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■「現代思想の最前線」/五月(ごがつ)
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番外編 こんにちブランショを読むということ――『問われる知識人』と『待つこと・忘れること』
さすがに二ヶ月連続休載は嫌だな、と思いつつ、本業も忙しい、副業も忙しいときて、さらにいくつかの理由があって、とても書ける状態にない私。以前も少し愚痴を書いたが、勤め人だった時代より、独立している今の方が、最新情報が流しにくくなった。というのも、私が関心をもって調査している事柄は、たいてい自分自身の本業である出版社の企画として練り上げていくことが多いので、進行がきっちり固まらないかぎりはなかなか公開しにくい。へえ、そういうこともやるんだ、と読者の皆さんに思っていただけるような事前情報が手元にたしかにあることはあるのだが。
今回は少し現状報告をして、次回の予告にかえておきたいと思う。
昨年好評だった、三省堂書店神田本店4F人文芸術書フロアでの、人文社会系英米語洋書フェアを今年もやることになった。担当者は、今年は英米語以外の書目も揃えてみたい、とにこやかに言う。ドゥルーズだの、ソシュールだののフランス語の新刊も、今までたしかに順調に販売してきたから、当然の判断だろう。ネグリやアガンベンなどのイタリア語の新刊も入荷させているし、更なるチャレンジといったところだ。
予定では開催は、12月中旬からになる。いっぺんに入荷してくるのではなく、続々と入ってくるかたちなので、週をおいて何度か通っていただいてもその都度新しい書目に出会えるのではないかと思う。昨年の例にならい、ウェブ上でブックリストやフェアの情況をお知らせします。2002年の一年間で刊行された洋書を振り返る今回の記事は、来月から2回連続お届けする予定です。
ちなみに昨年の様子は http://biblia.infoseek.ne.jp/g
を御参照ください。
本業の月曜社の仕事についても少し書きます。私はモーリス・ブランショがとても好きなのですが、このたび彼の短編評論『問われる知識人――ある省察の覚書』(46判128頁、本体価格1800円、ISBN4-901477-04-8)を刊行することになりました。本日が取次搬入日なので、店頭にはだいたい今週末までには並んでいるだろうと思います。訳者は東大の院生の安原伸一朗さん。ブランショの近況について「訳者あとがき」で書いてもらいましたので、興味のある方はご覧になってください。知識人とは何かということとその社会的役割を問う、短いですが気合の入っている好著です。フランスの『デバ』誌に84年に掲載された時のテクストが、日本では翌年、雑誌『ユリイカ』のブランショ特集号に西谷修さんの訳で掲載されていますが、その後、原テクストは加筆されて、96年に単行本化されていました。原題は"Les
intellectuels en question"です。
http://biblia.infoseek.ne.jp/getsuyosha/news.htm
ブランショは1907年生まれですが、まだ存命中のようです。日本では後期の重要な評論を除いて、ほとんどが邦訳されていますが、多くは手に入らなくなっています。私としては、今後もブランショに取り組んでいくつもりです。
なにやらすっかり「ですます」調になっている。加えて、さきほどからしゃっくりがとまらない。なんとなく胸の感じもよくない。
ブランショのこの新刊のポイントは、排外主義やファシズムや戦争の回帰にいかに抵抗するか、その観点から知識人論を展開しているところだ。初稿が書かれたのが80年代とはいえ、今も非常にアクチュアルである。というか、80年代からいっこうに世界情勢が良くなっていないことに慄然とせざるをえない。
『ユリイカ』のブランショ特集号には、清水徹さんと蓮實重彦さんの対談が掲載されていて、80年代半ばの当時、蓮實さんはこの知識人論について、なぜブランショが書いたのか、「まるっきりわからない」と発言している(『ユリイカ』1985年4月号、特集「モーリス・ブランショ」135頁)。私はこの一節を、蓮實さんの総長時代に読み返して思わず吹き出してしまった(「総長時代に読み返して」の部分に強調の傍点を付して読んでいただきたい)。わからないのか、ホントに。いや、むろん、蓮實さん一流の弁舌であって、そう述べる上でのきちんとした当時のコンテキストや戦略があるのだけれど、それでもこの80年代半ばの日本の思想情況に思いを巡らして、やっぱり笑ってしまう。西谷さんの付した解説とのコントラストは明白だ。この対談では、蓮實さんの発言を受けて、清水さんは相槌を打っているが、清水さんが同意していないのもまた、明白である。
知識人の役割について語ることは、当時の日本では「まだ」重要ではなかったというのだろうか。蓮實さんは「あれは一貫してジャーナリストの問題でしょう。知識人の問題じゃない」(前掲誌136頁)と述べている。ブランショの政治的発言を「ジャーナリストの問題」と捉え、知識人と政治を分離するかのような、80年代日本の知的情況には、省察に足る深刻な盲目性が潜んでいるのではないか。
ただし、蓮實さんが「この人、人をだましているんじゃないかという気が、しないでもないんですけどね(笑)。それとも……」と言いかけたその含蓄については、私は軽く聞き流したくない。清水さんがその場を引き継いだことにより、この後の言葉はいったん飲み込まれるのだが、ブランショをどう読むかということについて、蓮實さんは直感的に面白いところをついているように思う。
