Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics.  by Hiroshi Kobayashi


2003年8月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。

[03年8月4日]

■フェミニズムの新展開を一望できる入念なガイドブック

“ポスト”フェミニズム(思想読本−知の攻略− 10)
竹村和子編
\2,000 作品社 A5判 / 226p
ISBN:4-87893-546-4 発行年月:2003.8

 『フェミニズム』(岩波書店)の著者が今度は「ポストフェミニズム」のアンソロジーを編んだ。ポストフェミニズムとはそもそも何だろうか。この「ポスト」は、フェミニズムが終焉したことを含意しているのではない。それは「まえの時代と重なり合いながら、まえの時代を自己批判的に、自己増殖的に見る視点」を意味している、と編者は述べる。ポストが引用符で囲まれているのは、「〜以後」という通例の意味とは異なることに注意をひくためであろう。その意義については編者による序文「なぜ“ポスト”フェミニズムなのか?」で説明され、続く座談会「“ポスト”フェミニズム「理論」は何を切り拓くのか」で、河口和也や鄭暎惠をはじめとする注目の若手研究者らとともにさらにその現在性について検証している。本書の主要部分となるテーマ別の小論と討論は五部構成になっている。五つのテーマとは、「欲望とポストファミリー」「テクノロジーと身体」「帝国/グローバル化」「暴力と新たな正義」「行政フェミニズムのなかで、行政フェミニズムを超えて」である。第四部までは十七篇の小論からなり、第五部は「男女参画の攻防」「親密圏の政治学」という二つの討論からなる。小論はいずれも第一線の研究者による力作揃いであり、討論に行政や政治に携わる現場の役人や議員を招きいれたのは良い試みだった。第三部と第四部の間には、総論として、編者による「「いまを生きる」“ポスト”フェミニズム理論」が置かれており、上記の五つのテーマが「現在わたしたちが生きている社会や世界の現実に、どのように“ポスト”フェミニズムが関与しうるか、関与すべきかを問いかけるため」の問題設定であったことが明言されている。理念と行動は不可分のものだ。理念だけに留まったり、逆に理念を忌避したりするのではなく、「時代の進展に合わせて両者を橋渡ししていく積極的な理論構築」がこんにち求められているわけだ。巻末には、主要理論家および文献、キーワードの解説を収める。シリーズの他の巻に負けず劣らず、この一冊で最新の動向が一望できるようになっているが、いつもながら2000円というのはお手ごろだ。安い。同社より近刊の『イラスト図解“ポスト”フェミニズム入門』(ソフィア・フォカ+レベッカ・ライト著、竹村和子+河野貴代美訳)とともにひもときたい。


■「スロー」という価値観を脱領域的にマッピングする好著

スローライフ100のキーワード
辻信一著
\1,800 弘文堂 B6判 / 252p
ISBN:4-335-55090-1 発行年月:2003.7

『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)で話題を呼んだ文化人類学者・環境運動家による「スロー」な生活のための100の視点をエッセイ風に明かした入門書だ。本書は著者の言う「スロームーブメント」の中から生まれたものである。書斎ではなく、運動から生まれたものだ、と。オビ文には「スローでいこう! あなたはもう新しい世界の入口に立っている」とある。いやいやとんでもない、私たちはスローダウンして世界に乗り遅れることなんてできやしない、とつい思ってしまう読者は多いだろう。でも、本当はもっとゆっくりしたい、と内心は思ってもいる。暮らしの中の「ごく当たり前な「楽しさ」や「美しさ」や「安らぎ」を、お金や効率や経済成長を優先する社会に住むぼくたちは、これまで軽視したり、疎んじたり、バカにすることが多かった」と著者は指摘する。世界がいま、どんな困難に逢着しているのか、ちょっと立ち止まって考えてみよう、という考え方なら、今までにも世間にはあった。しかし本当は、「ちょっと立ち止ま」る程度ではまた再び「流れ」に呑まれ、押し流されるだけだったのだ。立ち止まるのじゃない。流れは止まってはくれないけれど、その勢いを弱めることはできる。スローと聞くと、まず日本人は「スローフード」の流行を思い浮かべるかもしれない。スローなんて、感覚的なものにすぎない、と見くびる人もいるかもしれないが、著者の言う「スロー」は違う。スローは革命だ。肩肘張らず、怒鳴り散らさず、盲目的に熱狂することもない、新しい革命。「スローライフ」から「アンプラグ」、「今、ここ」、「戦争」、「ディープ・エコロジー」、「非電化」、そして「ナマケモノ」等々、全100項目。忙しい毎日でも、少しずつ読みきれるような工夫がしてある。項目別に参考文献が掲げられているほか、「スロソファー」なる思想家たちも参照される。「スロソファー pslothopher」とは、「哲学者 philosopher」と「ナマケモノ sloth」を合成した言葉で、スローな価値観を提示してくれる人々を、著者なりのくくりでそう呼んでいる。例えば「歩く」の項目には民俗学者の宮本常一が挙げられる。なるほどね。生活、経済、政治、思想、地域、環境、農業、など、じつに様々な視点が提供されている。これは「スローの思想地図」だ。現代人必読。

