◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
2004年2月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。
[2004年2月2日]
■死を前にしたリオタールの〈文学的〉到達点を示す、まぎれもない名著
聞こえない部屋 マルローの反美学 (叢書言語の政治
13)
ジャン=フランソワ・リオタール著 北山研二訳
\2,500 水声社 A5判 / 172p
ISBN:4-89176-501-1 発行年月:2003.12
本書とも関連性の強い晩年の講演集『非人間的なもの』が邦訳出版されてから一年以上が経ち、「ドゥルーズ、デリダと並ぶ、ポスト構造主義の代表的哲学者と目される」と篠原資明に評されたリオタールも、徐々に論壇という名の市場から忘れ去られていくかのように見えた。だが、ここにきて彼の死(1998年4月)の一ヶ月ちょっと前に刊行された最後の著書『聞こえない部屋』がついに完訳されたことは、黙過すべからざる出来事である。
西洋におけるモダンなるものの病を、作家アンドレ・マルローの文学作品群を参照しつつ解明する本書は、訳者の言うように哲学と美学の交差点に位置するもので、一種異様な迫力と美しさに満ちている。それはモダンなるものの禍々しくおぞましい黄昏と対峙しようとするものの迫力だ。マルローについて彼は本書に遡ること二年前にも『マルローの署名入り』(未訳)という本を刊行している。
これらは単なる作家論ではない。むしろ「こんにち、人間とはいったいいかなる存在か」という哲学的問いが中核である。人間の孤独と、共同体の不可能性が語られる。特に、ジャン-リュック・ナンシー(『無為の共同体』以文社)やモーリス・ブランショ(『明かしえぬ共同体』ちくま学芸文庫)を念頭に置いたのであろう以下のような議論の契機には、留意すべきものがあるだろう。
「バタイユと、彼に従う他のものたちは、融合的な交感から「ほんとう」の共同体の計画を引き出す誘惑にかられるのだ。またもモダンな幻想だ。(……)特異なものは交換されることも聞かれることもできないかぎりでしか、融合できないのだ。普遍的なものは分離と引き換えなのだ。いかなる弁証法も統一体のなかに多様なるものを読み取れはしない」。
マルローは最晩年、繰り返し昏睡に襲われ、空間感覚を失って壁も床もごちゃごちゃになり、獣のように病室を這いずり回るという体験をした。「私はだれか」という問いは水没し、くだらないものになったと彼は自らを表現する。そうした〈一個の自己=のない=私〉について言及した後に、リオタールはこう問いかける、「個人的なアイデンティティの解体に反して、よつんばいの動物のように努力する存在とは、真なる生なのか」。
ただ存在するという剥き出しの事実、それはマルローの言う「非=生」の次元であり、そこにリオタールは注目している。自己が侵食される場所で花開く創造を彼は見届けようとする。本書の執筆後、彼は「私」と「私ならざるものの潜勢力」との関数をさらに考究すべく草稿を準備し始めた。その作業は死によって惜しくも途絶したが、死後5ヵ月後に刊行された『アウグスティヌスの告白』(未訳)によって私たちは彼の最後の探索の道程を窺うことができる。
■現代を透視するナンシーの政治哲学の要諦が見えてくる重要作
世界の創造あるいは世界化
ジャン=リュック・ナンシー著 大西雅一郎訳
松下彩子訳 吉田はるみ訳
\2,400 現代企画室 A5判 / 160p ISBN:4-7738-0311-8
発行年月:2003.12
先ごろ(2004年1月)『哲学的クロニクル』という小著を上梓したばかりのフランスの哲学者ナンシーによる「グローバリゼーション」批判の書(原著は2002年刊行)が邦訳出版された。99年、00年、01年に発表された三つの講演原稿と、「生政治」(本書では「生命政治」と訳されている)、「至高性=主権」、「正義」をめぐる三つの短い論考を補遺に収録している。訳者はこれまでナンシーの著書の日本語訳を松籟社から多く上梓してきた大西雅一郎氏を中心とするチームだ。ナンシー特有のキーワードのいくつかについて、これまでとは若干異なる訳語を採用するなど、注目に値する翻訳だ。
