◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
2003年5月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
[03年5月6日]
■年の差二三歳の往復書簡、あらゆるスレ違いにも意味はある
動物化する世界の中で 全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評
東浩紀著 笠井潔著 集英社
本体660円 18cm 221p (集英社新書0188 )
4-08-720188-0 / 2003.04
いろいろと考えさせられる往復書簡である。オビ文に「対話は決裂したか!?」とあるが、結論から言えば決裂している。しかし決裂やすれ違いやディスコミュニケーションからは学ぶことも多い。小説家笠井潔と評論家東浩紀の年の差は二三歳。二人の間にはたしかに「溝」があることがわかった、という発見において、本書は成功している。「9.11」およびそれ以後の思想と文学の言葉をめぐる情況論をまくらに往復書簡はスタートする。話題が様々ある中で、両者のもっとも鋭利な対立点のひとつとなるのが、ポストモダニズムの是非である。80年代の「狂騒」の時代におけるポストモダニズムを笠井氏は切って捨て、彼自身が所属する全共闘世代が清算しえなかったマルクス主義の腐敗(端的に言えば連合赤軍事件)の延長を見て取る。もっとも多感な時代を80年代に過ごした東氏は一方で、ポストモダニズム批判がポストモダニズム以前の諸思想をも忘却させることになりはしないかと警告し、ポストモダニズムを擁護する。この立場の差は何か。東氏の質問に答えるかたちで、笠井氏は乞われるままに自身の時代認識の前提を説明する。ところが全共闘世代のイデオロギー批判的立場は、政治なき季節に生まれた東氏にとっては時代遅れか古すぎる話と映ったらしい。質問攻めにする東氏に対して笠井氏は実に辛抱強く回答しているのだが、その回答の一つ一つに不服を突きつけられ、終いには笠井氏ではなく東氏が第11信でついにキレる。大半の読者には笠井氏が気の毒に映るかもしれない。
世代格差が歴然としていることは確かにせよ、相手の時代認識を認めない東氏は自分側の土俵に笠井氏を引き寄せようとしがちだったように見えてしまう(東氏の言うもう一人の「笠井」像を語るべきなのは、笠井氏本人ではなく東氏の方だろう)。とはいえ、本書の綱引きでは期待できる論点も多い。政治を語る場面では、たしかに東氏の言う、「モノに宿る政治的効果」を分析できる視座(工学的媒介」の分析)というのが、イデオロギー批判よりもこんにち重要だという言い分も分かるし、それはそれでもっと両者の議論の展開が欲しかった(ないものねだりではあるにせよ)。また、思想的な場面では、東氏が差異を認めていない「否定神学」と「否定信仰」を笠井氏は峻別するのだが、その峻別にはやはり理があるし、笠井氏が引き合いに出したシモーヌ・ヴェイユについてはもっと東氏の議論に繋がる積極的な契機がなかったわけではない。互いに相手をそれぞれの世代の象徴として投影しあう段階から、世代を問わず共有し得る問題意識にたどり着くまで、時間が足りなかったということだろうか。著者だけでなく、読者にとってもフラストレーションの多い往復書簡だが、フラストレーションが多いだけに考えさせられることが多いのは事実で、その意味で知人友人にも本書を薦めて読んでもらい、議論したくなる。もしも、笠井氏側の対応も含めたすべてのやりとりやゆさぶりが実は計算された上でのことだとしたら、読者は上手く乗せられたことになるが、東氏の論理からどうやったら読者が議論の発展可能性を掬い取れるか、また、笠井氏の弁明から読者が何を時代認識の糧として受け取れるか、真剣に考えてみたい。また、議論に登場する新旧の批評家や思想家が特定されているため、本書は論壇の星座の一隅を照らし出す格好の素材ともなっており、この往復書簡において構成されている対人関係を冷静に解読してみるのも興味深いだろう。
