Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics.  by Hiroshi Kobayashi


2003年7月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。

[03年7月7日]

■ネオコンの跳梁を弾劾し、もう一つのアメリカ像を鼓舞する好篇

戦争とプロパガンダ4 裏切られた民主主義
E.W.サイード〔著〕 中野真紀子訳
\1,600 みすず書房 四六判 / 123p
ISBN:4-622-07046-4 発行年月:2003.6

『戦争とプロパガンダ』シリーズは、翻訳書ではあるが編集は日本独自のものだ。時局に対するサイードの最新発言がこのように随時読めるというのは非常に幸運であり、啓発的な出版物を提供しつづけるみすず書房の見識を高く評価したい。本巻には2002年11月から2003年4月までに発表された8本のテクストが収録されている。その非常に手厳しくも的を得たアメリカ(およびイスラエル)批判の筆鋒は緩むことがない。ブッシュ政権の特徴は、ブッシュ自身が信奉する南部系キリスト教右派と、彼を取り巻く「ネオコン(新保守派)」との結合にある。少なからず原理主義的な色彩の強いキリスト教右派と、反共および反イスラムの牙城としてのネオコンは、熱烈なイスラエル支持の点で一致しており、彼らが政権を動かす限り、パレスチナに真の平等と平和は訪れないだろう。ブッシュ政権を支えるパール、チェイニー、ウォルフォウィッツ、ライス、ラムズフェルドといった首脳陣は、ネオコン第二世代であり、サイードの言葉を借りれば、彼らはイラク戦争を推進する「黒幕」である。その思想の中核は何か。サイードは巻頭の論考「ヨーロッパvs.アメリカ」でこう述べる、「体制内の人々がほぼ例外なくとっている思想的な立場は次のようなものだ。アメリカは最高であり、その思想は完璧で、歴史には汚点がなく、その行動や社会は人類の偉業と偉大さの最高水準にある。それに反論することは(もしそんなことが少しでも許されるならばだが)「アメリカ人らしくない[un-American]」ことであり、反米主義という天下の大罪を犯したことになる。反米主義などというものは、正直な批判からではなく、善良で純粋なものへの憎しみから生じたものに違いないからだ」。

長いものに巻かれずに抵抗し続ける彼の誠実さと根気は、私たち読者を大いに励ます。資本主義経済とグローバリゼーションによって世界中に押し付けられるアメリカン・スタンダードがごく当たり前の環境と勘違いされてしまっている現在、「アメリカ人らしくない」ことは即ち「人間らしくない」ことにすらなってしまう。人間らしくない人々は悪に与する人々であり、アメリカはそうした悪の脅威を排除するために必要な軍事力を行使することをためらわない。イスラエルの占領に抵抗するパレスチナ人が何人殺されようと、アメリカの世論は関心がない。しかし「アメリカの世論」はそもそもネオコンの傀儡であるマスコミの操作誘導によってつくられている。全世界で高まる反米感情をこれ以上逆撫でしたいと思っているアメリカ人は実際多くはないはずだ、とサイードは留保する。本書に収録されているテクストの中でもっとも長い「もう一つのアメリカ」において彼は、アメリカは一枚岩的な国家ではなく、多数の異論を抱えた悩める国なのだと指摘している。一握りの権力者たちによってアメリカの民主主義は裏切られ、踏みにじられているが、国内では実際、権力者に抵抗する様々な反対意見が林立している。その点に彼は注意を喚起する。たとえば、ブッシュの唱える対イラク戦争論にきわめて強い抵抗が生じており、それらの構成要素を調べてみれば、「とても異なったアメリカの姿が浮かび上がってくるだろう」。それは「外国との協力や対話や有意義な行動をずっと素直に受け容れようとするアメリカである」。日本政府が友好関係を結んでいるのは、このもう一つのアメリカも含んだ合衆国なのであり、一部のキリスト教原理主義やネオコンだけと付き合っていればいいわけではない。それに気付いている日本の政治家、企業家、国民はいったいどれくらいいるか。深く考えさせられる書物である。


■死後出版の論文集が明かす、フーコーとラカンの「はざま」

歴史と精神分析 科学と虚構の間で
ミシェル・ド・セルトー著 内藤雅文(ないとう・まさふみ)訳 法政大学出版局
本体2800円  20cm 235 6p (叢書・ウニベルシタス760 )
4-588-00760-2 / 2003.06 

