◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
2003年6月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
[03年6月2日]
■イングランド大衆はこうして立ち上がる。畢生の大著の完訳。
イングランド労働者階級の形成
エドワード・P.トムスン著 市橋秀夫訳 芳賀健一訳
本体価格: \20,000
青弓社 A5判 / 1358p ISBN:4-7872-3213-4
発行年月:2003.5
イギリス新左翼思想史における一大金字塔の、待望の全訳である。底本は1980年版だが、初版は1963年。当時、著者はまだ38歳だった。5年後には最初の改訂版が廉価なペーパーバックで出版されている。本書は、1790年代から1830年代までの産業革命期のイングランドにおける大衆労働運動の成立過程を描いた大著で、邦訳書では、注や索引を含めると1358頁にもなる。ほとんど『広辞苑』なみの分厚さに、思わず身震いが出る。代表者2名を含めた、翻訳に関わった研究者9名に敬意を表したい。企画から実に16年の歳月を経ての完成である。トムスン(あるいはトンプソンとも表記される)の著書は日本では60年代から何冊か翻訳紹介されてきているが、単独著はすべて品切で、入手が難しい。彼は60年代には新左翼思想の担い手の一人として、80年代には反核運動家として認知されてきたが、どちらかと言えば一般読者からは徐々に忘却されつつあった。そして、90年代におけるカルチュラル・スタディーズの流行とともに、トムスンの名は、リチャード・ホガートやレイモンド・ウィリアムズらとともに、その思想的源流に位置する立役者として遡行的に再認識されるが、すでにその時には単著の邦訳は入手不可能だった。今回の全訳は、そうした延長線上に、流行にも忘却にも左右されぬひとつの壮挙として、出版された。まさしく事件である。
インテリたちの歴史ではなく、無数の大衆、労働する民衆の不屈の精神の歴史。それが本書の描く主題だ。ふたつの序文(初版と1980年版)と、ひとつのあとがき(1968年版)、そして3部16章立ての本文からなる。政治結社ジャコバン派や、非国教派勢力であるメソジスト教会、機械取り壊しを通じた団体交渉運動ラディズム(ラッダイト運動)といった歴史的潮流をかたちづくる底辺には民衆が、なかんずく労働者がいた。「影響力を誇っているさまざまな正統派の研究の重圧に抗して書く」ことを意識した、とトムスンは述べる。「私は、貧しい靴下編み工や、ラダイトの剪毛工や、「時代遅れ」の手織工や、「空想主義的」な職人や、[異端的神秘主義宗教家の]ジョアンナ・サウスコットにたぶらかされた信奉者さえも、後代の途方もない見下しから救い出そうと努めよう」と彼は決意したのだ。「新しい産業主義にたいする彼らの敵対行為は退嬰的であったかもしれない。彼らの共同社会主義[コミュニタリアン]の理想は幻想であったかもしれない。彼らの叛乱の謀議はむちゃであったかもしれない。しかし、こうした激烈な社会的動乱の時代を生き抜いたのは、彼ら」なのだ。そして、彼らの経験は、今なお進展する高度な産業社会のさなかで民主主義政治のありようを模索する現代人の経験に相通ずるものがある、と著者は指摘する。本書はその大きな影響力ゆえに、熱烈な議論と批判を巻き起こしたが、主な批判には「あとがき(1968年版)」で応答している。トムスンは残念ながら、10年前(1993年)に逝去しているけれども、このたびの完訳書によりいよいよ本格的なトムスン再評価が始まることを信じたい。本書はトムスンの教え子であった無名の労働者学生2名に捧げられている。日本でそうした無名の学び手が購入するには確かに高価な書物だが、恐らく着実に読者層は広がっていくだろう。
[03年6月16日]
■美しく、悲しく、緊張に満ちたテクスト群に垣間見る被暴力的体験
ディクテ
テレサ・ハッキョン・チャ著 池内靖子(いけうち・やすこ)訳 青土社
