◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
2003年11月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
[2003年11月3日]
■フロイト読解にコスモポリタニズムの契機を見るサイードの真骨頂
フロイトと非−ヨーロッパ人
エドワード・W.サイード著 長原豊訳
鵜飼哲解説
\1,600 平凡社 四六判 / 163p
ISBN:4-582-70247-3 発行年月:2003.10
2003年9月24日に惜しくも逝去したサイードが生前に刊行した最後の書物となった本書は、フロイトの最晩年作『モーセと一神教』(ちくま学芸文庫)を、パレスチナ=イスラエル問題を解決するヒントを与えるものとして再評価した講演の記録である。講演は一昨年末(2001年12月)、ロンドンのフロイト・ミュージアムにて行われたもの。本書は講演の全文をはじめ、英国精神分析協会のクリストファー・ボラスによるサイード紹介や、英文学研究者ジャクリーヌ・ローズによるサイードへの応答も含んでいる。日本語版ではさらに、『トーテムとタブー』ヘブライ語版へのフロイト自身による序文や、訳者の長原豊によるあとがき「メビウスの環、ゴルディアスの結び目を走らす」のほか、鵜飼哲による解説「フロイトの読者、エドワード・サイード」が併載されている。
唯一神との契約(律法)によってユダヤ教を基礎付けたモーセを、「ユダヤ人ではなくエジプト人」であるとしたフロイトの特異な学説を、サイードは「巨大な和解空間」の存在を示すものとして高く評価する。サイードによれば、ユダヤ教の非-ユダヤ的出自を唱えたフロイトが教えるのは、引き裂かれたアイデンティティがコスモポリタン的意識の母体となりうるということである。これをサイードは、パレスチナ=イスラエルにおけるユダヤ人とアラブ人の敵対関係を解消しうる思想であると捉えている。周知の通り、旧約聖書においてモーセはユダヤ人として描かれているし、ユダヤ教の起源がエジプトにあるというのは定説にはない(もっとも現在ではこの定説は揺るがされつつあるようだ)。ユダヤ人にとってもアラブ人にとっても認めえぬフロイト説を再び取り上げるというのは、実際サイードにしかできない大胆な作業だろう。
ただ、サイードはフロイト説を単に政治利用したいがために援用したのではない。前世紀の聖書考古学はことごとくイスラエルを正当な国家と仕立て上げるべく歴史の「裏書」をしてきたのではないか、という疑問がサイードにはある。ユダヤ人のアイデンティティ意識を強固にするこの「裏書」はしかし、彼にとってはパレスチナ人排斥の正当化でもある。フロイトはユダヤ人であることに誇りを持ってはいたが、信仰心は持っていなかった。ユダヤ教に唯一絶対の真理を独占させることを認めなかったのである。自民族のアイデンティティをめぐるフロイトの異議申し立てと未決定的立場は、フロイト自身が予感していた以上に、こんにちの世界においては示唆的なのだ、とサイードは論じる。「膨大な人口移動、避難民、亡命者、国籍離脱者と移民が氾濫するこの時代において、自分の共同体の内と外の両側に同時に生きる人びとの、ディアスポラな流浪と未決のコスモポリタンな意識」を評価できるのは、サイード自身がそうしたディアスポラ的実体験を経てコスモポリタン的立場を血肉化していったからだろう。
本講演はその数ヵ月後に発表された論文「もうひとつのアメリカ」(『裏切られた民主主義』みすず書房所収)とも響きあっている。アメリカの自由主義がけっして一枚岩的なものではなく、様々なオルタナティブを内包した豊かなものであることに読者の注意を促したこの論文は、『フロイトと非-ヨーロッパ人』において示唆された「もうひとつのパレスチナ=イスラエル」像と深く共鳴するものだ。いや、このふたつのテクストだけではない。サイードの晩年はコスモポリタニズムの探究に貫かれているのではないか。中東における半世紀以上にわたる絶望的政治状況にもかかわらず、サイードは彼なりのコスモポリタニズムの探究を諦めなかった。彼がもし生き長らえていたら、このフロイト論はさらに新たに書き足されていっただろう。その課題は私たち後進に今や託されている。
■人間関係や社会関係が環境保全に影響を及ぼす、という視点
環境(思考のフロンティア)
諸富徹著
\1,300 岩波書店 B6判 / 130p
ISBN:4-00-027003-6 発行年月:2003.10
