◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
2003年3月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
03年3月3日
■デリダはなぜ難解なのか。その理由を理解すればデリダは読める
デリダ (講談社選書メチエ259 知の教科書)
林好雄著 広瀬浩司著
講談社 本体1500円 19cm 238p 4-06-258259-7 / 2003.01
来たるべき世界のために
デリダ〔著〕 ルディネスコ〔著〕 藤本一勇訳 金沢忠信訳
岩波書店 四六判 / 346p
ISBN:4-00-022524-3 \3,800 発行年月:2003.1
2003年の年頭、フランスを代表する哲学者ジャック・デリダの来日予定にあわせ、各社から新刊が立て続けに刊行された。来日が急遽取りやめになったことは残念だったとはいえ、約二ヶ月のあいだに、主著を含む四作(『有限責任会社』『フィシュ』『来たるべき世界のために』『友愛のポリティックス』)が邦訳され、さらに良質な入門書が出版されたのは、大きな収穫だった。その入門書というのは、分かりやすいと定評のある講談社選書メチエの「知の教科書」シリーズの一冊として刊行された、林好雄と廣瀬浩司の共著『デリダ』である。
参考までに既刊のデリダ入門書を列挙すると、講談社「現代思想の冒険者たち」シリーズの、高橋哲哉著『デリダ』(1998年)、清水書院「人と思想」シリーズの、上利博規著『デリダ』(2001年)、青山出版社「90分でわかる」シリーズの、ポール・ストラザーン著『90分でわかるデリダ』(2002年)がある。ほかにもデリダ論としては、古典的な成果である高橋允昭の『デリダの思想圏』(世界思想社、1989年)や、東浩紀の高名なデビュー作『存在論的、郵便的』(新潮社、1998年)、松本浩治の『デリダ・感染する哲学』(青弓社、1998年)などがある。
こうした既刊書の中でも出色なのが、今回のメチエ版『デリダ』である。本書は五つのパートから成る。最初のパート「デリダの生涯と思想」では、出生から今日までの人生と思想遍歴が、明瞭簡潔に八十頁足らずで解説される。続く「デリダ思想のキーワード」では、脱構築や差延、亡霊学といったデリダ特有の九つの術語が、「知のみなもとへ」では『グラマトロジーについて』(全二巻、現代思潮新社、1983年)や『法の力』(法政大学出版局、1999年)など、邦訳のある主著十点が紹介され、デリダ思想の枢軸と展開が明かされる。
「三次元で読むデリダ」では、歓待、メシア的なもの、女性、赦し、といった特筆すべきテーマ十題からデリダをさらに読み解く。「知の道具箱」には、デリダの全著作の簡単な紹介や、国内外のデリダ論およびデリダ関連書をピックアアップしたブックガイドのほか、デリダの足跡をたどる年譜や、設問形式の練習問題まで準備されている。まさに「教科書」として最適である。何より書き出しである「プロローグ――デリダは難解か?」がいい。デリダが自らの「難解」ぶりを語る様子が引用されている。
デリダは、自分のことを難解だというのは間違っており、自分より難解な哲学者は山ほどいる、と述べる。難解だと非難する人たちは、読解作業を正確にやっていないか、それとも最初から拒絶しているのだ、と。この弁明を引きつつ、本書の著者である林氏は、難解であるという印象はしかし実際当然のもので、理由のないものではない、と補足する。デリダは「明快さによって事態の複雑さが損なわれないかぎり、明快であるために私にできることは何でもしています」(以上の発言は、『言葉にのって』ちくま学芸文庫、2001年より)と話すが、つまりそれは事態の複雑さに即してデリダが「難解」に語ったり書いたりする時もあるということで、デリダのそうした「戦略」に細心の注意を払いつつ読めば「難解」さも克服できよう、というわけである。それがこの入門書の意図だ。
本書をパラパラめくりながら並行して読むのに最適なデリダ自身の著作は、やはり対談ものである。邦訳でいうと、クリステヴァらとのやりとりを含む初期作『ポジシオン』(青土社、2002年新装版)や、1983年の来日講演を中心に編まれた『他者の言語』(法政大学出版局、1989年)、1998年収録のラジオ番組の模様を伝える『言葉にのって』(前出)、そして今回邦訳されたばかりの、精神分析家エリザベート・ルディネスコとの対談集『来たるべき世界のために』(岩波書店、2003年)などである。初心者向きは『言葉にのって』であり、アルジェリア生まれのユダヤ人である彼の出自や青年時代のエピソードが興味深い。また、デリダの最新の思想動向とその広がりを知る上では『来たるべき世界のために』が欠かせない。
知的遺産、家族、動物、反ユダヤ主義、死刑など、厳選された九つの提題のもと、ルディネスコは巧みにデリダの本音を引き出そうとしている。デリダは詳しく答えたり、あるいは問いかけを意図的に宙吊りにして答えなかったりするのだが、分量的に言っても、多岐にわたる議論の質から見ても、本書は著書数冊分に価する。デリダはルディネスコに、自分の思想はすべてフランス語との肉弾戦を経てなされる、と告白する。彼自身の出自にちなんだ宿命であるのかもしれないが、そうした肉弾戦を通じて語られ書かれる彼の言葉が、一種の難解さを帯びるのはやはり必然なのかもしれない。フランスにおける「部外者」という出自にちなんだ宿命からくる彼の特異な言語観は『たった一つの、私のものではない言葉』(岩波書店、2001年)
