[本]のメルマガ」誌より部分転載

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■「公開討論『絶版論争:なぜ再刊できないか/いかに再刊するか』」
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第1回:絶版の良書をまとめて再刊してくれる版元はないものか?

○読者の本音を知りたい(本誌編集同人・五月)

qqnさん(仮名)は今春大学を卒業した。語学堪能な好青年で、出版社に就職を希望しているという。人文書の編集が彼の希望だ。共通の知人を介して知り合い、幾度か対話を重ねてきた。人文書の版元の編集者になるのはたやすいことではない。それは知的ハードルが高いという意味ではなくて、単に狭き門なのである。なぜ狭き門かというと、人文書の専門版元の数が他のジャンルに比べれば少なく、編集者の空きポストが少ないからだ。大学を卒業したとして、たいてい30年は現役で仕事をする。つまりその後を襲うには長い時間がかかるわけで、その辺は大学の教職ポストと事情が似ているかもしれない。ポストが空いた時に登用されるのはたいてい「経験者」だ。だから人文書の編集者になりたいなら、とにかく編集実務をどこかで学ぶなり経験するなりが重要になる。それからあとは、チャンスに応じて他社へ移ることもできる。そのためにはとにかく「出版村」に入ること。私はqqnさんと話していて、この「出版村」に入って色々なことを経験する前に、彼がいま抱いている、目に映るままの現実の業界像や、理想の出版社像を聞いてみたくなった。「出版村」に入ったあとには、純粋な読者としての自分は失われることになるからである。私のような経験者から見れば「純粋な」その意見が聞きたくて、彼に尋ねてみた。以下が彼の応答である。

○一読者からの「義憤」と「期待」(qqn)

八百字ほどいただいて、この機会に人文系出版に対する憤りをぶつけてみたいと思います。単純なことです。絶版・品切れが多すぎる、これはいったい何故なのか。しかも、基本文献(このような言い方は権威主義的でもあり好むところではないのですが)と言われて然るべきものが、古書店でしか入手できない、というのは如何なものか。もちろん、それに対する新しい試みというのも知っています。しかし、《書物復権》にしてもどれほど本気なのか(今年のラインナップと、それに寄せた鹿島茂氏の文章って、完全にすれ違っていたでしょう?鹿島氏に(そして読者にも)失礼です。あるいは、去年にはグリーンバーグの『近代芸術と文化』がリストアップされていましたが、結局復刊されなかったのは何故でしょう、不可解としか言いようがない。英語で読めという教育的配慮か。なるほど素晴らしい)、《リキエスタ》にしても同様のことを思います(趣味人のための読み物を提供する、そんな印象を受けます。それを否定はしませんが、それ以上にラディカルにオンデマンドを活用する法があるでしょう?)。重要な本であれば、新刊書として堂々と刊行していただきたいわけで、どなたかの言葉でいえば“文脈”を見いだして売り筋を見つけていくということは可能だと思うのです。編集者あるいは書店員のセールスの基礎体力が弱っているのではないか、とは言い過ぎでしょうか。たとえば、この間たまたま調べて狼狽したのでついでに書いてしまいますが、ちかごろトニ・ネグリの新刊の翻訳が競って刊行されようとしている、それはまったくご同慶の至りですが、一方でその文脈で出てきてよかろうスピノザ、しかし、われわれが読めるスピノザは、『エチカ(倫理学)』しかないのです。吃驚。というかコマッタな。あるいは、昨日書店で見つけたので、これもついでに書いてしまいますが、たとえば『必読書150』太田出版のような挑発を受けて、150のうちの幾つかを絶版・品切れにしている他の出版人はどう応対するのか(「これを読まなければサルである」と。では「これを読ま」せないなら何なのか? 「サル」以下か?)。しかし、こんなことを言うのも、反語ではなく、もちろん期待しているのです。というかお願いですから、なのです。入手不能な物の出版権を買い取って、ぜーんぶ出してくれる、そのようなドンキホーテを買って出てくれる出版社・出版人が出てこないものなのか。如何でしょう。以上、乱筆御免。

○qqnさんへの応答の手前で(五月)