シリーズ「思考のフロンティア」第二期(全13冊・別冊1)の第一回配本であり、『リージョナリズム』(丸川哲史著)と一緒に発売された本書は、経済学の観点から環境を論じる試みである。著者は財政学と環境経済学を専攻する若手研究家で、著書に『環境税の理論と実際』(有斐閣、2001年)がある。彼が今回の書き下ろし論考で乗り越えようとするのは、従来の自然科学や倫理学がとらえてきた環境観であり、持続可能な発展と環境破壊の相克である。しかしそもそも経済学には、環境保全と経済成長(利潤追求)の相互矛盾を克服する契機などないのではないか。社会、経済、環境がともに持続可能性を満たす手がかりはどこにあるのか。著者は「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」という拡張された資本概念を議論の機軸に据える。
「社会関係資本」は、人文科学と社会科学をまたぐ超領域的な概念であり、90年代後半から識者の間で注目を集めている(その代表的な成果は、ロバート・パットナム著『哲学する民主主義』NTT出版、2001年である)。これは、道路や上下水道などのインフラを意味する「社会資本」とは異なり、個人間や集団間における信頼、規範、ネットワークといった、非物質的な社会的関係性を指す。この社会関係資本が質的に改善され、十分な厚みを持つことこそが、持続可能な発展の基盤となる。平たく言えば、市民の価値意識が向上し、信頼や互恵性が新しい組織やネットワークの形成を促しつつそこで発揮されるようになれば、持続可能な発展を追及するための政策や制度がうまく機能するようになる、と経済学者は見ているのである。
持続可能な発展の指標は、「所得格差を拡げず」、「自然資本(環境)を維持」しつつ、「世代間の福祉水準を一定に保つ」こととされている。単なる経済成長ではなく、社会と環境との不可分な関係性における成長の質が問われているわけである。日常生活では使用されない煩瑣な学術用語が、ともすると手続き的な難解さを連想させるかもしれないが、そんなことはない。主張されているのはごくまっとうな常識だ。社会関係資本が環境に及ぼす影響力を少なく見積もることはもはやできない。ただ結局のところ、信頼や互恵性といった非物質的な無形の資本はいったいどのように改善されるのだろうか。公共政策や財政論がそこに適切な介入をある程度なしうるとして、それ自体の自助的改善においてはある種の形而上学や新たな価値体系の定礎が必要なのだろうか。それとも、信頼や互恵性は工学的操作の対象なのだろうか。著者はそうは短絡してはいない。環境と経済の両立という困難な課題を成し遂げていくために、著者にはこの非物質的な無形の資本というやっかいな(ある意味「便利」な)概念をめぐるさらなる議論の進展が期待されるだろう。
■先進諸国の利権と画一的価値観が地域環境を崩壊させる元凶だ
生物多様性の危機
精神のモノカルチャー(明石ライブラリー 53)
ヴァンダナ・シヴァ著 戸田清訳 鶴田由紀訳
\2,800 明石書店 四六判 / 233p
ISBN:4-7503-1782-9 発行年月:2003.9
副題にある「精神のモノカルチャー」が原題。原著は英米で1993年に刊行され、日本語訳は1997年に三一書房から出版された。本書はその改訳版である。モノカルチャーとは原義では「単一栽培」、つまり一種類の作物だけを栽培する農業のことを指す。では「精神のモノカルチャー」とはいったい何のことだろうか。シヴァはこう述べている。「支配的な科学知識は、他方のオルタナティブなシステムの存在する空間を奪い去り、精神のモノカルチャーを生み出す。単一植物品種の導入が、ローカルな多様性に取って代わり、多様性を崩壊させるのと同じように。支配的知識体系は、オルタナティブなシステムの存続条件そのものをも破壊する。モノカルチャーの導入によって、多様な生物種の存続条件が破壊されるのと同じように」。端的に言えば、精神のモノカルチャーとは、画一的な貧しい精神の謂いであり、多様性の否定である。
この貧しさは実のところ逆説的である。と言うのも、モノカルチャーはもともと、食糧や燃料材などの不足と欠乏を克服するために行われてきたものだからだ。貧しさを克服するための行為が、思いがけない別の貧しさを招来する。モノカルチャーによる森林破壊、環境破壊の具体例を挙げながら、人間理性の愚かしさと悲劇を、シヴァは私たちに教える。実際、モノカルチャーによる在来種の整理と自然環境の人為的コントロールは、不安定で持続不可能なシステムだ、と彼女は指摘する。本書は平凡な自然回帰を提唱するものではない。生物多様性の固有な価値が地域社会に与える豊かさを正確に評価すること。グローバリゼーションによる地域社会の均質化や、バイオテクノロジーによる作物の遺伝子的均質化の危機に果敢な抵抗を試みること。政治的詐術を見逃さない鋭い眼差しがそこにはある。
