◆Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics. by Hiroshi Kobayashi
2004年6月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。※「人文レジ前」は2004年6月で連載を終了いたしました。
[2004年6月7日]
■夢と現実の二元論では語りつくせない何かを示す、不思議な物語
獏園(ホラー・ドラコニア少女小説集成 5)
澁澤龍彦著
本体: \1,800 平凡社 四六判 / 121p
ISBN:4-582-83222-9 発行年月:2004.5
「ホラー・ドラコニア 少女小説集成」シリーズは本巻をもって完結する。だが、完結というのはあくまでも見かけの上の話だ。迷宮は際限のない闇へと続いている。読者は本巻『獏園』をもってシリーズ名に冠せられた「ホラー」の意味をいよいよ知ることになる。このホラーとは、巷間にうんざりするほど満ちているあの娯楽としての恐怖ではない。書物からふと眼を上げたとたんに、自分が異世界にいる(あるいはいた)ことを思い知らされる、不気味な〈居心地の悪さ〉である。読者が手にするのは瞬間移動装置だ。あぶないあぶない、もう少しで連れていかれるところだった。責任編集者の高丘氏は、賢明にも、「くれぐれもご用心あれ」と月報に記している。しかし氏はそれ以上の思わせぶりな警告を発するなどという野暮は犯さない。読者は実はもう乗船している。
『獏園』は、『高丘親王航海記』(文春文庫)の第三章にあたる。時は唐代、九世紀末期と思しい。天竺を目指す高丘親王の一行は、南アジア、マライ半島の盤盤国の領土へと入り込む。盤盤の太守は代々「霊ゆう[ゆうはくにがまえに有]」、つまり動物園を自らの楽しみのために営んでいた。その「もっとも奥まった枢要な一廓」に獏園がある。獏は周知のように想像上の動物で、「象の鼻、犀の目、牛の尾、虎の足をそなえ」ているとされる。獏のもっとも知られた特徴には、人間の夢を食うというものがある。高丘親王はその夢見の能力を買われて、太守の獏園への逗留へと誘われる。太守の目論見は、親王が睡眠中に見る「よい夢」を獏に食わせ、その獏の肉を気鬱症の娘、パタリヤ・パタタ姫に与えることによって、彼女の心の病を治そうというのである。
親王は獏園内の臥所で、生まれて初めて夢を見ぬまま目覚める。実は夢を見なかったのではなく、獏に夢を食われていたのだ。彼は夢を奪われる寂しさに堪らなくなり、その影響で悪夢を見てしまう。どうやらその悪夢は食われなかったらしい。悪夢だけは済まず、親王は日々の眠りの中で獏の幻を見る。まるで獏が脳に侵入し、自分を食い荒らすかのような錯覚。親王は心身ともに憔悴していく。しかし悪夢を見るまではしばらく「よい夢」を見ていたためか、太守の娘、パタリヤ・パタタ姫の気鬱には役立ったようだ。ある日、姫が獏園を訪れ、獏と戯れるのを親王は見る。親王の夢を食った獏、その獏の肉を食った姫。親王は姫が自分の夢によって生かされているかのように思う。そして、姫と戯れる獏が、まるで自分の化身であるかのように感じる。
興奮した獏が姫の与える刺激によって絶頂を迎えたその時、親王の視野は暗転する。夢、だったのだ。付き人が親王に盤盤国への入国準備が整ったと知らせると、親王はこう答える、「盤盤国か。それなら、いまわたしはそこへ行ってきたところだよ」。読者は考える。果たして、いつから、どこからが夢だったのだろうか、と。夢を見る「わたし」とはいったい何だったのだろうか。目覚めた時、「わたし」は本当に現実に戻ってきているのだろうか。夢もまた「わたし」の生の一部ならば、それはひとつの現実であるとは言えまいか。現実は、そもそも夢に幾重にも包み込まれたもうひとつの夢ではないのか。夢の中では、時間と空間は流れるのではなく、無意識の海原を介して群島のように隣り合う。「わたし」はある時、ある場所にいたが、それは別の時に別の場所にいる自分と繋がっている。