たしかに絶版・品切は悲しい。私もそう思う。なぜ絶版になるのだろうか。なぜ絶版にしたままなのだろうか。出版社の都合なのではないか、と疑問を呈する向きも読者にはあるだろう(qqnさんは一概にそう述べているわけではないけれども)。出版社の都合や判断というものは確かにある。忘れてはならないのは、その都合や判断は、市場を通じて、世間の文化状況や読者の日常と繋がっているということだ。つまり、出版社がいかにある書目を絶版に処すに至ったかを問うだけでなく、読者はある種の書物をどう遇したか、流通や小売を含めた市場がどう扱ったか、を問う視点も重要なのではないかと思う。それは単純な犯人さがしではありえない。文化政治的、構造的問題に私たちは逢着するだろう。私はqqnさんの疑問と希望をそのまま人文書版元の編集者にぶつけてみることにする。なぜ絶版なのか、そして「いかにすれば再刊できるのか」。

この公開討論「絶版論争:なぜ再刊できないか/いかに再刊するか」は、本号より不定期連載で、読者と出版人の声を採録していく。業界の内と外の温度差どう理解するか、それぞれの本音を聞きながら、次号でまた考えてみたい。討論の口火を切ってくれたqqnさんに感謝します。

●qqnさんプロフィール:今春某大学を卒業、就職活動中。一言求めたところ「仕事下さい。読書は年間100冊ていど。ジャンルは何でも。目下、思潮社の『現代詩文庫』を片っ端から読んでいこうかと。詩は苦手なんですが」と。

 

初出:「[本]のメルマガ」mailmagazine of books vol.103 [新連載2本スタート! 号] 2002.4.25.発行より。

(C) 2002, qqn and Gogatsu

 

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第2回:絶版と品切重版未定との違いが読者に伝わっているか

○版元の声に耳を傾ける(本誌編集同人・五月)

前回は議論の口火として、人文書編集志望のqqnさんのコメント「一読者からの『義憤』と『期待』」をご紹介した。基本文献に絶版や入手不可能な書目が多くないか、という氏の疑問はまったくまっとうなものだった。なぜ再刊できないか、あるいはいかに再刊するかという問題として氏の意見を引き受けるならば、出版社は各社なりの意見を持っている。月刊『未来』誌などで活発に業界への提言を行っている西谷能英さんから手短なレスポンスをいただくことができた。西谷さんは未來社の代表取締役として人文書出版社の経営に携わっておられるだけでなく、書籍編集者として四半世紀を超えるキャリアを持っている。同社の「ポイエーシス叢書」を手がけられているのは西谷さんだ。

○専門書重版のむずかしさ(未來社代表取締役・西谷能英)

「本のメルマガ」編集同人から「公開討論『絶版論争:なぜ再刊できないか/いかに再刊するか』」に人文書版元の立場から参加せよ、との依頼を受け、参考に送ってくれた読者qqnさんの「一読者からの『義憤』と『期待』」を読んだ。qqnさんの意見にはなるほどという側面もあるが、単純な誤解もあるので、このさいきちんと理解してもらったほうがいいと思い、この一文を草する気になった。ただし、わたしは人文書版元全体の意見を述べる立場にいるわけではもちろんないので、あくまでも未來社という弱小版元で経営と編集実務をおこなっている者の立場から意見を述べたいと思うだけであることをあらかじめ了解してもらいたい。それから「絶版論争」というものが成立するとも思えないので、このネーミングはあまり適切でなかろうということもあらかじめ言っておきたい。

 さて、まず議論の混乱というものがもしあるとしたら、〈絶版〉と〈品切れ〉もしくは〈品切れ重版未定〉といった業界用語があいまいに使われていることがひとつの原因であろう。〈絶版〉とはもともと活字時代の文字通り〈版〉を断つこと、つまり紙型を破棄することによって事実上重版を不可能にすることであった。出版社が重版の可能性を放棄することを意味した。もっとも最近では本から直接写真どりすることも可能になったし、そもそも紙型などもはや存在しない。その代わりになるのがフィルムだが、これさえも最初から残さないで印刷することが可能である。また、多くの文庫出版社のように重版を最初から考えずに出版しているところもある。こういうところでは品切れ即絶版に等しいのが実情である。しかしすべての出版社、とりわけ専門書出版社はそういう一発勝負をしているわけではない。限られた営業力、宣伝力でそれでなくても売りにくい専門書をコツコツ売っていかざるをえないのである。ただ自社出版物が長く売れてほしいという願いと意地があるから最初から重版を断念するようなことをしないだけである。