第一章「都にそして世界に」(2001年の講演)において、ナンシーは「世界は世界を作る能力を喪失した」もしくは「世界は破壊されている」と述べる。ここで言う世界とは西洋文明という〈普遍的価値〉による帝国的支配を蒙ってきた当のものである。彼によれば、現代人の責務とは「世界を創造すること」であり、それは「ひとつの世界のために可能なそれぞれの闘争を即刻、猶予なく、再開することを意味する」。ナンシーはグローバリゼーションに意義の一端を見出しており、「極端な集約だが」と断った上で「商取引はコミュニカシオン(伝達=共有化)を生み出し、このコミュニカシオンが共同性=共同体、共産主義を要請する」と書いている。
つまりグローバリゼーションは共産主義革命を要請しうるということなのだろうか。この革命とは、「われわれの共同=共有された生産の現実的価値であるかぎりの価値の意識へと、またこの意識を介してのこの価値の解放へと、世界的な結合が到達することにほかならない」。しかしこうしたコミュニカシオン(交感)の意識を、第二章「創造について」(1999年の講演)が捧げられたリオタールは信じいなかった。『聞こえない部屋』で明らかなように、彼は交感の共同体を「モダンな幻想」と切り捨てる。一方のナンシーにしてみれば、モダンの謎こそ問題なのであって、ポストモダンを語る必要性は「ない」。
ナンシーはリオタールの『アウグスティヌスの告白』を援用しながら、「正義は共通の尺度を欠いている」と述べる。だが、彼はこうも続ける、「共約不可能性こそまさしく、さまざまな目的の判断力を測定すべき唯一の尺度である」と。アラン・バディウとの論争のの応答でもある第三章「脱自然化としての創造」(2000年の講演)ではこう述べている、「哲学とは、この共約不可能性の共同の場である」と。この逆説的な物言いは、けっして韜晦を目的としているのではない。この観点から言えば、アメリカがイラク戦争における作戦名として用いた「無限の正義」は、ナンシーにとって巨大な「不正」と認識される(補遺「コスモスこそ王」参照)。
正義は「複数的な独異なるものへと与え返される」ものであり、無限とは「世界を創る(かつまた世界を解体する)諸々の世界の、一般的多様性の運動、揺れ動き」である。西洋文明が大上段から統制的に奮うような独尊の暴力ではないのだ。興味深いのは、こうした独尊的暴力に対しナンシーがネグリ+ハートの『〈帝国〉』とは別の把握の仕方を提示していることだ。ナンシーは「生命政治」や「マルチチュード」という用語は使わない。「生命政治」と言う場合の「生命」をめぐる観点の差異がそこにある。本書はコンパクトな書物ではあるが、現代世界の本質的問題に肉薄していくナンシーの哲学的道具立てがほとんど総動員されていると言ってもいい重要作だ。
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[2004年2月9日]
■欧州の二大知識人が〈9.11〉以後の根本問題を解き明かす
テロルの時代と哲学の使命
ユルゲン・ハーバーマス〔著〕ジャック・デリダ〔著〕ジョヴァンナ・ボッラドリ〔著〕
藤本一勇訳 沢里岳史訳
\2,700 岩波書店 四六判 / 327p
ISBN:4-00-024009-9 発行年月:2004.1
〈9.11〉をいかに考えるか。事件後まもなく、10月にデリダが、12月にハーバーマスがニューヨークを訪れた。哲学教師のボッラドリ女史は彼らに別々にインタビューを取り、周到な解説を付け、さらに二人の立場を関連付ける序説を書いて、彼らの了承のもと、本書を出版した。こんにちテロとは何なのかが根源的に問われる。欧州を代表する知性であると言っていい二人に、誰もが聞きたかったことだ。彼らは批判理論と脱構築という互いに異なる哲学的アプローチを採ってきたが、近代的啓蒙主義の遺産であるコスモポリタニズムの理念をともに再評価しており、近年では政治的共闘を試みてきた。ハーバーマスとの対話「原理主義とテロ」と、デリダとの対話「自己免疫」に別個に付された解説で、女史は入念に彼らのこれまでの哲学的営為を振り返りつつ、欧州の未来に賭ける二人の横顔を描き分ける。なるほど共闘は差異をはらみつつ包含しているわけだ。デリダが自らの対話にたくさんの注を付していることにも注目したい。
原著題名:Philosophy in a time of terror: Dialogue with
Juergen Habermas and Jacques
Derrida. 著者名:Giovanna Borradori 刊行年:2003.
