◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
[2003年4月7日]今週のbk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
■アメリカと対峙する知識人――チョムスキー、アフマド、ブルム
新世代は一線を画すコソボ・東ティモール・西欧的スタンダード(こぶしフォーラム7)
ノーム・チョムスキー著 角田史幸訳 田中人訳
こぶし書房 サイズ:四六判 / 245p ISBN:4-87559-173-X
本体2,800円 発行年月:2003.1
グローバリズムは世界を破壊するプロパガンダと民意
ノーム・チョムスキー著 デイヴィッド・バーサミアンインタビュー 藤田真利子訳
明石書店 本体2,600円 サイズ:四六判 / 369p
ISBN:4-7503-1674-1 発行年月:2003.1
テロの帝国アメリカ 海賊と帝王
ノーム・チョムスキー著 海輪由香子〔ほか〕訳
本体2,600円 明石書店 四六判 /
368p
ISBN:4-7503-1688-1 発行年月:2003.2
帝国との対決 イクバール・アフマド発言集 (Homo
commercans )
イクバール・アフマド著 デイヴィッド・バーサミアンインタヴュー
大橋洋一/訳 河野真太郎/訳 大貫隆史/訳 太田出版
本体2600円 20cm 371p 4-87233-719-0 / 2003.02
アメリカの国家犯罪全書
ウィリアム・ブルム著 益岡賢訳
本体2,000円 作品社 B6判 / 417p
ISBN:4-87893-545-6 発行年月:2003.4
2001年9月11日の米国同時多発テロ事件以後、言語学者ノーム・チョムスキーの政治発言は日本でもとみに注目されてきた。それは彼がアメリカ合衆国の犯してきた軍事的犯罪と「正義論」的欺瞞を正面から、堂々と、厳しく、冷静に、繰り返し批判してきたからだ。2001年11月に緊急邦訳出版された『9.11』(文藝春秋、2002年9月には文庫化された)を手始めに、2003年3月現在で実に10点もの新刊が出ている。
10点というのは、インタビューを含む実質的な単独著だけの数字である。このほかの書籍では例えば、現代を代表する科学者15名による未来予測の書『知の巨人』(学研、2002年12月)に彼のインタビューが載っているし、若手の非暴力反戦活動家ミラン・ライによる重要書『イラク攻撃を中止すべき10の理由』(NHK出版、2003年1月)には、彼の「テロにはどう対処するべきか」というテクストが収録されている。
さらにここに「チョムスキー絶賛」「チョムスキー推薦」といった謳い文句の書籍や、彼の論文を掲載した雑誌までを含めると、ここ一年半の間に平均で毎月一回は彼の名前が新刊の表紙に挙がるのを読者は見ていることになる。いわゆる「左翼」が嫌いで色々な嫌味を準備しているに違いない日本の冷笑家たちもさすがにこのペースには追いつけないだろう。いや、そもそもチョムスキーに対してだけでなく、「冷笑」をもって応じることのできるような政治危機自体が、今やひとつもなくなってしまった。
2003年2月に邦訳出版された『テロの帝国 アメリカ』(明石書店)の第一版序文(1986年)には、神学者アウグスティヌスが伝える次のようなエピソードが冒頭で引かれている。「アレキサンダー大王が海賊を捕らえて尋ねた、『なぜ海の安寧を乱すのか』。海賊は答えた、『あなたこそなぜ世界の安寧を乱すのか。私は小さな船一艘でやるだけだから海賊と呼ばれるが、あなたは大規模な海軍を使ってやり、帝王と呼ばれる』」。
本書の原題は『海賊と帝王』という。中東情勢とアメリカの係わり合いを論じた書物で、繰り返し増補されている彼の主著のひとつだ。本書を読むと、二十年近く前から彼がアメリカの独断による国際的孤立の深まりを指摘していたことがわかる。新たに収録された第6章「9・11以後の世界」では、今度は彼は古代ローマの歴史家トゥキュディデスの名言を引いている、「大国はやりたいことをやり、小国は受け入れざるをえないことを受け入れる」。
古典の気の利いた引用を現代の世界情勢の分析と織り交ぜながら、チョムスキーは淡々とアメリカの馬鹿げた外交のほころびを指摘していく。馬鹿げた外交は今に始まったことではない。アフガニスタンやイラクへの軍事行動の前段となるコソボや東ティモールにおけるNATO加盟国の横暴をめぐり、彼は『新世代は一線を画す』(こぶし書房、2003年1月)という本を上梓しているが、この題名は、英国のブレア首相が1999年2月に、セルビアへの空爆に寄せて宣言した空疎な言葉を皮肉で転用したものだ。曰く、「新世代は一線を画す。新世代は、人類的価値と新しい国際主義のために戦う」云々。
