◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
2003年2月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
03年2月3日
■じっくり読んでゆっくり味わいたい、ホッファーの箴言475編
魂の錬金術
エリック・ホッファー全アフォリズム集
E.ホッファー著 中本義彦訳
作品社 四六判 / 227p ISBN:4-87893-527-8 \2,200 発行年月:2003.2
自伝(『エリック・ホッファー自伝』作品社)の刊行よって瞬く間に広がったホッファーリバイバルは、『波止場日記』(みすず書房)や『現代という時代の気質』(晶文社、柄谷行人訳)、『大衆運動』(紀伊國屋書店)などの復刊を誘発し、ますます多くの読者を魅了し巻き込んでいる。そんななか、作品社からタイムリーな続刊が出たことは喜ばしい。本書はホッファーのアフォリズムすべてを集成した日本独自編集本で、『情熱的な精神状態』(1955年)と『人間の条件について』(1973年)を合本して全訳し、さらにこれらに収録されていない断片が「補遺」として訳出されている。合計475の断片はいずれも、人間に対する深く鋭い考察となっている。スロー・フードならぬスロー・リーディングで、一篇ずつ時間をかけてじっくり味わうのがいい。ホッファーの思索は常に、抽象的命題ではなく日常生活から出発する。例えば「思いやり」の項目に分類されている断片のひとつには次の文章がある。「他人に害悪を及ぼさないようにするためには、人を思いやる能力を持ちつづけることが大切である。なぜなら、われわれは自分が傷つけた人には同情できないからである」。また、「自己正当化」の項目には、「他人を非難するとき、実は自分を許そうとしていることがある。自己正当化の必要性が大きいほど、われわれは偽善的になる」。「無価値の意識」には、「弱者にとって誰か他人と似ているということほど、大きな慰めがあるだろうか」。「改革者」には、「世界変革への熱望は、おそらく自分自身を変えたいという切望の反映であろう。状況が受け入れがたいからといって、それがただちに変革への願望を助長するわけではない。世界に対する不満は、われわれの内面に生じる際限なき不満の反響である。革命的煽動家は、世界と戦う新兵を見つける前に、まず人びとの魂の中で戦いをはじめねばならないのだ」。真摯に生きるということと、深く考えるということがここまで根源的に近づいている例は、早々ないだろう。現代が渇望しているのは、アカデミックな知性の塔の煌きではなく、ホッファーのような、路上に注がれた実感的な知である。真理はどこか遠くに存在するのでも、大事に隔離されておくべきものなのでもない。制度化された哲
学を粉砕する「生きられた思索」がここにある。
■イタリア現代思想の立役者アガンベンの、28歳の処女作
中味のない人間
ジョルジョ・アガンベン著 岡田温司訳 岡部宗吉訳 多賀健太郎/訳 人文書院
本体2400円 20cm 253p 4-409-03069-8 / 2002.12
本書は1970年、アガンベンが28歳の折に出版した処女作である。その完成度と言おうか、深さと言おうか、いまなおまったく古さを感じない知性の煌きがある。この成果は端的に驚異である。1970年と言えば、一歳年上のクリステヴァ(1941-)が『セメイオチケ』で衝撃デビューを飾った年であり、フーコーが年末にコレージュ・ド・フランスでの講義を開始した年だ。構造主義の世代(アルチュセール、ラカン、ロラン・バルトなど)がなおも旺盛に仕事をしており、ポスト構造主義の若手たち(ドゥルーズ、リオタール、デリダなど)はまだ大きな注目を集めてはいなかった。アガンベンは1942年生まれだから、ポスト構造主義世代でもっとも若いデリダ(1930-)より一回り下で、ナンシーやラクー=ラバルトらとほぼ同世代だが、論壇デビューは同世代より早い。早熟というのではない。それは本書が証明してくれる。本書は10篇の論文からなる。テーマは、芸術論、芸術哲学であり、中核には美学的人間学と近代文化論がある。