出版社:The University of Chicago Press
■専門知識がない読者にも分かりやすい、「ひきこもり」問題の要点
ひきこもり文化論
斎藤環著
\1,600 紀伊国屋書店 四六判 / 262p
ISBN:4-314-00954-3 発行年月:2003.12
1998年にPHP新書の一冊として刊行された『社会的ひきこもり』以後、様々な媒体で語り、かつ旺盛に書いてきた著者の「ひきこもり」論の集大成である。書き下ろしも含め、これまで発表されてきた幾多の文章が再編集され一続きの論考となり、あるいは加筆訂正のうえ掲載されている。全五章の各章題が端的に本書の内容を表している。まず、ひきこもりを語ることの倫理を問うてから、社会病理としてのひきこもりを論じ、ひきこもりシステムの日本的背景を解説して、「甘え」文化と「ひきこもり」との比較文化論的考察に至る。最終章は作家の本の解説文や映画評などをまとめる。一貫しているのは、「ひきこもり」を罪悪のように考えがちな一般的偏見から読者を開放しようとする啓蒙的姿勢であり、この分野における著者の社会的貢献は大きい。年末に本書が刊行されてから監修本『ひきこもり』(日本放送出版協会)と評論集『解離のポップ・スキル』(勁草書房)が立て続けに刊行された。本書を囲む欠くべからざる星座として併読をお奨めしたい。
■百年前のドイツにおける労働問題は今も繰り返されている
東エルベ・ドイツにおける農業労働者の状態
マックス・ウェーバー著 肥前栄一訳
\2,800 未来社 四六判 / 240p
ISBN:4-624-32168-5 発行年月:2003.12
抄訳ではあるが、若きウェーバーの緻密な分析力がいかんなく発揮された記念碑的著書であり、訳者によれば、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』とならぶ労働者論の名著である。時は19世紀末、ウェーバーは28歳でベルリン大学の私講師だった。社会政策学会による報告書『ドイツにおける農業労働者の諸事情』全三巻のうち、ウェーバーは第三巻目にあたる東エルベ地域を担当し、調査資料の整理と総括を委嘱された。その成果が本書だ。資本主義の発展による大土地所有の解体と家父長制的労働制度の衰退は、自立を目指す労働者たちの増加や個人主義の浸透と表裏一体であり、国力の変容をももたらしつつあった。労働者の生活の低水準化や移民労働者の台頭など、現代の諸問題がすでにここにある。未来社からは本書に先行して、折原浩による『ヴェーバー学のすすめ』が刊行されている。これは2002年秋にミネルヴァ書房より発売され、2003年には第12回山本七平賞を受賞した羽入辰郎の『マックス・ヴェーバーの犯罪』と批判的に対決した論争の書だ。本書と併せ注目したい。
原著題名:Die Lage der Landarbeiterim ostelbischen
Deutschland.
著者名:Max Weber
刊行年:1892.