繰り返される愚行にひとつひとつ反論していくことは並大抵の根気ではできない。その昔、権力者の蛮行にあいそをつかした賢人には、その土地を去るという選択肢があった。しかし、ブレアが犯罪集団には「どこにも隠れる場所は残されていない」と当時述べたことは正しかったのだ。隠れ場所がないということは、裏返しに言えば、どこの地域における紛争に対しても無関係無関心でいることができないということだ。為政者にとってはそれが利害の本質であり、対照的に、チョムスキーにとっては倫理の本質である。世界から悪を駆逐する行為がもし道徳規範に則っていないのなら、それは道理を外れたまったくの妄想でしかない、と彼は本書の「日本語版への序文」で断じている。
冷静に考えれば妄想でしかない軍事行動の内実を、正義であるかのように見せる手段に二つある。ひとつは政府見解、もうひとつはマスメディアによる報道である。それらはひっくるめて「プロパガンダ」と呼ばれるが、その本質についての彼の分析は『捏造された合意』(トランスビュー、近刊)と『メディア統制』(集英社、近刊)に詳しい(邦題は正式のものではない)。2003年1月に邦訳が出た『グローバリズムは世界を破壊する』(明石書店)の原題は「プロパガンダと民意」というが、これは彼の政治思想を様々な話題のもとインタビューしたもので、たしかに繰り返しプロパガンダ分析が主題化されるが、特化したものとは言えない。むしろ、チョムスキーの人となりを知りたい人や、彼の本の中でとっつきやすいものを探している読者にはお奨めだ。
例えば、彼の名前は出生時にはノームではなく、エイヴラムだったこと、ヘブライ語で「ノ・アム」は「感じがいい」という意味であること(「誰にも言わないでくださいよ」と彼は冗談を飛ばしている)など、ごく私的な質疑応答もある。本書は1998年5月から2000年6月のあいだに7回に渡ってデイヴィッド・バーサミアンが行ったインタビューの記録である。本書以後の最新インタビューが読みたいという方がいるかもしれないが、その場合は、同志社大の浅野健一教授が2002年11月に彼と行った対談が最近書籍化されたので参照されたい(『抗う勇気』現代人文社、2003年3月)。イラク攻撃や北朝鮮の核疑惑問題などについてのホットな発言が読める。
イラク攻撃前夜の2003年2月に太田出版より邦訳出版された、パキスタン出身の知識人イクバール・アフマドの発言集『帝国との対決』のオビ文にはチョムスキーの彼に対する賛辞が引用されている(「彼は革命と帝国主義の研究者だった。それもとびぬけて有能な」)が、この賛辞はほかでもない『グローバリズムは世界を破壊する』に出てくるコメントである(本書ではエクバル・アーメッドと表記されている)。チョムスキーは1999年惜しくも逝去した彼を「非常に献身的で高潔な活動家」と評している。『帝国との対決』は2000年に刊行されたインタビュー集『帝国との対決』と、2001年に刊行された論考『テロリズム』の一部(1998年10月の講演録など)を翻訳の際に合本したもので、インタビュワーは前述のバーサミアンがつとめており、エドワード・サイードが序文を寄せている。
注目すべきことに、アフマドはかのオサマ・ビン・ラディンとかつて会見したことがある。まだビン・ラディンが、アメリカと同盟を組んでいた頃、1986年のことだ。「彼の倫理規範は部族的なものです」とアフマドは指摘する。その規範の中心は「忠誠」と「復讐」であり、忠誠を捧げた友であるアメリカの裏切り(米軍による、聖地サウジアラビアへの駐留)に我慢ならなくなった彼は「さらにもっと悪さをするでしょう」と予測している。そして、アフマドはアメリカに「二重基準」を捨てるよう勧告する。あちらのテロを容認しながらこちらのテロを非難するというごまかしはやめて、公明正大であるべきだ、と。国際的な武装闘争としてのジハードはアメリカの尽力によって生み出され、汎イスラム化された、とする彼の厳しい指摘は正鵠を得たものだろう。
日本人はしかしアメリカの「悪事」の真相をどこまで知っているだろうか。ジャーナリストのウィリアム・ブルムは大著『アメリカの国家犯罪全書』(作品社、2003年4月)の中で、アメリカが世界各国に対し「外交」や「安全保障」の名のもとにどれほど卑劣な行為を働いたか、そしてどんな残虐な大量破壊兵器を使用し、どのように各国のテロリストを裏で援助してきたかを詳細に解明している。原題の『ならず者国家』とは、ほかでもないアメリカ自体のことなのだ。ブルムは、アメリカが他国に見られるような「真実委員会」(国家犯罪を調査し記録する公的な機関)を持たない情況において、証言として本書を書いたのだ、ときっぱり述べている。チョムスキーは本書を絶賛して、「アメリカの真実を知るための最高の本」と評したという。恐らく日本の政治家の中で本書を知っている人は誰一人いないだろう。本書を読むと、パートナーについて無知であるというのはつくづく恐いものであり、無知は犯罪の加担に等しいと思い知らされる。