その射程は、アリストテレスから中世神学を経て、近代哲学と文学、とりわけヘルダーリンやニーチェ、ドイツ・ロマン主義へと連なり、さらにはデュシャンなどの現代芸術へと渡っていく、非常に広範なものだ。カッチャーリやエーコなどもそうだが、イタリアの哲学者たちは西欧古典の教養をごく当たり前のように血肉化している。ルネサンス人の末裔の特徴なのだろうか。古典継承というよりはオリジナリティの点で評価できる独仏の思想家たちとは似ても似つかぬ風情がある。アガンベンは芸術的営為と人間的実践とに通底するポテンシャルな力を素描しようとしているように見える(本書のピークは明らかに、第8章「ポイエーシスとプラクシス」にあるだろう)。そうした潜勢力は、可能性一般とは峻別されるものであり、出現か未出現かを問わず、また、その担い手たる芸術や人間性が存続しているか崩壊しているかを問わず、常に残り続けていくような、メシア的契機であると言えよう。処女作にはその人の生涯の思索のすべてが凝縮されて現れるものだというが、まさに本書はアガンベンの思惟の原点として参照されるべきものである。訳者の岡田温司教授による解説「アガンベンへのもうひとつの扉――詩的なるものと政治的なるもの」は、アガンベンの全著作をパノラマ的に見渡す手際のいいもので、邦文のアガンベン論としては出色のテクストである。本書のカヴァーを飾るカルロ・カッラの絵も印象的だ。
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03年2月10日
■カルスタ全盛期の現代思想を地図化するくキーワードが満載
文化理論用語集 カルチュラル・スタディーズ+
ピーター・ブルッカー著 有元健訳 本橋哲也訳 新曜社
本体3800円 22cm 316p 4-7885-0831-1 / 2003.01
訳者の本橋氏の著書『カルチュラル・スタディーズへの招待』で、近刊邦訳書『カルチュラル・スタディーズ事典』として紹介されていた一冊。原題は"Cultural
Theory: A Glossary"なので、現在の邦題の方が忠実な訳だろう。扱われるキーワードは、「アイデンティティ」から「ロゴス中心主義」まで、全部で253項目。レイモンド・ウィリアムズの『キーワード辞典』(完訳版、平凡社)がカルチュラル・スタディーズの源流と目されていることに比べると、本書は脱カルチュラル・スタディーズ色が濃いのかもしれない。より正確に言うならば、ひとつの「学問」として固定化されようとするカルチュラル・スタディーズをもう一度実践的に解き放とうと試みているように見えるのだ。著者の示唆から学ぶところによれば、カルチュラル・スタディーズの根本的活力は、既成の知に意義を申し立て、その現状に介入していくという姿勢にある。本書を利用する読者が、それぞれの概念の由来と背景を知り、概念どうしのつながりを自分自身の思索の中で新たにマッピングしなおすことが重要なのだ。本書がカヴァーする分野は以下の通り。「映画、メディア、大衆文化」「構造主義、ポスト構造主義、言説」「情報理論」「フェミニズム」「文化の社会学」「文芸批評、美の理論」「ポストモダニズム、ポストコロニアリズム」「マルクス主義」。サブタイトルである「カルチュラル・スタディーズ+(プラス)」というのは、そうしたジャンル横断的な特性を意識しているのだろう。大勢がそれぞれの項目を書くのではなく、一人の著者が網羅的に書くという意味において、本書はキーワード集形式の、一個の良質な現代思想入門であると言える。巻末の参考文献も充実。
■日本史を問い直す一大シリーズの掉尾を飾る刺激的な論文集
日本の歴史 25 日本はどこへ行くのか
C.グラック〔ほか〕著
講談社 本体価格: \2,200 サイズ:四六判 /
378p
ISBN:4-06-268925-1 発行年月:2003.1