早すぎたセルトーの死(数え年で61歳)の翌年にあたる1987年に刊行された、いわゆる死後出版の論文集の邦訳である。全8章から成り、1〜3章がフーコー論、6〜8章は精神分析(フロイトおよびラカン)論。真ん中の4章と5章は歴史編纂をめぐる議論を提供しており、本書の根幹を成す。前後のブロックはこの根幹から伸びた二つの枝であるとも言えるだろう。本書の死後出版を託されたリュース・ジヤールの示唆によれば、この根幹の二編は『歴史のエクリチュール』(原著75年、邦訳96年:法政大学出版局)の続編もしくは補論として読める。セルトーは歴史がいかに書かれるか、歴史記述の深層に迫り、科学と虚構が渾然一体化している場をそこに認める。セルトーは歴史学をもっと科学的なものにしようと言っているのでも、物語や神話の復権を願っているのでもない。そうではなく、歴史を語る理性はすべてをうまく説明しおおせようとはするが、そうした科学的な首尾一貫性もまたひとつの虚構である、と喝破しているのである。その虚構性を鋭く分析する姿勢においてセルトーはフーコー流の「知の考古学」と近い立場にいるが、セルトーの場合、精神分析こそが歴史的理性批判の武器となっている。セルトーはラカンが創設したパリ・フロイト学派に所属していた。ラカンとセルトーはともにイエズス会士である。そもそもキリスト教と精神分析が彼らの中で共存しえた不思議も興味深いが、セルトーはラカン流の「精神分析の倫理」に学びつつ、歴史を編纂する言説の倫理を根源的に問い直そうとする。歴史認識論がさかんに議論されるこんにち、セルトーのユニークな批判的アプローチは再評価されて良い成果だろう。


■古文書解読の実践的入門書から見えてくる、「歴史の息遣い」

古文書を読もう(講談社選書メチエ 272)
森 安彦著
本体価格: \1,800
出版:講談社
サイズ:B6判 / 285p
ISBN:4-06-258272-4
発行年月:2003.6

古文書解読が近年静かなブームを呼んでいるそうだ。たしかに古い歴史的資料が読めるようになれば面白いだろう。本書の帯文にある「歴史の息遣いに直に触れる」という楽しみは、外国語を通訳なしで理解したり喋れる楽しみに近いものがある。本書は古文書学のエキスパートが伝授する、実践的な古文書読解入門である。江戸時代の寺子屋の教科書に記された「イロハ」から、婚姻届、離縁状、家訓、遺言状といった家族にまつわる証文、村の掟をめぐる様々な公文書など、数多くの実物の画像コピーに解説や読み下しが付され、自力で味わうよう導いてくれる。掲載されている古文書の中でも特に親しみやすいというかとっつきやすいのは、夫婦問題をめぐるものだろう。「みくだり半」という言葉はいまでも使われることのある言葉だが、これは夫が妻と離縁する際に渡す証文がたいてい簡潔に三行ちょっとで書かれていたことに由来する。逆に妻が離婚したい時には尼寺に駆け込むのだが、本書には復縁の際に夫が妻に誓いを立てる証文も掲載されていて、これが面白い。酒を飲むと人が変わって悪態をついたり家族に暴力を振るったりした夫のもとから妻が家出をする。妻に戻ってきてもらう際に、夫は証人を立てて「もう酒は飲まないし、ちゃんと働く。家族にも暴力は振るわない」という誓いを書き記した。「もし約束をやぶった場合は、妻が家出しようとも恨まず、その上これまで働いてくれた手間賃も払う」と。当時の情景が浮かんでくるようだ。本書には19世紀初頭に書かれた、きぬという女性の人生遍歴をめぐる文書も紹介されている。男と欠落(=駆け落ち)したきぬは、だまされて遊郭に売り飛ばされるのだが、その後、別の男性に身請けされて子どもを生んだ。しかし夫子ともにほどなく死んでしまい、ふたたびくだんの悪い男に売り飛ばされそうになるが、なんとか親族の助けを得て帰郷しようとするのである。女性を売り飛ばす商いをしていた男をきぬから遠ざけ、勘当された故郷にもう一度帰らせてあげようと、親類らが今で言うところの役所宛てに提出した覚書が、こんにちも残っている。なんともドラマチックな展開を古文書は私たちにいきいきと伝えるのである。巻末付録に、変体仮名、異体字、難読難解語句や慣用表現の一覧や、江戸時代の国名地図や五街道の宿駅、年号や貨幣の単位や度量衡、干支、方位、時刻表などが掲載されている。

