Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics.  by Hiroshi Kobayashi


2003年10月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。

[2003年10月6日]

■「トリビア」に飽き足らない人は本書に挑戦してみよう

珍説愚説辞典
J.C.カリエール編 G.ベシュテル編 高遠弘美訳
\4,500 国書刊行会 A5判 / 749p
ISBN:4-336-04529-1 発行年月:2003.9

『万国奇人博覧館』(筑摩書房)が大幅にパワーアップして帰ってきた。本書はもともとは『万国奇人博覧館』とは別の本だったのだが、1992年に合本されて、3500項目もの「なんだそれ?」な珍説愚説の引用からなる大冊になった。『万国奇人博覧館』は580項目だったから、かつてこの本を購読した読者も本書を買っておいて損はない。訳者が異なるという妙味もあるので、本書を買った読者が『万国奇人博覧館』も購入してみるというのもいいだろう。なにせ、古代から現代までの西洋史を、重箱の隅をつつくどころか見事にひっくり返してみせた本だから、訳者によって解釈が異なることはありえるし、手におえない部分もあったろう。しかしそんな難物がこうして読めるようになったのだから、まことにありがたい。

二人の編者は高校生時代から約15年にわたって6000もの珍説愚説を収集した。それらの中から厳選されたものが本書を構成しているのである。時には一日に20冊もの書物を読まなければならない時もあったという。まったくご苦労なことだが、彼らをそこまで突き動かしていたのは、彼ら自身の言葉によれば「反=教養」を獲得するという目的観だった。澁澤龍彦は本書を「こんな人を食った、人間精神の愚かしさをまざまざと見せつけるような、笑いと毒に満ちた辛辣な著作は、あんまり例がないであろう」と評している。たしかにそうである。例えば「日本人」という項目を拾うと、そこにはフランスの立派な学識者たちによるこっぴどい差別発言が読める。百年ちょっと前まで、日本人は単なる「好色な野性猿」に過ぎないし、野蛮で醜い獣の状態から進化することなどありえないと断言されていた。腹が立つというよりは、まず爆笑である。

本書の副題は異様に長いけれど、内容を端的に要約している。いわく、「世界史や個人の伝記にまつわる、わけのわからない言葉、間違い、誤綴、莫迦げた考え、大胆すぎる仮説を含む。それに加えてかなりの数の愚かしい言葉、ありとあらゆる種類の狂気や空想、空疎な駄弁もあり」。昨今話題になった「無駄知識」の面白味というのも手頃でいいが、本書は単に面白いというよりもっと教訓的である。いや、より正確に言えば、教訓的な註釈が一切付いていないために、いっそう味わい深く、読者を戦慄させる。「へえ」もあるが、やはり「なんだそれ?」である。特に「女性」や「戦争」「教育」の項目に満載された偏見はまさに人間の愚かしさを物語っている。本書に引用されている書き手の大半は必然的にフランス人なのだが、かのドレフュス事件で冤罪を告発した作家「ゾラ」の項目では、彼に対する同時代人の見苦しい罵倒が読める。時代は罵倒した人物たちを洗い流し、ゾラのみを残したが、本書の編者はいわば、ゾラの栄光だけを記憶するのではなく罵倒した側の愚かしさも忘れるな、と教えるわけである。

さらに例を挙げれば、「動物の言葉」の項目では、鳥の鳴き声を延々と筆記し、それを人間の言葉に翻訳してみせる学者が紹介されるかと思えば、「歯」の項目では、スズメバチの巣に火を点けてタバコのようにして吸えば歯痛が治る、という18世紀中葉の『昆虫神学』なる書物が引用される。なんともユニークである。「流派を超えて、もう一度人間を考え直」そう、と編者は言う。「精妙な部分だけでなく、頑迷な頭や古い部分もふくめた、全体としての人間を」と。また、「『愚かしさ』はある種の希望であり、果物の種のように人間の中心に存在する」とも述べる。けだし名言である。編者の二人について一言。カリエールはブニュエルや大島渚などの映画や、ピーター・ブルックらの演劇の脚本を数多く手がけた奇才であり、ダライ・ラマとの共著もある。もう一方のベシュテルは堅実な歴史学者で、『万国奇人博覧館』ではブクテルと表記されているが、同一人物だ。


■独裁支配に道を譲るための「野合」ではない、超党派的団結とは何か

革命家の告白 二月革命史のために
ピエール=ジョゼフ・プルードン著 山本光久訳
\7,800 作品社 A5判 / 522p
ISBN:4-87893-571-5 発行年月:2003.8

19世紀の高名な批評家サント・ブーヴはこう述べた、「この本は敵対者たちにさえ認められている」と。フランスの社会主義思想家プルードンが獄中で6週間をかけて書きあげた本書は、彼とほぼ同時代を生きた同国の歴史家トクヴィルの回想録『フランス二月革命の日々』(岩波文庫)と並んで、二月革命をめぐる歴史的証言として重要である。周知の通り二月革命とは、フランス革命以後の反動連合であるウィーン体制を崩壊させるきっかけになった1848年の民衆叛乱だが、この革命の成果は同年末のルイ=ナポレオンの台頭によって早々に摘み取られてしまった。表向きは主権在民、三権分立を掲げた大統領制だったが、1851年末の武力クーデターにより、翌年に皇帝独裁が成立する。第二共和政から第二帝政へ。この流れの中で打ち砕かれた革命への思いを、自戒をこめて綴ったのが本書である。