「日本の歴史」シリーズ全26巻は本書をもって完結する。国外の優れた日本学者や国内の歴史研究家たち7名の論考を集めた本書の収録作は以下の通り(順不同)。コロンビア大学教授のキャロル・グラック(1941-)による「二十世紀の語り」、オーストラリア国立大学教授のテッサ・モーリス=スズキ(1951-)による「マイノリティと国民国家の未来」、カリフォルニア大学サンディエゴ校助教授のタカシ・フジタニ(1953-)による「象徴天皇制の未来について」、ニューヨーク大学教授のハリー・ハルトゥーニアン(1929-)による「国民の物語/亡霊の出現――近代日本における国民的主体の形成」、東京大学教授の姜尚中(1950-)による「日本のアジア観の転換に向けて」、琉球大学教授の比屋根照夫(1939-)による「「混成的国家」への道――近代沖縄からの視点」、京都大学助教授の岩崎奈緒子(1961-)による「〈歴史〉とアイヌ」。海外の学者はそれぞれ、近代像、マイノリティ、象徴天皇制、国民国家を主題にその歴史的生成過程を論じる。国内の研究家たちは、朝鮮、沖縄、アイヌといった近しい「他者」を日本国家がどのように捉え、遇したかを史実に見る。各論文に共通しているのは、近代日本を他者の視点から眺め、現在に至る日本のスタートラインを見直すことによって、この国の行く末(あるいは行き場のなさ)を示唆したという点である。シリーズの大方の巻が一人の著者によって書かれているのとは異なり、本巻がこうした望みうる最高の学究によって様々な角度から書かれた複数の論考を収録しているということには、意図がある。日本がこの先どこへ行くのかは、まだ定まっていない。その意味で、幾つかの視点を用意すべきトピックであるというわけだ。シリーズ中のこうした例外には他に、第8巻『古代天皇制を考える』と第14巻『周縁から見た中世日本』のみ。大雑把に言えば、古代、中世、近代という節目ごとに、シリーズは複数の声を用意したわけである。日本史学を刷新するシリーズ全体のイントロダクションである第0巻『「日本」とは何か』(網野善彦著)とともに、この節目ごとの巻はまず読んでおきたい。思い掛けない事件による改訂版(第1巻『縄文の生活史』岡村道雄著)の刊行を含め、わずか二年数ヶ月でこの一大シリーズを完結させた講談社の力量には恐れ入るばかりだ。他社のシリーズだが、
岩波講座『近代日本の文化史』の第7巻、第8巻は、本書の著者とだいぶ執筆者が重複しており、テーマに関連性も深いので、併読をお奨めしたい。
■ぼんやりとしか想像できなかった現実が明瞭に見えてくる
グローバリゼーション (思想読本-知の攻略-8 )
伊予谷登士翁編 作品社
本体2200円 21cm 190p 4-87893-522-7 / 2002.12
最新刊が出るたびに企画性がパワーアップしている気がする「思想読本」シリーズの最新刊は、グローバリゼーションがテーマ。この主題については国内でエキスパートとして近年広く認知されている一橋大学教授の伊予谷登士翁(「予」の字は正確には、へんが予、つくりが象)が編集をつとめており、「9・11以後の世界をどう見るか」というコーナーに、酒井直樹やイエン・アンらによる海外からの特別寄稿をまとめるなど、見逃せない一冊となっている。本書は6部構成で総勢55名の執筆者が参加している。第I部「グローバリゼーションという時代と社会科学」では、伊予谷の問題提起「グローバリゼーションとは何か」(氏は平凡社から同名の新書を刊行している)とそれに続く山之内靖との総論的討議「総力戦体制からグローバリゼーションへ」を収める。第II部「グローバリゼーション研究の可能性」では、政治学や歴史学などの従来のアカデミズムにグローバリゼーションが与えたインパクトを見、さらに国際関係論やカルチュラル・スタディーズ、多文化間精神医学といった新しい研究ジャンルでどう論じられているかということも解説する。第III部が上記に挙げた特別寄稿群であり、第IV部は題目通り「グローバル・イシューとは何か」をめぐり、編者による問題提起と多数の研究者が参加した討議が収録される。この種のイシュー(課題)であるだけに熱を帯びた議論が目を引く。第V部「グローバリゼーションの場と装置」では、移民・難民などの個別のイシューや、WTO(世界貿易機関)や国際会計基準といった様々な関連トピックからグローバリゼーションを簡潔に説明する。第VI部「グローバリゼーションを考えるためのキーパーソン&基本書」では、ウォーラーステインなど7人の注目すべき海外研究家と、ガッサン・ハージの『ホワイト・ネイション』など重要未邦訳文献10点が紹介される。地球規模で進行しつつある変化の諸相について日本人の蒙を啓くための、まさに必読必携の書である。