日本は今なお強国アメリカの経済力や軍事力を頼りにして寄り添っているが、アフマドは『帝国との対決』でバーサミアンにこう語っていた。「率直に言って、アメリカの権力は永続しないでしょう」と。「これまで歴史上永続したものなどあったためしがない」。アメリカに対する幻滅は加速するばかりだが、アフマドにせよ、チョムスキーにせよ、ブルムにせよ、彼らのような良心的な知識人の存在は一条の光明のように見える。だがそもそも彼らを含むであろう「左翼」運動はアメリカでいまどうなっているのか。チョムスキーのことを「右翼」だと勘違いしている日本人もいるくらいで、左右の区別すらつかない人々は多い。次回はイラク戦争に対する「左翼」の対応についてさらに見ていきたい。
[2003年4月14日]今週のbk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
■アメリカと対峙する知識人(2)――戦争と「左翼」
〈図説〉湾岸戦争
学研 本体1900円 26cm 182p 4-05-603040-5 / 2003.04
「テロル」と戦争 〈現実界〉の砂漠へようこそ
スラヴォイ・ジジェク著 長原豊訳 本体1,900円
青土社 四六判 / 232p ISBN:4-7917-6023-9 発行年月:2003.4
信じるということ(Thinking in action)
スラヴォイ・ジジェク著 松浦俊輔訳
本体2,000円 産業図書 四六判 / 193p
現実的な左翼に進化する(進化論の現在)
ピーター・シンガー著 竹内久美子訳
本体900円 新潮社 新書 / 118p
ISBN:4-10-542305-3 発行年月:2003.2
テロリズムと戦争
ハワード・ジン著 田中利幸訳
本体1,800円 大月書店 四六判 / 147,3p
ISBN:4-272-21075-0 発行年月:2003.2
ヴァーチャル・ウォー 戦争とヒューマニズムの間
マイケル・イグナティエフ著 金田耕一ほか訳 風行社
本体2700円 20cm 301 5p 4-938662-55-8 / 2003.03
イスラム報道 増補版
E.W.サイード〔著〕浅井信雄、佐藤成文、岡真理、共訳
本体価格:¥2,800 みすず書房 サイズ:四六判
/ 222,12p
ISBN:4-622-07032-4 発行年月:2003.4
「左翼」運動はアメリカでいまどうなっているのか。イラク戦争に対する「左翼」の対応についてさらに見ていく、と前回は予告しておいた。政治的保守派に対する革新勢力を指して「左翼」と呼ぶのは簡単だが、その「左翼」がたったひとつの運動の中でともに行動しているのかと言えば、そうではない。ここ最近に邦訳出版された書籍の中からいくつかを取り上げ、左翼勢力にも様々な人物がいることを概観してみたい。イラク戦争に直接言及した左翼系の知識人の著書が刊行されるのはまだ先だろうが、戦争の前段までの発言はすでに多くの書物で読める。歴史は繰り返す、という箴言があるように、かつての戦争について深く考察する者は、未来の戦争をも知っている、と言えなくもない。
イラクへの軍事攻撃開始後、アメリカの世論ではブッシュ大統領の支持率が70%台まで上がったことが報道されている。一方で、これまでにない規模で、戦争反対のデモが各地で行われていることもまた、報道されている。日本人には、かつて半世紀以上前、戦争に協力しない人間を「非国民」と呼んで迫害した、苦い思い出がある。アメリカ人がひとつの国民として立ち上がろうとする時、もはや人種の区別は超えられているのだろうか。超えられていたとして、この「国民」観はあらたな差別の壁を築いていないだろうか。少なくとも、大方のアメリカ人は中東のアラブ人(あるいは時に国内のアラブ人)に対しては、あまり肯定的な感情をもっていないように見える。
エルサレム生まれのアラブ人で、数十年来アメリカで活躍しているエドワード・サイードは、『イスラム報道』(増補版、みすず書房、2003年4月)に加えられた50頁を超える長文の「ヴィンティッジ版への序文」で、こう述べている、「今日イスラームというものが描かれるとき、そこで犯される誤った表彰や歪曲が意味するのは、理解したいという純粋な欲望でもなければ、そこに厳として存在する見るべきもの聞くべきものを進んで見たい、聞きたいという意志でもない」。サイードはマスメディアによる偏向報道を断乎指弾する。テレビに映し出されたものが真実の「全体」ではないという自覚が視聴者に求められる昨今、『イスラム報道』は原著刊行から20年以上を経た今も必読の名著である。サイードの最新発言集『イスラエル、イラク、アメリカ』(みすず書房、2003年1月)と併せて読まれたい。収録されている昨年10月の発言にはこうある、「政府の政策を支持する人々は、イラクや他のアラブ国家に民主主義を導入すればどんなに素晴らしいだろうなどと漠然とした発言をすることがあるが、そのようなことが実際にそこに住んでいる人たちに、正確には、生まの現実として、どのようなことを意味するのか、特にB52の爆撃で土地や家を容赦なく吹き飛ばしたあとにはどうなるのかということについては、たいして考えていない」。
