〕訳
以文社 \5,600 サイズ:A5判 / 579p
ISBN:4-7531-0224-6 発行年月:2003.1

ついに刊行である。これだけ前評判が高いのは、思想書では本当のところ、ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』以来ではないか。実際、ネグリ=ハート組と、ドゥルーズ=ガタリ組をつなぐ線というのもある。ネグリはドゥルーズのスピノザ論やマルクス読解に大きな関心を示してきたし、ドゥルーズの方もネグリのスピノザ論の仏訳版に序文を寄せているほどだ。ガタリとネグリには共著(『自由の新たな空間』朝日出版社、絶版)があるし、ハートには『ドゥルーズの哲学』という著書がある。ドゥルーズ=ガタリがマルクスとフロイトの再読解を軸に、資本主義社会への抵抗線を描いたのが上記の二書であるとすれば、ネグリ=ハートが共産主義の旧弊を打ち破りつつ、世界資本主義へのオルタナティブ(代替案)を提示したのが、この『帝国』である。911以後のグローバルな現実に介入するためのもっとも強力な実践的思想書として『帝国』は出現する。いわゆる「世界新秩序」に異議を申し立てるがゆえに、本書は保守派政治家から危険視されることになるだろう。さらに、西欧政治思想の系譜の斬新な再解釈ゆえに、アカデミックな保守派からも敵視されるだろう。もちろん本書を読む上で、一連の政治経済学書を読み込んでおかなければならないということはない。ドゥルーズ=ガタリの著書がそうであったように、本書もまた、予備知識なしでただちに読まれうることを暗黙の前提としている。ここでは様々な新しい概念が提出されている。中でも世界新秩序の異名である「帝国」、社会変革の民衆的主体である「マルチチュード」などが重要だが、そのほかのもっとも特徴的なもののひとつ「ポッセ」がある。ポッセとは、ラテン語で「力を持つ」という動詞である。かつて西欧ではこのポッセを、エッセ(在る)とノッセ(知る)とともに、重要な価値とみなしていた。こんにち、ネグリ=ハートはこのポッセを、「知と存在をともに編み込む機械」であり、抵抗のシンボルであるとみなしている。このポッセの「力」とは、ゲバルト(暴力)ではない。搾取に抵抗し、民衆の自律的な協働を目指す力である。それゆえに、本書は911以後のあらゆるテロリズム(アメリカの一国主義的な対テロ戦争も含む)の暴力に反対する「力」となり、さらに世界資本主義によるグローバルな抑圧に対抗する、現実主義的な闘いの「力」となるのだ。ヒントが満載の本書は、今日から明日への勇気の糧となる、希望の書である。現代人必読必携だ。


■拷問、偽証、虐殺――前代未聞の悪徳の内幕を綿密にたどる

ポル・ポト死の監獄S21 クメール・ルージュと大量虐殺
デーヴィッド・チャンドラー著 山田寛訳
白揚社 サイズ:四六判 / 356p
ISBN:4-8269-9033-2 \3,200 発行年月:2002.11

現代カンボジア史の第一人者による代表作のひとつである。ポル・ポト政権における国民の大量虐殺施設の舞台となったプノンペン南部のツールスレンのS21監獄について、供述書(国内の裏切りを告発するための文書)や、奇跡的生存者と関係者(尋問係や看守などの多くの元監獄職員を含む)へのインタビューをもとに緻密に分析し、厳重に機密化されていたその恐るべき実態を明らかにしている。70年代後半のわずか約4年間の内に、収容された囚人の数は14,000人、そのうち生き残ったのは、たったの7人だった。ポル・ポト政権は、この短期間に実に国民の五分の一を殺戮したのだ。S21はその中心的な「機関」だった。人間性からかけ離れた、あまりの錯誤には、吐き気さえ覚える。収容された人々は、犯してもいない罪を苛酷な拷問によって強制的に「自白」させられ、その結果、無残に殺された。合法化され、制度化された猟奇殺人であると言って良い。アウシュヴィッツを筆頭とするナチスの絶滅収容所は狂気の場所であり、そこには異民族への偏執的差別があった。しかしここS21は、仲間どうしで際限なく殺しあうという、別種の狂気がある。「命令通りに殺さなければ、自分が殺される」という極限状態。地獄の底で人間は何でもできる冷酷さを手に入れた。拷問の具体的方法を記したくだりがあるが、それは転記困難ほど不吉な、肉体と精神の破壊である。なぜ、なぜ、なぜ。読み進めるごとに沈鬱な疑問符がまとわりつき、疲労する。

著者は法哲学者ジュディス・シュクラーの次のような非常に印象的な言葉を引いている。「われわれは残虐性について、ああだこうだと核心に触れない議論ばかりしている。どう論じたらいいかわからないからだ。(……)われわれの歴史的経験の積み重ね全部をもってしても、犠牲者というものについてどう考えたらよいのか、わからない。何を言ってもほとんど不当で、利己的で、品位に欠け、偽りで、自己欺瞞で、矛盾する、危険なものなってしまうだろう。たぶん、知的な最善の回答は、ただ犠牲者と加害者の歴史をできるだけ誠実に書くことなのだろう」(『平凡な悪徳』1986年刊、未邦訳)。チャンドラーは、歴史家という存在のあり方の危うさを自覚しつつ、この言葉通りに誠実な記述者たらんと心がけたことを告白している。彼は言う、「歴史学者というものは、常に侵略者である」。「私は、S21への招かれざる訪問者」であり、出来事の残虐性を論じることは「危険な作業だった」と。歴史学者のもつアンビバレントな立場に苦しむ彼はさらに、S21のとてつもない残虐性を前にして、どのように表現すべきか、すっかり自信をなくしていた。できれば、この研究から遠ざかっていたかった。彼がそれでも本書を書いたのは、「悪行の根源を探すには、自分自身を見つめなければならない」と感じ、人間の過去と未来を考える上でのその重要すぎる意義を知っていたからだ。ポル・ポトという歪んだ共産主義者の暴走がもたらした、凄絶な「相互監視」主義は、けっして過去の遺物ではなく、なおさら他人事でもない。同著者の既訳書『ポル・ポト伝』(めこん刊、1994年)も併せて読みたい。


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