国内人口の1%にも満たない資産家たちに独占された国政を奪回するべく19世紀中葉のフランスでは様々な集団や階級の利益を代表する党派が乱立していた。プルードンは当時の情勢をこう診断する、「フランス社会にはもはや活力のある党派はない。(……)今も相変わらず党派の旗を担ぎ、権力を刺激し、活気づかせ、革命をあちこち惑わせるような者たちが見られるが、彼らは生者ではない。彼らは死んでいるのだ。彼らは統治もせず、政府に反対するのでもない」。続けて、ルイ=ナポレオンの台頭については次のように分析する、「彼がわれわれに明らかにしたのは、まさに諸党派のこの混乱、権力のこの死である。(……)『フランスが私を選んだのだ』と彼は言う。『それは、私がいかなる党派にも属していないからである!』。そう、フランスが彼を選んだのだが、それはフランスが支配されることをもはや望んでいないからである」。政治的派閥の解体と人民解放のための新しい社会的結合を唱えた彼にとって、ルイ=ナポレオンが超党派を気取ることは極めて危険な徴候に見えたわけだ。そんな考えを持つ彼が、無傷でいられるはずがない。彼はルイ=ナポレオン(つまりナポレオン三世)を侮辱した廉で3年間の禁固刑に処されるのである。

プルードンは後年、アナーキズムつまり無政府主義の祖とされ、その主著である『経済的諸矛盾の体系、または貧困の哲学』は、マルクスのプルードン批判『哲学の貧困』によって理論的に乗り越えられたとする見方があるが、果たしてそれは正しいのだろうか。そうした定説を鵜呑みにする前に、本書でプルードンの思いの丈に触れてみる方がいい。彼の思想を特徴づける国家廃止論や私有財産制廃止論は、本書にも明瞭に表われている。プルードンのアナーキズムとはより正確には、本書の訳者による適切な訳語と説明にも明らかなように、非「政府中心」主義であり、アソシエーションによる非政府的システムと人民銀行の創設を内実とする。彼のアナーキズム革命の原理とは「自由」である。「〈自由!〉すなわちそれは――1、普通選挙の組織化による、社会的機能から独立した中央集権化による、憲法の絶え間ない再検討による、政治的解放である。2、貸し付けと販路の相互的な保証による、産業的解放である。換言すれば――もはや人間による人間の支配ではなく、諸権力の併合という手段によること、もはや人間による人間の搾取ではなく、諸資本の併合という手段によること」。

特権的富裕層によって牛耳られた国政と金融制度を民衆の手に取り戻すための選挙制度改正と銀行改革。アナーキズムは虚無主義的な破壊思想などではなく、民衆の明日を取り戻すための具体的な闘いだった。ルイ=ボナパルトの台頭期によく似ているようにも思える昨今の日本で、野合ではない超党派的結合について示唆したプルードンを読むことは時代錯誤ではありえない。巻末には二月革命期におけるプルードンの政治発言各種の採録と、同時期にマルクスとプルードンとの間で交わされた往復書簡を収める。名調子の翻訳により、小説のように面白く読めることも魅力である。

***


[2003年10月14日]

■現代人の生を根源的に捉えようとする壮大な政治哲学の序章

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生
ジョルジョ・アガンベン著 高桑和巳訳
\3,500 以文社 A5判 / 283p
ISBN:4-7531-0227-0 発行年月:2003.10

現代イタリアを代表する思想家であるアガンベンの政治哲学の枢要を明かした主著『ホモ・サケル』がついに翻訳出版された。本書は「ホモ・サケル」シリーズの第一弾であり、さきに日本語訳が出ていた『アウシュヴィッツの残りのもの』(月曜社)はシリーズ第三部にあたる。2003年の春にはシリーズ第二部の第一巻として『例外状態』(未邦訳)も刊行されており、話題を呼んでいる。アガンベンはフーコーが考案した概念「生政治」を、現代人の生を読み解くために鍛え直し、「ホモ・サケル」という史的形象をそこに加えた。そもそも生政治とは何か。そしてホモ・サケルとは。

生政治とは近代国家を特徴づける人民統治のありようを端的に示した概念である。政治は古来、人間が「善く生きる」ための手段だと見なされされていたが、近代においては人間の方が政治の手段になる。つまり人間のために国家があるのではなく、国家のために人間があるという価値観の転倒が起きる。国家の存続のために人間を飼い馴らすこと、それが生政治(バイオポリティクス)の詐術である。アガンベンの慧眼は、この生政治を民主主義と全体主義という相克する(はずの)政治体制の共通基盤だと見ていることである。人間一人一人の生のかけがえのなさを称揚する民主主義は、人間一人一人の生を国家の「監督」下において保護するが、全体主義もまた、一人一人の生を国家の「管理」下において統御する。人間を生かしもすれば殺すことも可能なこの生政治は、人間を丸裸の動物にする。アガンベンの言う「剥き出しの生」とは、人間の生が「善く生きる」ことから「単に生きている(あるいは死につつある)」だけの状態に縮減されていることを暴露した表現である。