■「自由」の意味を考え直すことの急務を教える刺激的な対談
自由を考える 9・11以降の現代思想
東浩紀著 大沢真幸著 日本放送出版協会
本体1020円 19cm 262p (NHKブックス967 )
分類:304 03022435
4-14-001967-0 / 2003.04
同時期に刊行された東氏の波乱の往復書簡に比べれば、本書はさすがに対話者を得たという感じで、国内外の様々な社会危機と文化状況と政治現象のさなかにおける新しい「自由」のありようをめぐって、シャープでテンポの良い議論が交わされる。本書は三つの対談からなる。第一部「権力はどこへ向かうのか」は、大澤氏の『文明の内なる衝突』(NHKブックス)の出版記念で2002年8月にジュンク堂書店池袋本店で行われた対談であり、第二部「身体になにが起きたのか」は前回の対談の成功をもとに書籍化の企画が持ち上がったために行われた対談で、同年11月に青山ブックセンターで行われている。第三部「社会は何を失ったのか」のみは非公開の対談で、同年12月、ホテル・パークハイアット東京で行われた(クリスマス当日である)。これらの対談では、東氏の『動物化するポストモダン』『存在論的、郵便的』や現在執筆中の「情報自由論」、大澤氏の『文明の衝突』『虚構の時代の果て』『身体の比較社会学I・II』や単行本化されていない長編論文「〈自由〉の条件」など、二人のこれまでの理論的枠組みが再説され、現実の社会的諸問題への取り組みに応用されており、高度な専門性もありながら、明晰に現代人の生きる「いま」論じ、格闘しているさまが読み取れる。東氏はまえがきで、「本書はむしろ、理論に興味のない読者にこそ読んでもらいたい」と断言している。90年代に、理論は失墜し失効し、表裏一体に、現場主義が台頭したと彼は見る。社会の現場の言葉から出発して社会批判の武器である理論を作り直し磨き直すことが、本書の課題である。大澤氏も対談の最後で「概念の発明」を宣揚し、その重要性について強調している。
両者の自由論における核心において、大澤氏の場合は「遇有性」、東氏の場合は「誤配可能性」について語っている。大澤氏は、趣味や価値観がまったく異なっていて共通なものを何も持たない他者に共感できるかという問いを立て、「できる」と答える。積極的な共通性が何もなくても、「ただひとつ、遇有的であるということ、つまりそれぞれ「他でありうる」ということにおいてつながりうる」のだ、と。普遍的価値観がもはや存在しないこんにち、遇有性は「普遍的な連帯や共感への唯一の通路」なのだと氏は述べる。一方、東氏は、情報技術によって支えられた管理社会を生きる現代人に必要なのは、「誤配可能性」を育てることではないか、と提案している。彼によれば、各人の固有な価値は社会の中で「さまざまな「誤配」や「誤解」に曝され、いく度も訂正されることではじめて生まれるもの」なのだが、そうした誤配可能性を管理社会は縮減している。人それぞれの固有な情報がこんにちかぎりなく精確に測定され管理されやすくなっており、個人は管理されている情報情報以上のものではなくなりつつあるのかもしれない。そうした情況において、「誤配可能性」と並んで重要視されるのが「匿名性(あるいは匿名の自由)」である。これは単にプライバシーの権利を守ることだけを示唆しているのではない。「匿名であるからこそ、人はたがいの交換可能性を想像でき」、「皆バラバラなんだけどそれでも平等」なのだという感覚を生じさせる条件となるのが匿名性なのだ、と東氏は論じている。両者の議論は、いまを生き、いまを悩む多くの若い読者に、強い知的刺激を与えるだろう。東氏の「情報自由論」、大澤氏の「〈自由〉の条件」は2003年のうちに単行本化される予定だという。