■グローバリゼーションという名の巨大装置を構造的に解析する
総力戦体制からグローバリゼーションへ(グローバリゼーション・スタディーズ
1)
山之内靖編 酒井直樹編 生井英考〔ほか〕著
平凡社 \3,200 サイズ:A5判 / 326p
ISBN:4-582-45219-1 発行年月:2003.1
新シリーズ「グローバリゼーション・スタディーズ」の第1巻である。戦中のいわゆる「総力戦体制」は、国民を国家の犠牲にし、戦争へと総動員させたが、戦後にはそれに代わって「グローバリゼーション」が諸国民を超国家的な経済システムのもとに組み伏し、システムにとって邪魔なマイノリティを排除しつつ、あらゆる他者を飼いならそうとしている。地球規模のこうした動員と排除の巨大なメカニズムを解明する糸口を本書は提示しようとする。三部構成で、第I部「地上の戦争からスペクタクル化する戦争へ」では、静岡大学助教授の朴根好(パク・クンホ、1962-)による「ヴェトナム戦争と「東アジアの奇跡」」、共立女子大学教授の生井英考(1954-)による「テロリズムと総動員の修辞学」の2編、第II部「身体のテクノロジーから消費の美学へ」では、京都大学医学部助手の美馬達哉(1966-)による「身体のテクノロジーとリスク管理」、リーズ大学名誉教授のジグムント・バウマン(1925-)による「労働の倫理から消費の美学へ」の2編、第III部「グローバリゼーションとアイデンティティの流動化」では、コーネル大学教授の酒井直樹(1946-)による「「あなたがた日本人」」、清華大学教授の汪暉(ワン・フイ、1959-)による「グローバリゼーションの地政学」の2編を収録。巻頭には伊予谷登士翁によるシリーズ刊行の言葉と、編者の山之内靖による序文、同氏による総論「総力戦体制からグローバリゼーションへ」を掲げ、巻末にはもう一人の編者酒井直樹のあとがきが置かれている。いずれも高度な研究論文だが、ポストモダンという言葉で世界を把握しきれなくなったこんにち、グローバリゼーションという巨大な装置の絶え間ない運動に否応なく巻き込まれていく現代人のほの暗い未来にとって、本書は灯台の役割を果たし得るかもしれない。続刊予定は、第2巻が伊予谷登士翁と姜尚中の共編で「グローバリゼションの政治経済学」、第3巻は吉見俊哉とテッサ・モーリス=スズキの共編で「グローバリゼーションの文化研究」となっている。大いに期待したい。
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03年2月17日
■ネグリ+ハートの快心作『帝国』を読み解く必携の副読本
現代思想 Vol.31−2
特集=『帝国』を読む
\1,238 青土社 菊判 / 230p
ISBN:4-7917-1101-7 発行年月:2003.2
発売後1ヶ月を経ずに公称で3刷1万部を発行したという驚愕の実績を示した『帝国』。思想書に普段は慣れ親しんでいない読者層も、その存在を気にし始めているかもしれないが、すでに『帝国』を購入した読者には、月刊『現代思想』の2003年2月号を併読されることをぜひお奨めしたい。「帝国」とは何か(ネグリ)、帝国とイラク攻撃(ハート)、『帝国』は21世紀の『共産党宣言』か(ジジェク)、〈帝国〉とポストコロニアリズム(浜邦彦)、帝国とマルチチュード(市田良彦)、人民かマルチチュードか(ランシエール)、マルチチュードと労働者階級(ヴィルノ)、「非物質的労働」概念について(宇仁宏幸)、ドゥルーズとネグリ(ズーラビクヴィリ)等々、『帝国』をめぐる興味深いトピックの数々が掘り下げられている。特集頁冒頭には長原豊によるハートへのロング・インタビューを掲載。付記もあわせて三段組で50頁近いヴォリュームだ。2002年10月に行われたこの対談は実に7時間に及んだと聞く。ハートが様々な質問に腹蔵なく答えており、『帝国』執筆の背景を垣間見ることができる。たいへん貴重である。この特集にはほかにもバリバール(フランス)や陳光興(台湾)、チョウ・ジョンハン(韓国)などのテクストが読める。これでたったの1300円(税込)。まだ『帝国』を読んでいない読者にも本書とセットでの購入をお奨めしたい。現代人を取り巻くこの世界でいったい何が起こっているのか。暴力と搾取の連鎖をいかにして断ち切ることができるのか。私たちはけっして無力ではない、と『帝国』は教える。どんな力があり、それをどう使うべきかも同時に教えるだろう。そうした『帝国』の示唆をより深化させてくれるのが本書なのだ。