西谷さんは近年とみに多忙で、今回の安原さんの新訳となった。安原さんにはすでにデリダやナンシーの共訳があるけれども、今回初の単独訳である。そういえば、安原さんとのご縁もこの「[本]のメルマガ」だった。温厚な人柄と、丁寧な翻訳作業で、今後ますます活躍の場を広げられるだろう。ご自身は、ブランショの青年時代の政治へのかかわりについて研究されている。ジェフリー・メールマン(『巨匠たちの聖痕』国文社)とは別の角度からブランショの態度の変遷を追っているその研究は、いつの日か、単行本化する出版社も出てくるだろうと思う。
最後にブランショをめぐる感想をひとつ。私は、たいていの読者がそう思っているらしいように、ブランショは批評家としては一流だが、小説家としては一流ではない、とこれまで生半可に感じていた。しかし最近、この評価は180度覆すべきであることがはっきり分かった。それは、『私の死の瞬間』(未来社)を読み、『白日の狂気』(朝日出版社)や『謎の男トマ』(筑摩書房)や『死の宣告』(河出書房新社)などを読み返して分かったことだ。特に、『待つこと・忘れること』(思潮社)の平井照敏さんの翻訳と解説を読んで、確信するに至った。この本は、早くも66年に刊行されているのだが、のちに故・豊崎光一さんによる新訳(『期待/忘却』が白水社から出て、訳稿をより深く推敲したがっていた平井さんの版はその後途絶えた。私自身も豊崎訳を読んだから、という理由で、つい最近まで平井さんの訳を読まなかった。というか、なかなか古書市場に出ない書目だったのである。
ところがここ数週間の内に幸運にも平井訳を入手し(高かった)、寝る前や移動時に読んでいたのである。これがハマった。豊崎訳とは一味違う。私はまったく新しい1冊としてこの本を読んだ。いや、読みつつある。せかせかと読み進めるのがもったいなくて、ゆっくり読んでいるのである。断章形式なので、適当に開いて読む。そして閉じる。装丁のタイポグラフィも素敵だ。フランス装で角背だけれど、いまどきの開きにくい無線とじのものとちがって、紙質が柔らかく、しっかり開きやすい(糸とじには見えないのだが)。私はどうも無線とじは好きになれない。月曜社の本がそうじゃないかって? その通りです。すみません(例外的に森山大道写真集『新宿』は成功しているが)。
『待つこと・忘れること』の書影(KGさんのサイトより)
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4761/imageAOcouverture.jpg
その平井さんの解説に、こんな一節があった。少し長くなるが、引用したい。
「レシとは、もっとも本質的なものだけをかたり、ひいては本質そのものであろうとして、ロマンからあらゆる夾雑物をのぞきさった、ひとつの絶対探究の方法なのである。レシにおいては、ロマンがあばかれ切りすてられて、まじりけのない骨組だけにされている。ナレーション、エピソードといった外的、人間的な要素は、本質をおおいかくすものとして放棄されている。
中核だけをのこして、すっかりむきだしになったレシは、なるほどロマンよりも貧弱で、想像性に乏しく、人間の日常的な時間にむすびつくこともすくなく、とくに出来事などはほとんど記されることがない。けれどもそれは、ロマンがもうすすめなくなったところからすすみはじめる力をもっているのだ。それがつねにかわらずにかたる力をもちつづけているものだからである。
ロマンとはたえず、ここと今とにかかわっているもので、きわめて人間くさい作品であるから、それは本質への道をすすみはじめようとはせず、本質をとりまく外の囲いであともどりしはじめてしまう。それを出来事のあいだの関係をえがくものだとすれば、レシはその出来事そのもの、その出来事の接近、その出来事の生ずべき場所、さらには来るべき出来事たらんとするものということになる。ブランショがとくにおもんじているのは、このやがておこるべき出来事であって、その誘引力によって、逆にレシが実現されてゆくことが期待されている。」
靄がかった私の直観は卒然とかたちを帯びた。小説(ロマン)ではなく物語(レシ)というわけは、そういうことなのだ。それは私自身も模索してきた方法論だった。ブランショは批評で論じていることを、レシでしっかり実践している。そう思ったのだった。更に、本書『待つこと・忘れること』はハイデガーやレヴィナスらの思想との関係において、非常に示唆に富んでいる、との認識が以前よりもっと深まった。未訳の『彼方へ一歩も』や『堕星のエクリチュール』ではより複雑化しているが、ブランショは時間論において、ハイデガーを乗り越えていると私は思う。
ロマンとレシ。ある種の人間は、ロマンを不誠実なものとみなし、レシへとおのれの表現を引き絞っていく。その人はオッカムのかみそりを手に、余分な肉をことごとく削いでいこうとするのだ。「あるのはフィジカルにして、メタ=フィジカルな消滅、忘却と引き算だけだ」。そう書いたのはとある名編集者である。その人の書く通り、そうした「別の流儀」があることを私は確信している。[2002年11月23日]
初出:「[本]のメルマガ」第124号(2002年11月25日配信)
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