アメリカ政府を支持しているのは一般国民だけではない。知識人の中にも軍事行動を支持している人々がいる。湾岸戦争、コソヴォ空爆、アフガン戦争、イラク戦争……と最悪の事態が繰り返されてきたにもかかわらず、である。アフガン戦争を支持した知識人に対して、ハワード・ジンはこう発言している、「彼らは『限定された軍事行動』や『慎重な対応』という用語に安堵してしまい、あたかもクラスター爆弾や一万五千ポンドの重さのデイジーカッター爆弾、絨毯爆撃になにか限定的で慎重といえるものがあるかのような錯覚に陥ってしまっています。戦争自体をその戦争がもたらす様々な結果とはまったく別なものであるかのように彼らは考えているわけです。一方で『私たちは限定的な軍事行動を進めざるをえない』と言いながら、他方では市民の自由の侵害を非難できると思っているのです」。これは彼のインタビュー集『テロリズムと戦争』(大月書店、2003年2月)からの一節だ。オビ文には「チョムスキー氏絶賛!」とある。ことチョムスキーにかんする限り、こうした宣伝文句は嘘ではない。ジンはチョムスキーやサイードと並んでアメリカを代表する抵抗的知識人であり、日本でも60年代から著書が翻訳紹介されている。
ジンの鋭い指摘を受けて思い浮かぶのは、日本のマスメディアでも良く見かける「軍事評論家」と呼ばれる(あるいは自称する)人々である。たしかに彼らは兵器や兵站について知っているし、あるいは地政学的な情報も持っている。しかし何かが足りない気がする。軍事力や軍事行動がどのような「威力」を持っているかということについて語るのは彼らにとってやぶさかではあるまいが、それらがどのような「影響」を及ぼすかという政治的側面について語るのは、実際容易ではないようだ。それは例えば『[図説]湾岸戦争』(学研、2003年4月)のような、どちらかといえば読者対象を第一に軍事マニアに想定していると思われるデータ読本にも表われている。この『図説』は軍備や個々の軍事作戦、将校のプロフィールについては多くを語ってくれ、第二次湾岸戦争とも呼ばれるイラク戦争の背景を知る上でためになるものの、一方で、戦争の犠牲者、例えば劣化ウラン弾が生み出した悲惨な被爆者の実情を知りたい場合は『知られざるヒバクシャ』(田城明著、大学教育出版、2003年3月)や、『放射能兵器劣化ウラン』(劣化ウラン研究会著、技術と人間、2003年3月)などをひもとく必要がある。
『図説』には当然のことかもしれないが、死体や廃墟の写真は一枚もない。戦争のリアルさはどこか、ヴェールを隔てた向こうにある。マイケル・イグナティエフは『ヴァーチャル・ウォー』(風行社、2003年3月)の中で、コソヴォ空爆がNATO加盟国の諸国民にとって様々な意味でリアルさを欠いた戦争だったと指摘している。国民は戦闘員ではなく、観客として動員される、と彼は書く。コソヴォ空爆は、NATO側にとっては兵器の照準レンズ越しの戦争であり、映像回線上の幕僚会議を通じての戦争であり、テレビ録画を介しての戦争であり、生々しい血みどろの肉弾戦ではなかった、と彼は続ける。ミロシェヴィッチによる暴政に「人道的に」介入するために、アルバニア系住民の「解放」のために空爆は行われたのだが、その道義とて、国際法を無視したリアルならざるものだった。イグナティエフは合法性と(道徳的)正当性の裂け目と危険性をそこに見る。そして、時として断固たる軍事行動が必要になることを支持しながら、裂け目のジレンマに向き合おうとする。空爆前後の現地を視察した彼の政治的リポートである本書は、『民族はなぜ殺しあうのか』(河出書房新社、1996年)と『仁義なき戦場』(毎日新聞社、1999年)に続く実地報告的人権論三部作の最後の一書である。本書で予言されたアメリカ本土への攻撃の可能性は現実のものとなってしまったが、「日本語版への序文」を読む限りでは、今なお軍事行動への支持は撤回していない。彼の本書以後の重要作は風行社から続々翻訳刊行される予定である。