この書物から眼を上げた時、読者はもう以前にいた場所にはいない。〈夢の中の夢〉の、そのまた裏側に住む、自分の肩を背後から叩くもう一人の自分を、読者は予感するだろう。先述した「居心地の悪さ」はそこにある。「わたし」はただ一人の人間のはずだが、どうやらほかにもいるらしい。その隠された複数性に気づく時、読者は不気味に思わざるを得ない。「わたし」とはつまり何なのか、と。獏の性的絶頂とともに暗転する親王の視野を、本書の挿絵すべてを描き下ろした山口晃は、微妙な色合いの墨で表現する。ページ一面の墨。印刷ミスではない。このページはぜひとも必要なのだ。このページへと至るまでに読者は、獏と姫との性的戯れを描く、幾通りものヴァリアントを眼にする。ある時はインド風、ある時はヨーロッパ風、またある時は日本風の絵。さらには古めかしい手法で描かれた絵があるかと思えば、漫画のようなタッチのものもある。
その合間に、親王がかつて年上の女性に性器を弄ばれたことの描写が、紛らわしく、しかし必然的に入り込む。記憶でもあり、夢でもあり、かつてあちらにいたこともあればこちらにいたこともあり、獏であったこともあれば少年だったこともある、幾通りもの「わたし」たち。それらは夢の中のオルガスム=エクスタシスとともに、突如、真っ暗闇に放り込まれる。読者はつい、この闇を描いたページに眼を凝らしてしまうだろう。するとそこには、人それぞれの異なる無意識が見せる、ぼんやりした何ものかのかたちが浮かび上がってくる。だが、読者はついにそのかたちを捉えきることができない。これが「わたし(たち)」の真実の姿なのだ。こんな経験はないだろうか、合わせ鏡の間に入って自分の姿を映すと、鏡の奥へ向かって、無数の自分が見える。しかし、この自分たちは微妙に重なり合って見えるため、鏡の奥の自分の表情を確かめることができない。果たして鏡の奥の「わたし(たち)」は、本当に自分自身なのだろうか。
巻末のエッセイ「近代文学における黒いエロス」では、女性という表象をめぐる澁澤のアプローチが、例えばサドのような人物によるそれへのアプローチと異なっていることをよりいっそう感じさせる。「よりいっそう」というのは、まさに澁澤の小説がサド的なアプローチと実際異なっており、澁澤の評論は、サドと澁澤を繋げる、あるいは分断する線がどこにあるのかをより際立たせている、という意味である。一言で強引にまとめるならば、サドは、女性への徹底的な圧迫と容赦ない攻撃を描くことによって、女性を、ないし、女性的なものを、圧倒的に支配し統御する身振りを見せる。だが、澁澤の小説はそうした身振りはせずに、ある地点から先は、支配も統御もできない境位に女性が存在することを示す。サドは他者としての女性を取り込もうとするが、澁澤は他者は他者であるがままにする。興味深いことに、澁澤は評論においては小説ほどには他者を放っておかない。女性をめぐる彼の分析は饒舌ではある。しかし、本当はいかなる説明も失敗に終わることを彼は知っていたのではないか。
女性を語ることのこの失敗はあるひとつの余地を残している。その余地とは何か。ダンテの『神曲』には、地獄の最下層であるジュデッカで氷に封じられたルシファーが描かれている。ヴェルギリウスに連れられて、ダンテはルシファーづたいに捩れた空間を辿っていく。すると、その先は煉獄、つまり、天国への道のりに不意に出るのである。女性を語ることの失敗は、このダンテ的宇宙の不思議な反転可能性の印を帯びている。たしかにそれは失敗には違いないのだが、その失敗は自らの成功の肩を叩くのだ。成功と呼ぶかどうかは別として、この失敗はどこかに通じている。そこへのドアが開かれていることに読者は気づくだろう。その先の旅は、自分で歩くしかない。いや、その先の旅も、「高丘親王」は案内してくれるかもしれないのだが。
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[2004年6月14日]
■哲学内部の専門化と細分化による党派的分裂を乗り越える視点
ヨーロッパ大陸の哲学(1冊でわかる)
サイモン・クリッチリー〔著〕 佐藤透訳
本体: \1,400 岩波書店 B6判 / 183,9p
ISBN:4-00-026872-4 発行年月:2004.6