などに詳しい。
彼は言語に対するこだわりを捨てることがない。言語は知と権力をめぐる政治的な闘争の舞台である。今回邦訳された『有限責任会社』(法政大学出版局、2003年)において、そのこだわりはアメリカの哲学者ジョン・サールとの激越な論争として現れている。この論争が意味するもの、そして、そもそもデリダにとっての「政治」とは何なのかについては、次回に言及することにしよう。
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03年3月9日
■デリダ、その政治的可能性――9.11、動物、友愛
有限責任会社 (叢書・ウニベルシタス752 )
ジャック・デリダ著 高橋哲哉訳 増田一夫訳 宮崎裕助訳 法政大学出版局
本体3700円 20cm 347p 4-588-00752-1 / 2002.12
フィシュ アドルノ賞記念講演
ジャック・デリダ著 逸見竜生訳 白水社
本体1800円 20cm 113p 4-560-02440-5 / 2003.02
友愛のポリティックス 1
ジャック・デリダ〔著〕 鵜飼哲共訳、大西雅一郎共訳、松葉祥一共訳
\4,200 みすず書房 A5判 / 298p
ISBN:4-622-07023-5 発行年月:2003.2
友愛のポリティックス 2
ジャック・デリダ著 鵜飼哲共訳 大西雅一郎共訳 松葉祥一共訳 みすず書房
本体4200円 22cm 298p 4-622-07024-3 / 2003.02
知と権力をめぐる政治的な闘争の舞台としての「言語」、そこへのデリダのこだわりがもっとも先鋭的に現れているのが、今回邦訳された『有限責任会社』(法政大学出版局、2003年)である。本書は、デリダがジョン・サールとの間で交わした論争にまつわるテクストを集成したものだ。この論争は、デリダの論文集『余白』(未訳、1972年)に収録されたテクスト「署名 出来事 コンテクスト」における、言語行為とコミュニケーションにかんする考察――とりわけそのオースティン読解――に対して、当のジョン・オースティンの学統を汲む哲学者サールが反論したことに端を発する。デリダはサールやサールをはじめとするアメリカの分析哲学の一潮流に宛てて、長文の辛辣な反批判を寄せる。それが「有限責任会社abc…」である。
本論に入るまでのデリダ好例の「前振り」の長さと、分析哲学の言語論に執拗に介入していくデリダの戦略の巧妙さは、本書を一般読者から遠ざけるに十分な、高度な専門書たらしめているように見える。しかしデリダが対峙しているのは、根本的には、分析哲学の言語論がはらむ政治性であり、その「高度な専門性」に隠されたアカデミズムの閉鎖性である。論争の意義を語る後日談「討議の倫理にむけて」において、デリダは、サールが彼を読解する際に見せたある種の野蛮さについて述べている。確信犯的な誤読、ないし読解の積極的な回避をデリダはサールに見て取ったのである。デリダは自身の反批判における試みをこう説明する、「いかなる点においてアカデミックな礼儀や非礼についてのいくつかの実践が野蛮さの形式をのさばらせることができたのかということを示そうとしたのであり、その野蛮さについては私は何ら賛成するものではないし、私なりのやり方でそれを解除しようと」したのだ、と。
さらに彼は論争の意義についてこう述べる、「私はアカデミックな討議のコードのもとに隠された(哲学的、倫理的、政治的)公理系を読まれるべくしようと思っていたのです。[中略]『礼儀と政治』、これが「有限会社abc…」のサブタイトルでありえたものでしょう」。これらの告白は、本書に限らずデリダの著書の多くに当てはまるように読める。デリダの難解さは、議論において前提視される様々な「約束事」が本当に妥当なものなのかどうかを、いわば土俵の内と外に片足ずつ置きながら検証しようとするその態度に因むものであろう。内側に属する者にとってみればデリダは不適切な議論を吹っかける部外者である。足下を掘りすぎれば土台が露呈し、崩れ去る。脱構築とはそうした実践である。それを無用な不安定性と見るか、議論の刷新と見るかによって、必然的にデリダに対する評価は変化するだろう。デリダはいまもなお、そうした毀誉褒貶のさなかにいるし、それゆえに彼の言動は注目される。
デリダの発言が注目された近年の格好の例となるのが、今回の新刊ラッシュの中の一冊である『フィシュ』だ。本書は、2001年9月にデリダがフランクフルト市から「アドルノ賞」を授与された際の記念講演を書籍化したものである。なぜ注目されたのかというと、この講演はかの米国同時多発テロの直後に行われたものだったからだ。あろうことか、9月11日はアドルノの誕生日でもあった。9.11をめぐり、「なんぴとも政治的に無実ではない」とデリダは述べた。「自己の過失、自己の政治的な過誤から逃れようとしないこと。たとえ、途方もない規模で、この上もなく恐ろしい代価を払うこととなった時であろうと」。9.11の犠牲者に絶対的な同情を寄せつつ彼が語った言葉の重みを受け止めた人々が今一番注目しているのは、彼が今年(2003年)1月に出版した最新刊『ならずもの――理性をめぐる二つの試論』(未訳、ガリレー刊)である。これは昨年7、8月にデリダが発表した二つの講演にもとづいており、その名の通り、ならずもの国家とは何か、民主主義論や自由論、国家論、戦争論と絡めて考察したものだ。