「自然の中の生きた多様性は、文化の中の生きた多様性に対応している。自然と文化の多様性は、富の源泉であり、代替案の源泉である」。本書には5編の論考が収められているが、その最後は、1992年に地球サミットにおいて調印された生物多様性条約をめぐる、批判的考察となっている。条約には、地域社会の主権への配慮や、バイオテクノロジーが生み出す利権を制御するための配慮が欠けている、とシヴァは指摘する。そこでは先進諸国なかんずくアメリカの利益のみが保証され、第三世界の権利は切って捨てられている。さらに嘆かわしいことにアメリカは条約からさんざん譲歩を引き出した挙句、それでもまだ飽きたらず、条約を批准していないごく少数の例外国のひとつに今なお留まっている(ちなみに日本は批准している)。むろん、アメリカのこうした独善主義は珍しいことではないけれど、当時の地球サミットにおいて「条約は内容が不十分だ」と倣岸に言ってのけたのが、ブッシュ第41代大統領――つまり現在の第43代大統領ブッシュ・ジュニアの父だったというのは、いささかうんざりするエピソードである。巡り巡って、今度はジュニアがかの京都議定書に反対したわけだ。
明石書店は現在、シヴァの『盗まれた収穫』(1999年)や『保護か収奪か』(2001年)の日本語版を準備中であるとのこと。楽しみである。
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[2003年11月11日]
■自分自身の中にある「マイノリティ・リポート」を反故にするな
ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか
金森修著 日本放送出版協会
本体1000円 19cm 110p (シリーズ・哲学のエッセンス
)
4-14-009308-0 / 2003.09
フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859-1941)を読もうとして挫折した人は多いのではなかろうか。例えば、本書でも取り上げられている『物質と記憶』(白水社)。ひさしぶりの新訳が1995年に駿河台出版社から発売されて以来、書店でよく売れているのだけれど、その難解すぎる内容は『創造的進化』(岩波文庫)にある著名な「エラン・ヴィタール(生の跳躍)」という用語を聞きかじったくらいの初心者には辛いものがあった。これは哲学じゃなくて脳生理学なのでは。異様な文章の連なりが一冊の本になって堂々と店頭に並び、さらにはそれが売れるなんて。ところで本書巻末の読書案内にはこうきっぱり書かれている、「とくに『物質と記憶』から[ベルクソンを読み]始めるなどというような失策は、犯さないように。まず間違いなく途中で挫折するだろう」。また、本文中にはこうも書いてある、「一八九六年に出版された『物質と記憶』は、おそらくベルクソンが書いた本のなかでも最も難しいものだろう。ベルクソンを嫌いになりたければ、まずこれから読めばよい。常識離れをした考え方がどんどん出てくるので、ひょっとすると、かえって好きになる人もいるかもしれないが……」。
本書の著者は『フランス化学認識論の系譜』(勁草書房)や『サイエンス・ウォーズ』(東京大学出版会)などで知られる科学思想史家。科学と哲学の境界領域を解説してもらうにはうってつけのスペシャリストだ。その適任者がかなり苦労して書いたのがこの入門書である。「純粋持続」「純粋知覚」「純粋記憶」といったベルクソン哲学特有のキーワードを取り上げ、簡潔に解説している。少ない紙数でベルクソン哲学の核を語るためには「いけばな」のように対象をバッサリと裁断する機転がなくてはならない。本書ではその工夫が凝らされている。ベルクソンを読もうとしてついに数行数頁しか読めなかった読者には大きなプレゼントだ。とはいえ、本書とて初心者の手を取り足を取り一歩ずつこちらの歩みを確認するようにして書かれてあるわけではない。入門書と言ってもそこにすべての説明を求めるのは無理な話だ。入門書を読むコツは、たとえそのままでは飲み込めない部分があっても、とりあえず分かったふりをして最後まで一通り読んでしまうこと。本書でもベルクソンの言う「持続」がそもそも何なのか、そこで引っかかってしまうと、もう読み進めなくなる。気にしない気にしない。日常で使われている意味とは違うみたいだ、という程度の理解で進んだ方が、いずれ見えてくるものがある。