■ポストコロニアル批評の最深部に打ち込まれた楔の脈動
超越と横断 言説のヘテロトピアへ (ポイエーシス叢書
49)
上村忠男著
未来社 本体価格: \2,800 サイズ:四六判 /
283p
ISBN:4-624-93249-8 発行年月:2002.12
1995年から2002年までの評論、対談、書評、エッセイを収めた、著者の「ヘテロトピア」論的実践の第二弾である。第一弾『ヘテロトピアの思考』(未来社、1996年)と同様、常に時代の「現在」と切り結び、そこに潜む諸問題と向き合ってきた著者ならではの誠実なテクスト群だ。「ヘテロトピア」は、ユートピアと異なり、実在する場所を指す。それは例えば共同墓地、公園、市場、図書館、監獄、等々であり、「ひとつの文化の内部に見いだすことのできる他のすべての場所を表象すると同時にそれらに異議申し立てをおこない、ときには転倒もしてしまうような異他なる反場所」である。著者はこの概念を、ミシェル・フーコーから借りている(「他者の場所」、『ミシェル・フーコー思考集成(X)』筑摩書房、2002年)。この異他なる反場所を自らつくっていくことに、著者は現代における言論の可能性を見る。そうした反場所から語る「新しい批評」の知識人モデルとして著者が認めるのは、エドワード・サイードである。本書はヘテロトピア的な「新しい批評」の実践であるとともに、ある意味で、著者以外の「新しい批評」の実践の、同時代的な並行紹介でもある。アブドゥル・ジャーンモハメドの言う「ボーダー・インテレクチュアル(境界知識人)」の今日的な範例がここに現れている。ボーダー・インテレクチュアルは著者の言う「外部への横断を介しての超越」によって思考する者でもある。言うまでもなく横断と超越は本書のタイトルに採用された重要な一対の概念であるが、著者自身が言及しているように、これは柄谷行人の『トランスクリティーク』とも響きあう契機となっている。ポストコロニアルの時代における歴史認識および歴史記述の問題や、記憶と政治の問題、また、近代を乗り越えるオルタナティヴの探究が、様々なボーダー・インテレクチュアルの言説を通じて焦点化されていく。鵜飼哲、多木浩二、キャシー・カルースらとの対談は出色だが、それ以外にも特に、ヴィーコからグラムシ、ネグリ、ギンズブルグ、アガンベンに至るイタリアの思想家を多く扱っているあたりは、やはり第一人者の仕事である。本書に先立って刊行された『歴史的理性の批判のために』(岩波書店)と併せて読みたい。
■「日本初の形而上学小説」がついに文庫化された
死霊 1(講談社文芸文庫)
埴谷 雄高〔著〕 \1,400 講談社
文庫 / 423p ISBN:4-06-198321-0 発行年月:2003.2
埴谷雄高(1911-1997)の作品はこれまでどれひとつ文庫化されたことがなかった。死後はや五年、まさか彼の代表作『死霊(しれい)』が文庫で読めるようになるとは驚きである。第1巻では第1章から第3章までを収録。全9章だから、予定で行けば3分冊になるのだろう。存在論、革命論、神秘主義、思考実験などのカオス(混沌)とでもいうべきこの前代未聞の小説は、1945年から1995年にかけて断続的に発表され未完に終わった、文字通りのライフワークである。四人の異母兄弟を中心に繰り広げられる、全存在の革命とは何かをめぐるめくるめく5日間の出来事を、極めて美しい詩的表現で書き綴っている。難解であるにも関わらず、そこには哲学的な制約に縛られたアカデミズム臭さはない。学問的伝統の遺産ではなく、あくまでも自分の言葉で表現するという姿勢が(かといってそれは遺産を無視しているというわけではない)、かえって本書を一種の独自の哲学たらしめ、同様に一冊の「美学」たらしめている(じっさい埴谷は東西の哲学的教養においても抜きん出ている)。