イグナティエフが戦争のヴァーチャル化について警告し、リアルな効力の伴う政治行動をたゆまず模索しているという姿勢は好ましく思う。軍事行動支持というのは非常に微妙な立場であるが、違和感がある読者も、アメリカの「現実主義的」左翼が何を実感しているかは学んでおかねばなるまい。オーストラリア生まれで現在はアメリカで教鞭を執っている哲学者ピーター・シンガーは『現実的な左翼に進化する』(新潮社、2003年2月)という小さな本の中で、「ダーウィニアン・レフト」という思想的スタンスを提唱している。左翼の主流派がマルクス主義から何かしら根本的なヒントを得ているとすれば、シンガーはダーウィンの進化論からそれを得ているのである。競争社会ではなく互助的社会を目指し、弱者への配慮を怠らず、自然や動物に対する人間中心主義を捨てること――こうしたダーウィニアン・レフトのモットーはさして新鮮ではないが、その思想的中核には、「人間には変えようのない本性というものがあり、その本性をよく学んで政治に役立てるべきである」という信条があり、ここが左翼をダーウィニアンかそうでないかを分けるポイントとなる。絶対的平等や絶対的平和は、人間の本性からして完璧に実現できるものではない、とダーウィニアンは見る。要するに極端な理想主義を捨てろ、というわけである。
本性や理想、現実やヴァーチャルという言葉は一方、スラヴォイ・ジジェクの議論においては、フロイト=ラカン主義的に定義し直される。本性や理想はそれぞれ一個の「欠如」であり、現実とヴァーチャルは転倒的に入れ替わり相互に規定する一個の「関係」である。彼の「9.11」論『「テロル」の戦争――〈現実界〉の砂漠へようこそ』(青土社、2003年4月)の初稿は事件の直後に書かれ、インターネット上で公開され、何度も改訂された上で本書の一部となっているが、本書の中で彼はこう述べている、「仮想現実は、現実的であることがないままに、現実として経験される。だがこうした仮想化の過程の果てで起きること、それが、私たちが『本当の現実』を仮想的な実在として経験し始めるという事態である」。実在的なものが必ずしも現実的であるわけではない。問題は実在をそのままのかたちではけっして受け止めることのできない「現実感」のしくみの宿命なのである。かくしてジジェクの議論においては恐るべき冷笑主義と批判的正当性が同居することになる。「テロリズムとの戦争」が名指すところの究極の敵や脅威は、外からやってくるのではない。外からやってくるように見せかける、イデオロギー的詐欺に気をつけなさい、ということなのだ。イラク戦争が終結に近づいたように見え、アメリカ主導による占領が始まろうとしている昨今、そうしたイデオロギー的詐欺のありかを、日本人もしっかり見つめねばなるまい。
[2003年4月21日]今週のbk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の3点です。4点目は文庫のまとめ紹介でした。
■名高い「幻のテクスト群」が著作集になってついに刊行開始
ヴァールブルク著作集 1 サンドロ・ボッティチェッリの《ウェヌスの誕生》と《春》
アビ・ヴァールブルク著 ありな書房
本体4000円 22cm 222p 4-7566-0377-7 / 2003.03
ドイツ出身のユダヤ人美術史家アビ・ヴァールブルク(1866-1929)の待ちに待った著作集の刊行開始である。ヴァールブルクの名は、とりわけ彼が蒐集した膨大な中世およびルネサンスの美術学術資料を所蔵した文庫の存在と、併設されたロンドン大学「ウォーバーグ研究所(ヴァールブルクの英語読みである)」によって著名であり、ここから20世紀を代表する幾多の美術史家や思想史家が澎湃と踊り出たことがつとに知られている。パノフスキー、カッシーラー、ザクスル、ウィント、ウィトカウアー、ゴンブリッチ、フランセス・イェイツ、プラーツ等々、枚挙にいとまがない。中世とルネサンスの美術思想史を研鑚する上で、ヴァールブルクの名はいまなお避けて通れない。日本でも、平凡社から「ヴァールブルク・コレクション」として刊行されていた一連の名著が知られているし(しかし今ではほとんどが品切でこの叢書自体がひとつの伝説になってしまっている)、ゴンブリッチの『アビ・ヴァールブルク伝』(晶文社、1986年)、松枝到の『ヴァールブルク学派』(平凡社、1998年)、田中純の『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』(青土社、2001年)など、ヴァールブルクとその学派の研究書は時を刻んできたにもかかわらず、当の本人のテクストは読めないか断片的にしか触れることができないというアンバランスな事態が実に長い間続いていた。ほとんどの読者はもはや日本語では読めないものと諦めていたのではないだろうか。ありな書房の壮挙を祝い、敬意を表したい。