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[03年7月14日]

■世界を変えるのは技術や政策ではない。その前に大切なものがある

あなたが世界を変える日 12歳の少女が環境サミットで語った伝説のスピーチ
セヴァン・カリス=スズキ著 ナマケモノ倶楽部編・訳 学陽書房
本体1000円  20cm 65p
4-313-81206-7 / 2003.07

1992年6月11日、リオ・デ・ジャネイロ。国連主催の地球環境サミットを総括する全体会議へ集った世界各国の代表者を前に、日系4世の12歳の少女が「子ども代表」としてスピーチをした。サミットにはカナダから自費で参加。スピーチは当初予定されたものではなかったが、少女と4人の仲間たちの真摯な思いが受け容れられ、壇上に立つことになった。与えられた時間はわずか6分間。少女の率直な主張は会場の首脳たちの心を大きく動かした。感涙のスタンディング・オベーションが会場を包み、ゴルバチョフが、ゴアが少女に駆け寄って「サミットで一番素晴らしいスピーチだった」と絶賛したと言う。大げさな「伝説」だろうか。実はそうでもない。スピーチは時を経てここに一冊の本になる。坂本龍一は本書に寄せて、「ぼくは涙を流した」と書いた。落合恵子は「諦めとニヒリズムを迎え入れる前に、ぜひ、この本を手にとって」ほしい、と。大げさな評価だろうか。いや、違うのだ。未来の世代のために、持続可能(サステイナブル)な世界を手渡してほしい。少女はそのための難解な方法論を説いたわけではない。大人たちが本当に、国境や利害を超えて、圧倒的な不均衡経済と荒廃しゆく環境と争いにまみれた世界を変える意志があるのかどうか。「もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えば、この地球はすばらしい星になるでしょう。私はまだ子どもだけどそのことを知っています」。本書を読んで胸に熱い何かが迫るのは、ほんの少女が世界の要人たちを前に立派にスピーチをしたからという理由によるのではない。少女がこんなにも自覚的に話しているというのに、大人たちはいまだ政治力学を気にして、共有よりも独占を選び、協働よりも分断を選んで、問題の本質から逸れて上滑りし続けているということに、譬えようもない懺悔の念が込み上げてくるからだ。懺悔の念が熱いのではない、自らの愚かしさへの懺悔とともにようやく目覚めさせられる「変わらなければ」という勇気の炎が熱いのだ。表も裏もないまっとうな声が、大人たちのエゴイズムを打ちのめし、洗う。原文に達意の和訳を添えて掲載。今年24歳になる彼女の回想と未来への思いを綴った新しいテキストも収録し、巻末には環境関連のNGOの一覧等を載せる。本の判型やデザインが、かの『世界がもし100人の村だったら』(マガジンハウス)に似ていて、そもそもイラストレーターが同じ人物なので、パクリと勘違いする読者がいるかもしれないが、そんな先入観は捨てた方がいい。本書は外見ではなく、その内容によって、これからも長く記憶され続けるべき本だからだ。老若男女を問わず、広く薦めたい。


■正義と暴力が結びつくのは間違っていると今こそ気付くべき時だ

私には夢がある M・L・キング説教・講演集
M.L.キング〔述〕 クレイボーン・カーソン編 クリス・シェパード編 梶原寿監訳
\2,400 新教出版社 B6判 / 257p
ISBN:4-400-42122-8 発行年月:2003.6