第3章までの展開はいわば序幕と言える。主人公の三輪与志が自らの生(あるいは死)の出発点に選んだ「自同律の不快」への異様な執着。神出鬼没の行動力で、反社会的な革命理論を滔々と語り続ける首猛夫の企み。本書は冒頭に掲げられた銘のように「悪意と深淵の間に彷徨いつつ/宇宙のごとく/私語する死霊たち」の終わりなき物語なのだ。それは、四人がそれぞれの革命思想を披瀝する独白の世界(あるいは反世界)である。埴谷雄高の本名は、般若豊という。珍しい名前だが、彼は先立った妻との間に子供をもうけなかった。彼の血を継ぐものはいない。『死霊』の世界は、独身者の、とりわけ男性という「子を産まぬ性」の弧絶した叫びに彩られているように思える。
願わくば、同社の埴谷雄高全集第3巻『死霊』へ本編と一緒に収録された第9章の「結末」の未定稿や「新版への自序」「最新版への自序」、第11巻に収められた断章群、第19巻に収められた未完の第4章の初出稿、さらに最晩年にNHKの特番製作のために語られたロング・インタビューの書籍化『埴谷雄高独白「死霊」の世界』などをすべて合本して、文庫第4巻を編んで欲しいものだ。全集第3巻の解題で白川正芳氏が明かした、第9章以後の衝撃のプロットもぜひ収録して欲しい。ようするに、埴谷の「死霊」プロジェクトの全貌を、こうしてより広い読者に提供するための文庫化のいまこそ、まとめて見せて欲しいのだ。率直に言えば、『死霊』の単行本は、古本屋でよく目にするし、値段も安い(下手をすると文庫より安い)。つまり、従来と同じ内容の文庫化では売行きにも限界があるはずだ。そのあたりを講談社がよくよく勘案してくれればいいと思う。なお、この文庫第1巻には小川国夫氏のあとがきが付されており、深い印象を読む者に残す。第5章「夢魔の世界」(文庫第2巻に収録されるだろう)に出てくる革命集団内部のリンチによる同志の死刑場面について言及しているあたりは、極めて現在的な意義を有する問いかけであると思う。さらに、この紹介文を読んでいる皆さんには、当サイトでも大いに活躍された名物編集者の故・安原顕氏が全集完結に際して寄せたコメントも、ぜひ読んでもらいたい。いかにも氏らしい愛情溢れる一言一言がこれまた印象深く、忘れがたい。
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03年2月24日
■新しい戦争の世紀としての21世紀が現代人に重くのしかかる
新戦争論 グローバル時代の組織的暴力
メアリー・カルドー〔著〕 山本武彦訳
渡部正樹訳
岩波書店 四六判 / 298p ISBN:4-00-023378-5 \3,400
発行年月:2003.1
国際社会論を専門とするイギリスの学者で、反核や人権の運動家でもあるカルドー女史による、冷戦後の「新しい戦争」を論じた一冊。戦争新論ではなく、「新戦争」論であることに注意したい。著者によれば、この「新しい戦争」とは、1980年代から1990年代にかけて、アフリカや東欧で頻発した新しいタイプの組織的暴力を指す。それは、「国家間あるいは組織的政治集団間の政治的動機により行使される暴力」としての戦争という、近代的な従来の理解では把握することができない。国内紛争、内戦、低強度戦争と称されるものは、新しい戦争の一形態である。「政治、経済、軍事、文化の地球的規模での相互連繋の強化」としてのグローバリゼーションが、この戦争のありようを決定している。国家の自律性や政治的正統性が解体され、国力が減退する現場において、そうした戦争は発生する。著者はボスニア・ヘルツェゴヴィナでの事例を引きながら、その特徴を論じている。また、「新しい戦争」はコスモポリタニズム(普遍的国際主義)と、ローカリズム(地域主義)やトライバリズム(民族主義)との間の軋轢から生じる。冷戦が終結し、社会主義国が自由経済を奉じるようになる過程で、そうした特徴は顕著に表れていた。犠牲となるのが、軍人よりもむしろ市民であることも大きな特徴のひとつだ。さらに、進歩した軍事テクノロジーはもはやとどまるところを知らず、戦争の手段を多様化させている。これらが「新しい戦争」の相貌を浮き彫りにしている諸要素である。第5章「グローバル化した戦争経済」では、戦争を必要とする経済、戦争で活性化する経済について論じており、重要だ。戦争を定義し直し、その暴力をいかに政治的あるいは法的にコントロールするかを示唆する本書は、戦争の世紀と言われた20世紀が明け、また新たな戦争の世紀が始まったことを読む者に否応なく教える。日本語版へのエピローグとして、911を論じ、ブッシュの戦争観を批判した書き下ろしが併載されている。