デリダ自身の構想の中で、こうした政治哲学に分類できるような一連の探究は大きな一部門を占めている。『フィシュ』において、デリダは自らの哲学構想についてアドルノの思想圏を受け継ぎつつ以下のように七つに分類し明示しているが、このこともまた注目に価する。これらの七部門は、デリダにとって今まで取り組んできた作業の諸相であるとともに、今後も引き続き取り組みたい「夢の本」である大冊の各一章を構成するものでもある。
1)「ヘーゲルとマルクスからフランスとドイツがそれぞれ相続した遺産の比較史、すなわち戦前と戦後における観念論、とくに思弁的弁証法への両国に共通して見られる拒絶のあり方と、そこに明確に見られる両国の差異について」。およそ一万ページがこれに費やされるという。
2)「ハイデガーの受容と遺産に関する、両国の政治的悲劇を通して眺められた比較史」。これにもまた一万ページが割かれるだろう、と。ニーチェ、フッサール、ベンヤミンの遺産についても考えることも重要だ、とも付言されている。
3)「精神分析」について。反動に陥らないフロイト読解の可能性をめぐり、デリダはアドルノと関心を共有している。
4)「アウシュヴィッツ以後」について。固有名であり、象徴でもあるものを前にしての歴史的、現在的な責任へのアドルノの自覚から出発して。
5)ガダマーやハーバーマスのような、デリダの友人たちでもあるドイツの思想家たちと、デリダの同世代のフランスの哲学者たちとの間に起きた、数々の抵抗と誤解に見られる、さまざまな差異を主題にした歴史について。さらにこの文脈から発展して、「考慮すべきなのは、ひとりヨーロッパのみにとどまらぬ未来、かかる未来を前にして分有される政治的責任という意識のひろがりなのです。責任のこの分有とは、とりもなおさず、政治はもちろん、政治的なものの本質、創出すべき新たな戦略、共同で取るべき立場、そして(国家やそれ以外の)主権の論理とそのアポリアにまで関わる議論や討議、決定の積み重ねとしてあるのです」とデリダは述べ、ここで9.11が言及される。
6)「文学の問題」。「文学が他の諸芸術と同様に、大学哲学という場にあって、批判的な仕方で脱中心化しうるものへの関心」をデリダはアドルノと分かち持っていると述べる。
7)「動物の問題」。人間の内なる動物性を罵るか、あるいは人間を動物扱いする哲学の観念論的伝統に対する批判的(脱構築的)エコロジーの展開。観念論がファシズムへと変容する契機をめぐる、先鋭的な批判の準備。アドルノ(とホルクハイマー)の『啓蒙の弁証法』(岩波書店)における示唆を咀嚼しつつ。
以上が、デリダがアドルノに敬意を表し、その思想をなぞりつつ取り組んできたテーマ群であり、彼が今もっとも戦略的に展開しようとしているのが「動物論」である。その概要は前回紹介した『来たるべき世界のために』でも言及されており、97年夏に発表された講演をもとに現在加筆準備中である『動物――私がそれであるもの』において、より注意深く展開されるだろう。
「動物論」と並行して現在の彼の哲学の中枢を為すのが『ならずもの』のような政治論であり、そのもっとも重要な著作が、1993年の『マルクスの亡霊たち』(邦訳書は藤原書店より刊行予定)と、1994年の『友愛のポリティックス』(全二巻、みすず書房、2003年)である。後者の冒頭においてデリダは次のように書き記している、「この試論は長い序文に似ている。むしろこれは、いつか私が書きたいと思っている、ある書物の前書きになるかもしれない」。
そもそも日本語としてあまりにも難解である傾向の強かったデリダの翻訳書の中で、『友愛のポリティックス』は今までにない流麗な訳文に仕上げられた見事な成果を示している。ギリシア古典から現代思想まで――プラトン、アリストテレス、キケロ、アウグスティヌス、モンテーニュ、カント、ニーチェ、ミシュレ、カール・シュミット、ハイデガー、ブランショなど――西欧における友愛の思想史を丹念にたどりつつ、男性中心主義を打破し、来たるべき民主主義の潜在的可能性をさぐったこの美しい本は、もともとは80年代末に行われた一連の講義を基礎とし、補論としてハイデガーにおける友愛の解釈を論じたテクストを巻末に付している。
奇しくも、デリダが本書の最後で慎重に論及したブランショ、デリダが議論の展望においてもっとも信頼を置いているブランショは、本書下巻の発売日に死去した。かけがえのない友愛をこめて、ミシェル・フーコーを送り、エマニュエル・レヴィナスを送ったブランショの喪の言葉を本書で引いたデリダは、ブランショの葬儀において追悼文を読み上げた当人である。「この場所で、この瞬間に、モーリス・ブランショというこの名を口にする時、どうして震えずにいることができましょうか」とデリダは繰り返し語ったという。
友愛の系譜における男性中心主義のニーチェ的転倒を評価しつつ、ブランショの示唆に導かれて、男性中心主義を回帰させる共同体主義のいかなる陥穽をも、そして他者を人間性の名のもとに包摂する「兄弟」の論理のいかなる専横をも見逃すまいとするデリダの繊細な探究の核心は、ブランショが『明かしえぬ共同体』(ちくま学芸文庫)で銘に選んだ、ジョルジュ・バタイユの「共同体をもたない人びとの共同体」という言葉に集約できるかもしれないし、さらにブランショが『友愛』(未訳、1971年)の扉に掲げたバタイユのもう一つの言葉に集約できるかもしれない。すなわち「深い友愛の状態にまでいたる友。そこでは、見捨てられた、すべての友から見捨てられた人間が、人生のなかで、人生を越えて彼とともに歩むことになる人間に、彼自身生を持たず、自由な友愛が可能性で、すべての結びつきから解き放たれた人間に、出会う」。