本書は『時間と自由』(岩波文庫、ちくま学芸文庫[『意識に直接与えられたものについての試論』])の第二章に焦点にあて、後半で『物質と記憶』も取り上げつつ解説している。時計で測れる物理的な時間とは違う、自分自身が感じている時間の進み方(同じ一時間でも長かったり短かったり感じるのはごく普通のことだ)にベルクソンが注目していることがまず述べられる。本書の著者よりさらに単純化して理解すると(入門書の書き手よりもさらに単純化して理解するのが、入門書を読む第二のコツだろう)、こうした「内的時間」の正体がベルクソンの言う「純粋持続」である。この純粋持続の積み重ねによって蓄積されていくのが「純粋記憶」で、これは人間が生きていく上でその都度拠り所として引き出していく「経験」という膨大な情報の集積の別名だ。この純粋記憶に瞬間ごとに支えられながら、現実世界に対応していく活動が「知覚」と呼ばれるが、これは世界そのものをあるがままに受け取る「純粋知覚」とは異なる。人間はこの純粋知覚には至りつかず、つねに記憶に押し流されて生きている。過去が人間の行動を左右しているのである。
著者はしかし、ベルクソンが教えたのは「人間は過去の奴隷である」ということなのではない、と述べる。純粋記憶は様々な可能性で人間の「現在」を豊かに彩ることもできる。人間は全能ではないけれど、可能性は持っている。著者がいみじくも参照しているように、SF作家のフィリップ・K・ディックの作品に譬えて言えば、純粋記憶の中には「マイノリティ・リポート」すなわち「別の未来」をつくりだす可能性も含まれているわけだ。現代科学の見地からすればベルクソン哲学はすでに古めかしいものなのかもしれないが、一概にそうは断定できない面白さがあると、本書は教えてくれる。読者は本書から出発して、ベルクソンへ、そしてその先のドゥルーズ哲学へと楽しみながら歩みを進めていけるだろう。
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[2003年11月17日]
■西洋風近代化による植民地主義的支配を粉砕するための情熱と倫理
イスラーム統治論・大ジハード論
R.M.ホメイニー著 富田健次編訳
\3,200 平凡社 四六判 / 357p
ISBN:4-582-73916-4 発行年月:2003.10
長すぎる〈緊迫した季節〉がいっこうに緩和しそうにない気配の中東問題が、日本人にとって身近に感じられるようになったのは、〈9.11〉以後のテロの恐怖によるものだろうか。中東地域については石油の原産国が集中する場所、という以上の知識を多くの日本人は今も持っていないかもしれない。同じような薄っぺらい認識はほかにもあって、イスラーム教が、テロさえ辞さない原理主義的な宗教と見られがちであることはその好例だろう。要するに知識不足なのである。イラン革命の指導者であるホメイニー(1902-1989)の名は新聞やニュース番組で見聞きしてきたが、1980年に二冊の著書が邦訳されていたことはもう忘れ去られてしまっているだろう(『ホメイニ わが闘争宣言』清水学訳、ダイヤモンド社)、『わが革命 イスラム政府への道』共同通信社訳、共同通信社)。いずれも残念ながら絶版である。今回日本語訳されたのは、前二著の実践的政治論よりももっと理論的な成果であり、イスラム教シーア派の神学的法学の要諦にしてイラン革命の聖典であるところの、「イスラーム統治論」だ。ペルシア語原典からホメイニーの著書が翻訳されるのははじめてのことである。
イラン革命とは何か。それは1979年2月におきた、反国王、反体制の革命であり、これによって、近代化政策を推進していたパフラヴィー王朝が打倒された。近代化政策とは実際、アメリカ随従型の西洋化政策=脱イスラム化政策であり、ホメイニーらの反体制勢力は、アメリカではなくイスラームの価値観を基調とした国づくりを目指していたのだった。「神よ、抑圧者たちの手をムスリムたちの国々から取り払われよ。イスラームとイスラーム諸国に対する背信者たちを根絶されよ。イスラーム諸政府の長たちを深い夢から目覚めさせ、もって民の公益のために尽力し、個人的な利益の追求と不和分解から手を引かしめよ……」。「イスラーム統治論」はその名の通り、唯一神アッラーへの絶対的帰依を意味する「イスラーム」に基づく国家統治を論じたものだ。クルアーン(コーラン)や中東史について多少は知っていないと読み解くのが難しいかもしれないが、要点はつまり、「イスラーム法学者による統治と指導(ヴェラーヤテ・ファキーフ)」にある。法学者は預言者ムハンマドに信頼されている人々である、とされる。法学者はイスラームの価値観を厳護する存在となるのである。