[03年5月12日]
■英米語圏の論壇が見えてくる、もっとも充実した「9.11」論集
衝突を超えて 9・11後の世界秩序
K.ブース編 T.ダン編
寺島隆吉監訳 塚田幸三訳 寺島美紀子訳
本体価格: \3,000 出版:日本経済評論社
サイズ:B6判 / 469p
ISBN:4-8188-1474-1 発行年月:2003.5
「9.11」関連書籍が数多く刊行されているにもかかわらず、海外の複数の論調まとめて見ることのできるアンソロジーはさほど多くなかった。中山元編訳『発言』(朝日出版社)や同氏の著書『新しい戦争?』(冬弓舎)はそうした中で貴重な情報源だったが、今回邦訳された『衝突を超えて』は、「9.11」をめぐる英米語圏の論壇をより広範に見渡せる、これまででもっとも充実した論集であると評価できる。執筆陣はいずれも国際政治論の第一線を担う識者ばかりで、アメリカから15名、イギリスから13名、オーストラリアから2名、インドとシンガポールから各1名の、合計32名の論考が読める。フランシス・フクヤマやJ・B・エルシュテイン女史のような対テロ戦争容認派の論考もあれば、チョムスキーやウォーラーステインのような否定派の痛烈な状勢分析もある。ほかにはサスキア・サッセンやベンジャミン・バーバー、フレッド・ハリディやリチャード・フォーク、シセラ・ボクなど、日本でも多かれ少なかれ名の知られている錚々たる論客が名を連ねる。原著は2002年にパルグレイヴ社から出版された『衝突する諸世界――テロとグローバル秩序の未来』。「少数派」であるオーストラリアやインド、シンガポールなどのアジア-太平洋地域の論者がもっと多ければとも思うが、戦争の大義が言論界を塗りつぶしてしまったように見えるアメリカの論壇において、毅然とした批判はそこここに実際あるのだということを明示している点で、本書は必読必携の論文集である。
例えば、対テロ戦争とパレスチナ/イスラエル問題とのリンクを積極的に論じている人物と言えば日本ではまずサイード(本書には登場しない)の名前が浮かぶが、本書ではオックスフォード大学国際関係論教授のアヴィ・シュライムが過去10年間のパレスチナ/イスラエル紛争に対するアメリカの外交政策について冷静に分析した小論が読める。「イスラエルをイスラエルからいかに救うか」、「シオニストの政治目標を破滅的に歪めてきた三五年間の植民地的冒険」からの解放を訴えるシュライムの政治的スタンスはサイードとは若干異なるものの、注目に値するだろう。また、近年『現代思想』誌で論文が邦訳掲載されたジェイムズ・デルデリアン(あるいはダーデリアンとも表記される。論文「国際関係の時(空)間」、『現代思想』2002年1月号「特集=ヴィリリオ」所収、青土社)による論考は、メディアが軍産複合体と娯楽とをネットワーク化することによって市民を囲い込みつつある事態を分析しており、チョムスキー流のプロパガンダ批判とは異なる危機感を読者に思い知らせる。
ひとくちに戦争反対と言っても、さまざまな論調があり、日本人には微妙に響く主張がないわけではない。政治におけるリアリズムについて論じているイギリスのコリン・グレイは、英米両政府の政治的アドバイザーを務めている国際政治戦略学の教授だそうだが、彼が対テロ戦争を現実的ではないと切って捨てるのはいいとしても、国際政治には警官が必要であるとか、こんにち協調的政治術は不可能だと分析しているのを読むと、たとえそれがグレイ自身の信条を反映したものであろうとなかろうと、そこにアメリカの立場の重要性を強調する限りにおいて、素直には首肯しがたいものがある。前述のシュライムもアメリカの主導性を重視しているのだが、本書は各論者がアメリカをどう見ているか、どう対峙しているかという観点から注意深く読むと、非常に多くの難問が見えてくる。この「難問を露呈させている」という点でまさに本書は貴重なのである。