デリダはナンシーやラクー=ラバルト、アガンベンらとともに、今月(2003年3月)26日から4日間、パリ第三大学と第七大学で開催される、ブランショをめぐる大規模な討論会に参加する。錚々たる顔ぶれが揃うこの討論会は、実質的なブランショ追悼の場になるだろう。デリダがもし、ブランショの先例に倣って友愛をテーマに、亡き先達に向って語りかけるのならば、それはこの『友愛のポリティックス』に続く問いの新しい一歩を踏み出すものとなるだろう。
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03年3月16日
■ラカン理論が民主政治を刷新する。少壮学者の力作論考
ラカンと政治的なもの
ヤニス・スタヴラカキス著 有賀誠訳 吉夏社
本体3000円 20cm 350p 4-907758-10-3 / 2003.02
著者は1970年にギリシアに生まれ、現在はイギリスで研究活動を続けている俊英で、エルネスト・ラクラウやシャンタル・ムフの弟子筋にあたる。本書は1999年に英米で出版されたもので、彼の処女作である。ラカンの精神分析の政治的可能性を、ラカン本人の思想だけでなく先行する数多くのラカン研究書を参照しながら系統立てて探っていくた好著で、師のラクラウをはじめ、ラカンを政治思想へ転用してきた先達の代表格といっていいジジェクも賞讃の声を寄せている。少なくともラカン本人は現実の政治に積極的に参加するような人物ではなかったが、彼の精神分析は現実政治の倫理的基盤の再定礎に貢献し得る重要なヒントをもたらすのだということを、本書は教えている。本論にあたる全五章のうち、最初の三章「ラカン的主体」「ラカン的対象」「政治的なものを包囲する」では、ラカンの精神分析理論や概念装置が政治理論や政治分析にどれほど有用であるかが検証される。後半の二章「ユートピアの幻想を越えて」「両義的民主主義と精神分析の倫理」ではより具体的に、ラカン理論が政治的理想主義の腐敗に抗し、新たな政治的触媒として民主主義の窮地を解放する役割を果たすポテンシャルを有していることが論証される。ラクラウやムフによるラディカル・デモクラシーの構想の発展的継承がここでは見られる。ラカン理論は、政治における「すべての壮大な幻想に関するわれわれの考え方を変えようとする闘いの最前線に位置している」わけである。本書は、ジジェク、バトラー、ラクラウによる討論の書『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』(青土社、2002年)での錯綜した議論に、一定の論理的道筋を与える効果を有するものと思われる。日本ではスタヴラカキスはほとんどまだ無名に等しいが、本書の力作ぶりは、ラカン読解における新たな基本書とみなされるに充分な仕事であるといっていい。
■カントの三批判書のラカン的読解を通じて、倫理の新たな位相を模索
リアルの倫理 カントとラカン
アレンカ・ジュパンチッチ著 富樫剛訳 河出書房新社
本体3500円 20cm 328p 4-309-24281-2 / 2003.02
「カントとラカン」という、こんにちもっともホットな主題を扱う本書は、ジジェクから絶賛を受けた同郷出身の才媛ジュパンチッチ(1966-)の注目作である。まだ無名に等しい彼女の著書がいち早く日本語で読めるようになったというのは、率直に言って驚きだが、その分うれしい。同様のテーマでは、フランスの精神分析家モニク・ダヴィド=メナール(1947-)による『普遍の構築』(せりか書房、2001年)という優れた先行研究が邦訳されているが、原書ではこのダヴィド=メナール女史の著書刊行の三年後(2000年)に、本書がジジェクの肝いりシリーズ「エスのあった場所に」の一冊として英米で刊行されている。ジジェクは本書に寄せた「序」でこう紹介している。「この本は、近代的主体に関するこの[フロイトとラカンの]議論の、これまで予想もされなかった倫理的帰結――倫理それ自体と〈善〉の領域との断絶――に焦点をあてるものである」。この「序」での、ジジェクによる絶賛の嵐は特筆すべきであるが、あまりにも執拗なので引用しないでおこう。ジュパンチッチ自身は本書を次のように位置付けている。「この本は、新しい倫理のための枠組みを立てる試みである。倫理の地平を「生命」に限定してしまうような(ポスト)モダニズム世代の倫理とは異なる倫理、また、主人の言説の上に構築された倫理を超えるような倫理、これが[本書において]私が目指すものである」。さらに端的に言えば、本書はカントの三批判書をラカン理論から読み解き、カントが定礎した近代的倫理学の基礎を、ラカン理論によっていわば裏側から書き換える大胆な試みである。たとえば本書第4章でジュパンチッチが『純粋理性批判』における「超越論的理念」をどう読んでいるか。ラカン風に言えば、それは空虚であるがゆえに理念として働くのである。一見カントの意図に沿って読んでいるように見えながら、ラカンがかつてそうしたように、精神分析における主体論への巧妙な裏付けとしてカントが再読解されている。最終的に本書はカントの三批判書から、ラカンのセミネール『精神分析の倫理』(岩波書店、2002年)などにおける、ギリシア悲劇とりわけ『オイディプス王』『アンティゴネー』に対するラカン独自の解釈へと議論を移していく。ラカンの「純粋欲望批判」(ジジェク)的な立場を、カント哲学を通じて検証した本書は、思いがけず、新しい倫理学の基礎付けの試みであることに加えて、格好のラカン的「主体」入門にもなっている。
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03年3月24日