「だから私は今日あなたがたに申し上げたい。今日も、そして明日もわれわれが困難に直面するとしても、私にはなお夢があるのだということを。それはアメリカの夢に深く根ざした夢である」。40年前の夏、かの「ワシントン行進」の終わりに、リンカーンの巨大な彫像の前で25万人の参加者に向かって、キング牧師はそう語りかけた。弱冠34歳。聴く者の魂を揺さぶらずにはおかない、情熱的なスピーチだった。マーティン・ルーサー・キング二世は、20世紀最高の説教師であり、社会運動家だった。人種差別と闘い、暴力を非暴力で克服し、戦争に反対し、様々な不平等を糾弾した。公権力に不当に逮捕されることもしばしばだった。1968年、39歳の若さで暗殺されるまで、彼は戦い続け、語り続けた。本書は1955年から1968年までの代表的スピーチ11篇を収録したものだ。ローザ・パークス女史の抵抗をきっかけにしたバス・ボイコット運動におけるスピーチにはじまり(彼はその時まだ20代半ばだった!)、冒頭に掲げた演説「私には夢がある」、その翌年のノーベル平和賞受賞講演、ベトナム戦争への反対演説、そして、暗殺の前日に行われた霊感溢れる感動的な説教「私は山頂に登ってきた」まで。運動は常に権力からの容赦ない弾圧に曝され、幾人もの人々が白人至上主義者たちの暴力によって殺された。教会に仕掛けられた爆弾によって幼い少女たちが命を落とすことさえあった。キング牧師自身も胸を刺されて危うく死にかけたこともある。本書は、そんなさなかにも正義を信じ、堂々たる信仰者として非暴力を自ら貫き、人々を励まし続けた、不屈の魂の言葉がぎっしり詰まっている。ベトナム戦争への反対運動を興した時には、仲間うちすら無理解の声をあげたというが、この出来事はこんにちもなお、非常に象徴的である。国を愛するということが正義をも蹴散らす忠誠心として人々を暗黙のうちに縛りつける時、戦争悪への盲目が生まれてしまう。「ベトナム戦争のような無謀な試みが人間や技術や金を破壊的な吸収管のように吸い取っていく限り、アメリカは決して貧しい者の救済に財と精力を注ぎ込もうとはしないことを明確に認識した」のだと彼は述べる。この警告から35年以上経った今も、同じような過ちをいったい何度現代人は繰り返していることか。ブッシュ政権の思想的根幹にはネオコン(新保守主義)とキリスト教原理主義があるが、ブッシュ自身が信奉するキリスト教と、キングが信仰するキリスト教は名称上は同じバプテスト系でありながら、その戦争観や正義観においてなんと隔たっていることか。いまこそキング牧師の著書を読み直す時である。


■無知も教養も老いも、すべてひっくるめて「自分に素直に」書く

モンテーニュ エセー抄 (大人の本棚)
ミシェル・ド・モンテーニュ〔著〕 宮下志朗編訳
\2,400 みすず書房 四六判 / 257p
ISBN:4-622-04842-6 発行年月:2003.6

かのエリック・ホッファーがむさぼり読んで、自らの執筆の模範としたというモンテーニュの古典的名著『エセー(随想録)』の新訳である。膨大なテキストの中から訳者が長短11篇を選択したものだ。読みやすさが第一に追求されているだけあって、たしかに気軽に楽しめる。薀蓄好きなおじさんのとめどないお喋りにつきあっているような感覚だ。文脈によってはたいへん砕けた表現も採用。結石に苦しむ自分の心の声を表現するくだりなどはいわゆる「哲学書」のイメージとは違う。モンテーニュは学問のことを書いているのではなくて、自分自身のことを書いているのだと述べる。本書は親族や友人たちの個人的な便宜のために書かれているのであって、一般読者がこのたわいない本を読むなんて理屈に合わない、としょっぱなから素っ気無い。はあそうですかと本を閉じる権利が読者にはあるはずなのだが、どうもその権利を行使しなかった読者がいて、本書はこんにちに至るまで読み継がれることになったのか。読者を惹きつけたのは、日常的な話題を論じる中にふんだんに盛り込まれた歴史的教養が単なる薀蓄に留まっておらず、個人の理性を重んじる自己主張が小気味良いスパイスになっている点だろうか。「ここではわたしの本とわたしとが歩調を合わせ、いっしょに進んでいく。ほかの場合なら、作品を作者とは切り離して称賛したり、批判したりできるけれど、ここではそうはいかない」。モンテーニュが描いたのは、単なる自画像ではない。裁判官、農園経営、ボルドー市長と確かに彼の経歴は凡人のそれではないが、16世紀フランスの書斎人が得ることのできた一般教養を体現してはいるだろう。彼はエセーを生涯書き続けた。老いさらばえてますます遠慮なく語りながら、無知であることを自覚して誠実に書くことを良しとしてきたように、老いについても恥じたり隠したりせずに表現する。「老いは、顔よりも、精神に、たくさんのしわをつけるにちがいない。年老いたからといって、すっぱいにおいや、かびくさいにおいがしないような魂など、まずめったに見つかるものではない。成長に向かうときも、減退に向かうときも、人間は全身で進んでいくのである」。みすず書房のシリーズ「大人の本棚」第1期は本書で完結する。第2期は2003年9月から刊行が開始される予定だ。