■排除されしものたちの声に耳を傾ける、反帝国的抵抗の書
ポストコロニアル理性批判
消え去りゆく現在の歴史のために
G.C.スピヴァク著 上村忠男訳 本橋哲也訳
本体価格: \5,500 月曜社 サイズ:A5判 /
619,49p
ISBN:4-901477-06-4 発行年月:2003.4
サイード、バーバと並び、アメリカにおけるポストコロニアル研究の第一人者と目されるスピヴァクの思想的中核をなす主著の、待望の完訳である。植民地時代以後の社会を規定する特徴的な文化的思想的ドミナント(支配的潮流)の検証を通じ、グローバリゼーションにおける帝国主義と現地主義(地域主義)の連環の磁場をあばくとともに、マルクス主義的フェミニズムに基づく戦略から、世界の表象と読解と実践的再構成を説く力作である。本書は四つのパートに分かれる。第一章「哲学」のポイントは、スピヴァク特有のマルクス再読解にある。鍵になるのは、サバルタン(グラムシ)の現在への分析と、アジア的生産様式の再評価(アミン)である。サバルタンの現在は男性中心主義を乗り越えを示唆し、アジア的生産様式の再評価は欧米中心主義の超克を指す。男性中心主義や欧米中心主義は、スピヴァクの言うところの「ネイティヴ・インフォーマント(現地生まれの情報提供者)」の視点を排除する点で、根本的に帝国主義そのものなのである。第二章「文学」においてはさらにこのネイティヴ・インフォーマントに着目しつつ、近現代文学における帝国主義への容認と拒否をさぐる。ブロンテからクッツェーまで、7人の作家と作品が徴候的読解にさらされている。
本書の議論の一大頂点と言えるのが第三章「歴史」である。ここではかつてのスピヴァクの代表論文『サバルタンは語ることができるか』における議論が再審され、更新される。サバルタンは語ることができないと結論したことは「得策ではなかった」と彼女は告白する。そもそもこんにち「サバルタン」とはいかなる「従属的存在者」なのか、議論が整理され、より多くの説明がなされている。第四章「文化」では、ポストモダニズムにおける女性のトランスナショナルな表象がいかに帝国主義に裏打ちされているかを暴く。一例として挙げられるのが、服飾デザイナーの川久保玲(コム・デ・ギャルソン)なのだが、80年代を濃密に経験した世代の日本人ならば、スピヴァクとは異なる観点から川久保玲を論じることができるはずだ。付録には「脱構築の仕事へのとりかかり方」という、デリダの「脱構築」の射程を論じたテクストが収録されている。本書での彼女の言葉遣いはけっして平明なものではないけれども、論旨は明晰であり、勘どころで明示的な議論の整理を避けるようなことはしていない。基調となる「抵抗の論理」を念頭に、丹念に読み進めたい好著である。
[03年5月19日]
■支配者たちの「正史」ではなく、抵抗する庶民たちの「野史」
野史辞典
八切止夫著 本体価格: \3,800
出版:作品社 サイズ:四六判 / 366p
ISBN:4-87893-547-2 発行年月:2003.5
1980年に日本シェル出版から刊行された「幻の奇書」の復刊である。『信長殺し、光秀ではない』や『上杉謙信は女だった』『切腹論考』など、作品社より「八切意外史」全12巻として再編再刊されてきた奇才の小説世界を支える独特な日本史観の結晶がここにある。学術的「正史」を大胆に塗り替える推理力と博識とを縦横に駆使し、古代から近代まで全1000項目について簡潔に解説したライフワークだ。政治的権威によって守られた単一民族神話をきっぱりと覆す、原住民、土着民、庶民の側から見た日本史、それが野史である。「日本は西南からは黒潮暖流東北よりベーリング寒流が交互にくる吹きだまりの列島である。だから各方面からの色々な人種が流れつき住みついたのが私どもの祖先」と。