■メルロ=ポンティの反哲学的身体論とその政治的実践を解説
メルロ=ポンティあるいは哲学の身体
ベルナール・スィシェル著 大崎博訳 サイエンティスト社
本体3800円 21cm 308p 4-914903-87-3 / 2003.03
ベルナール・スィシェル(1944-)の単著は初邦訳である。これまで、目立つところでは『批評空間』第II期18号に、アラン・バディウの『ドゥルーズ』(河出書房新社)についての書評の邦訳が掲載されたことがある。シシェールと表記されることもある(原語の綴りはSichere)。日本ではモーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)の著書は幸いにもほとんど邦訳されており、訳者の木田元氏が卓抜な解説書をいくつか書いてもいるが、フランスにおけるメルロ=ポンティ論の邦訳となるとさほど多くない。メルロ=ポンティが開拓した身体論、知覚論、政治論を丁寧に解説した、スィシェルによる本格的な入門書がこうして邦訳されたことはたいへんに喜ばしい。原著は1982年刊。決して「最近の」本ではないが、議論の質は古びていないし、メルロ=ポンティのアクチュアリティを再認識できる貴重でスリリングな論考である。メルロ=ポンティの思想の特徴は、その横断性にある。倫理学も美学も、個別性も集団性も、理論も実践も、「身体」を通じて、分かちがたく縒り合わされた束として肉化されている。知はこの肉体と生命の中にあり、ここから離れた純粋な思考というものが存在するわけではない。また、その主体は社会と切り離されているわけではないから、身体を通過する思惟はすべからく政治と繋がっていく。形而上学ほど抽象的ではないし、心理学ほど還元主義的でもない。晩年の『見えるものと見えないもの』(みすず書房)で構想された「非哲学」や「非知」は、従来の人文科学的知の体系を解体する試みであったと言えるだろう。ジャック・デリダが哲学の「脱構築」を実践する以前のフランスで、すでにそうした作業を彼は行っていたのである。序文が二つ添えられている。ひとつは数学哲学者のドゥサンティによるもので、彼はスィシェルのこの本にメルロ=ポンティの肉声が響いているかのように感じたと語っている。同時代を生きた彼ならではの回想が印象的だ。いまひとつはスィシェル自身のもの。日本語版のために書き下ろされたテクストである。フランスにおける現象学の独自な展開の一形態としてメルロ=ポンティを限定するのではなく、マルクス主義とのかかわりあいと絡めて、一個の行動する哲学者がたどった変遷を追っているところが、本書の大きな魅力である。
■文化人類学の方法論を根本的に問い直す、分水嶺的大著の完訳
文化の窮状 二十世紀の民族誌、文学、芸術(叢書文化研究
3)
ジェイムズ・クリフォード著 太田好信〔ほか〕訳
人文書院 本体価格: \4,500 サイズ:A5判 /
601p
ISBN:4-409-03068-X 発行年月:2003.1
昨年邦訳された『ルーツ』(月曜社)に続く、単著の邦訳第二弾である。本書は『ルーツ』に先行するクリフォードの主著で、1988年に原著が刊行されている。クリオフォードと親交のある太田好信氏による著者インタビュー「往還する時間」や、周到な訳者解説「批判人類学の系譜」など、クリフォードの方法論と実践を知る上でまさにマストバイな一冊となっている。著者の独特な術語の主なものを解説した「用語集」は、読者にとっては特に重要な配慮であると思う。今回はじめてお目見えした著者の写真もやはり特記すべきだろう。観相学というほどのものではないが、読者が著者の風貌から感じ取れる何かもあるだろうからだ。「本書はつぎはぎだらけの民族誌的オブジェであり、いわば不完全なコレクションである」と著者は述べる。それは本書が七年間(1979年から1986年)にわたって書かれ、また書き直されたからであり、その歳月に文化人類学そのものが学問的に問い直されてきたからでもある。西洋中心主義以後の文化人類学の試み、それがこの本の特徴であると言えるかもしれない。本書の題名「文化の窮状」とは、西洋中心主義的な「文化」観の破綻を言い表している。地球規模での交通と移動、移民は、従来の「中心と周縁」の二元論的把握を無効にした。現実によって無効となった諸概念の廃墟の地平線に見えてくるもの、その予感が本書をかたちづくる。大冊にしり込みする読者がいるかもしれないが、内容的に必ずしも難解ではないし、一気に読み通すことを要求されているわけでもない。また、本書には膨大な固有名詞が溢れかえってはいるが、すべて記憶するよう強要されているわけでもない。議論の筋を追うためには、本書の「移動」の身振りにいったん寄り添ってみることが必要かもしれない。常にローカルとグローバルの二つの視点を往還し、その都度、主題をめぐるコンテクストは再審される。民族誌的な観点からすれば、「アイデンティティ(同一性)」と呼ばれているものも、「つねに混淆しているものであり、関係的であり、創造的なもの」であるのだ。同質化と生成、喪失と創造は同時的である。学者が自分の拠って立っている土台について、不安定で動いていると告白するのは、天動説を捨てて地動説を語る天文学的転回に似ている。すなわち文化人類学も、クリフォード以前に戻ることはもはや時代錯誤だろうということだ。その意味で、これはまさにエポックメイキングな書物である。
■プラトンからイエスへ。キリスト教の秘教的本質が明かされる
神秘的事実としてのキリスト教と古代の密儀
ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳
アルテ 四六判 / 189p ISBN:4-434-02817-0 \2,000 発行年月:2003.1
原著初版は1902年、第二版が1910年、邦訳既刊書は今回の新訳と同じ題名で、1981年に石井良訳で人智学出版社から刊行されていた。神と人との関係、なかんずくキリスト教を論じたシュタイナーの著書が数多くあるが、本書はその中でも代表的な一冊である。全13節のうち、前半はピュタゴラス派、ヘラクレイトス、プラトンなどの古代ギリシア思想における神話体系と密議について論じ、中ほどの「エジプトの密儀の叡智」で『死者の書』やオシリス神について語った後、仏陀について触れ、仏陀との対比においてキリスト論が導入される。後半は福音書やラザロの奇跡、ヨハネの黙示録などに論及。ギリシア古典と聖書の神秘主義的再読解の書である。シュタイナーが見いだしたのは、古代の密儀とキリスト教との連続性であり、その独自の神秘主義史観の光のもとに異貌をあらわすキリスト教の「本質」である。それは正統な神学的読解ではないが、正系から抑圧される霊学的底流を私たちは全否定することはできないだろう。シュタイナーが読み継がれる理由はここにあると思われる。異教や秘教と交じり合う次元におけるキリスト教というのは、単なる混淆主義の誤謬か、それとも「深化」なのか。シュタイナーの中では正系も異端もひとつの地続きの王国なのであり、彼の徴候的な読解に従えば、正統なる典礼の中にもすでに古き時代の秘儀が入り混じっている、いや、根を深く張っていることになる。そうした発見は果たして事後的な遡及なのだろうか。シュタイナー的な神秘主義の源流が実際「古い」ものなのか、実は「新しい」ものなのかは議論が分かれるところだとは言え、本書をはじめとする彼のキリスト教論は西洋社会の深層心理の一つとして何度でも甦り、参照されるだろう。実際、他の思想家の中にも、キリスト教と古代密議の連続性を指摘する学者がいて、あながちそれらは妄想でも独断でもない。その一端はヴァールブルグ学派の一連の成果にあらわれていよう。シュタイナーにおけるキリスト秘教およびキリスト密儀については、訳者の近著『ゴルゴタの秘儀』(アルテ社近刊)で詳細に論じられると言う。
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03年3月31日
■ネグリの思想的核心と波乱の半生が赤裸々に語られる好著
ネグリ生政治(ビオポリティーク)的自伝 帰還
アントニオ・ネグリ著 杉村昌昭訳 作品社
本体2200円 20cm 241p
4-87893-552-9 / 2003.03
昨秋(2002年)の新刊のいち早い翻訳である。アルファベット順に、A(武器Arme)からZ(エレアのゼノンZenon
d'Elee)まで45項目のキーワードに沿って、聞き手ののアンヌ・デュフールマンテル女史がネグリ本人に回想を促すという、一風変わったインタビュー集である。「帝国」「カイロス」「マルチチュード」といった彼特有の思想的キーワードから、「グローバリゼーション」「ツインタワー」といった時事ターム、「赤い旅団」や自身の名前「ネグリ」について語る興味深い告白やエピソードなど、まさにネグリ入門の決定版と呼ぶにふさわしい。より短い入門篇としてはイタリア帰国直前のインタビュー『未来への帰還』(インパクト出版会)があるが、本書ではより広範で詳しい情報がごくプライヴェートなものまで含めて満載されている。また、『〈帝国〉』の分厚いボリュームを前につい躊躇してしまった方にはぜひお奨めしたい。というのも、『〈帝国〉』の議論の核心と、その思想的背景は、本書でネグリ本人が説明しているからだ。個人や家族のこと、70年代の政治活動から、フランス亡命時代を経て、帰国後は牢獄と指定住居を往復しつつ旺盛に執筆活動を続けている彼の素顔がここにある。彼の離婚のエピソードや喘息もちのことなど、本書の告白がなかったら誰も知らなかったろう。現代思想におけるネグリの位置と言うのも本書から窺える。デリダやアガンベン、ナンシーらとネグリの相違点を知りたいなら、「ハイデガー」の項目に端的なコメントがあるし、ドゥルーズやガタリとの影響関係の一端は「抵抗する」の項目に、二人との交友関係なら「裂け目」の項目を読めばいい。彼が一貫して「街頭における政治」に参加し、介入しつづけてきたという、その強靭な質が本書にはよく表われている。行動する彼の姿は、一個の容赦ない「知識人批判」そのものだ。思考と実践が結びつく時、そこにネグリの言う「生政治」が生まれる。フーコーが指摘した、行政的な人民統制としての「生政治」ではなく、民衆が政治を動かしていく反転攻勢としての「生政治」である。ネグリの半生は現代人を無力感から奮い立たせる「勇気」そのものだ。日本初と言っていいネグリ本人のメッセージ「親愛なる日本の友人たちへ」も必読である。
■進行中の水戦争の実態を暴き、水の独占から水の民主主義への転換を提唱
ウォーター・ウォーズ 水の私有化、汚染そして利益をめぐって
ヴァンダナ・シヴァ著 神尾賢二訳 緑風出版
本体2200円 20cm 245p 4-8461-0301-3 / 2003.03