ホモ・サケル(聖なる人間)とは、そうした現代人の生の宿命を如実に表している言葉である。もともとは古代ローマ法に遡る表現だが、それは端的に、殺されてはならないが殺され得る状態におかれてもいる人間、つまり我々の実存にほかならない。この両義性のもとに生の尊厳があり、そこにおいて現代人の自由も幸福も賭けられている。恐るべきジレンマだ。国家が個人の生を組み敷いていると指摘するだけでは十分ではない。そうした生の包摂が常態化し、生を包摂する秩序が近代以降、あらゆる境界を超えて肥大し続けていることを認識する必要がある。政治の進歩は同時に退廃でもある。こうしたホモ・サケルと生政治という観点においてこそ、政治は根本的に考え直され、解明されなければならない、とアガンベンは見ている。フーコーが成しえなかった政治学の体系的基礎付けを彼は試みることになる。本書では西欧史を古代から現代まで縦横に渉猟し、ホモ・サケルの尊厳をめぐる言説を検証している。古代ローマからアウシュヴィッツ、現代の難民問題にいたるまで、その歴史的射程は壮大だ。

アガンベンの『ホモ・サケル』は、ネグリとハートによる『〈帝国〉』(以文社)、カッチャーリによる『アーキペラゴ』(月曜社近刊)と並んで、現代世界における様々な問題と矛盾の動態を、独自の政治哲学的観点から根源的に考察しようとしたイタリア現代思想の三大成果のひとつだと言える。本書に解題を寄せている上村忠男氏がかつて述べた感想だが、「ここのところ、日本でも、イタリア発の新しい世界像というか、世界認識の新しい方法が注目を浴びている」(『超越と横断』未来社)ことは確かだ。かつてルネッサンス文化の源として諸学問を鮮やかに刷新した国の末裔たちは、時代の転換期にあってもういちどその本領を発揮しようとしているのかもしれない。


■死と沈黙ではなく、生と証言を。次代に読み継がれるべきマニフェスト

コルヴィラーグの誓い
エリ・ヴィーゼル〔著〕 村上光彦訳
\2,800 白水社 四六判 / 307p
ISBN:4-560-04775-8 発行年月:2003.10

重い書物である。フィクションではあるけれども、作家自身の強制収容所体験を色濃く反映しているだけに、迫真という言葉すら陳腐に響くほどの緊迫感溢れるリアリティを帯びている。20世紀初頭、東欧の架空の地方都市コルヴィラーグで起きた、陰惨極まりない出来事が登場人物によって「回想」される。その出来事とは何か。ある日、街で一人の悪童が忽然と姿を消す。札付きの不良だったからその死を悲しむ者はほとんどいなかったが、捜索に疲れ果てた関係者がやがてこうつぶやいた、「ユダヤ人どもの仕業に違いない」。悪童はキリスト教徒の息子だった。街のキリスト教徒たちは、徐々に自らデマのとりこになっていく。イエスを殺したのもそもそもユダヤ人たちだった。彼らが潔白なはずはない。街のユダヤ人共同体はこの手の中傷には慣れきっていたから、取り合わずにやりすごそうとする。しかしキリスト教徒たちは本気で生贄を欲しがっていた。つまり、ユダヤ人がどうこうということとは直接は無関係な、彼らの日常で煮えたぎってきた様々な不満のはけ口を。迫害の日は近づいていた。

ユダヤ人共同体の中の一人の宗教的カリスマが、共同体とその信仰を守るために、自ら冤罪を被る決意をする。カリスマの殉教的行為を止められる者はいなかった。カリスマは街の治安維持を任されている憲兵たちに「自首」する。しかしここでカリスマは誤算に陥る。キリスト教徒たちは今や、一人以上の犯人たちの贖罪の血を欲していたのだ。拷問を受けた末、カリスマはユダヤ人の受難史を根底から変革する方途を悟る。ユダヤ人は有史以来、自分たちが被ってきた迫害を忘却の川に流すことなく、語り継いできた。敵からどんな仕打ちを受けようと、けっして黙らされはしない、という信念。歴史において、しばしば敵対者はユダヤ人を二度殺そうと試みた。一度目は文字通り殺して肉体を滅ぼし、二度目は滅ぼした罪を隠蔽することによって殺しを徹底化した。敵の暴虐を乗り越え、死による抹消をも乗り越えるために、ユダヤ人は語り継ぐのだ。「しかしこうした歴史にもはや終止符を打とう」とカリスマはユダヤ人共同体に呼びかける。何ということか。証言を止めるというのか。証言をつないで生き延びながらメシアの到来を待ちわびるのではなく、自分たちの死を自分たちで受け止め、その死については沈黙の掟をもって自ら背負う、というのである。悲壮な民族的決断の中でコルヴィラーグのユダヤ人たちカリスマの言葉に従う。そしてほどなく虐殺されてしまう。