 通常、出版社に在庫切れの本がある場合、出版VANや書協データベースなどでその在庫ステータスとして〈品切れ〉という呼称がまかりとおる。委託制主流の出版界では版元在庫切れであっても(とくに新刊など)書店や取次にかなりの在庫が売れ残っていることが多い。こうした場合、版元は注文品に応えるには返品を待つか、重版するしかないが、最近の本の動きの悪さから重版を見合わせ、返品待ちに頼ることが多くなる。よほど注文が多ければ重版するが、たいていはしばらく読者に我慢してもらうことになるようだ。未來社のような注文制(買切制とも呼ばれる)をとっているところでは、品切れになれば重版のメドも立てやすいが、それでも重版後になんらかの返品を覚悟しなければならないので、慎重にならざるをえないのである。重版することはある程度売れている実績なしには考えられないが、それでも重版した分が売り切れる予測がたたないと、出版社はむだな在庫をかかえて四苦八苦することになる。倉敷料や税金を考慮にいれると赤字になってしまい、経営を圧迫することになる。こうしたリスクについては出版社のみが責任を負うという構造になっている。そのことを読者はあまりにも知らなさすぎるのではないだろうか。

 qqnさんの意見ではこれも「出版社の都合」ということになるのだろうが、たとえば〈書物復権〉についてもすべて復刊するとは最初からうたっていないのであるから、というよりすべて重版できないのがこれまでに述べてきた事情のとおりであるから、やむをえないことを了承してほしい。「基本文献」と呼ばれる本でさえもそうたやすく売れるわけではないのであるから、専門書出版社とその読者はこの厳しい現実にたいして共存こそすれ、敵対関係に立つべきではないと思う。(なお、〈書物復権〉にかんしては「未来」七月号の[未来の窓64]に書いたので読んでいただければさいわいです。未來社ホームページhttp://www.miraisha.co.jp/mirai/mado/mado.mokuji.htmlでも読んでいただくことができます。)

○さらなる議論へと門戸を開く前に(五月)

出版社側の判断と事情の、ほんの「さわり」の部分を西谷さんは簡潔に説明されたが、「紙型」「出版VANや書協データベース」「在庫ステータス」「倉敷料や税金」といった業界特有の参照項について、より詳しく知りたいと思われた読者の方がおられるかもしれない。たとえ知らなくとも、出版業界にはいくつかの「構造」がありそうだということにお気づきになられたかもしれない。たしかにそこには「構造」があり、原因と結果があり、複合的な諸力の流れがある。出版社にとっては、「絶版」は読む権利に対する問答無用の拒絶であるというわけではなく、じっさい拒絶を意図してもいない。重版できるか否かの議論は、出版社と著作権者のみの「聖域」ではなく、読者が参加しうる新たな沃野である可能性を秘めている(復刊事業は、そもそも読者の要求を反映させることを第一義としている)。これがいかなる沃野なのか(あるいは転用次第でいくらでも荒野となりうる)、時間をかけて見ていければと思う。たとえば同業他社の出版人はどう答えるだろうか。いましばらく版元サイドの複数の声を募ってみたい。

この公開討論「絶版論争:なぜ再刊できないか/いかに再刊するか」は、不定期連載で、読者と出版人の声を採録していく。業界の内と外の温度差をどう理解するか、それぞれの本音を聞きながら、引き続き考えていきたい。短い字数にもかかわらず、濃密かつ問題提起的な応答をお寄せいただいた西谷能英さんに感謝します。

●西谷能英(にしたに・よしひで)さん略歴:1949年生まれ。東京大学大学院フランス語フランス文学科修士課程修了。1992年より未來社代表取締役。著書に『出版のためのテキスト実践技法』(「執筆篇」「編集篇」ともに未來社より刊行)のほか多数。