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[03年7月22日]

■卓抜な戦争写真論が示唆する、現代人にとっての「見ること」の意味

他者の苦痛へのまなざし
スーザン・ソンタグ著 北条文緒(ほうじょう・ふみお)訳 みすず書房
本体1800円  20cm 155p
4-622-07047-2 / 2003.07

原著刊行から半年も経っていないこのタイミングでソンタグの最新著が読めるのは嬉しい。しかも、本書が扱うのは彼女がこれまでも本領を発揮してきた写真論であり(既刊に『写真論』晶文社刊がある)、その上今回は、戦争と映像が主題になっている。19世紀以来の、戦争をめぐる様々な映像作品が取り上げられ、文字ではけっして伝えることのできないその即物的客観性の是非が問われる。写真がもたらす記憶のストップモーションは、確かに戦争の悲惨さを伝えはするが、それを見て反戦を唱えるか、好戦の都合を見出すかは人による。写真に付すキャプションを差し替えることだけで、イデオロギーを操作することすらできるのだ。ほんの半世紀前の人々は写真がこの上もなくリアルなもので、事実をありのままに映していると信じることができたかもしれないが、情報操作が常態と化しつつあるこんにちにおいては写真とて素朴なメディアではない。ソンタグの示唆を借りるなら、誰の残虐行為が、誰の死が写っていないのかを問うことを止めてはならないのだ。いわゆる「反戦論者」ではないソンタグの戦争観はどちらかと言えば悲観的なリアリズムに基づいている。たとえば「9・11」をめぐる『この時代に想う/テロへの眼差し』(NTT出版)における態度の変化を見てきた読者にとっては、ソンタグが時折是認している節のある「戦争の必要性」という暗い考えを、今なお捨てていないのではないかと非難したくもなろう。確かに本書でも、ソンタグは、戦争反対を声高に述べることはしない。しかし戦争が悲惨であることは変えようのない真実であると彼女ははっきり分かっている。そうした認識のもと、戦争への誘惑に対抗できる何かを問うことができるのは、男性ではなく女性だろうと述べているのは、たいへん興味深い。また、アメリカが自らの悪行と対峙する距離感を掴めていないときっぱり指摘するあたりは明解である。彼女が一例として挙げている奴隷のリンチ処刑写真集『聖域なしに Without Sanctuary』は見方によっては悪趣味にもなる写真が満載されているが、それらが教えるアメリカの暗部を見据えることがなぜ非愛国的行為と見なされがちであるのか、ソンタグはそこに疑問を持っている。他者の苦痛や戦争の悲惨を想像することの不可能性――彼女はこの写真論の末尾でそう書く。ソンタグが多くの道徳的問いを宙吊りにしているように見えるのは、走りすぎる好戦主義と、後ずさりする反戦主義のはざまにあって、その両極が断言しようとする独りよがりを巧みに避けようとするからではないか。「見ること」をめぐる歴史研究の新しい古典がここに誕生した。