本体2200円 20cm 211p
4-7917-6043-3 / 2003.06
待望の邦訳である。原著は1982年にアメリカで刊行されている。四半世紀を経てついに翻訳されたわけである。とはいえ、この書物の多言語的横断的な性質上、「翻訳された」という言葉を使うのは難しいのかもしれない。本書は日本では1990年代に入ってから酒井直樹らによって高く評価されてきた。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』やソレルスの『楽園』が「翻訳不可能」であるのとは別の意味で、本書もまた「翻訳不可能」であった。いや、原著の刊行当時には「理解不能」ですらあった。アメリカ本国においてすら、同様の情況だったようだ。邦訳副題に「韓国系アメリカ人女性アーティストによる自伝的エクリチュール」とある。著者は1951年にプサンで生まれた韓国人で、1977年にアメリカに帰化し、31歳の秋、ニューヨークで見知らぬ暴漢に殺害された。本書が公刊される直前のことだった。暴漢は常習犯だったという。
本書は複数の断片的テクストと図像からなる一種のコラージュである。強いて分けるとすれば、全部で10のパートから構成されており、そのうち9つには古代ギリシア語の表題が付されている――クリオ(歴史)、カリオペ(叙事詩)……テルプシコレ(合唱舞踏)、ポリムニア(讃歌)というように。母語でない言葉(著者の場合それは仏語や米語を指す)を学び、書き、話そうとすることがもたらす教育的政治的作用の迷宮が、本書の「語り(=ディクテ)」を開く。ある時は抗日の女性闘士ユ・グァンスンが語られる。またある時は母の来歴に思いを寄せる。そして娘つまり著者自身が――その喉が、血液が、肉体が語られ、語る。合間にリジューの聖テレサが語り(引用され)、複数の「女たち」が語られる。魂、のような、名づけえぬ次元が旋回しはじめる。父、息子、聖霊、の三位一体ではなく、母、娘、複数の声(霊媒?)、の三位一体。この驚くべきポリフォニーの流れはしかし、解放されないまま、様々な大地と歴史と現在にしっかりと結わいつけられたまま、被暴力と抵抗と移動の体験を曝す。美しく、悲しく、緊張に満ちたイメージの奔流である。美しいとは言ってもそれは巷に満ち溢れているありふれたあの「商業的」な美しさではない。本書の美しさはその意味ではもはや美しさではなく戦慄である。帯文に「アメリカにおけるポストモダン、ポストコロニアル、ジェンダー研究の必読書」とあるが、なるほど90年代以後の文脈ではそうも読める。恐らく本書はそうした文脈を超えて生き延びるだろう。
■基本的キーワードだけでなく、気の利いた関連項目がズラリ
グローバル化を読み解く88のキーワード
著者: 西川 長夫〔ほか〕編
本体価格: \2,000
出版:平凡社
サイズ:B6判 / 294p
ISBN:4-582-45223-X
発行年月:2003.4
「世界がなんだか少し変?」「地球が壊れそう!」といった、どちらかと言えばこれまでの平凡社には似つかわしくない砕けた帯文に目を奪われながら本書を開くと、「アイデンティティ」から「ワールド・ミュージック」まで、選び抜かれた88もの項目別に沿って、短めの読みきり解説論考がびっしり詰まっている。70名もの第一線の執筆陣が動員されており、なるほどこれは読み応えがある。グローバリゼーションと聞いて思い浮かぶような基本的キーワードはもちろんのこと、「居場所」「宇宙開発」「基地」「孤独」「健康法」といった、なるほどねと思わせる気の利いた関連項目もあれば、「孫正義vs.松下幸之助」や「ユニクロ」までも項を設けて解説している。ここ数年でグローバリゼーション関連の研究書や論文集、邦訳書、解説書はかなり増えているが、ここまでユニークで網羅的な成果は、本書がダントツだろう。各項目に参考文献がしっかり添えられており、系統的な勉強にも最適。本書はもともと、1994年にサイマル出版会から刊行されていた『比較文化キーワード』全2巻の改訂版として企図されたものだという。旧版では75項目が扱われていたが、時代の流れは早いもので、それらの原稿は再利用されなかったようだ。ここにまったく新しい、かつコンパクトな辞典として生まれ変わったのである。巻頭に西川長夫氏による長めの序論「グローバル化の中で考える」を置く。値段も本体2000円と手頃。新書感覚で手元に置きたい、フットワークの軽い本である。