※「書物復権」人文8社共同復刊?…復刊書目41点が決定、今月より発売中
http://www.kinokuniya.co.jp/01f/fukkan/fukkan_list.html

初出:「[本]のメルマガ」mailmagazine of books vol.109 [4900名様ジャスト 号] 2002.6.25.発行より。

(C) 2002, Yoshihide Nishitani and Gogatsu

 

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第3回:出版社の「特別意識」は読者への説明不足と表裏一体ではないのか

○読者と出版社との間の温度差(本誌編集同人・五月)

前回は読者の意見への応答として、専門書出版のオピニオン・リーダーの一人である未來社代表取締役の西谷能英さんからのコメントを掲載した。業界特有の「絶版」や「品切」といった言葉がいったい正確には何を意味しているのかを説明され、業界内外にそうした専門用語をあやふやに利用している節はないか、そこに議論の混乱の原因があるのでは、というご意見をいただいた。また、重版することの難しさを出版の現場から語っていただいた。西谷さんの問題提起的なコメントに対し、本誌読者から率直な感想と意見が寄せられたので、今回はそれをご紹介したい。投稿してくださったのは岡本真さん。1973年生まれで、国際基督教大学教養学部社会科学科を卒業され、雑誌編集者やウェブマスター、翻訳者、校正者等を経て、現在は民間企業に勤務。インターネットの学術利用について考察・検証を続けている。なおコメントのタイトルは本誌編集同人が付与したものである。

○出版社は自らの「特別意識」から脱却せよ(ARG編集発行人・岡本真)

vol.109(002.06.25.発行)の「公開討論『絶版論争:なぜ再刊できないか/いかに再刊するか』」第2回での西谷さんの発言を興味深く読みました。

私はわずかばかり編集者をし、その後転職してインターネット業界に身を置いております。そのようなキャリアを持つ身ですので、〈絶版〉と〈品切〉もしくは〈品切重版未定〉の区別など、西谷さんの言いたいことはよくわかるつもりです。しかし、他方で

 「「基本文献」と呼ばれる本でさえもそうたやすく売れるわけではないのであるから、専門書出版社とその読者はこの厳しい現実にたいして共存こそすれ、敵対関係に立つべきではないと思う」。

 「そのことを読者はあまりにも知らなさすぎるのではないだろうか」。

といった発言には、出版業界、特に版元、それも専門書出版社が超えるべき課題を感じます。西谷さんが仰るように、読者と出版社、還元すれば買い手と売り手の共存関係はそれはもちろん望ましいものです。しかし、共存関係とは一方が他方に対して、依存し一方的な要求をするところには成り立ちません。

「読者はあまりにも知らなさすぎる」という言葉がよく示しているように感じますが、なぜ読者、つまり買い手の理解不足を指摘する姿勢が先行してしまうのでしょうか。どれだけの出版社が、〈絶版〉と〈品切〉もしくは〈品切重版未定〉の区別を説明する努力をしてきたでしょうか。またそもそもその区別を説明しなくていいような工夫を心がけ、実際に実現してきたでしょうか。そして、そうした最大限の努力を自らに課すことなく、出版社の側の論理や事情を理解するよう読者に求めたところで一体何になるでしょうか。

そもそも出版業界に限らず、どのような業界でも買い手との関係構築には気を使うものです。買い手の理解が不足していると感じれば、まずは売り手側が自らを顧み、必要な対応を自らに課し、そこから買い手の理解へとつなげていくものでしょう。出版業界には、こうした常識はないのでしょうか。出版業界は自らの世界を特別なものと意識する傾向が強いと感じます。これは、売り手と買い手の関係をあえて出版社と読者と表現するところに、端的に現れているでしょう(そもそも、読者と出版社を買い手と売り手の関係に還元することにも異論が噴出するでしょう)。そろそろ、こうした特別意識から脱却して、当たり前の努力、当然の工夫に取り組むことを切に望みます。