補足しておくと、こうした明確なイスラーム主義に対抗したいアメリカは、イラクが革命後のイランに侵攻し、これがイラン・イラク戦争に発展する間、イラクを支援し続けた。1988年に戦争が終結し、イラクが今度はクウェートに侵攻すると、アメリカをはじめとする多国籍軍はイラクに攻撃を仕掛ける。1991年の湾岸戦争である。そのさらに十年後にサダム・フセインの身に何が起きたのかは周知の通りだ。
イスラーム特有の集団意識が西洋の個人主義と相容れない部分があるのは明確ではあるが、「イスラーム統治論」に通底する信仰の倫理と飽くなき政治闘争への意志は、単に「原理主義的」などと読み違えるべきではない。本書はいくらでもそのように意地悪に読むことができるし、彼らの信仰が実際日本人にとっては馴染みが薄いことも確かだ。本書には「大ジハード論」という小さめの論考も併載されているが、これはイスラームの倫理観の一端を表している好著である。ジハードは日本ではもっぱら反イスラーム勢力への「聖戦」を意味するものと考えられてしまっているが、一歩踏み込んで勉強してみると、ジハードには大ジハードと小ジハードがあることが分かる。対外戦争としてのジハードは後者、小ジハードのことであり、大ジハードとは自己との闘い、信仰によって自身の内面を高めることを意味する。この論考でホメイニーは、ヴァチカンがワシントンの一人の司祭に送る資金がシーア派全体の予算額よりも大きいことを指摘しながら、イスラーム教徒同士が一致団結せずにいる場合ではないことを説く。それは、金銭よりもそうした内面の問題の方がはるかに重要であることを言わんとするものだろう。素朴だが、説得力がある。
巻末には訳者による長編解説二編「ホメイニーの思想と現代」「十二イマーム・シーア派法学の展開とホメイニー」が付されており、本書の基本的背景が分かる。財布に余裕のある読者は、『新イスラム事典』(平凡社)か『岩波 イスラーム辞典』(岩波書店)を手元に置いておくことをお奨めしたい。
■イスラーム法解釈の閉鎖性という偏見に反駁する画期的論文集
イジュティハードの門は閉じたのか
イスラーム法の歴史と理論
ワーイル・ハッラーク著 奥田敦編訳
\4,800 慶応義塾大学出版会 四六判 /
444,15p
ISBN:4-7664-1004-1 発行年月:2003.9
イスラーム法学研究の世界的権威による画期的論文集。どこが画期的なのかというと、「イジュティハードの門は閉じていなかった」ということ実証的に示した点である。そもそも「イジュティハード」とは何か。その門が閉じているないし閉じていないというのはどのような議論なのか。イスラーム法学研究の立場では、「イジュティハード」とは、法学者がウスール・アル=フィクフ(法解釈の方法)の原理や原則を自家薬籠中のものとして発揮し、法的見解を得ようとする営為のことである。そして、「イジュティハードの門の閉鎖」説とは、イスラーム法をめぐる議論が西暦九世紀の終わり頃には出尽くし、解釈上の問題が最終的に解決された、とする立場のことだ。それはつまり、権威ある法学者といえども自分の裁量で、独自の法解釈の探究をなしうることはもはやない、という主張である。ましてや一般信徒が勝手な解釈をすることは許されず、法解釈の先例をなぞる学者の説明に従うこと(タクリード)が要請されたのだ。
こうした「イジュティハードの門の閉鎖」や解釈における絶対服従は、西洋社会にはイスラーム法の「後進性」や頑迷さとしてしばしば映ってきたと言えるかもしれない。そうした偏見を覆す歴史的論証として、著者はイジュティハードがイスラーム史全体を通じて実は継続してきたのだということを豊富な資料をもちいて証明している。イジュティハードの門は閉じてはおらず、各時代において、実定法や法理論、司法制度の発展が実際には行われていた。イスラーム法は柔軟にその時代ごとの解釈と適用を許容してきたのである。神学と法学にまたがる解釈の歴史、もしくは法制史をめぐる研究というきわめて専門的な知見のもとに書かれている論考ではあるが、著者自身が日本語版の序文(「著者まえがき」)で述べている通り、本書は「イスラームとイスラーム法についての西側の言説を覆し、是正しようという長大な学問的取り組み」の一端となっている。訳者が本書を「オリエンタリズム批判」の実践であると説明しているのはこうした著者の言葉を受けてのことだろう(誤解のないように言えば、本書にサイードの『オリエンタリズム』との直接的関連性はない)。ハッラーク(1955-)の著書が日本語訳されるのはこれが初めてだが、イスラーム社会に対する偏見をただすためには本書は欠かせない成果と言えるだろう。