■レーニンと聖パウロが真正なる「革命」の何たるかを教える
信じるということ(Thinking in action)
スラヴォイ・ジジェク著 松浦俊輔訳
\2,000 産業図書 四六判 / 193p
イギリス現代思想を代表する注目の二人の哲学者、サイモン・クリッチリーとリチャード・カーニーが編集委員をつとめる、"Thinking
in Action"シリーズ(原著:ラウトレッジ刊、邦訳:産業図書刊)からの一冊。同シリーズではすでに、ヒューバート・ドレイファスの『インターネットについて』が邦訳されている。本書はジジェクにとって、キリスト教再評価の書『脆弱なる絶対』と政治的ラディカリズム擁護の書『全体主義』(いずれも青土社)を根源的なレヴェルで補完し連結させる蝶番の役割を持っている。小品であり必ずしも完結的ではないのだが、「信じる」というキーワードがジジェクにとっていかに重要視すべきものであるか、あるいは端的に人間にとっていかに「信じる」行為が重大であるかが分かる。原著は英米で2001年に刊行されているのだが、同年には、新たな序文と一章が加えられたドイツ語版『恩寵なき愛』がズーアカンプから刊行されている。ジジェクのこれまでの著書を読んできた読者にとっては、マルクスとラカンとシネマ・スタディーズでどんな問題でも貪欲に論じ尽くす彼の「器用さ」にそろそろうんざりしてもいい頃なのだが、一方で一冊も読んだことのない読者はジジェクの論理展開についていけずうんざりするかもしれない。後者はまず「訳者あとがき」を読むといい。すでに何点かジジェクの著書を翻訳している訳者が、ジジェク思想の基本軸を分かりやすく解説してくれている。ジジェクの著書に親しんでいる読者は、「いつものように」本書を眺めずに、ジジェクがひそかに意識しているところのネグリ&ハート著『帝国』(以文社)を内側から掘り崩す一種の「発破」として本書を活用するといい。ジジェクが目指しているのは、様々な思想信条の欺瞞と虚構をすっぱぬいて、革命へと至ることである。そのテコになるのは、聖パウロが教える自己変革とレーニンが教える社会変革だ。いわゆる「キリスト教」と「マルクス主義」が巧妙に避けられていることに注意したい。両者とて欺瞞と虚構を逃れられるものではないからだ。聖パウロとレーニンにジジェクが定位するのはさし当たっての「戦略」ではあるにせよ、彼らに現実社会への介入の決定的意志を読み、左翼的理想主義の軟弱なユートピア像を排撃して、強力な革命像を打ち立てるその情熱には学ぶべきものがある。ジジェクは2003年中にドゥルーズ論『器官なき身体』をラウトレッジから刊行する予定だが、そこでは、本書が展開できなかった身体論が立ち上げられるだろう。
[03年6月23日]
■悪魔文化の「豊饒性」が、近代的知性を生み落とした母だった
悪魔の歴史12〜20世紀
西欧文明に見る闇の力学
ロベール・ミュッシャンブレ著
平野 隆文訳
本体価格: \5,000
出版:大修館書店
サイズ:A5判 / 549p
ISBN:4-469-25071-6
発行年月:2003.5