この企画では、「いましばらく版元サイドの複数の声を募ってみたい」とのことですが、次回以降では、実際に自ら額に汗し、努力している出版社の声を聞ければと思います(決して未來社がそのような努力をしていないというつもりではありません)。それも形式的であったり、逆にアクロバティックなだけであったり、掛け声だけで実績があがっていないといった、そういった努力ではなく、もっと地道な努力をしている出版社の声にふれることができるよう願っています。

○温度差を確かめつつ、議論の明晰化を目指す(五月)

岡本さんは明敏な洞察力で、出版社側の説明には、自らを特別視する節がないか、と疑問を投げかけている。その特別視はしばしばビジネス一般の常識を逸脱し、読者に利するところがほとんどないのでは、と示唆された。出版業界に限らないが、自らのビジネスモデルを特別視する傾向はどんなメーカーにも多少なりとも存在する。その傾向と消費者へのアカウンタビリティ(説明責任)との間の齟齬をいかに調停するか、そこにメーカーの誠実さやずるさが表れるようだ。一方、読者がもし出版社のアカウンタビリティに過剰に期待するとしたら、そこにまた別の悲劇も生まれるだろう。共存と相互理解への道程は、読者と出版社との間の共通基盤と非対称性の認識から出発しなければならない。岡本さんは「読者と出版社を買い手と売り手の関係に還元する」ことに疑義を呈されており、重要な論点を提出された。さらに岡本さんは出版業界総体のイメージとして、形式主義やアクロバティックな掛け声だけの机上論が目立つということを指摘されている。この指摘はあくまでも個別の事例・事実とは異なる、と留保を付与すべきであるように感じるし、未來社をはじめ、出版各社はそうした地道な努力を惜しむことはないだろう(努力していると信頼できるかどうかという問題は依然として残るが)。重要なのは、自意識的な「地道な努力」ではなく、読者の目に見える客観的な成果ではないのか、と岡本さんは述べておられる。岡本さんが提示されたスタンダードにどれだけ版元は近づいているか、更なる調査と議論の進展を期したい。

この公開討論「絶版論争:なぜ再刊できないか/いかに再刊するか」は、不定期連載で、読者と出版人の声を採録していく。業界の内と外の温度差をどう理解するか、それぞれの本音を聞きながら、引き続き考えていきたい。貴重なコメントをお寄せいただいた岡本真さんに感謝します。

●岡本真(おかもと・まこと)さん略歴:ACADEMIC RESOURCE GUIDE編集兼発行人。ARGとは、電子メディアの学術利用を展望するオンラインジャーナルで、1998年7月以来、今月15日には第136号までが配信された。読者数5016名。
http://www.ne.jp/asahi/coffee/house/ARG/

 

初出:「[本]のメルマガ」mailmagazine of books vol.112 [水槽だって売るさ 号] 2002.7.25.発行より。

(C) 2002, Makoto Okamoto and Gogatsu

 

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第4回:良書出版という「気持ち悪い」言説

○さらに読者からの声を聞く(本誌編集同人・五月)

未來社代表取締役の西谷能英さんからのコメントに対して、出版業界関連の仕事に就かれている二人の読者から応答があった。前回はオンライン・ジャーナル「ARG」編集発行人の岡本真さんからの寄稿を掲載し、出版人が自らを特別視する傾向性について吟味した。今回は出版コーディネーターの高岡武志さんからの投稿をご紹介する。高岡さんは、1941年生まれで、大学中退後、複数の出版社で主に書籍販売の仕事をされ、書籍も何冊か手がけられた。現在、義父の後を継いで、駿台社の代表をつとめている、と自己紹介された。

○良書出版という「気持ち悪い」言説(出版コーディネーター・高岡武志)

「リスクについては出版社のみが責任を負うという構造になって」おり、「そのことを読者はあまりにも知らなさすぎるのではないだろうか」との、西谷能英氏の発言に対して、岡本真氏は「出版業界は自らの世界を特別なものと意識する傾向が強いと感じます」 と記している。

私は、「経営リスクは出版社の経営者が負うべきもの」と考える。だから、専門出版社が経営実情を業界内で語るだけでいい話を、専門書を発行していることが、特別なことをしているという風にすり替えていくのは、噴飯ものと思っている。