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[2003年8月18日]

■近代の知識人は、他者を取り込みつついかに「日本」像を練成したか

辺境に映る日本 ナショナリティの融解と再構築
(KASHIWA学術ライブラリー 03)
福間良明著 \4,800 柏書房
サイズ:A5判 / 390,3p
ISBN:4-7601-2400-4 発行年月:2003.7

明治期から第二次世界大戦敗戦までの、近代以降の「日本」像を、「西洋」像との対比からではなく、アイヌ、沖縄、台湾、朝鮮、満州といった、かつて日本が「辺境」視した地域との関連から分析した労作。国語学、人類学、民俗学、社会学、新聞学、地理学などの多岐にわたる分野の知識人の言説を取り上げ、近代日本の知的編制がナショナリティの構築とどのように関係していたのかを鳥瞰している。出版社社員から研究者に転じた若手(と言えば斯界の先行研究者には、小熊英二がいるわけだが)による注目の単著第一作であり、博士論文に大幅な加筆訂正を施したものだ。本書は三部から成る。第一部「「日本」の均質性/不均質性」では、国語学、方言学、ラフカディオ・ハーン研究の検証を通じ、日本内部における統合の論理とその齟齬を見ていく。第二部「〈境界〉における包摂/排除」では、人類学における坪井正五郎と鳥居龍蔵、アイヌ学における金田一京助と知里真志保、沖縄学における柳田国男と伊波普猷、といったそれぞれ象徴的な研究者たちの学説対比から、日本民族の起源やアイデンティティをめぐる議論がいかに「辺境」を差別しつつ取り込んだかが考察される。第三部「ナショナリティの越境/再構成」では、大東亜共栄圏や八紘一宇といった大義を掲げて本格的にアジアに侵出する日本が、自らの境界設定と内部の均質性を再構成していった過程を扱う。ナショナリティとは、他国との対照性の中でしか存在し得ないものであり、融解と構築、根拠とゆらぎは、表裏一体なのだ。しかし、ナショナリティが幻想であると言うだけでは十分ではない。幻想が再生産され続けること、「ナショナルなものの残余」とその絶えざる更新を問わねばならない。著者はこう述べる、「ナショナルなものの暴力に抗するために求められるのは、「ナショナリティの脱構築」の心地よい〈可能性〉に安住することではない。その〈可能性〉がさらなる抑圧の再生産に行き着く〈危険〉への批判的な想像力である」と。これは本書の結びの言葉なのだが、たいへん印象的だ。著者は今後は、「ナショナリティにおける戦前と戦後の関係性、そこにおける動員のプロセス」について研究を進める予定だそうだ。