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[2004年2月16日]
■哲学が目指すのは「幸福」――すがすがしく簡潔な入門書
幸福は絶望のうえに
アンドレ・コント=スポンヴィル著 木田元訳
小須田健訳 C.カンタン訳
\1,400 紀伊国屋書店 四六判 / 146p
ISBN:4-314-00955-1 発行年月:2004.2
本書は1999年10月にフランス西部の一都市で行われた一般市民向けの講演会の筆記録がもとになっている。主題は「幸福」だ。「哲学とは言論を用いた一つの実践であって、その対象は人生であり、その手だては理性であり、その目標は幸福である」と著者は明確に定義する。エピクロスにもっとも影響を受けた彼は、処女作『絶望と至福についての試論』(未訳)以来一貫して、人間は「自分たちが耐え、住まい、乗り越えていくことのできる絶望の程度に応じてのみ幸せになることができる」のだと説いてきた。あるがままを認識し、愛することの重要性が説かれる。あるがままの現実に対峙することは、現実を甘受することではない。願望に逃げ込むのではなく、意志して活動しよう、と哲学は教える。巻末に収録された会場での質疑応答の記録は、簡明な講演を的確に補足しており、肉付けとして非常に有益。本書と前後してフランス本国では『資本主義、それは道徳か』という最新著が出版されている。資本主義は本質的に非道徳的であるというのが著者の分析だ。
原題:Le bonheur, desesperement
著者名:Andre Comte-Sponville
刊行年:2000
出版社:Pleins Feux
■著者自身による待望の初「日本語版」にして、記念すべき最新改訂版
定本柄谷行人集 2 隠喩としての建築
柄谷行人著
\2,600 岩波書店 四六判 / 240p
ISBN:4-00-026487-7 発行年月:2004.1
「定本」全5巻とは、「外国語で出版された、あるいは今後出版される予定の作品を集めて思う存分に加筆し」て刊行される、柄谷行人の主要著書群の最新改訂版シリーズだ。第1回配本『隠喩としての建築』は、1981年から1982年にかけて発表されたテクストをまとめた同名の評論集(1983年刊。収録作を絞り1989年に講談社学術文庫より再刊)の最新版なのではない。それとは別個に書き下ろされ、1995年にMITプレスから刊行された英米語版を改訂したもので、初の日本語版なのである。英米語版には磯崎新の序文「危機の地図」が収録されていたが、日本語版では代わりに著者自身による新しい後書が付されている。隠喩としての建築とは端的に言えば「哲学」である。現代哲学に大きな影響力を及ぼしてきた「脱構築(ディコンストラクション)」を建築(コンストラクション)から捉え直す試みが本書だ。初期の代表的評論『マルクスその可能性の中心』から近年の大著『トランスクリティーク』に至る行程が見えてくる重要作である。
■同時代のマルクス主義者たちとの論争からデリダらしさが浮かび上がる
マルクスと息子たち
ジャック・デリダ〔著〕国分功一郎訳
\2,400 岩波書店 四六判 / 239p
ISBN:4-00-002158-3 発行年月:2004.1
1993年に刊行されたデリダの『マルクスの亡霊たち』(日本語版は藤原書店より刊行予定)への賛同や異論反論に応答するために、このテクストは書かれた。英語訳がまず『幽霊的境界画定』(1999年、未訳)に掲載された。近年惜しくも早世したマイケル・スプリンカーによってまとめられたこの『幽霊的〜』には、イーグルトン、ジェイムソン、マシュレイ、ネグリら9名のテクストと、デリダのこの応答論文が収録されている。この論文のフランス語オリジナル版が後年出版され、その際巻末に『幽霊的〜』の9名のテクストのうち7名分の論文の要約が添えられた。このたび日本語訳されたのは、このフランス語オリジナル版だ。やや不謹慎な言い方になるが、本書はデリダの著書の中で一番「笑って」学べる書物だ。デリダ自身は『〜亡霊たち』は愉快な本だが『〜息子たち』はジョークではない、と述べてはいる。マルクス主義者たちの苦言の細かいニュアンスに反応する彼の生真面目さは彼自身をいっそう裸にした。非常に興味深い本だ。
原題:Marx & Sons
著者名:Jacques Derrida
刊行年:2002
出版社:PUF/Galilee
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[2004年2月23日]