「良書出版」なる言説は気持ち悪い。(私たちのような出版業は)良い伝統芸能だから文化庁あたりに補助金出せと要求しているような話である。伝統芸能にあたる部分が自分ら「専門出版社」で、文化庁にあたるのが読者もしくは小売業(=書店)で あるというロジックである。

当時、注文性(=買切制)を主張する際に、経営リスクを小売り側に負担させようとする際の大義名分として「専門(書)出版社」を標榜したにすぎない。未來社が厳密な意味で「専門出版社」かというと、当時も今も「専門書といわれる書籍も発行している」出版社というのが正しい。戦後アカデミズム+戦後文化運動に同伴していただけなのに、それら書籍群を時代の読者が必要としないかたち(このかたちについては別に論議する必要がある)で、読者に乗りこえられてしまった(すなわち売れない)時に、共存などと気持ちの悪い言葉で読者(=消費者)に何を要望するのだろう。

取引歴が長いという理由で、「専門書」を発行する出版社が、取引条件が高い特権については、頬かむりであるが、それは、まぁ、営業権の話だからいいとしよう。だが、相当前に粉砕されたはずだが、知識を持っていることが上位でそれを享受する者(=読者)が下位にあるという考えには、「特別視」どころかウザッたい「特別臭」ものである。

大体、「知」を編集することが、実は権力者であるという自己認識がない。経営のしんどさを「誠実さを装ったずるさ」で弁解表明するよりも、「売れないな」という言葉が常套句になっているこの業界で、しかも、大衆(消費)社会状況下で、かつて3000部で取り組んだ本は今なら2000部で、2000部のものは1000部で、500部生産で、350部生産で経営していけばいいだけの話である。売り続けるパフォーマンスだけが、メーカー〜小売店に問われている(と思う)。

○議論の共通基盤を求めて(五月)

高岡さんの容赦ない主張には、ある種の単なる「嫌悪感」に属するものと聞き流してしまうわけにはいかない何かがある。西谷氏のコメントを踏まえた上での応答であるため、未來社への個別的批判というふうに読む方もいるかもしれないが、まったくそうではない。「良書」とはそもそも何であるか。その内実を高岡さんは問うているように思う。時代に取り残されつつあることに自覚的であるかどうかが問われる。現在の市場状況を冷静に受け止め、それでもなお営業しつづけるために必要なのは、特権意識ではなく独立意識であり、良書という看板におもねることではない。高岡さんによるいわば「業界的ディスクール」批判はその意味で正当である。ただし、一方で、西谷さんが主張されたことと高岡さんの批判はそもそも論点がかなり異なることに留意しておきたい。前々回に西谷さんが指摘された「構造的」絶版についての分析に、私たちの議論はまだ到達していない。「構造的」絶版は、一個の文化的問題であり、それは業界内部の問題という以上に、読者も常に否応なく巻き込んでいる事件なのではないか――私は設問のポイントをそう考えている。前回、今回と掲載した声は、純粋に言えば「読者」の声ではない。お二方とも、業界にゆかりのある方である。そもそも読者とは誰か、という問いとともに胸に浮かび上がるのは、業界と無縁の「純粋な」読者(これもまた幻想ではある)にとっては、これまでの議論はどう映っているか、という疑問だ。議論が生煮えのままに終わらぬよう、順を追って整理したいし、更なる声を待ちたい。

この公開討論「絶版論争:なぜ再刊できないか/いかに再刊するか」は、不定期連載で、読者と出版人の声を採録していく。業界の内と外の温度差をどう理解するか、それぞれの本音を聞きながら、引き続き考えていきたい。貴重なコメントをお寄せいただいた高岡武志さんに感謝します。

●高岡武志(たかおか・たけし)さん略歴:出版コーディネーター。駿台社代表。「編集行為」の概念を広く捉えて、中高年のための「ジカツ塾」(2002年10月開講)の企画推進、あらゆる商品の販売問題を解決する場としての「商談会」などを推進中。「年収、微弱」とのこと。

初出:「[本]のメルマガ」mailmagazine of books vol.115 [世界デビュー 号] 2002.8.25.発行より。

(C) 2002, Takeshi Takaoka and Gogatsu

 


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