[本]のメルマガ」誌より部分転載

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■「公開討論『絶版論争:なぜ再刊できないか/いかに再刊するか』」
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第5回:法人ではなく、個人のモノサシではかる出版活動とは

○ふたたび出版社の声を聞く(本誌編集同人・五月)

ここ2回ほど、出版業界関連の読者の方の投稿を掲載した。それらに対して、未來社代表取締役の西谷能英さんが、PR誌『未来』の今月号で再応答を書いておられる。お気づきの方も多いと思うが、未來社のウェブサイトでも読める。http://www.miraisha.co.jp/ このトップから、「未來社アーカイヴ」に入り、連載「未来の窓」の第67回の「「絶版論争」の中間総括」をご覧いただきたい。さらに11月号に掲載される第68回「専門書出版と読者との関係構築再論」でも、議論の進展が見られるので、ぜひ参照されたい。西谷さんは様々なメディアを通じて出版論を一般読者に対してもオープンにしてきた数少ないお一人だが、私の考えでは、どんな出版社も、絶版問題や読者との距離感などについて、一言あるはずである。今回、書籍出版社のトランスビューを2001年に立ち上げられた中嶋廣さんが、以前から申し込んでいた取材に応じてくださったので、掲載したい。3人で切り盛りしている小さな会社だが、島田裕巳氏の大著『オウム』やケン・ウィルバーの『万物の理論』など、次々に話題作を出版しており、販売面では書店との直取引を強力に推進するなど、内外の注目を浴びている。

○絶版、流通、良書について(トランスビュー代表・中嶋廣氏)

1 絶版について

五月:大出版社と違い、小出版社は極力絶版をさけようとする傾向が強いと私は思います。そもそも絶版にしてもいいようなコンテンツは出版しないに違いないからです。しかしそれでも絶版は避けがたいはずで、中嶋さんも、これまでの編集キャリアの中で、そうした現場に立ち会われたはずですね。書籍の絶版についてどうお考えになっておられますか。

中嶋:未來社の西谷さんがおっしゃったように、絶版というよりも「品切れ」という言葉を使ったほうがよい。すると問題は、品切れをほうっておくか重版するか、その基準は何かということになる。私の場合は、原価を含む経費が一年間で回収できるかどうかということ。ただし決算の時期との関連で、一年間で回収できる見通しが立っても、すぐに重版するとは限らない。
 以上が問いに対する直接の答えだが、この議論の真意はそういうことではなくて、新刊にロクな本がないということに対する鬱憤、または義憤だろう。基本図書を常に書店で買えるようにしろという議論には、実際的な意味はない。万人にとっての基本図書というものはないし、個人にとって必要な本は、書店、古書店、国会図書館から各種研究機関の資料室までを利用するほかはない。そうではなくて、新刊書店の棚のつまらなさを何とかせい、という話ならよく分かる。実際、いま新刊書店に行っても、特に入り口に近いところは、少しも楽しくないどころか、むしろ近寄りたくない場所である。なぜそういうことになるか。出版する側の事情で言えば、個人の都合ではなく、会社という法人の都合で本を出すからである。
 今では人格に二つあって、個人の人格と法人格のうち、圧倒的に強いのは法人格である。個人の都合なら、面白い、役に立つ、感動する、価値がある、などが出版の基準になるが、法人格はそんなものは一顧だにしない。生産額、売り上げ、粗利益、コスト・パフォーマンス、法人が気にするのはそんなことばかりだ。これらは出版を続けてゆく上での必要条件に過ぎないが、法人にとっては、逆にこれ以外の条件は邪魔なものに過ぎない。モノサシはひとつしかないのだ。その結果が現状のていたらくである。
 実際、本どころの話ではない。今では法人格は、個人の生活を破壊し、死に至らしめたとしても罰せられることはない。もし個人がそんなことをすればもちろん、ブッシュを例外として、懲役または死刑である。法人の場合は罰せられることがまれにあったとしても、先日の原子力事故のように、たかだか50万円の罰金である。その行き着く果てを悪夢の戯画として現実にしたのはオウム真理教団だが、あれは宗教「法人格」である。全然特別な例などではない。
 どうすれば新刊書がまともになるか。もう言うまでもないだろう。法人を否定して「法団」と認識し、徹底的に個人の都合で企画を立てて実現すること。これは気づいてみれば、言うは易く行なうのもたやすいことである。あとは本気でやるかどうか、本だけではなく、いつの場合も話はそれに尽きている。