アビ・ヴァールブルク著作集は全7巻で、監修は伊藤博明と加藤哲弘の二名。初回配本はうれしいことに2点同時で、第1巻の本書と第7巻『蛇儀礼』だ。次回は第2巻『フィレンツェ市民文化における古典世界』を予定。全巻完結の暁には、彼の主要業績を一望できるようになっている。名のみ高く繙読の叶わなかった幻のテクスト群がここについに開示される。第1巻『サンドロ・ボッティチェッリの《ウェヌスの誕生》と《春》』は、今から百年以上前の1891年にシュトラスブルク大学(現ストラスブール大学)に提出された博士請求論文であり、彼独特の図像学的方法論の端緒となる記念碑的著作である。《ウェヌスの誕生》と《春》という2点の絵画は美術の教科書に必ず載るほどの有名な作品だが、ヴァールブルクはこの論考で、これらの神話画と、それに対応する同時代の芸術理論や詩などの文学作品におけるイメージ表現との関係を分析し、それによって「15世紀の芸術家たちに古代への関心を抱かせたものが何であったのかを明らかにする」。本書に併録された短い関連テクスト「サンドロ・ボッティチェッリ」(1898年)では次のようにも断言している、「ボッティチェッリの内奥の本質を、優雅なナイーブさとか魅惑的な憂愁として公衆の愉しみに供するのは、原題の感傷的な甘言のなすところである」。イタリア初期ルネサンスにおける古代表象の回帰を綿密に検証した堂々たる古典だ。
■建築、哲学、都市、テクノロジーを横断する30の視線と考察
Anymore グローバル化の諸問題
磯崎新監修 浅田彰監修 NTT出版
本体4000円 21cm 298p 4-7571-0075-2 / 2003.04
Any会議シリーズ第9弾「Anymore」は、1999年のパリで開催された。本書はその会議の記録である。日本版の特別寄稿として、松原弘典による「遺言から予言へ――某会(m-meeting)」という2002年5月の北京での国際会議「某会」のレポートを掲載している。「某会」はすでに完結しているAny会議の10年に及ぶ流れを継ぐものだ。Any会議シリーズは本書『Anymore』の刊行後は、早いもので最終巻『Anything』の邦訳を待つだけとなる。まさに十年一日である。率直に言って値段は高いが、中味はいつも通り盛りだくさんである。今回の参加者は約40名。磯崎新やレム・コールハース、ピーター・アイゼンマン、ベルナール・チュミなどの常連をはじめとする建築家や建築批評家のほか、ロザリンド・クラウスやユベール・ダミッシュなどの美術批評家、サスキア・サッセンやエリザベス・グロス、マーク・テイラーやドゥニ・オリエ(デニス・ホリアーと英米語の発音に準じて表記されている)などの人文系の学者など、多士済済である。もちろんいつも通り浅田彰も参加しているし、日本からはほかに建築家の妹島和世が出席している。『Anymore』は20世紀と21世紀、古いテクノロジーと新しいテクノロジー、実体的な建築とディジタルな建築、批評とメタ批評のはざまで問われる。現在性と持続性の二重のしるしのもと、もっと(まだ)あるものを指示するanymoreと、もうないものを意味するもうひとつのanymoreとのはざまで、建築と思想のいまを問う。都市のエレメントとしての建築と、その背景としての思想はこの境界線上で変わろうとしているのだろうか。30の発表が6つのセクションに分配され、セクションごとにディスカッションを収録。副題に「グローバル化の諸問題」とあるが、力点はグローバル化そのものではなくグローバル化された現代社会における今日的「諸問題」に置かれている。明示的にグローバル化を主題化しているのは実はサッセンの「グローバリゼーションの地理学と反地理学」だけで、あとはテイラーが多少言及する程度なので、要注意だ。「もっとmoresを」と題されたセクションで、アメリカの美術史家アンソニー・ヴィドラーが、moresをmoreの複数形として今回のテーマを多元化しようとするする主催者側の意図を「誤認」し、ラテン語のmores(規範)と読み替えて建築における新たな規範について考察するなど、個性的な発表が多い。
■既成の文壇論壇に挑む、「解体=再創設を繰り返す多事争論の場」
重力 02
「重力」編集会議編著
本体2,300円 「重力」編集会議
A5判 / 527p
ISBN:4-87893-541-3 発行年月:2003.4
創刊号発売から一年二ヶ月、「年一回」発行の約束は果たされ、発売元を作品社に替えてめでたく第二号が出版された。オビには「ハイブリッド・マガジン「重力」再創設!」とある。「一九六八年革命をめぐって」と「もうひとつの六八年」の二大特集のほか、新規参加者を含む「重力」編集会議のメンバーによる、詩、小説、論文、批評が掲載されている。全体の責任編集は井土紀州。特集ではスガ(糸へんに圭)秀実を中心に「一九六八年」の学生運動の再考察を出発点にした討議が二本と、スガ自身による論文「一九六八年革命小史」をはじめとする、当時を分析するテクスト数本が並ぶ。一般読者にしてみれば硬派な論考が多数を占める中、小説家の角田光代が寄稿した「スガちんと私」は思い切り爆笑させてくれる、周囲のテクストとの落差にほっとするような一篇である。