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Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics.  by Hiroshi Kobayashi


2003年12月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。

[2003年12月1日]

■古今の思想的名著を、強烈に個性的なコメントを付して紹介

世界を変えた100冊の本
マーティン・セイモア=スミス著 BEC訳 別宮貞徳訳
\3,200 共同通信社 四六判 / 544,13p
ISBN:4-7641-0529-2 発行年月:2003.12

原題は「これまでに書かれた、もっとも影響力のある本100冊」である。原著刊行は1998年で、「100」シリーズの一冊として英米で刊行された。シリーズにはほかに、人物編や映画編などがある。日本語題を「世界を変えた〜」としたのはいささか誇張のようにも思えるが、著者の意図からはずれているわけではない。序文には「ここに掲げた100冊は、ときに遠回りではなはだ目に触れにくい経過だったとはいえ、人類の思想に――もちろん、ひいては様々な行動にも――まぎれもなく大きな影響力を、現実に行使した書物である」と書いている。影響力がある、というのは、有名であるかどうかや面白いかどうかという価値基準とは別の尺度で量られるものだ。そう著者は考えている。

イギリスの文芸批評家として紹介されているが、彼は詩人でもある。本書には明記されていないが1928年生まれ。検索エンジンに引っかかる彼のものらしい顔写真を見ると、いかにも偏屈そうな親父である。本書を読めばその偏屈ぶりははっきりわかる。訳者代表の別宮氏は「読んで頭に血の上る人もいれば、溜飲を下げる人もいるだろう。物議を醸すこと、まずまちがいない」と述べ、「とにかく口が悪くて皮肉がきつい」著者の文章に「思わず噴き出してしまうこともしばしば」だったと告白している。

本書では文学作品よりも哲学や思想書に重きが置かれているのだが、たしかに口の悪さには苦笑を禁じえない。著者は時として失笑を買うことすら辞さない構えだ。『告白』が取り上げられているルソーは「この支離滅裂で喧嘩っぱやいスイス人の利己的自己中心主義者」とのっけから叩かれ、『精神現象学』へのコメントでヘーゲルは「言語を絶するほどひどい人物」であるとされる。請け合っておくが、ヘーゲルについての描写は本書の中でもっとも凄惨な部類に入る。カントやショーペンハウアーへの賛辞とは対照的だ。ヘーゲリアンにとってはまさに「買ってはならない」本である。

恣意的な舌鋒の犠牲になっているのはヘーゲルだけではない。『キリスト教綱要』のカルヴァンはほとんどファシスト扱いだし、著書が取り上げられているわけではないが、ハイデガーも「ナチスの大嘘つき」呼ばわりである。このほかにも奇抜な発言がある。『旧約聖書』へのコメントでは、イエスはグノーシス主義者だとされる。もともと著者はグノーシス主義を好んでいて、それにかんする著書すらあるのだが、本書では広義のスピリチュアリズムや神秘主義には総じて好意的で、『我と汝』のブーバーや『ベルゼバブの孫への伝言』のグルジェフへの好評もさることながら、『哲学探究』の
ウィトゲンシュタインや『プラグマティズム』のジェイムズ、『存在と無』のサルトルに、グノーシス的もしくは神秘家的側面を見いだすあたりは、やはり独特である。

著者に神秘主義的傾向へのこだわりがあるからと言って、その意見のすべてが風変わりなわけではない。例えば、『世界の調和』の天文学者ケプラーや『プリンキピア』のニュートンらの科学的業績は、彼らの宗教的信念や神秘主義的傾向から完全に切り離せるものではない、と述べているが、これは科学思想史においても実証されていることだ。また、『新しい学』のヴィーコの思想が現代の人文科学に通じる多層的な豊穣さを持ち合わせている、と高く評価しているのは、近年のヴィーコ再評価と軌を一にしている。ちなみに同時代人にかんしては、例えば同い年のチョムスキーに対しては好意的だが、反面、二歳年下のデリダのことは酷評しており、さもありなんといったところだ。本書は全訳ではなく、約半分の45編が要約にもかかわらず500頁以上の大著である。その強烈な個性に惹かれて、全訳を読んでみたくなるかもしれない。


■物質文明から霊的次元に上昇する道筋を丁寧に解説した名講義

シュタイナー・コレクション 3 照応する宇宙
ルドルフ・シュタイナー著 高橋巌訳
\2,400 筑摩書房 新書 / 394p
ISBN:4-480-79073-X 発行年月:2003.10

高橋巌訳選集全7巻の第3回配本、第3巻である。1910年3月21日から31日までの11日間にわたる、ウィーンでの連続講義「マクロコスモスとミクロコスモス――魂、生命、霊の本質を問う」の記録を収録している。初の日本語訳だ。連続講義の導入となる、別の二つの公開講演「死の本質と人間の運命の謎」(3月17日)および「感性界、魂界、霊界を巡る輪廻の諸相」(3月19日)のうち、記録の残っている後者が本書に併録されている。『神秘学概論』が刊行された翌年のこの講義は、シュタイナーによる霊学概論だと言える。

「この連続講義は、人生で遭遇するさまざまな謎を、霊学の観点から解明しようとする試みです」とシュタイナーは冒頭で語りかける。謎とは、小宇宙(ミクロコスモス)としての人間と、大宇宙(マクロコスモス)との連環ををめぐる問いの根底に横たわる、現代人がもはや感知することのできなくなった真理のことである。人間は小宇宙と大宇宙を交互に生きている、とシュタイナーは述べる。人間は「朝になると、小宇宙の中に入っていきます。睡眠中の私たちは大宇宙の中に注ぎ込まれています」。大宇宙とのつながりにおいてのみ人間は理解できる、とするのがシュタイナーの思想体系の根本的認識である。