■自由奔放な選択とコメントで、気軽に読めて味わい深い名言集
指が月をさすとき、愚者は指を見る 世界の名科白50
四方田犬彦著
\1,450 ポプラ社 四六判 / 265p
ISBN:4-591-07915-5 発行年月:2004.2
古今東西の名言50篇に四方田氏がコメントを付したもの。さすがに氏だけあって、普通じゃない選び方である。ホッブズやシェイクスピアの言葉に挟まれて天才バカボンの名科白「これでいいのだ」が引かれたりする。しかも「これでいいのだ」は、荘子や道元やニーチェの思想が究極的に行き着く境地だと解説している。これに限らずコメントはいずれも自由で、例えば「生は貪るべく、死は畏るべし」という山上憶良の言葉に対しては、憶良への言及が一切なく、日本の小説家の晩節を三種に分類するという試みを披露していて面白い。表題の「指が月をさすとき…」は音楽家の高橋悠治から聞いた言葉で、正確な出典を知らないと書いている(実は仏典に由来する)が、この名言の意味はきちんと押さえている。この言葉が教えるのは、指(言葉)ではなくて月(意味)を知ることが重要だということ。四方田氏はコメント(指差すパフォーマンス)で読者を面白がらせるが、それは解釈の押し付けではなくて、まあ月を見てくださいよ、と暗示しているわけだろう。
■「二人のチョムスキー」をバランスよく解説した入門書
チョムスキー入門
ジョン・C.マーハ=文 ジュディ・グローヴス=イラスト 芦村京訳
\1,800 明石書店 A5判 / 197p
ISBN:4-7503-1858-2 発行年月:2004.2
二人のチョムスキーとは何か。すなわち言語学者としてのチョムスキーと、社会批評家としてのチョムスキーだ。本書は第一部で前者を、第二部で後者を紹介する。内容はイラスト付のインタビュー形式で、国際基督教大学の言語学教授マーハ氏がチョムスキーへのインタビューをもとに、彼の思想を分かりやすく図式化し、解説している。かの「フォー・ビギナーズ」シリーズの一冊として英国で1996年に刊行され、のちに第二版も出たが、このたびの日本語版でさらに改訂された(なお「フォー・ビギナーズ」シリーズの多くは現代書館から日本語訳が出ている)。彼の言語学的成果を解説する前半は、生成文法やミニマリスト・プログラムといった彼の理論の特定的説明というよりは、それらを入門的により広く言語学史の中で位置づけようと試みており、好感が持てる。後半ではチョムスキーの具体的な政治行動が学者として彼の人格と別の振る舞いではないと簡潔かつ自然に示している。巻末に社会言語学者の田中克彦氏による解説を付す。
原題:Introducing Chomsky
著者名:John C. Maher (text), Judy Groves (illustration)
刊行年:1999 (1996)
出版社:Icon Books
■古き時代の哲学者たちの生きざまと死にざまから学ぶ
ギリシア・ローマの奇人たち 風変わりな哲学入門
ロジェ=ポル・ドロワ〔著〕ジャン=フィリップ・ド・トナック〔著〕中山元訳
\1,800 紀伊国屋書店 B6判 / 228p
ISBN:4-314-00953-5 発行年月:2003.12
副題にある通り「風変わりな」哲学入門書である。タレスからダマスキオスまで、小説仕立ての43のエピソードで、ギリシア・ローマ期の哲学者たち約40名を紹介しており、彼らを教説からではなく「生きざま」から語り起こそうとしている。ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』(岩波文庫)に代表される逸話集や伝記に、著者二人が巧みな味付けを施しており、哲学者たちの人間臭さがより活き活きとイメージしやすくなっている。例えば、プラトンがアリストテレスを無性に嫌いになる逸話など、輝きに満ちた哲学者の表向きの顔や教科書通りの栄誉とはかけ離れた姿も紹介されるが、それがどの程度までフィクションなのかと目くじらを立てては本書の妙味がつかめないだろう。特筆すべきは女性の哲学者を一般的入門書より多く取り上げている点だ。クレオブゥリネ、ヒッパルキア、プレイウスのアクシオテア、ソシパトラ、ヒュパティア。どの哲学者の生(もしくは死)も、それ自体がひとつのストレートなメッセージだ。
原題:Fous comme des sages
著者名:Roger-Pol Droit, Jean-Philippe de Tonnac
刊行年:2002
出版社:Seuil
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