多様な先住民と多様な渡来人とのせめぎあいがこの国を作り上げていることになる。遠く近くから由来する異なる文化的ルーツ、異なる宗教、それらが政治的にもたらす拮抗と差別と融合。「アの民」「ヤ衆」「ゴの者」とは何か。地名や氏神、神話や戦史が意味するものは。本書を「トンデモ本」として片付けたい向きもあろうが、すべてを拒絶して済むのかどうか。様々な民族が織り成す容赦ない闘争と支配と抑圧のダイナミズムが透かし見えてくる『野史辞典』は、もともとは「八切日本史字典」として7328項目、およそ10巻本の規模だったという。それらを当時精選し1冊にまとめ、著者自身の経営する出版社から限定発売されたのが初版本である。多くの支持者に支えられての非営利的な出版活動を著者自身が進めていた。日本人のルーツを探究してやまない執念が結実した、驚くべき書物である。
■アメリカ先住民文化と西欧文化における「蛇」像の比較研究
ヴァールブルク著作集 7 蛇儀礼
アビ・ヴァールブルク著 ありな書房
本体3600円 22cm 158p 4-7566-0378-5 / 2003.03
今から百年以上前のこと、1895年年末から約半年間をかけ、著者はアメリカ南西部の先住民族「プエブロ・インディアン」の自然信仰と精神文化を取材した。その旅程から得た情報資料をもとに、1923年スイスで多数のスライドを駆使しながら行った講演「北アメリカ、プエブロ・インディアン居住地域からのイメージ」が、本書の内容である。ウォーバーグ研究所所蔵の草稿から翻訳されている。コロラドの岩棚住居、ニューメキシコの先住民絵画や土器や壁画、アリゾナをはじめとする各地の舞踊を見聞し、時代の流れのなかで失われゆくそれらの習俗と伝統のうちに、著者が「文化史記述の全体にとってきわめて重要な意味をもつ」と推察した、「キリスト教以前の原始的な人間世界の本質をなす特徴」について問い掛けるための契機を見いだしている。蛇儀礼とは、先住民が雨と雷の象徴として崇拝する毒蛇を用いて行う、呪術的な舞踊を伴う一連の祭式のことだ。毒蛇は荒野に降雨をもたらす豊穣の象徴であり、「人間が精霊的な自然の働きのもとで外面的にも内面的にも克服しなければならないものの象徴」である。ヴァールブルクは、これらの表象を、西欧における古代神話世界から初期キリスト教世界にまで見ることのできる蛇の表象と比較対照する。蛇は原罪をもたらした諸悪の根源であるだけではない。それは不死身の異教的シンボルとして、治癒の神としても、聖書に「再び忍び込んで」いるのである。ヴァールブルクは、これらの原始的信仰が洗練され、あるいは棚上げにされ、代用品で置き換えることによって「現代文化」が成り立っていることを示す。雷という自然の猛威は、電気をコントロールする現代文化によってもはや畏怖の対象ではなくなる。そうした「進化」がもたらした世界観の「破壊」が、人間の思考に与える影響について彼は示唆する。貴重な当時の写真や図版が満載された好著である。
[03年5月26日]
■想像力と希望が個人を変え、世界を変えるとしたら。
暴力に逆らって書く 大江健三郎往復書簡
大江健三郎著 朝日新聞社
本体1900円 22cm 307p
4-02-257837-8 / 2003.05
1995年から2002年にかけて、ノーベル賞作家大江健三郎は、朝日新聞夕刊で世界各地の知識人11人と公開往復書簡を交わした。本書はそれらをまとめたものだ。初出のテクストに加筆訂正がなされている。11人というのは次の錚々たる面々である。ドイツの作家ギュンター・グラス、南アフリカ共和国の作家ナディン・ゴーディマ、イスラエルの作家アモス・オズ、ペルーの作家マリオ・バルガス=リョサ、アメリカの批評家スーザン・ソンタグ、アメリカの日本研究者テツオ・ナジタ、アメリカ在住の亡命中国人作家鄭義(チョン・イー)、イギリス在住のインド人経済学者アマルティア・セン、アメリカの言語学者ノーム・チョムスキー、パレスチナ出身のアラブ系アメリカ人批評家エドワード・サイード、アメリカの反核運動家ジョナサン・シェル。大江が読者として常に念頭に置いているのは、若い世代である。彼の最後の書簡となるジョナサン・シェルへの手紙はこう結ばれている。「敬愛するジョナサン・シェル、これまでの往復書簡のすべてについてそうしてきたように、私はあなたのお返事をこの国の若い人たちに媒介します。そして胸の内では、いつまでも新しい手紙を書きつづけると思うのです」。