この根本認識は、頭で理解すればいいものではなく、こころで行うものだ。こころは認識の障害にもなるが、認識を導くのもこころなのだ。霊学がめざす現代の課題はここに的を絞られる。「思考という廻り道を通って、ふたたび感情を高揚させる」という課題。認識を豊かにするだけでなく、魂を熱くすることが重要であるとされる。魂を熱くすること、それは人類愛に目覚めることであり、ひとを愛することだ。シュタイナーにおいて、見神と献身は一致する。悟りは個人を益するだけのものではなく、人類全体を潤し活気づける、開かれた境位である。ひととひとを結びつけるものへのシュタイナーのまなざしには学ぶべきものが多い。

約百年前の講演だが、シュタイナーがかつて社会に見たものはこんにちも変わりなく続いている現実である。「今日の社会の人間関係は、まるでばらばらに切り離されているかのようです。事務所や工房や工場の中で、似た仕事に従事している人びとの魂は、なんと互いに離れ離れになっていることでしょう。隣合せに席に着いていても、生活状況があまりに複雑化してしまった結果、互いに理解し合えずにいるのです」。霊学や神智学の貢献は、こうした分断を結合へと導くことにある。「人びとの間で同じ理想の火が点されて、共通の聖なる理想が担い合えたとき、友愛が現実のものとなるのです」。

シュタイナーの講義プログラムは宗教的情熱と教育的理知を具有している。これは彼がキリスト教とは別の宗教を作ろうとしたわけではないことにも起因する。彼の教説は科学の言説から大きくはみ出るものだが、だからと言ってナンセンスだということにはならない。彼が選択した他なる言説は、彼自身が述べているように、魂に向かって語りかけ、感情を解放する意図によって紡ぎだされたものだ。こんにちもなお、こうしたプログラムは洗脳であるとか宗教的アナーキズムだとして貶められ得る。しかしそんなことではシュタイナーの本質はつかめやしない。傲慢な科学主義からでも、手垢のついた神秘主義からでもない新しい読解が待ち望まれている。

巻末の訳者解説「シュタイナーの宇宙思想」は、シュタイナーの神智学と華厳経典の照応関係を示唆するもので、非常に興味深い。近年、石井恭二や森本和夫らの貢献によって新しい読解が進みつつある道元の『正法眼蔵』も引き合いに出されているが、こうした比較研究は深層心理ならぬ深層思考へのダイブを促すもので、そうした過程の中で、例えばフランスの人類学者ルジャンドルが西洋文明の根底に見据えている「ドグマ」に対応するような地層への新しい角度からの批判的接近も可能になるかもしれない。


■リスク社会とは、反省的近代化とは何か。ベック理論の優れた入門書

世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊
ウルリッヒ・ベック著 島村賢一訳
\1,800 平凡社 四六判 / 177p
ISBN:4-582-45220-5 発行年月:2003.11

現代ドイツを代表する社会学者の一人であるウルリッヒ・ベックの講演二本を収める。一本目「言葉が失われるとき――テロと戦争について」は2001年11月のモスクワにおける国会講演であり、もう一本の「世界リスク社会、世界公共性、グローバルなサブ政治」は1996年5月23日のウィーン旧市役所における講演である。「9.11」以後の世界はアメリカ中心の「反テロ」行動によって安全になったのか。それは疑わしいと著者は見る。むしろ、世界全体が危機的な情況に陥っている、と。著者はそれを「世界リスク社会」と呼ぶ。そこにはテロの恐怖だけでなく、環境問題や金融危機も含まれている。

「9.11」以後、アメリカの対外政策が独善的な、一国主義(ユニラテラリズム)的な仕方で進んでいることを、多くの世界市民は見てきた。しかしベックの見方は少し違う。アメリカが独善的であることは確かだが、世界リスク社会においてはアメリカの一国主義はすでに挫折している、と見ているのだ。ここからベックの議論は独自の道を歩む。世界的な危機を認識することは、国際政治を組み替えていく契機であり、同時にそこには超国家的な連帯のチャンスが生まれている。彼は危機を社会変動のための積極的なきっかけとして逆手に取ろうと構想するわけだ。

彼は反テロのための国際的な法基盤の整備や、対話的政治の重視、NATOなどの既成の安全保障の枠組にとらわれない複数国家間の地域協力の可能性を示唆する。いずれも正論だが、ベックの立論の背景には文化的係争を細やかに分別していく機微よりも、統合過程のダイナミズムを重視するスタンスがあるように思える。ネグリやハートのような「反帝国」的闘争論における市民的連帯とは異なる立場なのだろうか。あながちそうとも言い切れないかもしれない。

「9.11」のインパクトのもとに語られた彼の危機論は、市民よりも国家の動静に重心が置かれていた。しかし、「9.11」以前の講演では、彼は「下からの社会形成」と「直接的な政治」を意味する彼特有の用語である「サブ政治」の、複数的な同時並存化、グローバル化が、政治の新たな可能性を解き放つのだ、と述べている。「文化を超えた市民の抵抗の諸対立がゲームのように結合することによって、世界市民社会はその直接の権力を体験」する、と。ゲームというのはこの場合、単なる「遊び」のことではなく、競技的な相互作用のニュアンスを帯びているだろう。