この虐殺を生き延びた少年がいた。ユダヤ人共同体の年代記を綴る書記の家系に生まれ、カリスマの年若き弟子となった彼――彼は必然的に記録と沈黙の相克に生きることになる――は、年代記を携え、虐殺をかろうじて逃れた。少年は老人になるまで、コルヴィラーグでのポグロム(虐殺)についての沈黙の誓いを破らずにいた。しかし、生き延びた彼はある若者と出会い、その若者の自殺を思いとどまらせるために、ついに誓いをやぶる。彼に死者たちの沈黙のゆえんを明かし、逆説的に生の尊厳を教えるとともに、沈黙を証言によって背理的に継承させるのである。ここに作家ヴィーゼルの驚くべき、強靭なる意志が定礎されていると言っていい。これまで強制収容所の生き残りたちの中には、自分だけが生き延びてしまったことへの責苦から自殺する者たちがいた。ツェラン、ソンディ、アメリー、レーヴィ、ベッテルハイム……かけがえのない才能がいくつ散っていったろう。ヴィーゼルはしかし今なお自殺を選ばない。証言せずにいることは偽証することに等しいと、ヴィーゼルは別の場所で述べている。沈黙を背負うのではなく、証言を背負う。死を選ぶのではなく生を選び、すべての死者のためにはとうてい証言しきれないことを知りつつも、なおかつ証言を試みるのである。この苛酷な試みを欺瞞だと笑うことができるだろうか。本書は、民族迫害が往々にして曖昧な憎悪に萌すものだという歴史的教訓を読者に気付かせるだけでなく、未曾有の虐殺を生き延びた人間による透徹した生への決意を深々と思い知らせる名著である。


■解読本でもあり、哲学入門でもあるユニークな論文集

マトリックスの哲学
ウィリアム・アーウィン編著 松浦俊輔訳 小野木明恵訳
\2,800 白夜書房 A5判 / 355,9p
ISBN:4-89367-872-8 発行年月:2003.10

その名の通り、映画『マトリックス』を題材にした哲学論文集である。原書は2002年にアメリカで出版された。五部構成で二十本の論文が収録されている。書き手の中で日本でもよく知られているのはジジェクただ一人だが、有名か無名かは本書の面白さにはあまり関係ない。また、本書が題材に選んでいるのは『マトリックス』だけで、『マトリックス・リローデッド』や『マトリックス・レボリューションズ』は論じられていないが、そうだからと言って、本書の価値が下がっているわけでもない。ジジェクを含めた幾人かの鋭い洞察は、しばしば続編で描かれるであろうことを見抜いている。本書はいわゆる解読本でもないし、かといって哲学入門書でもない。その両方を兼ね備えているのが非常にユニークである。

ある論者は『マトリックス』を「聖書の翻案」であると見る。またある者は仏教思想との関連性を見て取る。フェミニズムの立場から読む者もいれば、マルクス主義の立場から論じる者もいる。とりわけ大きなテーマになっているのは、やはり仮想現実や現実感をめぐる、心や脳や実在の問題である。これらは哲学にとっては非常に古いテーマだ。巨大な幻影装置「マトリックス」とは何なのかをめぐってネオとモーフィアスが交わすせりふが、しばしば引用される。世界とは幻想であり夢であるか。それは映画の登場人物だけの問いなのではない。哲学者たちは古来、何度もそう問うてきたのだ。古代ギリシアのプラトンのたとえ話「洞窟で鎖に繋がれている囚人」(『国家』岩波文庫など)から、現代アメリカのノージックの思考実験「水槽の中の脳」(『アナーキー、国家、ユートピア』木鐸社)まで、数々の例が本書では参照されている。

また、映画ではどちらかと言えば脇役だったサイファーの科白が本書では頻繁に引用される。マトリックスに抵抗する仲間たちを裏切り、元の世界へと戻る――つまりマトリックスに再接続されることを望んだ彼の「無知は幸いだ」というせりふ。なるほど、幸福とは何だろう、自由とは。本書では上記に挙げた哲学者のほかにも様々な思想家たちが参照項として開かれていく。アリストテレス、トマス・アクィナスから、デカルト、マルブランシュ、ヒューム、カント、ヘーゲルをへて、マルクス、アドルノ、サルトル、ラカン、プランティンガ等々。一般的な解読本ならここまでは踏み込まないだろう。ジジェクはいみじくも、『マトリックス』を「一種のロールシャッハ・テストのように機能するもの」と表現している。なるほどそう、自分が見たいものが投影される映画であるとも言える。