■進歩幻想とその幻想を砕く偶像破壊とが〈9.11〉を読み解く鍵だ
自殺へ向かう世界
ポール・ヴィリリオ著 青山勝訳 多賀健太郎訳
\1,900 NTT出版 四六判 / 157p
ISBN:4-7571-4053-3 発行年月:2003.10
米国同時多発テロ事件〈9.11〉の一ヵ月後に完成した原稿が書籍化されたのが、翌年の2002年。その本が、港千尋による序文つきで早くも翻訳された。本書はいわゆる〈9.11〉論ではない。〈9.11〉はヴィリリオが予期していたもののひとつだった(「予測が的中して残念だ」、『発言』中山元編訳、朝日出版社、2002年)が、予期していたのはそれだけではない。本書は原題「これから起きようとしていること」が示す通り、すでに私たちの世界に到来しつつある未来の実像を捉えようとしたエッセイである。日本語題が「自殺へ向かう世界」となっているのは本書の要点をついている。SF作家ウェルズの最晩年の言葉を引きながら、ヴィリリオは、進歩が人間に追いつき、追い越し、もはや人間の方が進歩に追いつけなくなった現代世界に警鐘を鳴らしている。「〈速度の歴史〉はますます加速している。それは、もはや《ユートピア》ではなく人間的時間を欠いた《ユークロニア》に向かってさらに速度を上げながら突進している」。
進歩幻想や技術信仰に対し、彼はそれらの本質を露呈させる「事故」に注目することを促す。〈9.11〉を、進歩幻想を砕く偶像破壊の観点から読み解くのである。本書原題と同名の展覧会が昨年(2002年)晩秋から今春にかけてパリで開催されたが、そこでも彼の「事故の博物館」構想が垣間見える(季刊『InterCommunication』No.44の特集ページを参照)。進歩幻想や科学信仰は、マスメディアのとどまるところを知らない肥大化や通信技術網への人間の埋没によって、さらに悲劇的な様相を呈する。善悪の彼岸に達した人類の明日はさらにいっそう災厄的でありうる。いつにも増して暗いトーンを本書は帯びており、切迫感が「瞬間移動的」(港千尋)な素早い展開の文体から伝わってくる。ヴィリリオの憂慮を等閑視してはいずれ手痛いしっぺがえしを私たちは受けることになるだろう。七つの大罪(強欲、憎悪、暴力、嫉妬、大食、姦淫、殺人)こそが現代の行動指針になりつつあると喝破するあたり、クリスチャンらしい発言という以上に、図星をついた鋭い分析であると言えるだろう。
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[2003年11月25日]
■「サウンド・エコロジー」の長大な文明論的射程に驚嘆すべし
音と文明――音の環境学ことはじめ
大橋力著 岩波書店 四六判・上製・カバー・600頁
4,400円 2003年10月28日発売 ISBN4-00-022367-4 C0040
人間の生存に必要な音、とは何だろうか。カラダにビタミンなどの栄養素が必要なように、私たち人間が生きていくうえで必要な音というのがあるのだろうか。科学的データを駆使して著者がたどり着いた結論によれば、「それはある」。「人類には、その遺伝子に約束された理想の音環境が生得的かつ普遍的に定められている」というのが本書の立場だ。日がな騒音に包囲されつづけている現代人の生活を、文明全体の視点から根本的に見直させる、瞠目すべき快著である。
著者の名前を知らない方もいるかもしれないが、彼が音楽監督をつとめたアニメ映画『AKIRA』のことはご存知だろうし、民族音楽が好きな方は、彼が主宰する芸能山城組による、バリ島の「ケチャ」の上演会を聴いたことがあるかもしれない。「情報環境学」の提唱者であり、「ハイパーソニック・エフェクト」という、可聴域をこえる高周波を含む音の生理的心理的効果の発見者として海外でも知られている。