そうしたサブ政治の世界的な相互作用によって、世の中は変っていく運命にある、と彼は見ている。変動は必然であり、成功は伝播するものなのだ。世界を覆う危機とは近代の根本的な制度疲労であると同時に、危機そのものが、危機を乗り越える反省的近代化の勝利の証しでもある、と見なされている。「政治が非政治的なものとなり、非政治的なものが政治的なもの」となる、サブ政治の到来を彼は宣言する。彼が意図するのは究極的な楽観論なのだろうか、それとも大胆な積極論なのか。ベック理論の優れた入門書ともなっている本書での議論をより理論的に追究してみたい読者は、彼の主著である『危険社会』(法政大学出版局)や、『再帰的近代化』(而立書房)の併読をお奨めする。

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[2003年12月8日]

■中学生から大人まで、読んでためになる頭脳体操的哲学入門

なぜ私たちは過去へ行けないのか ほんとうの哲学入門(魂の本性 1)
加地大介著
\2,400 哲学書房 四六判 / 200p
ISBN:4-88679-150-6 発行年月:2003.11

新シリーズ「魂の本性(コレクション・プシュケー)」の第一弾ととして出版された本書は、タイムトラベルと鏡像を題材に、哲学の謎の中心である「時間と空間」をめぐる問いを平易に解明した、哲学入門書である。二章立てで、時間論を扱う前半部となる第一章「なぜ私たちは過去へ行けないのか」では、映画「ターミネーター2」におけるタイムトラベルの設定を例にしながら、過去へ行くという行為がいかに論理的に矛盾しているかを解説する。物理学や相対性理論などの知識が要求されるのではなく、論理学できちんと正解を導き出すことができるのだ、と分かる。

本書は「本当に中学生にも分かるような哲学書を」と編集者に請われて書き下ろされたものだという。他社での例を挙げれば今年(2003年)は池田晶子の『14歳からの哲学』(トランスビュー)が大ヒットした。難しいことが小難しいままに書かれた本を丸呑みするようして読まねばならないことほど退屈なことはないだけに、難問を平易に解明しようとしたこの本は広く読まれている。難しいことを易しく咀嚼して書くことは、書く本人がきちんと対象を理解し、自らの血肉としていなければ到底できない。かくして良質な入門書というのは書き手の力量が問われる試金石となる。本書は中学生でも理解できるように工夫が凝らされた哲学書という意味では『14歳』と共通する意図に立っているが、著者自身が本書の性格について述べているように、「頭の中をもみほぐ」し、「普段あまり使わない部分の脳みそを使う」、一種の論理トレーニングという側面もある。

譬えて言うならば、本書は『14歳からの哲学』と『論理トレーニング』(野矢茂樹著、産業図書、1997年)のちょうど中間地帯に位置する本である。中学生にもわかるような、とは言っても現実的には、第一章の場合、「ターミネーター2」について語り始める導入部は易しいが、論理矛盾の話になるととたんに難しくなる。しかしここで腐らずに一度は通読し、再読を重ねていけば、読者はいつのまにかマイケル・ダメットやチャールズ・テイラーなどの哲学者の議論の問題点までが分かるようになっているだろう。また、決定論的時間論を乗り越える視点も得ているだろう。未来の「宿命」を変えるためにタイムマシンで過去に遡る必要などなく、「自分の未来は自分自身でつくるものなんだ」と本書に励まされて。

第二章「なぜ鏡は左右だけ反転させるのか」は、鏡に映った像が左右反転になるのはなぜだろうという素朴な疑問から、哲学における空間論の問いの解明へ進んでいく。鏡に向かって右手を挙げれば、鏡の中の自分はこちらへ向かって左手を挙げているように「見える」。そもそも疑問にすら思わないようなこうした日常から問いが発せられる。この章も導入部は易しいが、疑問が重なっていくうちにさっぱりわけが分からなくなってくる。しかし普段は疑いもしなかった自明の現実がじつは論理的にはきちんと説明できず、理解不能になっていく、という過程が、頭の体操には必要なのだ。

この章ではマーティン・ガードナーやネッド・ブロックによる鏡像反転の説明が叩き台になるが、さすがに三次元について語るとなると、x軸、y軸、z軸という大人にとっては懐かしいデカルト座標や回転軸の問題が出てきて、こんがらがりやすい。しかし途中で諦めずに読み通していけば、最後には、鏡像反転とは重力の中で生きる人間が生態的な条件の中で獲得している認識であることが分かる。なぜ重力が問題になるのかは、本書を読んでみてのお楽しみだ。「意識されないほど絶対的な前提となってしまっているようなものに意図的に目を注ぐことが、人間には時には必要なのです」という著者のメッセージがどれくらい重みをもって迫ってくるか、そして、第二章の登場人物「ノボルくん」のエピソードが節目ごとに挿入されてきた真意はどこにあるのか、最後に分かる。中学生から大人まで楽しめるエデュテインメント(教養的娯楽)だろう。


■シアトルから「9.11」以後まで、新世代による市民運動のすすめ

貧困と不正を生む資本主義を潰せ 企業によるグローバル化の悪を糾弾する人々の記録
ナオミ・クライン著 デブラ・アン・レヴィ編集 松島聖子訳
\1,600 はまの出版 B6判 / 254p
ISBN:4-89361-383-9 発行年月:2003.11