本書に収められた論考はいずれも興味深いものばかりだが、中でも個人的に見て面白かったものは、『マトリックス』を一種の仏教映画として読み解いたマイケル・ブラニガンの「スプーンはないんだ」と、マトリックスによる人間の搾取をマルクス主義的に分析したマーティン・ダナヘイとデーヴィッド・リーダーによる「マトリックスとマルクス、そして乾電池の人生」だった。逆に、凡庸に感じられたのは、シンシア・フリーランドによる「キアヌを貫いて――新しい穴と陳腐な話」である。これは端的に言えば、フェミニスト哲学者の立場から『マトリックス』に男尊女卑的背景を見いだして批判するもので、『マトリックス』と同年に公開されたクローネンバーグの映画『イグジステンズ』を対照的に高く評価するものなのだが、クローネンバーグへの評価はともかく、あまりにも紋切り型な擬似フェミニズムと俳優への単なる個人趣味を見せられた気がする。幸い、ジジェクのラカニアン的解説がこうした紋切り型を逃れているから、ジジェクの論考を注意深く読むといいだろう。

***


[2003年10月20日]

■ラクー=ラバルトによる粘り強い「ハイデガーとの対決」の諸成果

近代人の模倣
フィリップ・ラクー=ラバルト〔著〕大西雅一郎訳
\6,000 みすず書房 四六判 / 449p
ISBN:4-622-07059-6 発行年月:2003.9

ハイデガー詩の政治
フィリップ・ラクー=ラバルト〔著〕西山達也訳・解説
\3,600 藤原書店 四六判 / 265p
ISBN:4-89434-350-9 発行年月:2003.9

メタフラシス ヘルダーリンの演劇
フィリップ・ラクー=ラバルト著 高橋透(たかはし・とおる)訳 吉田はるみ(よしだ・はるみ)訳 未来社
本体1800円  20cm 155p (ポイエーシス叢書51 )
4-624-93251-X / 2003.10 


デリダ以後のフランス現代思想を代表する哲学者フィリップ・ラクー=ラバルト(1940-)の来日にあわせ、講演集三点が立て続けに翻訳出版された。今月初旬(2003年10月)、彼は来日するはずだった。東京日仏会館でブランショについて、早稲田大学ではマルクスについて、それぞれ講演する予定だった。しかしあえなく来日はキャンセルとなった。記憶に新しいが、年頭のデリダの新刊ラッシュでも同様のことがあった。訳者や出版社が懸命になって日本語版の発売にこぎつけたのはいいものの、本人が来ない。よくよく考えてみるとデリダはもう70歳を超える高齢なのだし、ラクー=ラバルトも定年を迎えているのだから、仕方ないのかもしれない。

ラクー=ラバルトの思想的営為を強いて一言で要約するならば、それは「ハイデガーとの対決」である。彼は『近代人の模倣』(原著は1986年刊)の「まえがき」でこう断言している、「なんらの前置きなしに述べるならば、今日においてはこの[ハイデガーとの]対決的解明こそが思惟そのものの賭金なのである。何をなそうと、何を信じようと無駄なことである。思惟の賭金としてほかに何も存在しないことは、どのような様相下においてであれ日ごとに立証されている。いやしくも思惟が自分にとって何も意味しないものではない限り、各自はこの賭金と手を切ることはできない。もちろん、各自の仕方においてではあるが。換言すれば、各自に可能な仕方において、各自がそうせねばならないと考える仕方においてである」。

この断言にはいささかの誇張もないことを読者は覚悟しなくてはならない。ハイデガー哲学が人間の問いのすべてであるわけではない。しかし思惟することの誠実さと欺瞞を辿ろうとするならば、ハイデガー問題との逢着は免れがたい。ハイデガー問題とは何か。ラクー=ラバルトは昨年刊行したばかりの『ハイデガー 詩の政治』――日本語で早くも読めるようになったことを大いに歓迎したい――の「はしがき」で次のようにまとめている。

「当初の問いは、こうであった。なぜナチズム期において、ナチズムへと、ハイデガーはかくもスキャンダラスな政治参加を行ったのか。しかしそれは、徐々に次のような問いへと転じていった。なぜ、ある種の〈歴史〉の理念が、したがって芸術の理念が、根本において、次第に明白な仕方で、この政治参加を可能なものとし、根拠づけていったのか。その問いは、したがって、最後には、こう言い表されることになった。ハイデガーにとって芸術とは、実際、本質的に〈詩〉のことなのだが、ならば、なぜ彼による詩作の解釈は、これほどまでにスキャンダラスなのか、と」。

一言補足しなければならない。歴史と芸術と詩の関係についてである。簡単に言うと、この三者を結び付けている根本は「神話」である。三者は神話という原初から出発する三つの現われ方であり、ハイデガー哲学とはこの展翅された三位一体の起源に遡行する知的営みである。いや、いま少し正確に言うならば、三者から起源へ、起源から三者へと往還する知の冒険者、それがハイデガーであり、その往還のいかがわしさをラクー=ラバルトは追及しているわけである。彼はハイデガーの言葉を引きながら、『近代人の模倣』に収められた論考「政治のなかの有限なる超越/超越は政治のなかで終わる」においてこう述べている。