断言しておくと、本書は先に刊行された『バイオパイラシー』(緑風出版)とあわせ、現代人必読である。21世紀は「水資源をめぐる争いの世紀」である。これまでクレアの『世界資源戦争』(広済堂出版、2002年)やド・ヴィリエの『ウォーター 世界水戦争』(共同通信社、2002年)などを読んですでに知識のある方も、はじめて読む方にもお奨めしたい。水をめぐる話題は、身近なものから、規模が大きすぎてなかなか認識できない問題まで、現代人の生活全体を覆い、かつ支えている。例えば近年では日本の多くの家庭が、水道水ではなくミネラル・ウォーターを飲料水として常用しはじめていると思われるが、そもそも15年ほど前までなら、まだ「何で水にお金を払わなければならないんだ」という認識が強かったろう。今や世界的に水ビジネスは急成長しており、もはや後戻りができない地点に現代人は立っているということを、本書は様々な国際情勢の分析を通じて教えている。水資源確保に打撃を与える環境問題や政治的経済的な利害をめぐる諸問題を論じ合うために、先月(2003年3月)に京都で行われた「世界水フォーラム」は、実に重大な意義を持つ国際会議だった。しかしその重大性は、米英とその同盟国(間違いなく日本もその「一味」である)によるイラクへの武力行使の開始によって、すっかりマス・メディアの報道では後景に退いてしまった。182の国や地域から24,000名もの参加登録者がいたことや、新たな声明文が発表されたことは「大きなニュース」としては扱われなかった。ともすると今回のフォーラムがすでに「三回目」であることすら、知らない人がいるかもしれない。詳しくはフォーラムのウェブサイトで見ていただくとして、関心がある人もない人も、シヴァが本書で警告した「水戦争」とは無関係ではいられないということだけは知っておく必要がある。
あらゆる社会で水文化の対立が起きている、とシヴァは指摘する。水を大自然の賜物として共有するか、商品化して私有化するか。「水をめぐるパラダイム戦争は東西南北のあらゆる社会で起こって」おり、「その意味において、水戦争はグローバルな戦争」である、と。この水戦争はすでに始まっているものの、多くの場合、民族紛争や宗教戦争に「すりかえられて」しまっているという。シヴァは母国であるインドにおける水資源の濫用と環境破壊による資源の枯渇、「認可」された企業による乱開発の問題に触れ、その惨澹たる悪循環を淡々と報告することから始める。伐採やモノカルチャー(単一栽培)による森林の破壊と、鉱物資源の果てしない採掘による大地の破壊は、自然の元来有する保水システムを解体し、ダムや井戸の間違った建設による水支配は人々を利害で対立させるばかりかかえって水を枯らし、化石燃料の大量消費は、異常気象を巻き起こす。軍は乱開発企業を保護して、地元の原住民を文字通り「排除」したり殺害したり、反対運動を鎮圧したりする。利益のために環境と地域伝統を破壊し続ける企業はたいてい、国際的な経済機関、たとえばWTOやIMF、世界銀行などから「お墨付き」をもらっており、全世界で大手を振って生態系を荒らしていく。ガンジーの次の印象的な言葉が本書に引用されている、「地球は皆の必要には充分だが一握りの欲張りには不充分である」という。シヴァはさらにこう述べる、「欲望に特権が与えられ、保護され、欲望の経済が私たちの生き方と死に方を左右するのであれば、私たちの種が生き残ることはできない」と。この本は怒りの書であるとともに、水資源を枯らさないための持続可能な社会の根本理念を提示した思想書である。水をめぐる争いは、経済問題であり、環境問題であり、国際政治問題であり、地域問題であり、民族問題であり、食糧問題であると同時に、すぐれて人間の思想的問題の根幹をなしているのだ、と言えよう。
■竜と人とはかつてひとつの種族だったのか。謎が今解き明かされる。
アースシーの風(ゲド戦記 5)
ル=グウィン作 清水真砂子訳
\1,800 岩波書店 A5判 / 349p
ISBN:4-00-115570-2 発行年月:2003.3
眠るごとに死線に近づいていく魔法使いハンノキが、今は魔法の力を失って故郷の島の山奥に隠棲しているゲドを訪ねる。ゲドはハンノキが遭遇している事態の深刻さを見抜き、レバンネン王のもとに彼を送り出す。時あたかも西方では竜たちが人間の領地を荒らしていた。暴れる竜とハンノキの夢は実は一連の事件だった。王が竜や魔法使いたち、異邦人たちとともに世界の中心に向うその先に待ち受けている真実とは、いったい何か。『ゲド戦記』第3巻「さいはての島」ですべてが解決したわけではなかった。ひさびさの新作である第5巻『アースシーの風』は、竜と人、魔法使いと魔法を禁じた民びととのそれぞれの由来を解き明かす。誰もが待ち望んだ最新作の物語世界は、本書に続く外伝の刊行でいずれ補完されるだろう。
本書の利用対象の中核は小学校3年生から6年生となっているけれど、『ゲド戦記』の思想的な深さというのは子供から大人までがそれぞれの立場で味わえるものとなっており、ファンも多いと思う。記者の好みはといえば、『ハリー・ポッター』より断然『ゲド戦記』である。内容が「暗い」と言われることがあるのだけれど、暗さは底の透かし見えない深さを表しているのだと答えたい。待ちに待った邦訳だが、のっけから失礼ながら、本書に目を通す前に読者にはまず第4巻『帰還』と本巻をつなぐストーリーである中編「ドラゴンフライ」をお読みいただくことをお奨めする。まだお読みでない方は、本巻と一緒のご購入して欲しい。登場人物の素性や物語の背景などを知っておく上で、欠かせないのである。ハヤカワ文庫のアンソロジー集『伝説は永遠に(3)』(2000年)に収録されている。慣れ親しんだ清水さんの訳ではないけれども、お読みいただいた方がいい。そもそも原書では、「ドラゴンフライ」を含む外伝『アースシーからの物語』(邦題は記者が直訳したもので正式ではない。岩波書店より続刊予定)が出た後に、本巻『アースシーの風』(直訳では「他なる風」)が刊行されている。「ドラゴンフライ」を読んでいないと、幾人かの登場人物の言動やその背景が見えにくいので、どうしても唐突な感じがしてしまう。繰り返すけれども、『伝説は永遠に(3)』を買ってください。