■デリダ思想の要諦を成す「火」と「灰」の経験とは何か

火ここになき灰
ジャック・デリダ著 梅木達郎訳
\2,400 松籟社 A5判 / 152p
ISBN:4-87984-226-5 発行年月:2003.8

原著は87年刊。小さな本ではあるが、80年代の「特に難解な」デリダを象徴する一冊である。彼の72年の論文集『散種(ディセミナシオン)』の謝辞の末尾にある「そこに灰がある」という一文から出発し、『弔鐘(グラ)』や『郵便葉書(カルト・ポスタル)』からの引用に並行して、男女が対話形式でこの一文について自由な考察を進めていくというもの。引用元の書物(いずれも単行本としてはいまだに完訳されていない)と同じく、非常に異様なテクストである。一読して「さっぱり分からない」と感じるのが普通だろうが、デリダは言葉遊びをしているのではないので、訳者の「あとがき」における周到な解説を読んだ上で再読するといい。格段に理解が進むだろう(それにしても……という声があるにせよ)。原書では左頁に引用、右頁に対話というかたちで組まれているので、日本語の縦組ではどのように再現されるかが見どころだったが、上段に引用、下段に対話という二段組で乗り越えてみせた。編集者の苦心が窺える。デリダ本人および訳者の示唆によれば、彼の言う「灰」とは、ヘーゲル的弁証法によって止揚されることのない「痕跡」である。喪失と中断による弁証法的包摂の磁場の解体だ。訳者はこう解読する、「灰の問題はデリダにおいて、みずからを全体化しようとする弁証法的思考とそれを中断する非-回帰の思想との果てしない論争のうちに位置づけられるべきものであった」と。一種の詩のような、翻訳不可能なテクストが一気に理性的に読めてきそうな手引きである。しかし、注意しなければならない。訳者は何がしかの解説のうちに本書を「単線的」に理解できるよう、読者を差し向けているわけではないからだ。本書は単線的でもなければ、男女二人だけの対話なのでもない。先ほど「対話形式」と書いたが、それは、原書と同時に発売された同名のオーディオ・カセットが男女の対話形式をとっているからで、翻訳を実際読んでみればわかるが、これらの「対話」は実際バラバラで断片的な複数の声――ポリローグから構成(あるいは脱構成)されているのである。「灰」「火」「喪」――それらはデリダ思想において決定的に重要な術語であり、そこに向けて本書は引き絞られ、また、散開する。訳者が指摘するように、本書は「灰」についての考察であると同時に「灰」そのものでもあるようなテクストだ。いやまして難解な、本書における「ホロコースト」論の視座に至りつくのは容易ではないが、「そこに灰がある(イリヤ・ラ・サンドル)」という一文は、ハイデガー的な「存在がある(エス・ギプト・ザイン)」と鋭く対立する、現代哲学史上もっとも論戦的な契機であることは押さえておきたい。

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[2003年8月25日]

■「芸術の指南書」+「哲学的エスプリ」=発見に満ち満ちた生活

100の指令
日比野克彦著
\1,500 朝日出版社 A5判 / 1冊
ISBN:4-255-00235-5 発行年月:2003.8

カバーに大きく「口の中をベロで触って、どんな形があるか探ってみよう」と刷ってある。これはタイトルではない。タイトルは右下端に著者名と出版社名と一緒に小さく、「100の指令」と印刷されている。何だろう、この本は。パラパラとめくってみると、「一番長い線を引こう」「目を閉じてまぶたの裏を見てみよう」「自分の年と同じ年のものを探してみよう」など、ページの真中に「〜してみよう」という指令と言うか「誘い」が大きな字で印刷されている。指令は全部で100ある。「あとがき」によればこの本は、「どうでもいいこと」を想像して一日を過ごした日の産物である。アーティストの一種の創作メモとも言えるのだが、著者の注記する通り、読んだ人に何らかの変化を起こさせるのが目的だ。変化とはつまり、精神的変化のことである。これらの指令は、思いもよらないディテールの観察であったり(「自分の部屋にものがいくつあるか数えてみよう」)、情動や認識、想像力を日常的平凡さから脱却させ、変化させるもの(「帽子の中に秘密の言葉を書いた紙を入れて街を歩いてみよう」「透明人間を描いてみよう」「布団の中に入ってお風呂の中を想像してみよう」)であったりする。パッと開いてみた任意のページの指令を、夏休みの宿題か何かのように理由を求めず実行してみるというワクワクするような楽しみがある。いや、実際、すべての指令はやさしい言葉で、すべての漢字には振り仮名がふってあるから、自分の子どもや親戚のいとこや甥にプレゼントするのもいい。日常に疲れた彼や彼女に贈るのもいい。「自分の影と握手をしてみよう」「自分の影を切り離してみよう」などという指令は、禅の「考案」のような自己省察にもなりうるし、即物的なアート・パフォーマンスにもなりうる。娯楽を押し付ける、行間のギッシリ詰まった本が多いなか、こうして読者が主体的にイマジネーションを広げられる「余地」を残してある本を手元に置けるのは素直に嬉しい。造本も洒落ている。カバーを取ると表紙は厚いボール紙で、シンプルに白を基調とし、紙と目の粗いガーゼのような素材で飾られている。見返しには紺色で淡く刷られた写真があり、キャプションを見ると指令の一つの実行結果を写したものだったりする。本文の印刷はくっきり明瞭だったり、なんとなくぼやけていたりして、芸が細かい。読んでいて、なんとなく主旨が似ているなとふと連想したのが、ドロワ著『暮らしの哲学』(ソニーマガジンズ)や、田中未知著『質問』(アスペクト)だ。前者は一種の指令本なのだが、哲学的思考の実践が身近な行動から起こせることを発見させる。後者は、寺山修司の演劇仲間であり作曲家である奇才が書いた、答えのない365の質問集だ。いずれも超オススメの面白さである。『100の指令』には付録に、「ある日ある人の反応」というリーフレットがついている。そのものズバリ、指令への反応が言葉にされ印刷されていて、自分自身の反応と比べると興味深い。私が手にしている本のなかには「その1」と「その2」が入っていて、もしやと思い版元に確認したところ、「その3」もあってさらに続きも準備されているとのこと。これらは著者のワークショップから生み出されたものらしい。なるほど、本書は誰もが楽しめる芸術指南書でもあり、認識変換のための哲学的装置であり、そのまま「人生の書」でもある。