「「偉大に思考する者は、偉大にあやまたねばならない」という物議をかもした発言はよく知られている。ハイデガー[訳書では「ハイデッガー」と表記されているが本稿では便宜上統一する]の間違い、あるいはむしろ過失がいかにそのとおりだとしても、彼の思考の偉大さ、つまりその思考の――われわれにとって、今日――決定的な性格からは厳密に何ものも奪いとられないと、私はなおも信じつづける。無謬ではないが、それでもやはり、いわば「避けて通ることのできない」ような思考が存在しうる。さらには、そのあやまちを犯しうるということじたいが思考すべきものを与える。こうした理由から、この思考はまた、われわれに政治的なるものの問いを提起するのだと私は信じつづける。問いは、この思考のもっとも突出した先端部を基点としてと同様に、思考自身のものである脆弱さをも基点として提起されるのだ」。

ハイデガーにおける往還する知の冒険は、哲学的なるものから政治的なるものへの歩みであり、飛躍である。この飛躍の必然性の謎を執拗に分析し続けているのが、ラクー=ラバルトの重要な功績なのだ。功績というと何かが解決されたように響くかもしれないがそうではない。また、その功績によって彼が自分はハイデガーを乗り越えたということを示したいのでもない。謎と格闘する者はいったい誰と格闘しているのか。とりわけ、ハイデガーが「あらゆる解釈の最後の、しかしまた最も困難な一歩は、詩の純粋な現前をまえにして、そのすべての解明とともに消え去ることにある」(『ヘルダーリンの詩作の解明』創文社版全集第四巻)と述べる時、つまりハイデガーが自らの思索とともに姿を消そうとする時、ラクー=ラバルトはハイデガーをどうやってつかまえるのか。

姿を消すこと、それは政治的な詐術であるとラクー=ラバルトは喝破する(「『ヘルダーリン詩集』への序文」、『メタフラシス』所収)。「[ハイデガーによる]ヘルダーリンの注釈は、ドイツと世界の運命にかんして、国家社会主義[すなわちナチス]が仕損じたものを言っているのである」。つまり、「ハイデガーは、なによりもまずヘルダーリンの解釈にもとづいて、ナチズムに対する自分の距離を強調し、政治的なものからの自分の撤退を正当化」している、と彼は厳しく指摘しているのである。

ラクー=ラバルトはハイデガーとの対決に沈潜するかたわら、ヘルダーリンの再読解をも試みてきた。その成果の一端は『メタフラシス』[原著は1998年刊。ちなみに先に引用した「序文」は日本語版のために特別に収録されたもの]や、『近代人の模倣』に収録された二篇の論考「思弁的なるものの中間休止」「ヘルダーリンとギリシア人」において読めるが、彼は『メタフラシス』の巻頭でこう苦々しく表明している、「長期にわたる、根気を要する哲学的作業の結果、われわれの「ヘルダーリンへのアプローチ」においてハイデガーの注釈が恐るべき障害になっていることを確信した」と。

フランスにおけるヘルダーリン解釈がハイデガーの影響を大きく被ってきた状況に対して異を唱える(「『ヘルダーリン詩集』への序文」)とともに、ラクー=ラバルトはハイデガーの政治的教説のすべてがヘルダーリン解釈にこそあると主張している(「詩作の勇気」、『ハイデガー 詩の政治』所収)。これは『政治という虚構』(藤原書店刊、原著は1988年刊)以来、彼が一貫して主張し続けてきたことだ。ハイデガーの政治的教説の核心をラクー=ラバルトは大胆にも「原-ファシズム」と仮に呼んできた。ハイデガーは現実のファシズムに抗して語ってはいても、実際はファシズムの「真理」を救い出すという野心を持っていたのだ、と彼は痛烈に批判する。

実のところ非常にやっかいなこの「原-ファシズム」という仮称は、一種の〈思惟の奈落〉である。それは「原-ファシズム」が解明できないものであるという意味ではない。そうではなく、ハイデガーの哲学的政治的企図がそこにおいて〈雄弁なまでに沈黙している〉場所である、という意味なのだ。つまり、文章の多寡にかかわらず多くの意味を含意しているにもかかわらず、なおかつほとんど告白を拒絶しているような〈信念〉の場がそこに非実体的に在るのである。

『ハイデガー 詩の政治』のエピローグとなる「国民社会主義の精神とその運命」において、ラクー=ラバルトはハイデガーの「原-ファシズム」を考察することから展開された七つの命題を素描している。命題とは言ってもさほど簡潔ではなく、問題群と言った方がいい。それらのうちのいくつか、たとえば彼が「国民美学主義」や「政治の美学化」と呼ぶものはすでに検証されてはいるものの、ラクー=ラバルトはその「原-ファシズム」という詐術がなおも自らを隠蔽しようとする消失点を垣間見ようとする。もう一度問わねばならない。謎と格闘する者はいったい誰と格闘しているのか。