■最先端の思想動向から「現代」を地図化して読み解く、絶好のレッスン
力としての現代思想 崇高から不気味なものへ
宇波彰著 論創社
\2,200 サイズ:四六判 / 243p ISBN:4-8460-0301-9 発行年月:2002.12
フランス現代思想を主たる足がかりにして、著書や訳書を数多く発表してきた哲学者による書き下ろし12篇(うち2篇は、旧稿を大幅改訂)を収録した論文集。英仏独日をはじめとする各国の現代思想、記号論、科学哲学、芸術評論、メディア論、精神分析、歴史学、文学などを横断し、「現代思想」に通底する問題系に迫る。「思想」の実践には、現代の諸問題に潜む、今まで明瞭には見えなかった関連性を見いだす一種の「力」が伴う。著者は「一つの思想は孤立していては力を発揮できない。一つの思想を別の思想とつなぎあわせ、絡み合わせる仕事が必要だ」と書く。まさにその典型が本書であると言えよう。近代から現代に至る思想を流れを、著者は副題にある通り、「崇高から不気味なものへ」という枠組みで捉えている。崇高なものや不気味なものとはどちらも表現しがたいもの(表象不可能なもの)であり、この表現しがたいものあるいは理解を超えたもの、普通でないものが私たちの時代を特徴づける暗いしるしである。近代において戦争は一種崇高なものとも考えられていたが、911以後を生きる現代人にとって戦争は端的に不気味なものである。メディアには情報が溢れかえっているが、事態の本質はいつもどこかよくわからない場所にある。本書はいわば様々な思想の合わせ鏡で現代人の抱える精神的死角を明るみに晒すためのヒントを提起しようとする試みであるとともに、広大な現代思想をマッピングする入門書でもある。平易な語り口が多くの読者に好印象を与えるだろう。
■20世紀のアメリカで半世紀近く続いていた陰惨な人体実験とは
負の生命論 認識という名の罪
金森修著
勁草書房 本体2500円 20cm 219,13p 4-326-15368-7 /
2003.01
90年代半ばに書かれたテクスト三本に、書き下ろし一本を加えた論文集。著者は日本を代表する科学思想史の専門家である。バシュラールやカンギレム、ダゴニエ、といったフランスのエピステモロジー(科学認識論)の系譜や、近年のソーカル問題(いわゆるサイエンス・ウォーズ)にも詳しい、斯界の第一人者だ。書き下ろしである第一章「汚れた知――タスキーギ研究の科学と文化」は、アメリカ南部アラバマ州のタスキーギ近辺で1932年から1972年まで、実に四十年間も続けられた、梅毒研究のための人体実験をめぐる考察である。この人体実験は特殊だった。なぜなら、罹患した黒人労働者四百名近くを、病が進んで死ぬがままにさせ、それを観察し続けた冷酷な「国家的」実験だったからだ。その実態たるや筆舌に尽くしがたい愚行である。人種的、社会的、科学至上主義的偏見が渦巻くこうした陰惨な現場が、なぜ公衆衛生の名のもとに継続されてしまったのかが冷静にまとめられている。著者はさらに、あらゆる医療行為には一種の人体実験的側面が伴うことを指摘する。善を装うものの裏にある、あまり認知したくない負の側面を直視してみようというのが、本書の表題にこめられた思いなのだ。第二章「ある科学者の肖像」は生物学者フェリックス・ル・ダンテクの進化論を扱い、第三章「ホモ・ホリビリス」は神経心理学者のアンリ・ラボリの向精神薬について取り上げる。第四章「LSDの産婆術」はその名の通りLSDをめぐるエッセイであり、この薬を利用した思想家やアーティストたちの系譜を追っている。科学や医学、薬学のダークサイドを見つめていくことの大切さを教えてくれる一冊だ。
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