『NO LOGO』(日本語訳題『ブランドなんか、いらない』はまの出版、2001年)をご存知だろうか。反グローバリゼーション運動について勉強されたことのある方は、この本と、この本を書いた若い女性のことをあるいはよくご存知かもしれない。もしこの本や著者について知らなくても、「9.11」以後の反戦運動に少しでも関心がある方なら、この本を書いた著者の新著である本書『貧困と不正を生む資本主義を潰せ』は必読である。チョムスキーやアルンダティ・ロイ、サイードやスーザン・ジョージ、ハワード・ジン、ジョゼ・ボヴェといった人々の本を読んだことのある方なら、なおさら「買い」だ。マイケル・ムーアの『アホでマヌケなアメリカ白人』(柏書房、2002年)や彼の新刊『おい、ブッシュ、世界を返せ!』(アーティストハウス、2003年)を読んで大いに楽しんだ御仁も、今すぐ購読して欲しい。

本書は2002年に北米などの英語圏で刊行された、カナダのコラムニスト、ナオミ・クラインによる激辛政治コラム集である。1999年の年末から2002年春にかけて各紙誌で発表された42編を収録している。原題は「フェンスと窓――グローバリゼーション論争の前線からの速報」。フェンスと窓、というのは、様々な障害(=フェンス)と新しい可能性への多様な突破口(=窓)を象徴している。グローバル化時代の反企業運動をリポートした『NO LOGO』の執筆以来、彼女は世界中に広がる市民的抵抗と、それと対照的な政治家や企業の悪行を目の当たりにして、その都度コラムで自分の思いを語った。一編ずつは短いが、そのぶんスピード感と洗練された簡潔さが小気味良い。

例えばこんな感じ。「カール・マルクスの言葉を借りれば、私たちは高度な「モノ崇拝」の時代に住んでいます。ソフトドリンクやコンピュータのブランドが、私たちの文化のなかで「神」の役割を果たしています。ブランドは強力な偶像と、夢のような記念品と、私たちの経験を作ります。それをやるのは宗教でも、インテリでも、詩人でも、政治家でもありません。彼らはいまやナイキに雇われる立場になってしまいました」(「ロサンゼルス――金と政治の「結婚」を解剖する」2000年8月)。彼女は遠まわしな表現で逃げを打ったりせずに、はっきりものごとを言う。毒舌というのでもない。お喋りというわけでもない。

おかしいものはおかしい、と「率直に言える」ということがどれだけ読者の胸に響くことか。彼女が「ブランド」を批判するのは、そこに価値観の一元的貧困化を見抜いているからだ。彼女はこう述べる、「ブランドの中心にあるものは、厳格にコントロールされた一方通行のメッセージだ。それはもっとも体裁のよい形で送り出され、その企業の「ひとりごと」を社会的な「対話」に変えようとする者は、徹底的に排除される。強力なブランド作りに欠かせない道具は、リサーチ、創造性、デザインだが、しかし、いったん完成してしまえば、名誉毀損裁判と著作権法がブランドの最良の友となる」。念のために補足しておくと、彼女の言うブランドとはいわゆる「高級品」一般のことではない。高かろうが安かろうがブランドは潤色された好印象を消費者に執拗に植え付けようとするものだ。

「9.11」に関連する卓抜なコラムは原書では発表順の時系列通り後半に収められていたが、本訳書では先頭にまとめられている。なるほど、著者の人間味あふれるメッセージは、このテロ事件をめぐるアメリカの矛盾へ向けて繰り出される時、もっともくっきりした陰影で問題の本質を浮かび上がらせる。ブッシュ陣営がテロリストたちは自由を憎んでいるんだ、と強弁して、各国にアメリカの側か、それともテロの側につくのかと迫っていた当時、アメリカは自国のイメージをもっとも馬鹿げた仕方で文字通り「ブランド化」しようと躍起になっていたのだ。アメリカ批判は確かに本書の中軸をなすものだが、著者の視線は世界各地の市民運動の現状と課題に注がれている。そこには、明日、私たちが参加しているかもしれない自発的なムーヴメントの複数の流れがある。


■西洋人の生を規定する撤去不可能な無意識的論理体系とは何か

ドグマ人類学総説 西洋のドグマ的諸問題
ピエール・ルジャンドル著 西谷修監訳 嘉戸 一将〔ほか〕訳
\4,500 平凡社 A5判 / 382p
ISBN:4-582-70246-5 発行年月:2003.10

異貌の法制史家ルジャンドルの主著の待望の日本語訳である。ドグマ人類学とは、彼が提唱している独自の学問姿勢であり、従来の人類学の範疇には分類できないものだが、端的に言えば、それは西洋的な規範や理性がどのようにして西洋人の生を規定し、組み立てているのかを根源的に捉え直そうとする企てである。その壮大な企図の全貌は、一連の「講義」シリーズとして刊行されてきており、本訳書に先行するルジャンドルの日本語訳第一弾『ロルティ伍長の犯罪』(人文書院、1998年)はその第八講義にあたる。人文書院では続いて第二講義『真理の帝国』がほどなく刊行される予定だ。

99年にフランスで刊行された本書は原題を「西洋におけるドグマ的問題について。理論的諸相」といい、主に90年代に各専門誌や論文集等で発表されてきた論考やインタビューや講義要綱を16篇収録している。先の講義シリーズによって各論が詳述される「ドグマ人類学」の総体的意義と学問横断的射程が明らかにされており、監訳者の西谷修氏による導入と解説が本文の前後に置かれ、訳者によるルジャンドル思想のキーワード解説も併載している。西谷氏は月刊誌『現代思想』でも「ドグマ人類学の問い」という論文を連載している。本訳書と西谷氏の連載は、ルジャンドルの初来日にあわせて出版されたもので、ルジャンドル氏は2003年10月末から11月初めにかけて各地で精力的に講演をこなした。