■来たるべき神学の相貌を告げる、予兆としての未完の序説

聖霊の神学
小野寺功著
\7,600 春風社 A5判 / 394p
ISBN:4-921146-81-0 発行年月:2003.7

21世紀は「聖霊」の世紀になる、と著者は示唆する。霊性、スピリチュアルなもの――それは端的に「いのち」とも名指される――が復権する、という意味だ。カトリック神学(なかんずくアウグスティヌスの『三位一体論』東京大学出版会)と西田幾多郎の哲学を底流で接合させるキーワード、それが「聖霊」なのである。「聖霊」は「無」の思想に繋がると著者は見る。つまり神をあまりにも実体的な存在に限定することはそもそも不十分である。ひとつの生成の場、あるいは非-場の哲学として、無の思想と聖霊論は邂逅する。それは西洋と東洋のそれぞれの霊性の出会いでもある。本書はその境位へと哲学を止揚するための助走であり、序説的テキスト群であると言える。かの上田閑照氏が称賛の言葉を寄せていて、著者の試みは霊性思想史上の新しい山脈であると表現している。1929年生まれの重鎮である著者は、京都学派の学統を継ぐ世代。本書を読む後進はさらに、自らが担う時代の極限まで「聖霊」の思考を伸延させねばなるまい。あるいは「聖霊」をターニング・ポイントに全く新しい地層を開拓しなければならないのかもしれない。カトリック神学をいかに日本の風土に根付かせるか。そこに心を砕いてきた先人がいたように、著者もそれを課題としてきた。一方で、著者にとってそれは本来的に異質なものを思考の暴力でもって日本の大地に強制移植することだったのではない。むしろ、日本の大地に根ざしている思想の中から内発的に神学的契機が萌え出なければならない。その契機を長い月日をかけて著者は探してきたのだと言える。宮澤賢治や鈴木大拙、そして西田のうちに著者は日本的な「いのちの思想」を見て取り、それらの内に来たるべき「日本神学」とでも換言できるかもしれないものの萌芽を見る。その予感を書き綴ったテキストを集成したのが本書なのである。矢萩多聞氏による装丁が非常に凝っていて、本書を巧みに演出している。黒い化粧函に同じ素材の黒い紙を巻きつけ、そこにぼんやりと白い文字が浮かぶ。特徴あるレタリングだ。英文タイトルと露文タイトルが添えられ、「異邦性」を醸し出している。書影には写り難いがキリル文字の空箔押しも施されている。それだけではない。書籍本体を取り出すとまたひとしおの驚きがある。生成りの細い藁のような素材を粗めに格子状に編んだクロス張りに、ロシア正教の聖母像をカラー印刷した紙が貼られ、三方は墨色に染められている。ページを開けば扉のステンドグラスのような空箔押しが美しい。物体としても存在感のあるオーラを発散している、趣向を凝らした書物である。

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[03年7月28日]

■友愛に満ちたまなざしがドゥルーズのユートピア像をあぶりだす

ドゥルーズへのまなざし
ルネ・シェレール著 篠原洋治訳
\2,600 筑摩書房 四六判 / 245p
ISBN:4-480-84264-0 発行年月:2003.7

「私は死ぬまで《ドゥルージアン》でありたいと思う」。そうシェレールは書いている。彼の三歳年下であるドゥルーズは生前こう手紙に書いて寄越した。「君が《ドゥルージアン》だなんて思わないよ。僕らは友達なんだから……」。本書は十本のテクストから成るが、一本の例外を除き、すべてドゥルーズの死後に書かれたテクストをまとめたものだ。例外というのは、ドゥルーズの知的伴侶であったフェリックス・ガタリの死の二年後――つまりドゥルーズの自死の前年に発表した論考である。本書は題名の通りドゥルーズ論であるが、これは『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』『哲学とは何か』における、ガタリと不可分のドゥルーズ、即ちドゥルーズと不可分のガタリへのまなざしでもある。それを証拠に、先述の例外とはガタリ論なのだ。ドゥルーズとガタリの共同作業の計り知れない重要性は、こんにち、ともすると等閑視されている節がある。彼らは80年代のブームにすぎなかったのだろうか。この本を読めば、そんなことはないとはっきり分かる。

本書は体系的なドゥルーズ論ではないし、入門書でもないが、ドゥルーズ哲学の要諦をよく捉えているのではないか。「ドゥルーズ哲学を要約しうる四つの定式について」という一文が本書にはある。そこではドゥルーズの次の四つの言葉が挙げられ、シェレール流のドゥルーズ像が活き活きと解説される。「内在とは何か? それは生である」(生前最後の論文「内在:ひとつの生…」より)、「欲望が主体のなかにあるのではなく、欲望のなかに機械がある」(『アンチ・オイディプス』より)、「ひとが文章を書くのは、常に生を与えるため、生が囚われている場所から生を解放するため、闘争の線を引くためである」(論文集『記号と事件』より)、「裁判官であるより、むしろ掃除夫でありたい」(クレール・パルネとの対談集『ドゥルーズの思想』より)。一言で言うならば、ドゥルーズは既成のアカデミックな権威――とくに通俗的マルクス主義や精神分析などの諸権威の専制から思考を解き放った稀有な哲学者だったとシェレールは評価している。生前最後の論文「内在:ひとつの生…」(おそらくいずれドゥルーズの拾遺集『狂人の二つの体制、およびその他のテクスト』近刊に収められるだろう)は特に重要視されており、「絶えず立ち戻らなければならない」と書かれている。