フランスの歴史学を領導するアナール学派の一大勢力図の中でも実力派として知られるミュッシャンブレ(あるいはミュシャンブレッドとも表記される)の、待望の邦訳第二弾。第一弾は、1992年に筑摩書房から出版された『近代人の誕生』(原著は1988年刊)である。フランス民衆の「文明化」と「近代化」の過程を活写し、日本でも多くの読者を獲得しているが、今回の第二弾(原著は2000年刊)では、おそらく前作より広い読者層に受け容れられることだろう。なにせテーマが、12世紀から20世紀に至る西洋文明における、悪魔像の生成変化の文化史である。悪魔像の誕生は人類の起源と同じくらい古く、数万年を遡ることができるが、著者は、現代を生きる私たちが思い描くことができるような典型的な「悪魔」が西洋の民衆史上に確固たる存在感を示すようになったのは、そもそも中世のことだった、と教える。近代社会への文明化の中で悪魔像がどう変遷してきたのか、それが本書の辿る道である。言い換えれば、それは悪魔学(デモノロジー)がやがて、悪魔の実在を否定する人文諸科学にとってかわられる過程を扱うことであり、「悪」の心的表象とメンタリティの史的動態(著者が「想像界」と言い表すもの)を探ることでもある。「悪魔は我らが大陸のダイナミズムを構成する不可欠な一部なのだ」と著者は語る。耳慣れない中世の神学者や近世のマイナーな作家らの名前と、現代の様々なホラー映画のタイトルがページを隔てて共存しているのが興味深いが、これはそのまま著者の史学的観点の幅広さをも示しているだろう。中世以来の魔女狩りによって「実在感」を得た悪魔は、近代化における科学の有利が人々の信仰心を変容させていく中で、次第に内面化し内在化していく。本書を読むひとつの方法は、私たちにとって身近な、20世紀末における様々な悪魔像を分析した第7章から始めて、どんどん章を逆行していくことである。悪魔は歴史の舞台から降りたことなどない、それはどんな時代にも復活するものだ、と述べる著者のパースペクティヴは、単に史的なだけでなく、きわめて現代的な問いをも含蓄する。「他者」を「悪魔化」して武力に訴えてでも「福音化」しようとする傾向が、ヨーロッパより合衆国に強く残っているという仕組みの一端を、本書は照らし出しているのではないか、と訳者は示唆している。なるほどハリウッド映画を分析する著者からその通りのことを学べるだろう。巻末に、「悪魔に纏わる映画、ホラー映画、暗黒映画」の年代順のリストが付されている。ちなみに先頭に挙げられるのは、1896年の、メリエスによる『悪魔の館』であり、最後尾には1999年作、キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』だ。
■ロシア・アヴァンギャルド芸術を美術史から解放する記念碑的大著
マレーヴィチ考 「ロシア・アヴァンギャルド」からの解放にむけて
大石雅彦(おおいし・まさひこ)著 人文書院
本体8500円 22cm 805p 図版88p
4-409-10018-1 / 2003.04
『ロシア・アヴァンギャルド遊泳』『聖ペテルブルク』(いずれも水声社)などの著書で、日本におけるロシア・アヴァンギャルド研究に新境地を拓きつつある著者による一大論考。カジミール・マレーヴィチ(1878-1935)は、ロシア・アヴァンギャルドの中心的なアーティストの一人で、画家、デザイナーとしてのみならず、思想家、教育者、「美術行政家」としても活躍した人物だが、その独特な芸術作品や理論、活動の、生涯に及ぶ変遷を細やかに丹念に追ったのが本書である。巻頭にまず88頁もの口絵ページがあり、代表作約200点の多くがフルカラーで見れる。つづく本文は6章立てで、註、収録図版一覧、マレーヴィチ自身および関連の文献・図録一覧、写真付き年譜や、主要人名索引などを併せると、800頁を超える(つまり口絵頁を足せば、900頁近いことになる)。5センチも束がある布クロス装の書物で、ロシア・アヴァンギャルドを意識したデザインの函に収まっている。重厚な内容もさることながら、モノとしても魅力的な一冊だ。いずれ、古書店で高値がつきそうな予感がする。著者によれば、本書の目的は、マレーヴィチを「ロシア・アヴァンギャルド芸術」というくくりや、既成の「美術史」から解放し、結果的に「ロシア・アヴァンギャルド芸術」を「美術史」から解放し、評価し直すことにある。6章立ての前半は、抽象絵画の画家としてのマレーヴィチの史的位置や、制作と理論の推移を概説する。