野家啓一の解説によれば本書は「羊頭狗肉」ならぬ「羊頭牛肉」だと言う。「単なる入門書」以上の読書ができるよ、というお墨付きなのだ。1960年生まれのクリッチリーは、ポスト・デリダの思想家群像の中でもっとも若い世代に属している注目株。既訳には、デリダやローティらとの共著『脱構築とプラグマティズム』(法政大学出版局)があるが、単著の日本語訳は今回が初めてだ。本書はヨーロッパの哲学のいわゆる概説書ではなく、哲学の伝統をどう受け継ぐのかを問うている。具体的には、ヨーロッパの「大陸哲学」と英米系の「分析哲学」の分離と分岐を、カント以後の哲学史をたどりつつ検証し、二つの潮流の「党派的」対立を乗り越える境位を現代の哲学の課題として明晰に模索しているのである。それは、学問領域の専門職業化は哲学の批判的機能を弱体化させる、と考えるためだ。専門職業化以前の哲学への遡行は、知恵と知識とのギャップ、あるいは世界の科学的把握と人生の意味を知ることとの間を埋める努力に対しての再認識を伴う。現代哲学の閉鎖的な難解さに違和感を感じてきた読者は必読だ。
原題:Continental Philosophy
著者:Simon Cricthley
発行年:2001
■古代で最大のディアスポラ都市に生きた哲学者が説く、魂の自由
観想的生活・自由論(ユダヤ古典叢書)
アレクサンドリアのフィロン〔著〕 土岐健治訳
本体: \4,800 教文館 A5判 / 161,6p
ISBN:4-7642-1927-1 発行年月:2004.5
古代ギリシア哲学とユダヤ教の綜合を目指したとされるユダヤ人思想家フィロンは、イエスの同時代人で、かの大図書館で知られた地中海沿岸のエジプトの国際都市アレクサンドリアで活躍した。戦後の翻訳単行本では『フラックスへの反論/ガイウスへの使節』(京都大学学術出版会)を数えるのみであり、本書もまた貴重な成果だ。「観想的生活」は、キリスト教修道院の成立前史と位置づけられるテラペウタイの人々の信仰を紹介する。テラペウタイとは、神を観るための精神的生活を実践している人々であり、欲望や財産への執着からの離脱を身上としていた。いっぽう「自由論」でも、神に仕える魂の自由が論説されている。貧富の差や、支配/被支配の違いが人間の自由を決定するのではないことが力説される。フィロンのこうした思想は中世におけるキリスト教神学の滋養となった。本書を含む「ユダヤ古典叢書」では先に『ミシュナ』を刊行している。驚嘆すべきラインナップだ。
原題:De vita contemplativa / Quod omnis probus liber sit
著者:Philo Judaeus
■神学と懐疑主義の両極を巧みに回避し展望した、知性の新天地
人間知性研究
デイヴィッド・ヒューム著 斎藤繁雄+一ノ瀬正樹訳
本体: \4,700 法政大学出版局 A5判 / 285,7p
ISBN:4-588-15036-7 発行年月:2004.5
イギリス経験論の極北に屹立する哲学者ヒュームの主著『人間本性論(人性論)』の第一巻「知性について」をより平明に書き改めたものが本書『人間知性研究』である。巻末には『人間本性論摘要』を収める。『人間本性論』は岩波文庫版が品切、法政大学出版局より刊行中の新訳第一巻も品切で残念。スコラ哲学に呪縛された知を解放する「革命家」だったヒュームは、神学に対しても懐疑主義に対しても厳しい論駁を加えた。人間がもつ脆弱な理性によっては神を把握することなどできない。しかし一方で、すべてを疑いつくすような行為は、疑うことすらも不可能になるような論理的自壊に至らざるを得ない。その両極を巧みに回避し、理性や知性の為しうることを厳密に評定しようと試みたその姿勢は、カントの批判哲学へと受け継がれていく。渡部峻明による既訳『人間知性の研究・情念論』(晢書房)がすでに入手不可能なので、今回の新訳出版は朗報だ。一ノ瀬正樹による長文の丁寧な解説「ヒューム因果論の源泉――他者への絶え間なき反転」も有益。
原題:An Enquiry concerning Human Understanding
著者:David Hume
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[2004年6月21日]
■見えるものが世界のすべてではない。心地よく、深くリラックスするための一冊