■ガタリとの共同作業へと至る前景に見る「ドゥルーズらしさ」

無人島 1953−1968
ジル・ドゥルーズ〔著〕 宇野邦一〔ほか〕訳 前田英樹監修
\3,500 河出書房新社 四六判 / 309p
ISBN:4-309-24294-4 発行年月:2003.8

先に翻訳出版された『無人島』の後篇(1969年から1974年までのテクストを収録)に続き、前篇もここに刊行された。表題作である未発表テクスト――詩的かつ哲学的に非常に美しく味わい深い、創造と始原をめぐるエセーだ――から出発して、一哲学教師としてデビューして『差異と反復』『スピノザと表現の問題』『意味の論理学』などの主著を刊行する至るまでのドゥルーズの足取り――つまり、ガタリと出会い、『アンチ・オイディプス』を出版する直前までのドゥルーズの哲学的遍歴を本書は示している。19篇のテクストが収載されており、論文、書評、講演、討論、インタビューと多様だが、既訳が知られているものもある。ベルクソン、ルソー、カント、マゾッホ、ニーチェといった思想家をめぐるテクストは、ドゥルーズが緻密で、しばしば破格の哲学史家であったことを窺わせる。後篇同様に興味深いのは、やはり同時代の哲学者たちとの係わり合いを想像させるテクスト群である。ドゥルーズが論じている著者や書物は、フーコーのルーセル論(法政大学出版局)や『言葉と物』(新潮社)を除いて、日本語では読めない。この事態には非常に興味深いものがある。例えば、ドゥルーズの師の一人でヘーゲル学者のイポリットによる『論理と実存』(朝日出版社、絶版)は若い世代は実物を見たことがほとんどないだろうが、この本を論じたドゥルーズの書評は『差異と反復』の理論的核心の一つである「純粋差異の存在論」を定式化した初めてのテクストとして重要視されている。

科学哲学者シモンドンは、ドゥルーズが好んで援用する哲学者の一人で、ドゥルーズは「シモンドンによって作られた新しい概念は私たちにとって極めて重要なものである。その豊かさとオリジナリティは読む人を驚かせ影響を与えるだろう」と特記している。ドゥルーズを経由することによって初めてシモンドンに興味を持つようになった日本の研究者はこれまでも少なくないだろう。イポリットやシモンドンを論じる際のドゥルーズの「存在論」的立場は、ハイデガーのそれとは非常に異なる。ハイデガー哲学を我流で取り込んだサルトルに対してドゥルーズが回顧的なオマージュを書いているテクスト(「彼は私の師だった」)を併読すると、サルトルという第三項を媒介に、ドゥルーズとハイデガーの距離感がよりいっそう理解しやすくなるかもしれない。

「パタフィジックを創造することでジャリは現象学への道を開いた」と題された短いテクストはニーチェとジャリを論じた前半に続き、ジャリの言う「パタフィジック」におけるようなユーモアと理知の分かちがたい結合を現代において実践している好例として、アクセロスの『遊星的思考へ』(白水社)と『技術の思想家マルクス』(創林社)を取り上げ称賛している。前者は近年復刊されたから読めるものの、後者は版元自体が解散しているので、これも『論理と実存』同様、なかなか見つけられない。ドゥルーズは『言葉と物』をはじめとするフーコーの著作を絶賛し、「『言葉と物』こそは新たな思考をめぐる一冊の偉大な書物である」と書いた。その証明通り確かに『言葉と物』は日本でも長く読み継がれている。また、フーコーもドゥルーズを称賛しており、「ドゥルーズの世紀」の到来を預言したのだが、その預言通り、ドゥルーズの著書のほとんどは今も不自由なく読める。その一方で、読まれなくなっていく参照項があるのだ。