本書はその思想的独自性によるものか、かなり難解である。巻頭から順番通りに読んでいくとかなりの確率で多くの読者がリタイアを余儀なくされる可能性があるかもしれない。「はじめに」でルジャンドル自身による本書の前口上を読み、第一章「ドグマ的コミュニケーション(ヘルメスと構造)」と第二章「ドグマ人類学、概念定義」で、西洋の批判的分析の理論的枠組みと概念装置の概要を読み進んでみても、まず一読ではさっぱり理解できないかもしれない。意図された順序を無視することになるが、まずはインタビューから拾い読みを始めるのが無難だ。

インタビューは全部で四編、すなわち第四章「われわれが法と呼ぶもの」、第五章「法学者を論じること、それは法と権力を論じることである」、第十三章「イメージあるいは聖/俗の分割」、第十四章「イメージの制定」である。これらのインタビュー以外はいずれも専門誌に掲載されるレベルの研究論文であり、わからないのが当たり前というふうに腹をくくっておく方が気楽だ。インタビューで彼はより簡潔にこう述べている。「ドグマとは、つまり、そう思うことが避けられないもののことです」。それは西洋人が無意識のうちに信じてしまっている前提であり、時代が移り変わろうとも逃れることのできない「理性の制度的メカニズム」である。

マネージメントもコントロールも効かないこのドグマ的次元の批判的分析が、ルジャンドルの生涯のテーマだ。本書がどこかしら分かりにくく感じられるのは、このテーマがいまだに探究の途上にあるせいでもあろう。また、それはルジャンドル自身が幾度も強調している通り、現代人がドグマ的次元を乗り越えていると勘違いしているからでもある。ドグマはしかし撤去不能な思い込みなのだ。「法に関する考察にかかっているのは、西洋の主体の制定に関する考察だ」と彼は言う。「主体としての人間の生の根拠」を確認し、その再生産の構造を理解すること。

法を構成している不透明な部分や正統性という名のフィクションを透視するルジャンドルの鋭い視線には学ぶことが多い。まるで存在しないもののように現代人が忘却しているドグマ的次元への接近は、自分の背中を覗き込むという不可能だが意外性に満ちた挙措に似ている。西洋近代における「人間」像を根底から問い直した成果といえば、例えばフーコーの『言葉と物』やアナール学派の諸研究が思い浮かぶが、ルジャンドルによれば、彼らはルジャンドルを「無視した」ということらしい。なるほどルジャンドルの孤高な作業は彼らとの緊張に満ちた対決の星のもとにあるわけだ。

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[2003年12月15日]

■小説家澁澤を蘇えらせる編集・造本・挿絵の三位一体的演出に脱帽

菊燈台(ホラー・ドラコニア少女小説集成 2)
澁澤龍彦著 \1,800 平凡社 四六判 / 119p
ISBN:4-582-83194-X 発行年月:2003.11

シリーズ第壱巻『ジェローム神父』で、会田誠による衝撃的な絵画とのカップリングによって、サドの描いた暗黒の殺人劇を現代人の時空へと転送することに見事成功した名コーディネーター高丘卓が、今度は「小説家」澁澤龍彦の召喚に挑んだ。「第壱巻にも増して自信をもってお届けすることができた」との自負に違うことなく、選ばれた澁澤の短編も、山口晃による描下ろしの挿絵も、鈴木成一のブックデザインも、何もかもすべて魅力的である。実際、ここまで「作りこまれた」書物というのも、こんにちでは珍しい。隅々までそれぞれの「仕事」の相乗効果が波打っており、澁澤の短編は新たな宝箱に移し変えられた水晶のように輝きを放っている。

「菊燈台」は、土佐に伝わる民話をベースに小説家田中貢太郎が創作した「宇賀の長者物語」を、澁澤が大胆にリライトした短編で、記憶をなくした美青年菊麻呂の遍歴を描いている。もともとは1985年に文芸誌「新潮」に発表され、翌年に刊行された単行本『うつろ船』(初版は福武書店、現在は河出文庫)に収録された作品だ。人魚との逢瀬を続けていた菊麻呂がある日、人買いに捕われ、強欲な長者が営む海辺の製塩場で苦役に服することとなる。人魚に奪われたかのように彼の記憶は失われている。彼はやがて下人小屋から逃亡を企てるもののたちまち捕縛されて、燈明皿を頭上に戴いたまま夜通し突っ立っている「菊燈台」の役割を命ぜられ、のちには長者の娘の夜伽を申し付けられる。

ほどなく彼は酔狂な娘の戯れによって、娘ともども焼死するに至る。非常にシンプルな物語で、夢とうつつの狭間におかれた鏡のような趣きである。菊麻呂と娘が炎に包まれようかという直前で(死を目前にした彼らの煌びやかな自在性は一種甘美な解放感すらある)、物語はふっつりと途切れて幕を閉じ、この短編が前述の民話と創作を下敷きにしているという簡潔な口上が付される。山口晃の挿絵をめぐって本書の月報に一言寄せている美術史家の山下裕二はこの添え書きが「格好悪い」と感じているようだが、そうでもないだろう。例えばボルヘスの小説を読んできた読者なら、こうした註釈は一向に違和感がないばかりか、妙味を添えるものだとすんなり受け容れるだろうから。この短編に対するより適切で濃密な解説としては、本書の責任編集者である高丘氏が「意識間移動装置」と題する一文を月報に供している。