本書は「音楽」や「音」に鋭い感性で取り組みつづけてきた実践的研究家によるライフワークともいえる大著であり、「音の環境学(サウンド・エコロジー)」をめぐる周到な序説である。本書では環境において存在する音が三種類に分別して捉えられている。すなわち、必須音、効果音、侵害音である。必須音というのが先に述べた「人間の生存に必要な音」のことで、侵害音とはその正反対の、人間の生存に害を及ぼす音である。効果音というのは「何らかのポジティブな効果を発揮しうる音」で、「ハイパーソニック・エフェクト」の発見はこの領域に属する。
音が脳に及ぼす影響を科学的に検証した上で得られた知見には非常に興味深いものがある。ガムラン音楽がなぜ恍惚状態を惹起するのかが実証されるが、ガムランの音は上記の分類から言えば効果音である。著者によれば音楽とはつまり、「マクロな時間領域では遺伝子と文化によりコード化された特異的に持続する情報構造をとり、ミクロな時間領域では連続して変容する非定常な情報構造をとり、脳の聴覚系および報酬系を活性化する効果をもった人工的な音のシステム」である。
必須音の原型といえる熱帯雨林の音環境と、侵害音の最たるものである都心の騒音環境は対極的であり、史上もっともうるさい社会に生きる現代人の生は、環境に適応しきれない「自己解体モード」のもとにあると分析される。文明の転換は音環境の転換によって始まると見ている著者は、本書で積極的な音環境デザインを提唱し、博覧会等での実験例や、先月(2003年10月)にプロトタイプが完成したばかりだという「ハイパーソニック・オルゴール」などの具体例をかかげて、その理想型を説明している。京都大学総長の長尾眞氏が推薦文で述べている通り、「広く人間と文化の本質に関心を持つ人々に、必読の書としてお薦め」できる本である。
併読書として、中村雄二郎『かたちのオディッセイ』(岩波書店)、ベーレント『世界は音』(人文書院)、シェーファー『世界の調律』(平凡社)、ゴドウィン『星界の音楽』(工作舎)、アタリ『ノイズ』(みすず書房)をお薦めしたい。いずれも、読者の世界観を一変させるかもしれない素晴らしい音楽思想(広義の)だ。
■フランス・バロックの音楽世界の豊穣さを軽妙に解説した好著
バロック音楽はなぜ癒すのか 現代によみがえる心身音楽
竹下節子著 音楽之友社
本体1600円 20cm 211 3p
4-276-21004-6 / 2003.11
心身まるごとの気持ちよさを追究した「一種の人間科学」、それがバロック音楽だ、と著者は言う。本書は、宗教文化論関連の書物を多数ものしているフランス在住の研究者による妙味あるエッセイであり、バロック音楽との出会いの体験談から始まり、クラシック・ギターによるバロック音楽アンサンブル「トリオ・ニテティス」結成までの様々な興味深いエピソードを綴ったのち、イタリア系ともドイツ系とも異なるフランス・バロックの神秘主義的特色や、バロック音楽が有する心身統合技術を生かしたセラピーについて解説している。
フランスにおけるバロック音楽は、17世紀中盤から18世紀中葉にかけて、ラモーやミオンらによってそのもっとも洗練された形態に達した。その技法と根本思想は、「体と心をつなぎ、生命を機動させ味わう理論と実践」であり、「肉体の気持ちよさを知的に引き出す喜びの追究」である、と著者は説明する。それは単なる自然回帰主義ではない人為的な「自然の再構成」であり、フランス革命前夜の個人主義と普遍主義とのバランスが貴族文化による洗練の中で保たれていた。こうしたバロック音楽の美学はルソーによって徹底的に批判され、やがて革命へと結実する文化的変容によって衰退する。
こんにちバロック音楽がリバイバル期にあるのは、近代以後の西欧において見失われた音楽の身体感覚が再注目を浴びているからではないかと著者は見ている。本書の後半はいわゆる音楽療法の解説というよりは、フランスのバロック音楽に埋め込まれている卓抜な身体論、心身論の説明にもなっていて、ルネサンス文化の一帰結を垣間見ることができる。バッハやヴィヴァルディとは違う「バロック」がフランスに芽吹いた背景となる、文化的、政治的、宗教的事情が、この心身論の観点から言及される。東洋の整体術にも通ずる心身音楽としてのバロック音楽の再評価の現代的意義は、著者が「小さな共同体の小さな物語」にぴったりの身体の中で閉塞を余儀なくされていると的確に分析したポスト・モダンの身体感覚との対比において、非常に対照的である。