とりわけ、ハイデガーが哲学の終焉を告げながら「かろうじてただ神のようなものだけが我々を救いうる」(「シュピーゲル対談」1966年、『形而上学入門』平凡社ライブラリー所収)と述べる時、そして「この神の到来あるいは不在のために自らを−開けて−保つことの心構えを準備することのほかには」哲学は何もできない(同前)と語る時、ラクー=ラバルトはいったいどこでハイデガーをつかまえたらいいのか。神の名においてか。恐らくは違う。ラクー=ラバルトはハイデガーにおける宗教への問い、来たるべき聖性への問いの全体もまた「ヘルダーリン読解から出発して練り上げられており、この読解が実のところたえず描きつづけている奇妙にも「政治的な」行程から、切り離すことができない」と見ている。存命中にどこまで究明できるかどうかはともかくとして、ラクー=ラバルトの目下の研究課題の一つは、ハイデガーの宗教論の分析であると言えるだろう。

付記:昨年『ハイデガー 詩の政治』に先立って刊行された『歴史の詩学』が藤原書店より近刊予定である。楽しみだ。

***


[2003年10月27日]

■注目の新進社会学者による第一論文集が従来の労働論を一新する

魂の労働 ネオリベラリズムの権力論
渋谷望著
\2,200 青土社 四六判 / 293p
ISBN:4-7917-6068-9 発行年月:2003.11

『自由論』(青土社)の酒井隆史らとともに、宮台真司や大澤真幸以後の新世代を代表する社会学者による注目の第一論文集である。1999年から2002年までの三年間に、主に『現代思想』誌を中心に発表された論考八篇――大部分に大幅な加筆修正が施されている――と、書き下ろしの序章と終章を収める。1968年を基点とする政治と文化の転換にともない、現代人の生と労働がどのように変化してきたかを本書はあとづける。著者は、現代社会を特徴づけるポストフォーディズムやネオリベラリズム(新自由主義)の台頭を「新しい権力ゲームの出現」と名づけ、68年以後の新しい社会運動を先導したニューレフト(新左翼=文化左翼)がニューライト(新右翼=新保守主義)になぜ敗北したのかを果敢に問うている。そこでは、カルチュラル・スタディーズの諸成果やフーコーの権力論が、現代社会を特徴づける様々な標語とともに具体例を通じて検証される。前半では、介護やボランティアなどの労働問題、消費社会と貧困層(アンダークラス)、リスク社会と自己責任などが俎上に上り、中段でポスト公民権時代の新たな人種主義や、世代間の不平等による対抗的公共圏の出現を論じ、後半では監視と予防による人民統治や難民問題を焦点にリベラリズムの権力論が展開される。

著者はドゥルーズによる次の言葉を引きながら、市場原理による評価尺度ではなく、自律的なスタイルをもって新たな権力ゲームにおける〈帝国〉的支配への能動的な抵抗を試みることを展望している。「ニーチェが弱者とか奴隷とか呼ぶのは、最も弱いものではなく、その固有の力がどのようなものであれ、自分のなし得ることから分離されている者のことである」(『ニーチェと哲学』国文社)。新しい価値観はアンダーグラウンドでこそ生成し増幅する、と著者は見る。アンダーグラウンドはオーバーグラウンドに対する寄生的で依存的な空間では「ない」。アンダーグラウンドの自律的な空間の膨張によって「卑小なオーバーグラウンドを飲み込むこと」を示唆した終章は情熱に溢れており、ニューレフトの敗北を乗り越えようとする著者の力強い姿勢が見て取れる。著者が読者を感化するのはシニカルな理論においてではなく、まさにこうした、感性に訴える力を認め、解放する場面においてである。ニューライトの跳梁を突き破る新しい感性がここにある。


■国家ではなく、ゆらぎをはらんだ「地域」を通じて世界を見る

リージョナリズム(思考のフロンティア第二期)
丸川哲史著
\1,300 岩波書店 B6判 / 124p
ISBN:4-00-027002-8 発行年月:2003.10

新しい世代のための新しい入門シリーズとして好評だった「思考のフロンティア」第一期に続く待望の〈第二期〉の第一弾である。時代を読み解く上で重要なキーワードをめぐり、新書よりもさらにコンパクトな論述と、巻末の豊富な基本文献案内で、可能な限り平易な言葉で親切に道案内をしてくれる。平易とは言っても、ごくごく初歩的な入門書を予想するような期待は無益である。例えば本書の帯文はこうなる、「無意識化された文化地政学的境界は何によってもたらされるのか。空間認識の再編に向けて、自然化されたリージョナルなものを問う」。まるでわからない? 結構だ。しかし、それがどうしたというのか、あるいはなんとなく雰囲気は分かるかも、というくらいのスタンスがなければ本など読めやしない。娯楽を提供するばかりが書物ではない。わからない言葉は辞書や「現代用語の基礎知識」などで調べればいいや、という姿勢で望んでみれば、案外得ることもある。本書は台湾文学研究や東アジア文化論を専門とし、2000年に第一論文集『台湾、ポストコロニアルの身体』を上梓した若手研究家によるはじめての書き下ろし単行本である。

リージョナリズムとは何か。それは辞書の定義通りに言えば、地域的特質、地方主義、方言などを意味する。しかし本書においてそれは何より「近代世界の秩序形成を再叙述するための、一つの補助線」である。具体的に言えば、国家を単位として世界を見るのではなく、地域や文化圏を通じて世界を見ること、国境ではなく目に見えない文化の壁、その交流と相克、介入のダイナミズムを通じて見ることを、それは示唆する。著者は本書の冒頭でこう述べている、「それ[リージョナリズム]を直感的に言えば、近代的世界を叙述・構成する単位としての国民国家=国家間システムからはみ出さざるを得ない何かであろう」と。