読者がどう感じるかはどもかく、恐らく本書でもっとも強い磁場を発生させているテクストは、「菊燈台」ではなく、あとがきの代わりに巻末に収められた著者の卓抜なエッセイ「少女コレクション序説」(初出は1972年「芸術生活」誌、のちに中公文庫『少女コレクション序説』1985年に収められた)でもなく、この高丘氏の解説である。「菊燈台」の深層を垣間見させる様々な道具立てと記号が、しっかりひとつの文脈に縒り合わされている。その文脈とはほかならぬ、シリーズ名「少女小説集成」に冠せられている「少女」をめぐる連鎖である。この場合の「少女」とは、男性の観念と妄想の中にしか存在しないイマージュのことだ。そうしたイマージュを澁澤のエッセイ「少女コレクション序説」は分類し分析する。

澁澤自身は意図していなかったかもしれないが、このエッセイはこんにちのオタク文化における少女像の分析にも通用する見事なものだ。また、少女像の分析は翻って、その消費者である男性たちの欲望の鋭利な解析ともなる。処女を愛でることは自らを架空の父親に擬する形式での自己愛である、と彼は喝破する。男性の処女性ならぬ「童貞性」の影、それが「少女」に化身するのだ、とも言えようか。山口の描く挿絵はそうした幻想的で曖昧な領域を増幅させる。一服の絵の中で、今昔の風景風物が渾然一体になり、肉体と機械はひとつになる。どこでもない場所であり、いつでもない時間が、見る者の感覚をブレさせ、異界へとズラし込む。

十四、五世紀あたりかと思われる製塩場から森を隔てた向こうには原子力発電所が聳えていたり、製塩場の下人小屋の中にタイムカード機が設置されている。燈台になった菊麻呂は機械仕掛けでもあるとともに生身の肉体を持つ。そうしたハイブリッド感を鈴木成一の装幀は効果的に演出している。読者には外回りを眺めるだけでなく、カバーを剥いで表紙を眺めて欲しい。裸にしても美しい書物はいまどきそんなにない。


■ルネサンス=再生こそ、21世紀の思想界に求められているものだ

イタリア・ルネサンス事典
J.R.ヘイル著 中森義宗監訳
\7,800 東信堂 A5判 / 626p
ISBN:4-88713-490-8 発行年月:2003.11

待ちに待った名著(1981年)の完訳である。いや、完訳であるというだけではない。14世紀から16世紀にわたるイタリア・ルネサンスの広大な影響範囲をカバーする原著の750項目に加え、訳者らによる日本版独自の追加項目が170あり、さらに圧巻なのが、900点以上の日本語文献を網羅した参考文献一覧が付されていることだ(翻訳から研究書まで、これが本当にすごい)。また、図版237点を収録するほか、分野別や欧文の各項目一覧があり、索引は、事項・地名・人名別が完備されている。思わず涙が出てくるほどの惜しみない労力と配慮である。読みやすい文字の大きさや適度な余白、上品な装幀も文句なし。

イタリアと銘打ってはいるが、もちろんイタリアに関連する他国の文化的思想的影響やルネサンス以前の先哲も周到に取り上げている。本書を専門研究者の座右にのみ置くのはもったいない。ルネサンスとは言うまでもなく「再生」を意味する言葉である。平たく言えば、温故知新の智慧と探究が、新しい世界創造の大きな推進力になったことをそれは示している。世紀末が過ぎた今も暗雲が垂れ込めている21世紀において、私たちはルネサンス精神から何を学べるのか。ルネサンス期のイタリアは統一国家ではなかった。各都市勢力が群雄割拠し、それぞれがヨーロッパの文化的源泉を掘り起こして再活性化していったのだ。

美術、歴史、政治、宗教、哲学、文学、科学等にまたがるルネサンス的「全体革命」を把握するための、必携の事典の誕生である。


■出るわ出るわ、天使や悪魔、妖精、妖怪、精霊など3000種類

世界の妖精・妖怪事典
キャロル・ローズ著 松村一男(まつむら・かずお)監訳 原書房
本体4800円  21cm 535p (シリーズ・ファンタジー百科 )
4-562-03712-1 / 2003.12

同版元の『死刑全書完全版』などと同様、ウェブ上の書影では分かりにくいだろうが、カバーが非常に美しい銀色を基調としたデザインで、まさに「妖精」的な雰囲気たっぷりの事典である。ホビットから河童まで、3000項目にも及ぶ東西の妖精と妖怪の集成であり、図版は100点を収録。帯文には「荒俣宏氏絶賛!」の文字が躍る。曰く、「親指トムも、アンデルセン童話のオーレもある! 読めば読むほど、珍しい話にはまる。この本に『満へえ!』を差し上げたい」と。タキシード姿の荒俣氏が会心の笑みを浮かべながらボタンを叩く姿が見えてきそうである。たしか氏はいまだかつて例の番組では「満へえ」を叩いたことはなかったと思うが、それだけに喜びの大きさが分かろうものだ。

もう一回強調しておくと、この事典には世界中の3000種類の妖精や妖怪のことが解説されている。そんなに種類があるのか、とあらためて驚いてしまう。当たり前だが、本書はページを何度めくっても、出てくるのは異形ばかりである。百鬼夜行という怪異の行進があったが、その迫力を大きく超える一大行軍だ。さらに驚きなのが、この事典を書いたのがたった一人の女性であるということ。キャロル・ローズ女史が本書の原書『精霊、妖精、グノーム、ゴブリン』を英米語圏で刊行したのは1996年。本書の姉妹編というのもあって、その名も『世界の怪物・怪獣事典』というのだが、これは来年(2004年)秋に同じく原書房から翻訳出版される予定だそうで、発売が待ち遠しい。

