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■『〈帝国〉』から『ホモ・サケル』へ / 五月
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「私はアガンベンの著作をつねに読んできたが、これまでに書評を書いたのは1982年に刊行された『言語と死』についてだけだった」とネグリは2003年7月26日付けの「イル・マニフェスト」誌で告白している。アガンベンが同年5月に刊行した『例外状態――ホモ・サケル第二部第一巻』について論評した記事の冒頭である。
注意深い読者ならすでにご存知だろうと思うが、アガンベンとネグリは、いくつかのキーワードをめぐって相互参照される関係にある。それらのキーワードを思い切って一括りにするなら、バイオポリティクス、つまり「生政治」である。互いの著作について言及し合い、評価し合いながらも、彼らは自分たちの政治的展望の差異をよく弁えているようだ。
アガンベンとネグリの政治的展望の違いとは何だろうか。それは端的に言って両者の視線の違いである。興味深い例を挙げよう。それはメルヴィルの小説、『バートルビー』をめぐる評価の違いに現れる。
この小説の主人公バートルビーはウォール街の代書屋に働く人物であり、有能ではあるが協調性に欠ける内向的な青年である。彼はある時から突如働くことを拒否し出す。ほどなく当然クビになるのだが、彼は会社に居座り続ける。居座り続けること以外のすべてを拒絶するようにして、彼はやがて衰弱死する。
アガンベンはこのバートルビーのうちに権力に対するもっとも強烈な異議申し立ての稀少な例を見るが、ネグリにとってバートルビーとは、絶対的な労働拒否の一例ではあってもやがて死んでしまう無力な自殺者である。アガンベン『ホモ・サケル』第一部「主権の論理」の第三節「潜勢力と法」(特に邦訳書74頁)と、ネグリ+ハート『〈帝国〉』第二部「主権の移行」の第六節で「拒否すること」と題されたパート(邦訳書264頁〜267頁)を参照されたい。
この視線の差異によって、両者は別々の道を歩むことになる。まずネグリは、権力への抵抗は、衰弱死へと至る孤独な拒否ではなく、別の生き方を集団的に創設していくものでなければならない、と考える。既成権力が支配する政治圏から外に出ること、それを彼らはエクソダスと呼ぶが、アガンベンにしてみればそうしたネグリの革命思想はどこかしら論理の飛躍があり、エクソダスは非常に興味深い試みではあってもユートピア主義以上のものたりうるわけではない。
アガンベンは権力の磁場から逃れることの困難さを見つめるが、ネグリは権力の磁場そのものを変えてしまおうとする。この違いを紋切り型に表現して、アガンベンを悲観主義者、ネグリを楽観主義者と呼ぶことは、しかしながら慎重に避けねばならない。
アガンベンは磁場そのものを変換することができない、と述べているわけではないし、彼の志向性は孤独な場所に閉ざされていくものでもない。アガンベンは一昨年(2001年)の年末に初来日を果たした折、立命館大学で「内戦と民主主義」と題する講演を行い、討論において「資本主義という〈機械〉を停止させること」の重要性を述べた。
続く東京外語大のシンポジウムにおいても、彼はこの言葉を「こんにち哲学の使命とは何か」と質問した東浩紀氏に応答するかたちで述べた(当時のメモが見当たらず、記憶で書いていることをお断りしなければならない)。ネグリとは別のかたちで、アガンベンもまた悲観せずに世界を変えていくことを目指しているのだ。
アガンベンの思想が孤独な個人主義へと閉じていくものでもないことは、『ホモ・サケル』に先行する『来たるべき共同体』(未訳)で読み取ることができる。ネグリの場合、民衆による集団的な改革と新たな共同体の希求をマルチチュードという概念に託したが、アガンベンの場合はイグザンプル、つまり「例」という概念に彼の共同体論の基礎を仮託することができる。
イグザンプルという概念に、アガンベンは普遍性と個別性を結ぶ鍵を見る。例的存在は、類的普遍的な意義を有すると同時にあくまでも個体的な特異性を保持している。人間は一人一人が個人であると同時に、人類の一員でもある。そうした両義性をイグザンプルという概念は担っている。
普遍性をも帯びた個人の尊厳は、イレパラブルとも言い換えられる。修復できないもの、別の何かで償えないもの、かけがえのないもの、それがイレパラブルだ。アガンベンは次のように説明している。イタリア語新版(2001年)の73頁、英訳版(初版よりの翻訳、1993年)の90頁を参照されたい。
「かけがえのない一回性のもの[イレパラブル]とは、物事がこうであったりああであったりというあるがままの状態であること、いささかの矯正や修繕も必要ない、存在するがままにゆだねられた状態である。物事が存在するということがイレパラブルなのであって、どのように存在しようと、例えば、悲しかろう、あるいは幸福であろう、最悪であれ恵まれているのであれ、あなたがどのような存在であれ、世界がどのようなものであれ、それらはかけがえのない一回性のもの[引き返しようのない、そして取り返しのつかないもの]なのだ」。
どのような存在であれ、あるがままの任意性を認め合うこと、これがアガンベンにとって共同体の倫理の基礎となる。『来たるべき共同体』はたった一度だけ、『〈帝国〉』の注で参照を指示されている。注が付された本文に立ち返ると、アガンベンの名は出てこないが、彼の言うイグザンプルの概念は積極的には評価されてはいないように思える。不当とは言わないがここに不満は残る。
アガンベンは個々の存在のかけがえのなさに対する「愛」について述べ、その愛によって成り立つ共同体の基礎を示唆する。周知の通り、「愛」の思想といえば、ネグリの方がはるかに明示的に、熱烈かつ積極的に語ってきたから、実際、「アガンベンと愛の思想」というテーマはほとんどその影で霞んでしまうだろう。
しかし、強調しなくてはならないが、『ホモ・サケル』における冷徹な権力分析の言説の裏には、『来たるべき共同体』における希望の思想があるのである。また、ネグリによる愛と希望の思想の裏には、冤罪による絶望的な投獄と亡命の苦々しい日々が色濃く反映しているのだということも、指摘せねばならない。ネグリの愛は絶望を突き抜ける快活さであり、現実を塗り替えようとする強い意志の現れである。一方、アガンベンの愛は、『ホモ・サケル』におけるリアリズムにもかかわらず、きわめて理想主義的な側面を垣間見せるのだ。
ネグリの思想的パートナーであるマイケル・ハートは、『〈帝国〉』をめぐって2000年に行われた、トーマス・ダンとの対談「主権、マルチチュード、絶対的民主主義」において、こう語っている。「『〈帝国〉』の議論は、アガンベンの『ホモ・サケル』と、いくつかの中心的関心を共有しています。特に、主権と生権力についての考えをめぐって」。このあとハートは、アガンベンの重要性を十分認めつつも、主権の暴力を収容所の表象に集約させる挙措には、懸念の意を表している。
冒頭に掲げたネグリの書評の英訳と、今しがた引用したハートの対談はどちらも下記のウェブページで閲覧できる。読解の正確さの当否は置くとして、たいへん示唆的で興味深いので、ぜひお読みになっていただければと思う。 [2003年10月18日]
16beaver, Monday Reading Group - Agamben’s Homo Sacer - 08.15.03
http://www.16beavergroup.org/monday/archives/000374.php
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初出:「[本]のメルマガ」第156.5号
臨時増刊号・バイオポリティクス5「特集:ホモ・サケルをめぐって」(2003年10月20日配信)
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