気の発見
五木寛之著 望月勇対話
本体: \1,200 平凡社 四六判 / 225p
ISBN:4-582-83220-2 発行年月:2004.5
『元気』(幻冬舎)に続き、作家独特の「気」の思想が平易に語られている好ましい一冊。本書は、ロンドンでヨガ気功教室をひらいている著名な気功家を相手に、『他力』(講談社文庫)以後の新境地「他利気」の世界をさぐる対話となっている。気は見えないものだが、感じることはできる。科学的証明が不可能なものなど信じないという現代人の傲慢さはむしろ、狂信に等しい。分からぬものがあることを素直に認める方が大切だ、というのが作家の立場だ。対話者の望月は、気が人間同士だけでなく、動植物にも通じるエネルギーであり、それが宇宙に無限に満ちていることを教える。だから気功治療は飼い犬や猫にも効くのだ、と。不思議な話だけれども、納得できる。ヨガでは呼吸法が大事だとされるが、深呼吸が気分をリラックスさせることは現代人でも日常的に知っている。その日常が本当は深い思想へと繋がっていることを、本書は様々な実例を引いて示す。気の発見は現代人の生活のすぐそばにあるわけだ。
■若き日の警官殺しや投獄後の拷問までが赤裸々に語られる半生記
闇からの光芒 マフマルバフ、半生を語る
ハミッド・ダバシ著 市山尚三訳
本体: \1,800 作品社 四六判 / 270p
ISBN:4-87893-588-X 発行年月:2004.5
イラン生まれのコロンビア大学教授ダバシによる、マフマルバフへのインタビュー2本に、マフマルバフによる序文と、ダバシのマフマルバフ論を添えた一冊。日本版独自編集である。イランの映画作家マフマルバフと言えば、『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(現代企画室)によって日本の読書界でも広く知られるようになった。本書では、15才の折に武装革命集団を結成し、17歳の折に警官殺しで投獄されるなど、衝撃の半生が一本目のインタビューで明らかにされる。79年のイラン・イスラム革命後、彼は小説家兼出版者として再出発し、82年から映画を撮り始める。社会悪に正面から向き合ってきた彼の心情が強く語られていて、迫力満点だ。2本目のインタビューでは、2001年の映画作品『カンダハール』を糸口に、長期にわたる戦火に破壊されたアフガニスタンの悲惨な現実や、〈9.11〉事件などがストレートに語られる。巻末にフィルモグラフィあり。スチルも多数収録。
■ドゥルーズ思想が沈黙へと潜行する前の、最終局面を映す貴重な痕跡
狂人の二つの体制 1983−1995
ジル・ドゥルーズ〔著〕 宇野邦一監修
本体: \3,500 河出書房新社 四六判 / 315p
ISBN:4-309-24311-8 発行年月:2004.6
本書をもって、ドゥルーズが生前発表したテクスト群はほとんどが日本語訳されたことになると言っていいだろう。片鱗すら知られず、翻訳もされぬままで終わるその他大勢の思想家に比べれば、何という幸運だろうか。83年の「『ニーチェと哲学』アメリカ版への序文」から、95年の「内在――ひとつの生」まで、35編を収める。この時代のドゥルーズは、映画論2冊を上梓し、フーコー論やライプニッツ論、ガタリとの共著『哲学とは何か』などを出版。健康は思わしくなかったが、思考が途絶えることはなかった。投身自殺の痛ましさゆえだろうか、晩年の著書の舞台裏を伝える本書は、後半に近づくにしたがってある種の切迫感を読者に与える。年若い弟子であるパッセローネやアリエズらの著書に序文を寄せ、同年代のシェレールとともに湾岸戦争を「汚らわしい」と罵倒し、急死した親友ガタリへの溢れる思いを書き留める。そして死のわずか前に発表した最後の論文は「ポテンシャル」をめぐる豊穣な思惟へと開かれたままに終わる。いや、それは終わりなのではない、始まりなのだ。
原題:Deux regimes de fous
著者名:Gilles Deleuze
刊行年:2003
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[2004年6月29日]