せっかくなので、3000種類のうちから、日本人にはちょっと発音しずらい、「ん」から始まる項目のうちのひとつを紹介しよう。その名も、「ンドグボジュスイ」。これは精霊の一種で、西アフリカのシエラレオネに住むメンデ族の民間伝承に登場する。長くて白いあごひげを持つ、白い肌の人間の姿をしているそうだ。いたずら好きで意地悪な性格だが、うまくだませば贈り物をもらえることもあるという。巻末には索引とは別に、全項目を種類別に分けた一覧があり、中でもまず目を引くのは、デーモンやデヴィルといった悪の形象の様々に異なる呼び名であるが、悪魔たちをはるかに凌駕する多様性を有しているのが、精霊の眷属だ。ズラリと並んだ彼らの名前は声に出して読もうとすると、まるで呪文かお経みたいだ。ページを夢中でめくっている内に、いつのまにか異界にさらわれてしまいそうな気持ちになる、不思議満載の事典である。ボリューム満点で4800円というのは安い。

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[2003年12月22日]

■カントを読み始めるならまずこの一冊からお奨めしたい!

カント全集 15 人間学
渋谷治美訳 高橋克也訳
\6,200 岩波書店 A5判 / 566,25p
ISBN:4-00-092355-2 発行年月:2003.11

カントの主著と言えば三批判書(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)だということで、ともかく『純粋理性批判』から挑戦してみようか、という殊勝な読者が昔も今も案外多いのかもしれない。しかしたいていは途中で無残にも挫折するのがオチであり、村上春樹が描いた小説(『1973年のピンボール』)の主人公のように寝床で何度も読み返すなどというのはほとんど「ありえない」話のように思える。そのカントの高い敷居を一挙に下げてくれるかもしれないのが、全集第15巻に収められた『人間学』だ。正式な題名は、『実用的見地における人間学』という。1798年に出版されたもので、70歳を越えたカントの最晩年の著書だ。

本書はいわばカントによる人間観察の書であり、実地見聞から得てきた人間像をもとに、認識や道徳、欲望や性格などについて幅広く論じている。カントは晩年の約二十年間、一般レベルの聴衆向けに、素材を選んでこうした「人間学」講義を行っていた。三批判書のエッセンスは親しみやすいかたちでここに再説されている。認識について語った結論部分のわずか三頁ほどで三批判書の教訓が要約されているのを読むと、ずいぶんとカントという「重荷」が軽くなってくる。『人間学』が日本語に翻訳されるのは本書で四度目であるが、こうした成果こそ、廉価な文庫版としても出版されるべきではないかと強く感じる。内容的に言っても、通読を強いられるというよりは、折々に拾い読みしていける親しみやすさがある。

「実用的(プラグマーティッシュ)」という言葉のニュアンスには、人間を知ることが世間知に通じ、世間知は世界を知ることに通じていくというカントの哲学観が表われている。人間として洗練されていくことはカントにとってくだらないことではない。内面の豊かさを心がけることは非常に重要なのだ。例えば非常に具体的に、カントは「一人で食事をすること」は精神的に不健康だときっぱり述べ、宴席や会食の「効用」を論じており、さらに、座を活気づかせる三つの法則も指摘している。参会者全員が話に加われるような適切な話題を選ぶこと、喋りっぱなしではなく「間」を大切にすること、話題をコロコロ変えないこと――この三つである。なんだか社長の訓示を聞いているようだが、説得力がある。そうした実践がカント哲学の形成に実際的な恩恵を与えただろうことが論述から想像できる。

『人間学』の後半にあたる性格論では、個人、男女、国民、人種、人類というふうに徐々に大きな集団が分析される。人類は自然から与えられた理性的使命によって世界同胞主義(コスモポリティスムス)に向かうべく仕向けられている、とカントは見る。世界は争いが絶えない場所だというのが現実でも、人類が共存しないわけにはいかないというのも事実なのだ。不可能性へ向かって不断の連帯を目指しゆく忍耐にこそ、カント的政治のリアリズムがある。なお、『人間学』のあとに併録されている『人間学遺稿』は、頁数の都合上もあろうが、抄訳だ。訳者による長文の解説は周到であり、最後にカントによる『人間学』のアクチュアリティがミシェル・フーコーとの係わり合いにおいて評価されている(フーコーは『人間学』の仏訳者なのだ)。


■『存在と時間』の直後に上梓された「形而上学」批判の書

ハイデッガー全集 第3巻  カントと形而上学の問題
ハイデッガー著 辻村公一(つじむら・こういち)ほか編集 創文社
本体5500円  22cm 310 8p
4-423-19642-5 / 2003.11

『存在と時間』の2年後、1929年に公刊された本書は「カント書」という通称で知られるハイデガーの主著のひとつである。今回の日本語訳は、三度目の新訳だ。これまでの翻訳は、1938年に佐藤慶二訳で三笠書房から、続いて木場深定訳で1967年に理想社から刊行されている。木場訳は1981年に改訂版が出ているが、品切重版未定のまま久しい。その意味で本書は待望されていたと言えよう。創文社版全集では「存在」を「有」と訳すことで統一しているようだから、「現存在」として見慣れてきた筈の最重要キーワードも「現有」となり、他の翻訳や研究書と比較して違和感を抱く読者もいるかもしれない。いずれにせよ、現時点で全102巻(うち33巻が既訳で、ドイツ語原典でもまだ全巻完結していない)を予定している一大集成の出版がこうして連綿と続いているのは大いに喜ばしいことだ。