とくに、第三章「心身音楽を取り戻す」で言及されている、西洋的整体術である理学療法「キネジテラピー」の音楽における応用は、今後ますます注目されるだろう。紹介されているロジナ・ゾンネンシュミット(Rosina
Sonnenschmidt, 1947-)らによる『ストレスなしに弾く歓び』や『キネジオロジーと音楽』は未訳だが大いに興味をそそる。このほか、本書で取り上げられている書物の中で特筆すべきなのは、フランスのバロック音楽についてより詳細に知ることができるゴドウィンの『音楽のエゾテリズム』工作舎や、著者も絶賛している佐野清彦による『音の文化誌――東西比較文化考〔増補版〕』雄山閣出版である。
■精神医学と音楽学、そして生命論を結ぶ、「臨床音楽学」序説
精神の病いと音楽
スキゾフレニア・生命・自然(広済堂ライブラリー
023)
阪上正巳著 \1,600 広済堂出版 B6判 / 215p
ISBN:4-331-85022-6 発行年月:2003.11
精神医学と音楽療法のエキスパートである著者は、本書で統合失調症(精神分裂病/スキゾフレニア)を病む人々への音楽療法の実例分析を通じて、新たな学問領域「臨床音楽学」を探査しようと試みている。「病理を音楽で考える」というユニークな視点を掲げており、「人間と音楽との複雑な関係性を探究する科学の一分野」へのステップとなっている。本書には様々なジャンルのキーワードやキーパーソンが次々と出てくる。統合失調症にはじまり、表現病理、ケージ、ウェーベルン、原植物、ノンヒューマン環境論、アニミズム、境界的時間、此性、ドゥルーズ、オートポイエーシス、等々というように。しかしどれも強引に引っ張られてきたものではない。そこには一本の糸、「臨床音楽学」がある。
著者自身は耳慣れない言葉が多すぎるのではないかと心配しているが、そんなことはない。高度なレベルの議論水準を保ちながら、エッセイとしても優れていることは特筆すべきだろう。豊富な症例に基づく知見は、抽象的な概念の頻出にも関わらず、けっして空論には陥っていない。めったにない非常に刺激的で啓発的な書物である。四章構成で、まず第一章では、統合失調症者への音楽療法の実践例が紹介される。著者自身が実践してきた、統合失調症者による即興演奏の臨床例のほか、ペテ、パーラー、ヤディ、村井靖児などによる実験報告が、病者と音楽との絶妙なかかわりあいを読者に教えてくれる。従来は障害やら不全やら欠損といった言葉でしか語られなかった病態を、著者は音楽療法の視点から積極的に捉え直そうとしている。
第二章では、病者の音楽表現を、精神病理学の観点から深く分析していく。ケージやウェーベルンの音楽もここで引き合いに出されるが、特に後者のミニマリズム音楽の分析は興味深い。著者はウェーベルンの破天荒な人生を振り返りながら、統合失調症との関連性を論じる。ゲーテの「原植物」論がウェーベルンのミニマリズムに影響を与えたという事実は、たいへん面白い。モルフォロジー(形態学)の歴史から見ても示唆的な例だろう。第三章は本書の山場とも言える感動的な一章で、チェリストして作曲家の丹野修一氏による35年におよぶ「合奏療法」の実践を紹介している。参加は容易だが、高度に美的なセッションがただちに可能になる丹野氏の合奏システムは、音楽療法だけでなく、広く教育一般に適用できるものだが、これによって演奏者は「自身の内的世界を増幅して表出することが容易」になる。こうした「表現」方法が、こころの病を徐々に癒すきっかけになるのだ。
第四章では丹野氏の合奏療法から学んだ要諦である、音楽療法における美的次元の意義がより詳細に議論される。エイギン、ブルーシア、ケニー、グローテアス、ルードらの音楽療法論が的確に援用され、さらに日本の精神医学者も参照される。すなわち木村敏の「イントラ・フェストゥム的時間構造」や、花村誠一の「ジェオ即イコノトロープな記号過程」など。また、ドゥルーズ/ガタリの「生成変化」論や河本英夫の「オートポイエーシス」理論も存分に活用していく。全面書き下ろしであるこの最終章は著者の「臨床音楽学」のイントロとなる要素がもっとも端的に表われており、非常に理論的ではあるが、基礎付けの試みと展望を垣間見せる重要なテクストである。おそらく「臨床音楽学」の基礎は生命論的アプローチを必要とすることになるだろうが、それは今後のお楽しみといったところだ。小著にもかかわらず破綻なく要点が押さえられており、音楽療法の思想的基礎に迫るすぐれた入門編ともなっている。
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