旧友も面識のない者もひとしく丁寧に書簡を交わしているが、穏健な言葉遣いの裏には、活発な意見交換への貪欲さが見て取れる。例えばソンタグのように大江自身の政治的スタンスに鋭い質問を投げかける者もいれば、センのように日本という国家が抱える問題に言及する者もいる。本書に共通するのは、現代社会や世界情勢の個々の事象や作家の作品や個人的エピソードを具体的に語りながら、その奥底に横たわる歴史観や世界観に議論が焦点化されていく過程である。11人の中でもっとも複雑な出自を持つサイードは情勢分析から第三の道の積極的提案へ議論の方向性の転換をすばやく提示し、チョムスキーは一回限りの長文の返信で、彼らしく多岐にわたる分析を論点を首尾一貫した現実認識によって数珠繋ぎにして世間の無関心に平手打ちするだろう。宗教と寛容について語るオズとの対話は緊張感にあふれ、グラスとは互いの戦争体験から出発した良識を照らしあう。ゴーディマは「歴史が私たちの希望を踏みにじるのではなく、それを実現してくれることを願いましょう。やがて始まる新しい世紀には、想像力の力強いルネサンスが待っているのですから」と書く。これは単なる楽観主義でもはかない理想主義でもない。書物は読み手によって貧しくも豊かにもなる。本書が捧げられた若い読者がその辺の機微を触知されんことを期待したい。
■カタブツの大哲学者が垣間見せる、人間関係と自己意識
カント全集 21 書簡 1
北尾 宏之訳 竹山 重光訳 望月 俊孝訳
本体価格: \6,000 出版:岩波書店
サイズ:A5判 / 512,41p
ISBN:4-00-092361-7 発行年月:2003.4
1749年から1789年までのカント宛およびカントが送った書簡143篇が収録されている。彼の処女作『活力の真の測定に関する考察』の出版年から、『判断力批判』刊行の前年までの、存在が確認されている膨大な書簡の中からほんの一部を抜き出したものだ。孤高の哲学者にも様々な交流と絶縁があったという背景が浮かびあがってくる。思想遍歴をたどる上でも不可欠の資料である。スウェーデンボリを論じた『視霊者の夢』にまつわるエピソードでは、興味をもって取り組んだものの後日に諸説を撤回したい気持ちになった経過が読み取れる。また、「一切の経験的な諸原理から独立に判断する理性、すなわち純粋理性」を批判的に吟味検討した未聞の形而上学批判であると自信満々だった『純粋理性批判』は時を経るに従って賞讃を得ていくが、初版刊行当時(1781年)にはどちらかと言えば冷遇され、自著が理解されないことに半ば絶望していたことなども本書で窺える。高度な知的水準を維持しながらも、いかに多くの読者に分かりやすく内容を伝えるかに心を砕いていたカントは、『実践理性批判』を準備しつつ『純粋理性批判』第二版(1787年)で「分かりやすさ」を彼なりに実現しようとした。自説が学界でどんな悪口を叩かれているかを気にするカント、自分の愛弟子に対しては温かい割には、反面、実弟には冷たかったカント、論争に巻き込まれることは好まないが、批判にはしっかりと反駁するカント。書簡を通じて活き活きとその実像が伝わってくる。続刊の『書簡II』では、1790年以降のものが収録されることになる。
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