本書はハイデガー自身の説明によれば、カントの『純粋理性批判』を形而上学の基礎付けとして解釈することを課題としている。その課題は、形而上学の問題を基礎的オントロギー(存在論)の問題として明らかにするためにある、と彼は言う。『存在と時間』(創文社版全集では『有と時』)の問題設定からカントを再解釈することを通じて、形而上学の根本には存在論がなければならないことを説いているのだ。それは端的に言えば、カントの人間学を乗り越えようとする試みだ。本書はマックス・シェーラーに捧げられているが、ハイデガーはシェーラーの最晩年の論考「宇宙における人間の地位」(原著1928年刊、日本語訳は白水社版『シェーラー著作集(13)』1977年に収録)を引いて、現代ほど人間が疑わしいものになった時代はない、と主張する。

シェーラーは人間(とその目的)の多様性を指摘し、それらを体系的統一のうちに把握することの困難さを説いたが、ハイデガーはそうした困難さのうちに人間学の限界を見る。彼によれば、カントは三つの形而上学的な問い――私は何を知りうるか、私は何を為すべきか、私は何を望んでよいか――を「人間とは何か」という第四の問いへ還元し、人間学に形而上学の根拠付けを委ねている。ハイデガーは、そうした根拠付けは早計だ、と反論するのだ。「人間とは何か」という問いの奥には「存在とは何か」という問いが潜んでいる。形而上学はその問いを回復せねばならない。ハイデガーにおけるこうした一種のアリストテレス回帰は、当時隆盛だった新カント派から批判を受けた。

中でもカッシーラーとの論争が有名であり、その様子は本書の巻末に収められた付録で知ることができる。ここでは論争のほかにハイデガーによるカッシーラー評や、新カント派(マールブルグ学派)とは何かという説明なども読むことができるが、いっぽうカッシーラー側の――より正確にはカッシーラー夫人の――ハイデガーに対する印象記は、『ダヴォス討論』(《リキエスタ》の会、2001年)で読むことができる。 カント的な理性信仰と啓蒙主義を擁護するカッシーラーと、存在への問いによって「理性」批判を行うハイデガーの対立である。これはどこか、20世紀後期における、ハーバーマスとデリダの対決に似ているかもしれない。ただ、後者の二人はこんにち政治的に「共闘」しているが、カッシーラーとハイデガーはたとえ互いに生き延びていたとしても「共闘」はけっしてしなかったろう。言うまでもなく、彼らはナチスによって引き裂かれたのである。


■ヘルダーリンの詩学の形而上学的本質を生々しく伝える断片集

省察
ヘルダーリン著 武田竜弥訳
\3,200 論創社 A5判 / 324p
ISBN:4-8460-0406-6 発行年月:2003.11

日本においてヘルダーリンは「詩人」としては受容されてきたが、「思想家」としての成果は等閑視されてきたのではないか、と訳者は指摘する。ハイデガー、ベンヤミン、アドルノ、ドゥルーズらによってヘルダーリンが再評価されてきたことなら比較的に知られていても、同時代においてヘーゲルに影響を与えたヘルダーリン自身の思想や原テクストはほとんど知られておらず、河出書房版全集においても一部が日本語訳されたにすぎない、と。本書は哲学史家のヨハン・クロイツァーによって編纂され、1998年にフェリックス・マイナー出版社から刊行された『理論的著作集』全一巻の完訳であり、クロイツァーによる解説のほか、訳者による丁寧なヘルダーリン年譜が巻末に収録されている。なお、このクロイツァー版にはヘルダーリンが学生の頃したためた論考は収録されていない。

テクストはいずれも断片的な覚書や草稿であり、前後の段落が消失したこれらの文書群はまるで海原に浮かぶ列島のようだ。それらをつなぐ未聞の大陸は海面下に没しており、さらにその大陸の地下には心の病に沈んだ晩年の謎が堆積している。「人は深みへ落ちるのと同様に、高みへ〈落ちる〉こともできるのである」と彼は書く。「精神が自己を限定すると、感情はその瞬間的な制約に過度に不安になり、過度に熱くなり、明晰さを失い、わけのわからぬ不安によって精神を限界なものへと駆り立てる」。彼の精神が崩壊するわずか前に書かれたアフォリズムの一部だ。ヘルダーリンにとって、自己の統御こそ最高の詩である。彼の詩学は自己と他者、無限と個、自然と人為とを結ぶ緊張に満ちた琴線であり、この琴線が音階を奏でるか沈黙するかは、まさにヘルダーリンの生そのものの出来事である。一読したところそれは極度に抽象的な論説であるが、異様なまでに張りつめた濃密さが抽象論の皮膜を内破させている。

本書の後半部に収録されたソフォクレスへの注解やピンダロスをめぐる断片は、彼の詩学原論と比べれば読みやすく、悲劇や詩作品から見たギリシア精神を彼が独特の範疇において自在にパラフレーズし、解釈し、肉化している様が読み取れる。いわば彼の考える詩の原理が、『オイディプス』や『アンティゴネー』、『ピュティア祝勝歌』の読解というかたちで応用されているわけだ。断片的省察であるがゆえにあえて立ち入る者の少なかったヘルダーリンの詩学=哲学が、いかにその解明が困難であれ、このように日本語で読めるようになったことは喜ばしい。王の住む群島の浮上を記念したい。


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