■「頭に良い」だけのサプリ系ドリルにはない深みと広がりに出会える、特異な入門書
心脳問題 「脳の世紀」を生き抜く
山本貴光+吉川浩満著
本体: \2,100 朝日出版社 B6判 / 361,19p
ISBN:4-255-00277-0 発行年月:2004.6
「頭に良い」という名目の食事やらサプリメントやら、はたまた運動やら大人向けの基礎ドリルなどが世間で注目され喧伝されている昨今、そもそも「アタマ」って何だろうと考えてみてもなかなか分からない。そうした日常の疑問が実は有史以来の難問に直結していることを教えてくれるのが本書。ウェブサイト「哲学の劇場」を主宰する二人による、初の書き下ろし作だ。社会学者の大澤真幸が「驚くような指摘/めくるめく展開」と絶賛している。本書は「脳情報のリテラシー(読み解きかた)」を読者に提供することを目的としている。つまり、脳科学を易しく解説することに終始するのではなく、そもそも脳をめぐるさまざまな研究書や啓蒙書が現代人にとってどのような意義を持ち、より平たく言えばそれらの情報がどのように私たちの生活、生きることに関わりあってくるのかを整理してくれているのである。著者は二人とも専門家でない分、読者の目線に合わせた説明を心がけていて好感が持てる。巻末の書籍ガイドも充実。
■グローバリゼーションによる世界変動の明暗を透視する、文化人類学の新境地
さまよえる近代 グローバル化の文化研究
アルジュン・アパデュライ著 門田健一訳
本体: \3,800 平凡社 四六判 / 425p
ISBN:4-582-45227-2 発行年月:2004.6
1949年にインドに生まれ、70年代からアメリカで教鞭を執っている著者は、クリフォード・ギアーツ(1926-)以来の「文化人類学」の革新を担う新世代の一人である。本邦初訳。西側諸国にもよく知られたインド出身の知識人と言えば、セン、シヴァ、スピヴァク、バーバなどがいるが、共通しているのは、脱西洋(的価値観)の視座である。アパデュライは長年の地域研究の成果から、グローバル化時代の世界においては、「ディアスポラの公共圏の拡大」や「ポストナショナルな新秩序」によって、従来の国民国家が支えてきた近代性が揺らいでいることを指摘する。近代性の揺らぎは裏返せば国民国家の衰退を意味する。世界が変わりゆくことの積極的側面と消極的側面を測定する、トランスナショナルな文化研究へと著者は向かう。巻末には吉見俊哉による懇切な解説「グローバル化の多元的な理解のために――アパデュライの非決定論的アプローチ」が収録されている。
原題:Modernity at Large
著者名:Arjun Appadurai
刊行年:1996
■政治や文化、学閥や伝統を惑星的に越境していく新しい比較文学への道のりを示す
ある学問の死 惑星思考の比較文学へ
G.C.スピヴァク〔著〕 上村忠男+鈴木聡訳
本体: \2,600 みすず書房 四六判 / 210p
ISBN:4-622-07093-6 発行年月:2004.5
2000年5月にカリフォルニア大学アーヴァイン校で行われた連続講演をもとに、2年間の推敲を経て刊行されたのが本書だ。一流の研究者を毎年招聘している伝統あるウェレック・ライブラリー講演だけに、気合の入り方が違う。西欧中心主義的な比較文学の伝統の終焉を宣告し、グローバル化時代における新たな比較文学の誕生を、これまでの自らの研究履歴を陰に陽になぞるかたちで語っているのだ。たいした自信だが、傲慢だと切り捨てておけるほど本書は安くない。従来の伝統から「原典を精読する技術」を受け継ぎつつ、他者へのまなざしをいっそう精緻で繊細なものにするために、地域研究や人類学、文化研究やポストコロニアル研究などの成果を「脱政治化」の立場から活用しようとするのである。政治や文化や学閥などの史的境界を越え、なおかつグローバリゼーションの尺度ではない「惑星的」な思考へと読者は誘われる。スピヴァクの学問的スタンスが如実に表現された注目の一冊だ。
原題:Death of a Discipline
著者:G. C. Spivak
発行年:2003
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