唯一の書き下ろしである第十章「ドゥルーズとユートピア」はとりわけ快作である。読者はまずサミュエル・バトラー、タルド、バランシュという、ドゥルーズが取り上げたマイナーな星座に目を向けるよう促される。彼らは知のアウトサイダーであり、オルタナティブな知を生成する「ユートピスト」である。優れたフーリエ研究者であるシェレールの言う「ユートピスト」とは、社会思想史においていわゆる「空想的社会主義」と片付けられるような一用語ではないことに注意したい。それは「空想的社会主義」を克服したところのマルクス主義や科学主義が否応ない硬直化に見舞われたような閉塞的事態をも乗り越えるひとつの〈他なる可能性〉なのだ。それはアナクロニズムではない。可能性を閉じるのではなく、未来へと常に開いておくこと。「ユートピストこそ、ドゥルーズに霊感を与える人々であり、合流点をなすことは明らかである」。ドゥルーズのユートピアとは、超越的な理想の旗揚げでも、歴史への最終的な屈従でもない。ユートピアはあくまでも現実性(レアリテ)の問題なのだ。訳者は本書を『歓待のユートピア』(現代企画室)や『ノマドのユートピア』(松籟社)と並ぶシェレールの九〇年代における三部作のひとつとみなし得ることを示唆しているが、まさにその通りだ。ドゥルーズ研究は退屈な訓古学に堕すべきでないと痛感させられる。


■古代イスラエルの「神権政治(テオポリティーク)」を検証する古典

マルティン・ブーバー聖書著作集 第2巻  神の王国
マルティン・ブーバー著 日本キリスト教団出版局
本体5400円  22cm 315p
4-8184-0455-1 / 2003.06 

ブーバーは旧約聖書の詳細な研究を通じて、『来るべき者――メシア信仰の成立史の研究』全三巻を構想したが、ナチス政権によって出版社が解散させられたため、計画は中断された。本書『神の王国』は当初の計画の第一巻にあたる。第二巻は未完だが、その一部は『油注がれた者』として残され、当著作集では第三巻として続刊予定である。すでに刊行されている著作集第一巻『モーセ』は未完の第三巻の第一部にあたる。計画はのちに要約されるかたちで『預言者の信仰』(みすず書房)として執筆されている。未完ではあるものの、当著作集で開示される一連のメシア主義研究は、吟味熟読に価する。『神の王国』では士師記やモーセ五書、ヨシュア記などの読解をもとに考証しているから、旧約を読んだことのない読者にとっては難しすぎるかもしれないが、実はこんにちのイスラエルを考える上で、本書は欠かせない歴史的テキストなのである。ブーバーは一九五五年末に書いた本書第三版への序文でこう述べている。「すべてを包括する神の支配の具体化は、イスラエルの始め(プロトーン)であり、終わり(エスヒャトン)である」と。本書は、士師記を国家論として解読しながら、紀元前一千年を遡るイスラエルにおける「原始的神政政治」のありようを探究している。イスラエルは周知のように、ヘブライ人の部族連合体として誕生した。それは神の支配のもとにあることを自ら希求し、神は民族の王として表象される。そもそもこの神とは何か。本書ではマルク、バアル、ヤハウェといった様々な神の形象が検証される。マルクは個々の部族神、バアルは自然神、ヤハウェは「民のそばにおり、いつもい続けるだろう」と民に宣言した唯一の神である。ヤハウェの支配において、宗教と政治の分離は止揚される。イスラエルは常に外敵の脅威と戦ってきた。王(メレク)なる神、ヤハウェのもとに、共同体を守るために果敢に戦った。ヨシュアやダビデなどのカリスマ的指導者を経ていく過程、イザヤやエレミヤなどの優れた預言者を失っていく過程で、神政政治(テオクラティー)は教権政治(ヒエロクラティー)へと変容し、イスラエルはやがて瓦解していく。二〇世紀において国家として承認されたイスラエルは、現実的政治体制としてはこうした紀元前の史話から幾重にも隔たっているが、ヤハウェへの信仰の火は消えることなく今も燃え続けている。神政政治のメンタリティを、こんにちのイスラエルのユダヤ人たちは今も保持しているだろうか。私たちは彼らの信仰世界の意図をどう汲むべきであろうか。


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