後半では、マレーヴィチが交流を通じて影響を受けた立体未来主義者「ギレア・グループ」について解説し、さらに、マレーヴィチが唱道した「崇高」の思想(「スプレマチズム」)がウスペンスキーの神秘主義や、レーニンの唯物論と交差する場面を取り上げ、マレーヴィチの政治活動や教育活動、建築デザインについても詳述する。魂の篭った力作であり、この成果はしばらくは超えがたいだろう。マレーヴィチ自身の理論的デビュー作『無対象の世界』(中央公論美術出版)やスプレマチズム芸術論集『零の形態』(水声社)と併読し、ロシア・アヴァンギャルドの色あせない「革命」をたっぷり堪能したい。1万円以上してもおかしくないこの大著が8500円(税別)で買えるというのは、補助金が出ているからという付帯的条件があるにしても、書肆の判断としては立派だろう。
■身体論を通じて現象学を刷新する、フランス現代思想の新しい成果
現象学を超えて
ディディエ・フランク著 本郷均(ほんごう・ひとし)ほか訳 萌書房
本体2800円 22cm 218p
4-86065-006-9 / 2003.05
現象学が現代思想に与えた影響は計り知れない。それは過去の出来事などではなく、いまなお続いている、現在進行形の、一連の事件なのだ。フランス現代思想を語る上で重要なのは、実存主義や構造主義、ポスト構造主義といった括りではない。現象学はそれらの括りを超えて、様々な思想家たちに影響を及ぼしている。その一端はリチャード・カーニー編『現象学のデフォルマシオン』(現代企画室)でも窺えるが、サルトル、レヴィナス、リクール、シェレール、デリダ等々、現象学を積極的に摂取し自らの哲学を立ち上げた研究者には、独創的な思想家が少なくない。本書の著者フランクも、そうした学統を継ぐ哲学者の一人であり、彼の著書が邦訳されるのはこれが初めてになる。原著刊行は2001年、原題は「現象の演劇的展開」である。「演劇的展開(ドラマティック)」とは何か。「諸現象の存在論的諸構造を記述することは、諸現象を〈上演する〉具体的な諸々の〈場面〉を記述することになり、しかもその記述は、これら諸構造の総体を、演劇的=ドラマティックな仕方で互いに繋がり合うそれと同じ数の様々な〈場面〉として連接する」と著者は述べる。ここにあるのは「身体」へのまなざしである。フッサール、ハイデガー、レヴィナスらの超越論的哲学を、身体という具体性をてこに読み直す試みが本書の企図だ。邦題が「現象学を超えて」となっているが、これはよくあるレトリックで日本側が勝手に粉飾したのではなく、第5章のタイトルから採られている。現象学はエポケー(判断停止)によって世界をなまのままでとらえ直そうとする。しかし、このエポケーは必ずしも純粋に遂行されうるものではなく、様々な超越論的道徳の古き検閲に妨害される可能性がある。道徳をも留保することができた哲学者はニーチェだったが、フランクはニーチェを参照しながら、現象学を刷新するヒントをそこに見いだし、自らの身体論的現象学に接続していく。現象学について学んだことのない読者にとっては本書は難解であるに違いないが、たとえ断片的にであっても本書から学べることはたくさんあるだろう。レヴィナスは『時間と他者』(法政大学出版局)の中でこう述べた、「すべての哲学はシェイクスピアについての一つの省察でしかない」と。本書はこの含蓄を解き明かすための長い註釈であるとも言えるだろう。著者の知り合いである大阪大教授・山形ョ洋氏による本書の丁寧な解説と、訳者陣によるフランク哲学の履歴紹介が親切で好ましい。
[03年6月30日]
■ドゥルーズの交流や影響関係が見えてくる貴重な一冊
無人島 1969−1974
ジル・ドゥルーズ〔著〕 稲村真実〔ほか〕訳
小泉義之監修
\3,500 河出書房新社 四六判 / 321p
ISBN:4-309-24290-1 発行年月:2003.6