大杉重男はミシェル・フーコーの編纂した、十九世紀フランスの両性具有者エルキュリーヌ・バルバンによる「回想録」と関係資料の新訳を提示し、「翻訳者の資格」という注目すべき批評も寄せている。語学は学生時代の研鑚のほかは独学というが、訳文に違和感は感じないし、むしろ見事である。「六八年を知るためのブックガイド130」はなかなか圧巻であり、選書といいコメントといい、古めかしい書影をもきちんをそれぞれ載せるあたりも、『重力』ならではの趣向が見える。若い読者にとっては未知の書物がほとんどだろうが、それゆえに興味をもたれるのではないか。巻末近くに「『重力01』作品合評会」という座談録があり、楽屋裏を覗くようなどこか楽しくも殺伐とした雰囲気に触れつつ緊張しながら読める。例によって会計報告がしっかり掲載されており、雑誌製作の実情がわかる。今回は前述のバルバン「回想録」にかかった版権料ほかの明細まで付いている。創刊号に比べページがずいぶん増えているが、今後も増加しそうな気がする。多事争論の場として、もっと遠慮ない大冊に成長しても不思議ではないと思う。
[2003年4月28日]今週のbk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の3点です。
■グローバル化時代における「社会的アイデンティティ」と正義を問う
アイデンティティに先行する理性
アマルティア・セン著 細見和志訳 関西学院大学出版会
本体1800円 20cm 95p
4-907654-44-8 / 2003.03
ノーベル経済賞を受賞した1998年にオックスフォード大学で行われた講演の単行本化である。講演の本文自体は50頁未満のごく短いもので論旨も簡潔だが、議論の質は高く、熟読を要する。センが空港で、入国管理官から「あなたは学寮長(セン本人のこと)の友人か」と尋ねられて戸惑ったという面白いエピソードから始まり、現代においてアイデンティティとは何か、とりわけ「社会的アイデンティティ」という共同性の意識についてグローバル化時代のこんにち、どう考えるべきかを論じている。センはサンデルに代表されるような「社会的アイデンティティ」を重視する連帯的共同体主義と、ロールズに代表されるような平等主義的正義論をともに評価しつつ、後者の有効性を積極的に引き出そうとつとめている。「社会的アイデンティティ」を過度に評価することがもたらす、個人や異なる価値観への抑圧的傾向を警戒し、アイデンティティに対する選択と判断の余地を設けるべきであるとする。人それぞれがもつ様々な帰属性や個性をひとつの支配的なアイデンティティ(たとえば「国民」)に服従させると「多様な人間関係が持っている力や幅広い関係性が失われてしまう」。国境なきアイデンティティの時代の到来において、何が優先されるべきなのか。センの唱える「合理主義」とは、支配的理性への服従ではなく、理性を塗り替えていく柔軟な理性を鍛えることであろう。支配者が次々と線を引いて領土を画定するそのさなかを横断していく、境界を超えた理性。グローバル化する世界における、共有するもののない者たちの間における「正義」の可能性を論じた好著だ。丁寧な訳者解説と用語解説、参考文献一覧を付す。
■マスコミの日和見と権力追従を厳しく指弾する「不屈の人」
メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会
ノーム・チョムスキー著 鈴木主税訳 集英社
本体660円 18cm 163 6p (集英社新書0190 )
4-08-720190-2 / 2003.04
9.11以後、怒涛の勢いで翻訳されているチョムスキーが、今度は新書初登場である。集英社はこれまでハンチントンの『文明の衝突と21世紀の日本』やセンの『貧困の克服』など、アクチュアルな海外思想を積極的に新書化した功績があり、今回はチョムスキーによる本書とあわせて、ミュリエル・ジョリヴェの『移民と現代フランス』も刊行していて、印象付けがなかなかうまい。『メディア・コントロール』は表題作と「火星から来たジャーナリスト――「対テロ戦争」はどのように報道されるべきか」のニ論文、そして辺見庸によるインタビュー「根源的な反戦・平和を語る」からなる。論文「メディア・コントロール」は1991年刊の原書初版に収録されていたもので、そのものずばり、アメリカにおける新聞やテレビなどのマスメディアによる情報操作とプロパガンダの、過去と現在の罪を糾弾している。刊行当時は湾岸戦争の真っ最中だった。チョムスキーは「自由な社会」の旗印が欺瞞と虚偽に汚されていることを厳しく指摘し、「世界を叩きつぶしてまわる傭兵国家」になりつつあるアメリカに飼い馴らされることをきっぱりと拒んでいる。今からしてみれば皮肉なことだが、彼のこうした発言は、原著刊行当時の日本の読書界ではこんにちのようには注目されなかった。その意味で現代企画室が94年に『アメリカが本当に望んでいること』を刊行しているのは、まこと慧眼によるものだと言いたい。