原書の刊行年で追っていくと、『ゲド戦記』は第1巻『影との戦い』(原題は「アースシーの魔法使い)が1968年(邦訳1976年9月)、第2巻『こわれた腕輪』(原題は「アチュアンの墓所」)が1971年(邦訳1976年12月)、第3巻『さいはての島へ』(原題は「さいはての岸辺」)が1972年(邦訳1977年)。ここでゲドを主人公としたシリーズ三部作は終わるはずだった。ゲドは魔法を使い果たして世界の歪みを修復し、少なくとも物語は完結した。しかしなんと18年後の1990年、第4巻『帰還』(原題「テハヌー」)が「アースシー最後の書」として刊行される(邦訳1993年)。もはやゲドが主人公とは言えないその物語は、格段に大人びた内容になり、謎が増え、著者の新たな挑戦を感じさせた。この巻からゲイル・ギャラティさんの挿絵がなくなったのは悲しかったが。そしてその5年後の1998年、アンソロジー集『伝説は永遠に』(原題は「伝説」)が刊行される(邦訳は2000年)。これは4名のSF作家が自らのシリーズ作品の外伝を書き下ろし、それらがアンソロジーとして一冊にまとめられたもので、ル=グウィン(文庫表記ではル・グィン)の「ドラゴンフライ」も収録されている。そしてさらにその3年後の2001年、「ドラゴンフライ」を含む外伝5篇が、巻末にアースシー世界の歴史風俗についての小事典風の作品を付して『アースシーからの物語』として刊行され(未訳)、同年についにシリーズ第5巻『アースシーの風』が刊行されたのである(邦訳2003年)。本巻ではゲドはもはや完全な脇役になる。
第4巻『帰還』と第5巻『アースシーの風』はもはや初期の三部作とは別作品である、と思った方がいい。『ゲド戦記』はたしかに魔法使いの住む世界に起こる様々な出来事を描くファンタジックな物語だが、特に第4巻からは、著者が時代と真摯に向き合い格闘した上で得たリアリズムが色濃く滲んでいる。初期三部作で、自己とあい対し、社会とあい対し、世界とあい対したル=グウィンは、第4巻以後、おのれの物語の枠組みと世界観そのものを問うようになったのだと思う。最新作『アースシーの風』が最後の書なのかどうかは本当のところ、よくわからない。今回もまた、終わったように見えるし、少なくとも以前までのどの巻よりも、ル=グウィンは「息切れ」しているように見える。登場人物は新参も含めまさにオールキャストといったところだし、いくつもの謎解きがある(説明的になってしまう部分がいささかあるくらいだ)。魔法によって「死を死にきれず」に閉じ込められていた死者が一挙に解放されるさまや、本巻の主役と言っていいハンノキと、その妻ユリがついに死を超えて(死とともに)結ばれるシーン、最古の竜カレシンの娘であるテハヌーの変身などの描写は感動的である。それぞれがそれぞれの生き場所を見つけ、ゲドもその妻テナーも死に場所を見つけたように見える。養女テハヌーが旅立って二人きりになった老夫婦が本書の最後に交わす何気ない会話は、物語がまだ続くことを暗示しているようにも読めれば、まさに終わりが見えないゆえに、物語ることをついに終えたのだとも読める。
先に「息切れ」と評したのは否定的な意味ではない。『帰還』で見られた驚くべきリアリズムは、本書で再度練り上げられる。辺境の蛮族と見られていた人々が本当は世界史の源流より近く、エリートである魔法使いたちの権威は相対化される。これまで築きあげられてきたアースシーの世界観は徐々に解体されていくのだ。熱心な読者は物語の細部のあちこちに、そうした相対化と解体、未決定と息切れを見いだすかもしれない。それらは新生の予兆だとも、物語の尽きせぬ余白、残余だとも言える。時代が移りゆくごとに、その移ろいの真実を著者は謙虚に吸収してきたのだと思う。ジェンダーからマイノリティへ、大雑把に言えばそうした思想的道程が、第4巻から第5巻への変遷のうちに見て取れるのではないか。
落ち着くべき場所がここなのか、著者自身も本当は分からないのかもしれない。恐らくは物語はこれで最後ではない。少なくともそれを引き受けようとする読者の中では。時代の「現在」と常に向き合ってきた著者は、賢明にも、いまだ来たらざるユートピアを先取りして書いてしまうことはしなかった。つまり、魔法が完全に廃棄された世界を、であり、大自然の営みに合致する世界と生死を、である。人間が科学技術を捨て去れないように、著者もまた物語世界に、自由と危うさの諸刃の剣である魔術を残した。捏造された「いにしえ」への回帰主義がつくる、落し穴としてのエコロジカルな結論は、選択されなかった。それでいい。「息切れ」を超えたその先の何かは留保されている。しかし、留保されるゆえに、到達できないがゆえに、物語は著者の手を離れて読者それぞれの心の中で成長していく。ル=グウィンはそうした読者の内にある、時代の空気を吸いながらそれぞれ独自に育っていく新たな『ゲド戦記』について、どう思っているだろうか。著者がこの先自分自身にどう決着をつけて、続きを書くにせよ、書かないせよ、残された問いの数々は、繰り返し第1巻『影との戦い』のように、各自が格闘する問いかけとなるだろう。
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