昨年(2002年)に刊行されたばかりのドゥルーズ拾遺集『無人島、およびその他のテクスト』(ミニュイ刊)が早くも翻訳された。既刊の単行本に収録されなかった、1953年から1974年までの論文、評論、序文、対談、インタビューなどを年代順に配置しまとめたもので、日本語版では2巻本になる。今回刊行されたのはその後半にあたる、1969年から1974年までの20篇を収録したもの。1953年から1968年までの19篇を収録した前半部分も近刊予定だ。フランス語原書ではこの『無人島』のあと、1975年から1995年までの論文を拾遺した『狂人の二つの体制、およびその他のテクスト』が刊行される予定だ。
本書は、イポリットやアルキエらの学統を継ぐ哲学史家としてのドゥルーズのデビュー当時の活躍のあとの、ガタリとの出会いを経て一気に現代思想の寵児となった頃の彼が分かる一冊だ。ドゥルーズがどの同時代人とどんな交流や影響関係を持ったかが如実にあらわれているところが、本書の最大の特徴である。ゲルー、アクセロス、リオタール、シクスーの著書やフロマンジェのアート作品を論じ、ガタリ、ベシニュウ、オッカンゲムの著書への序文を書く。フーコーとの有名な対談「知識人と権力」は『ミシェル・フーコー思考集成』(筑摩書房)に既訳があるが、『無人島』においては新訳で収められている。本書のその他のテクストの中にも既訳が存在するものがあるが、ほとんどすべて新訳されるか改訳されるかしている。
注目しておきたいのは、ドゥルーズとガタリが共著『アンチ・オイディプス』について共同でインタビューないし討議に参加している三篇だ。「ドゥルーズ/ガタリが自著を語る」(1972年)、「資本主義と分裂症」(同年)、「資本主義と欲望について」(1973年)がそれである。最初の「自著を語る」が討議の記録であり、あとの二篇はインタビュー。討議においては、精神分析家セルジュ・ルクレールとの緊迫した距離感や、哲学史家フランソワ・シャトレ、文化人類学者ピエール・クラストルらとの親近感が特に興味深い。クラストルの『国家に抗する社会』(水声社)はドゥルーズ=ガタリの著作とともにこんにちぜひ再読しておくべき名著である、ということをここでは再確認しておきたい。
ドゥルーズは理論においてのみ政治的実践を遂行しようとしたのではなかった。「囚人たちがわれわれに期待すること……」や社会学者ドゥフェールとの共著「H.M.の手紙について」の二篇では、囚人の人権擁護のために活動する運動家としての彼の一面を見ることができる。さらに特記したいのは、ポーランド出身の夭折の画家ステファン・クゼルキンスキーとの対談形式で綴られた、短文ながらも力漲る疾走感に溢れたテクスト「面と表面」(1973年)である。ガタリとの共同作業に勝るとも劣らないハイ・テンションが生み出したのは「さらにもっと無意識を生産せよ」「解釈すべきものは何もない」等のいくつかの明確なスローガンであり、ドゥルーズの描いたデッサン(これは『ドゥルーズ横断』河出書房新社で見ることができる貴重な絵)である。画家の自殺によって、以後の共同作業が不可能となったことはたいへんに惜しい。
■「空間論」がなぜこんにち重要なのかがわかる、必読の名著
ポストモダン地理学
批判的社会理論における空間の位相
エドワード・W.ソジャ著 加藤政洋〔ほか〕訳
\4,200 青土社 A5判 / 373,5p
ISBN:4-7917-6048-4 発行年月:2003.7
原著は1989年刊。待望の単行本初訳である。帯文に、現代社会科学の「空間論的転回」を決定づけた記念碑的著作、とある。現代哲学における主な関心は「時間」にあったが、物理学においては「場」にあった。社会科学においてはこんにち「空間」が重要である。マルクス主義や批判理論の影響下にあった社会科学はひと昔前まで、史的唯物論の旗の下に「時間」や「歴史」の優位を前提視していた。しかしソジャは、アンリ・ルフェーヴルやアンソニー・ギデンズらの方法論に学び、歴史主義による社会科学の抽象化と哲学的存在論の認識論的罠を批判的に乗り越えようとする。フーコーが指摘するように、「空間」は単なる「器」なのではない。