「火星から来たジャーナリスト」は2002年の原著第二版刊行の際に追加された論考で、もともとは2002年1月にニューヨークでメディア関係者を前に行った講演をまとめたものだ。火星から来た…という表現は「公正な見識」の比喩であり、「対テロ戦争」「正義の戦争」の大義とますます進む愛国的極右化を客観視しながら、民主主義の危機においていかなる報道が求められているのかを、マスコミを前にして実に巧みに語っている。テロとはそもそも何なのか。アメリカの対外政策がなしてきた国家的暴力について正直に認めようとするならば、テロなる言葉を一方的に他国に押し付けていることはできなくなる。それが最低限の道徳だ、と。インタビュー「根源的な反戦・平和を語る」は2002年3月に行われたもので、月刊誌『PLAYBOY日本版』2002年6月号に掲載されたのが初出。淡々と質問に答え、議論をいたずらにもてあそばないチョムスキーに圧倒される辺見庸の様子は、そのまま読者各人の姿でもある。辺見にしてみればまだまだ語るべきことはあったろうと思うが、実際これは素晴らしいインタビューだ。対話の最後にチョムスキーはこう言っている、「何度もいうようですが、他人の犯罪に目をつけるのはたやすい。東京にいて『アメリカ人はなんてひどいことをするんだ』といっているのは簡単です。日本の人たちがいましなければならないのは、東京を見ること、鏡を覗いてみることです。そうなるとそれほど安閑としてはいられないのではないですか」と。痛烈な発言はこれだけではないが、チョムスキーはアメリカを擁護しようとしているのではないだけに、胸を揺さぶられる。ソンタグはマスコミからバッシングを受けて反戦的立場を微妙に変更したが、それに対する彼の不快感の表明には同感できる。チョムスキーの不屈さに大いに励まされる一書である。
■映像はある種の現実を映さないことによって「統治」に貢献する
サイバー・メディア・スタディーズ 映像社会の〈事件〉を読む
ケヴィン・ロビンス著 田畑暁生訳 フィルムアート社
本体2200円 21cm 243p (Cine lesson別冊)
4-8459-0345-8 / 2003.04
原書は『映像の中へ――視野の中の文化と政治』1996年刊。著者が教鞭をとっているロンドン大学ゴールドスミス校は、かつてスチュアート・ホールが率いたバーミンガム現代文化研究センター(CCCS)にとってかわるカルチュラル・スタディーズの一大牙城であり、著者をはじめ、ポール・ギルロイやデイヴィッド・モーレー(モーリーとも)、アンジェラ・マクロビーなどが在籍し、吉見俊哉や毛利嘉孝など、日本におけるカルチュラル・スタディーズの受容を牽引する人々もここで学んできている。有名なのは人文系だけでなく、芸術系でも注目の若手アーティストを陸続と輩出している先端的大学である。本書で「英国のカルチュラル・スタディーズの最前線にいる一人」と紹介されている著者は、特にメディア研究においては注目株で、2000年には来日も果たしている。その力量は本書を読めばたちどころに理解されるだろう。一言で要約するなら、本書は「視覚文化におけるテクノロジー至上主義と帝国主義に対する批判書」である。ヴィリリオの『戦争と映画』(平凡社ライブラリー)や、ミッチェルの『リコンフィギュアード・アイ』(アスキー)、クレーリーの『観察者の系譜』(十月社、絶版)、ハル・フォスター編『視覚論』(平凡社)、ドブレの『イメージの生と死』(NTT出版)、クーショの『芸術におけるテクノロジー』(1998年刊、未訳)以後、もっとも注目すべき視覚/映像文化論だといえよう。映像文化における絶えざる技術革新への信奉が夢見る「ユートピア」の欺瞞を容赦なく暴きながら、映像が抽出する現実感(リアリティ)だけでなく、排除する現実(リアル)とは何かも探っていく。そもそも現代人は溢れかえる映像を通じて世界をどのように見ており、どのように世界と関わりあっているのか。映像を統御することは人間を統制することでもある。他者のイメージ、シミュレーション、戦争、電脳空間とヴァーチャル・コミュニティ、消費と無意識、都市、監視社会など、映像と社会の危うくも豊かな関係性の網目へ、積極的で批判的な介入が試みられる。それは西洋における視覚中心主義の解体と、テクノロジーの進化によって自己権威化する西洋の正統主義を解体する試みでもある。進歩主義の迷妄に踊らされず、自らの視線を手中に取り戻すための実践的理論書だ。
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