同時代人との交流は、例えば本書の「ドラマ化の方法」や「力能の意志と永遠回帰についての諸帰結」などでも垣間見れる。前者はフランス哲学会での講演および討論の記録(1967年)で、討論に参加したヴァールやシュール、アルキエ、ガンディヤック、ボーフレ、スタニスラス・ブルトン、フィロネンコらとのやりとりがじっくり読める。いずれも著名な第一級の研究者たちが、『差異と反復』の方法論をめぐって質問を投げかけており、示唆的だ。後者はドゥルーズが主宰した唯一の討論会――1964年の、ロワイヨーモンにおけるニーチェをめぐる討論会――でのしめくくりのスピーチで、レーヴィット、ヴァール、マルセル、フーコー、ヴァッティモ、クロソウスキー、ボーフレなど、錚々たる参加者の発表に対し、ホストとして総括しつつ謝意を述べたものだ。参加者はほかに、ゲルー、ハイムゼート、ガンディヤックらがいた。フランス語の原書ではこの討論会の本がまだ入手可能だが、日本語で読めるのは今回訳されたドゥルーズのスピーチぐらいだろう。『無人島』の編纂経緯についてはダヴィッド・ラプジャードによる「はじめに」に詳しい。単行本に収録されなかったテクストを集めた論文集の第二弾は『狂人の二つの体制、その他のテクスト』として刊行予定であることが予告されている。


■ブルーノ唯一の喜劇作品は徹底した反権威主義に貫かれている

ジョルダーノ・ブルーノ著作集 1 カンデライオ
加藤守通訳 ジョルダーノ・ブルーノ〔著〕
\3,200 東信堂 A5判 / 216p
ISBN:4-88713-500-9 発行年月:2003.7

第一回配本(第3巻『原因・原理・一者について』から五年を経過し、途絶してしまうのだろうと落胆していたところへ、第二回配本の知らせである。本書はブルーノが書いた唯一の喜劇だ。三人の男性が主人公である。浮気心の手痛いしっぺ返しを喰らうボニファチオが第一の主役で、その友人で錬金術に没頭するものの実生活には災厄しか呼び込めないバルトロメオ、才能がないのに詩作に耽り悪党たちに付け入られるマンフリオらが物語を織り成していく。表題のカンデライオとは通例「ロウソク職人」を意味するが、男色家の隠語でもある。これは、主人公たちの素顔を揶揄するものだ。ボニファチオは四十二歳まで男色家だったが、その後、舞台となるナポリで有数の美女を娶る。しかし召使との男色関係を断っていないだけでなく、憧れの高級娼婦をものにしたい欲望にも身を焦がされている有様だ。マンフリオは弟子をいつも引き連れているが、その弟子はほかならぬ彼のお相手でもある。ブルーノはこの喜劇において、上流階級の盲目的な色恋沙汰や魔術趣味、衒学嗜好を徹底的に笑い飛ばした。さらに、演劇や文芸の従来の形式や権威をも徹底して戯画化している。1582年にパリで刊行された本書の扉には、「いかなる学園にも属さない学者、ノラのブルーノ、通称「うんざり屋」の喜劇」と印刷されている。いかなる権威にも従わず、学芸の垣根を越え、宗教的束縛を超えて、無限の諸宇宙を探究し続けた特異な生涯を良く反映した自己呈示であろう。彼が本書を捧げたのは、「君主でも枢機卿でも国王でも皇帝でもなく」愛する一女性にだった。訳者が指摘するように、本書のドタバタぶりは、哲学的観点から象徴的に解読されることがままあった。しかしこの訳書では、高尚よりも猥雑を、つまり本書にとって本来的な、ナポリ人たちの日常を揶揄する自由闊達な雰囲気を十全に活かそうという配慮がなされている。これまでブルーノというと、『無限、宇宙および諸世界について』(岩波文庫)をはじめとするごくわずかだが優れた翻訳と研究書でしか知られておらず、フランセス・イェイツら碩学によって着目されてきた西欧思想史における彼の重要性も、日本では哲学的な側面でしか知りえなかった。本書はその意味でブルーノの新しい一面を見せ、なおかつその一面が彼の生涯にわたる反権威主義的態度においてはやはり驚くほど一貫していたことを理解させるだろう。

なお、ブルーノ著作集の全巻構成は以下の通り。(1)カンデライオ(本書)、(2)聖灰日の晩餐、(3)原因・原理・一者について(第一回配本)、(4)無限・宇宙・諸世界について、(5)傲れる野獣の追放、(6)天馬のカバラ、(7)英雄的狂気、(8)形而上学と宇宙論(『三十の像の灯明』『フランクフルト三部作』)、(9)記憶術論(『イデアの影』『キルケの歌』『印の印』)、(10)魔術論(『魔術について』『絆について』)。別巻としてルネッサンス研究会編による二つの論文集『ジョルダーノ・ブルーノとルネサンス思想』『ジョルダーノ・ブルーノ研究』が予告されている。


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