空間は時間や歴史と同様に社会的諸関係をつくっているものなのである。本書の議論の核心は、「厳密に歴史的な物語を脱構築し組みなおすこと、(……)言語という時間的な監獄、ならびに伝統的批判理論の刑務所のごとき歴史主義から離脱すること」にあり、「時間と空間、歴史と地理、時代と地域、連続と同時性の結合を考察する批判的方法をつくりだす」ことを目指している。空間的問題構制への著者のこだわりこそが、決定的「転回」をもたらした記念碑的著作として本書を広く認知せしめているのである。ソジャは本書の大部分を割いて、従来の社会科学の方法に空間論を導入するための理論的説明を行い、最後の二章でロサンゼルスを題材に自らの新しいノウハウを展開する。マイク・デイヴィスの『要塞都市LA』(青土社)やデイヴィッド・ハーヴェイの『ポストモダニティの条件』(青木書店)とともに、いや、それら以上に、ポストモダンにおける新たな地理学の要諦を開陳した必読文献であると言える。網羅的な参考文献は、地理学や空間論や都市論の現代的基本書を押さえておく上で、たいへん役に立つ。本書と併せ三部作となる『サード・スペース』や『ポストメトロポリス』(いずれも原著はブラックウェルより刊行)も続けて邦訳されることを期待したい。
■到来しつつあるユビキタス社会は人間存在をどのように変えるのか
瞬間の君臨 リアルタイム世界の構造と人間社会の行方
ポール・ヴィリリオ著 土屋進訳 新評論
本体2400円 20cm 234p 4-7948-0598-5 / 2003.06
原著刊行から13年目、ようやくヴィリリオ中期の主著が邦訳された。『速度と政治』『戦争と映画』(いずれも平凡社ライブラリー)などの著書における、「時政学」や映像技術についての考察は、本書でさらに深化する。「これからは、全てのものが出発することなく到着する」とヴィリリオは本書で述べる。「極の不動(一方の極からもう一方の極へ移動するという概念の無力化)が始まる。そして瞬間というインターフェイスが、移動という長い時間を必要とする時間の間隔〔インターバル〕をおしのける。一九世紀に空間の君臨を退けたのは時間距離だった。それを押しのけて今日では、電子像が作り出す速度距離が君臨している。言い換えれば、移動しては立ち止まる連続的な動きが、映像を前にした静止に置き換わっているのだ」。「極の不動」とはまさに本書の原題のことだが、ヴィリリオはつまり私たち現代人がもはや移動を必要とせず、テレコミュニケーションによって「家庭で動かずにいる」ままで生活できるような時代に突入したのだということを指摘しているわけだ。この時代を彼は「凝縮時間の時代」と呼ぶ。リアルタイムで別の場所の出来事を知覚的に体験できるような時代のことだ。電子的仮想空間を通じて「私」は至るところに存在する(=ユビキタス)ことができる。電子的な制御が地球規模で偏在化することが「人間の生活環境に代わり」、「人間の唯一の環境」にすらなろうとしている時代。そこにおいては、事故は局所的なものではありえず、全般的災厄と化す可能性がある。彼のテクノロジー論が現代社会への絶えざる警鐘となっている所以はそこにある。フッサール現象学が人間の生活世界について根本的な記述を試みた成果を、最新の科学テクノロジーや物理学の知見をふんだんに織り込みつつ、ヴィリリオは更新する。この邦訳書では、原著にない様々な工夫を盛り込んでいる。節、項の見出しや、図版と写真の挿入などをはじめ、読みやすさの便宜を図るために、文章を短く切り、改行を増やし、本文の補足のみならず、詳細な訳注も付している。翻訳というよりは「日本語ヴァージョン」と表現したほうがいいかもしれない。昨年(2002年)原著が刊行された、シルヴェール・ロトランジェによるヴィリリオへのインタビュー集『黄昏の夜明け』の翻訳が、本書の訳者によって進められており、新評論より近刊だそうだ。
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