第一部では、ブローデルの地中海論、サミール・アミンの従属理論、カール・シュミットの地政学、アルチュセールの歴史主義批判、サイードのオリエンタリズム研究などを参照し、近代ヨーロッパにおけるリージョナルなものの再編をめぐる諸説を概観する。第二部では東アジア、とりわけ20世紀におけるアジア諸国と日本との係わり合いが論じられ、日本がアジアをいかに表象してきたかをめぐる政治実態が問われる。本書の後半の焦点となるのは竹内好への再評価である。竹内の思想は歴史への参入、つまり、歴史を知り、時を越えて「私たちの中に当事者性を呼び込む実践」において際立っている、と著者は高く評価する。さらに、「近代日本のリージョナルな配置の激変を超えて、アジアという広さの中で責任主体を維持しようとした姿勢においても、[竹内は]特異なポジションを占めていた」とも述べている。昨年(2002年)、竹内による1944年刊行の高名な論文『魯迅』が、鵜飼哲の解説つきで未来社より再刊されたが、アジアにおける日本の政治的位置が内外で強く問われている現在、「竹内リバイバル」はこの『リージョナリズム』の著者が強調するように有意義であるだろう。


■北朝鮮問題は東北アジアへの日本の平和的貢献のチャンスだ

アジアの孤児でいいのか(That's Japan 011)
姜尚中著
\750 ウェイツ A5判 / 126p
ISBN:4-901391-39-9 発行年月:2003.9

シリーズ"That's Japan"は、これまで鳥越俊太郎の『報道は欠陥商品と疑え』や、宮崎学の『こんな国は捨てよう』、宮台真司の『絶望から出発しよう』、重信メイの『中東のゲットーから』など、「各界で活躍する気鋭の人物による〈語り下ろし〉」を読みやすいコンパクトな長さと手頃な価格で提供してきた。編集方針にある、「いわゆる〈日本問題〉をわかりやすく読み解」くという主旨に沿って、これが日本だ(That's Japan)と名づけたのだろうが、そもそもこのシリーズ名はまるでthat's life(人生なんてこんなもの)という絶望の言い換えであるかのように皮肉に響きはしないか。なんてことを思っていたら、帯文には「"絶望"脱出のヒントはThat's Japanにある」という宮台氏の言葉が踊り、裏を見返せば「That's Japanは日本を元気にします」との謳い文句。はあ、そうでございますか。

そうした戦略性の是非はともかくとして、このシリーズは本書にも明らかなように、インタビューという性質によるものか、各著者が書いたものよりいっそう効果的に彼らの思想の核心を引き出すことに成功しているように思われる。在日知識人を代表する一人である姜尚中は90年代には『オリエンタリズムの彼方へ』(岩波書店、1996年)くらいしか目立つ単著が出ていなかったのに、ここ数年、わけても昨年あたりから怒涛の新刊ラッシュであり、近刊予定の宮台真司との対論集『挑発する知』(双風舎)も大いに注目されている。本書のタイトル『アジアの孤児でいいのか』はもちろん反語である。アジアの中で日本が孤立ないし独り善がり(という名の「アメリカへの追従」)の状態のままでいいわけはない、というのが姜の考えだ。アジアにおける日本の役割に対する彼の政治的提言の核心は2001年に刊行された『東北アジア共同の家をめざして』(平凡社)ですでに明らかになっているが、本書ではより具体的なその解説を読むことができる。

「アジア主義を完全に、それこそ「DNA」を変えて蘇生させなければいけない。それが、僕が前から言っている「東北アジア共同の家」という構想なのです。これはもちろん大風呂敷ですが、しかし具体的には日朝交渉がその突破口になると思います。いま私たちのナショナリズムに代わる代替案は何なのかということが問われているのです」と彼は語る。かつて大東亜共栄圏構想などに見られたアジア主義をまったく新しいかたちで組み替えること。「ナショナリズムに代わりうるのは地域主義しかありえない」。一見かなり危うい挑戦にも見えるが、姜はかなり具体的で即効性のある議論の枠を本書で提出している。最優先事項は日朝交渉を成功させ、東北アジアにおける戦争を回避することである。国交正常化を推進し、さらに朝鮮半島と日本が率先して非核地帯をつくることも視野に入っている。大胆なことに(あるいは細心とも言えるかもしれないが)、歴史認識問題の一挙的解決についてはいったん脇におき、まず正常化を政治的経済的に果たして戦争の脅威を回避した上で、段階的に解消していくことを提起している。著者にとって北朝鮮問題は東北アジアの共同的前進のための千載一遇の契機である。賛否はあろうが、彼の「アジア主義」再生論は広く議論されてしかるべきものだろう。


back to the list

Copyrights 2003, Hiroshi Kobayashi. all rights reserved