2 出版流通について

五月:トランスビューさんは独自の販売ルートを開拓しています。取次に頼らない流通の可能性は、書籍の恒常的で安定的な供給に繋がっていくでしょうか。展望を伺います。

中嶋:トランスビューの流通は、営業責任者の工藤秀之が創案し、実現した。これについては小社ホームページの「Nのページ」に詳しく書いたので、具体的にはそちらをご覧いただきたい(私自身は流通にはまったく関与していない)。http://www.transview.co.jp/n/n.htm
 最優先の課題は、読者・書店にどれだけ早く本を届けるか、である。「工藤方式」では最短で注文の翌日、最長で4日後。まだ日数がかかりすぎているが、現状ではここまでしかできない。本当は本がほしいと思ったら、半日後には届けたいが、それにはまずジュンク堂池袋店のような店が全国に100軒くらいなくてはならない。各県に2、3軒である。しかしこれはジュンク堂の社長じゃないとどうにもならない。
 2番目の課題は返品率を0にすることであるが、トランスビューの場合、創業から4点を出した3ヵ月後には4%ほどあったが、10点になった現在では0.4%ほど。これは買い切りではなく、実売清算と委託を合わせた方法としては、限界に近いのではないだろうか。
 「工藤方式」のそのほかの特徴は、書店のマージンが価格の30%であること、売り上げの回収が最短で翌月、最長で4カ月目の10日であることなど。なお誤解のないように付け加えておくと、「工藤方式」でも、あらゆる取次を通すルートは確保している。そしてこのルートでは、本が届くスピードは従来と変わらない。とにかく、読者に本が早く届き、返品率が低く、書店のマージンが大きく、出版社の売上げ回収が早い「工藤方式」を、一軒でも多くの書店が試してくれることを、心底願っている。
 それから、この方法が書籍の安定供給に資するかどうか展望を述べよとのご質問ですが、これはもう少しやってみて、第三者に判断していただくほかありません。

3 「良書」について

五月:中嶋さんにとっての「良書」とはどんなものでしょうか。また、良書出版とは何でしょうか。

中嶋:私にとって良書とは何か。簡単に言うと、そんなものはない。「良書」「悪書」というようなレッテルは使いたくないし、役に立たない。サドの『ジュスティーヌ』は良書か悪書か、ヒトラーの『マイン・カンプ』はどうか。個別の本が個人にさまざまな状況で読まれるときに、いろんな価値が生じるので、常に変わらぬ良書というようなものはない。同じタイプの言葉に「硬派の本」「硬派の出版社」というのがある。いかにもエラソーなところが笑えるが、他人が言うならともかく、自分の仕事にこの言葉を使って平然としているのは正気とは思えない。マスタベーションは人前でするものではない。

○議論の粘り強い継続を期す(五月)

法人の都合ではなく、個人の都合で本をつくる、という意見は、版元だけでなく小売店にも示唆するものがあるのではないか。個人の目利きが工夫を凝らしてつくる棚は、読書人を喜ばせる機知に満ちているからだ。例えば人気作家の最新刊をたくさん用意することももちろん重要だろうが、中嶋さんが嘆いているように、もし新刊台が、人気作家一色だったら、いったい読者にはほかに何を見る自由があるというのだろうか。もちろん私が言っているのは極端な対比だが、私は出版社が用意する人気作家の宣伝ポスターよりも、個人の書店員が書いた一枚のポップの方により繊細な興味をそそられるという事実を告白しないわけにはいかない。なお、出版社=書店間の流通であるが、「工藤方式」を推進されている当の工藤さん(私の知り合いでもある)が、販路をゼロから構築するという苦労を厭わずこれまでやってこられたというのは、実際なかなかできることではない。

最後の質問の「良書」については、中嶋さんはユーモアたっぷりにそうした「レッテル貼り」に対して警戒されている。留意しなければならないのは、それでも「良書」という言葉を選択する業界人が存在しており、中嶋さんも「他人が言うならともかく」と留保されているように、「良書」あるいは「悪書」という言葉の「レッテル貼り」が、誰によってどのように行われているか、個々のケースについてよくよく見ていかなければならない、ということである。

ここには難問が潜んでいる。「良書」かどうかはそれを受け取る個人あるいは集団の価値基準によって変わるが、「個人的に見て」良書であるものを出版するのならば、たとえ仰々しくレッテル貼りしているわけではなくても、やはり出版社には何かしらのプライドや志や持ち前の嗅覚があるはずなのである。価値相対主義が、公共空間という一種の価値平準化の空間(もしくは文化やメディアによって操作された空間)に書物を投じる場合、その行為は、どのように意識的に行われているのだろうか。つまり、私的なものと公的なものとの結びつきに、出版人はいかなる「賭け」を見出しているのだろうか。

この公開討論「絶版論争:なぜ再刊できないか/いかに再刊するか」は、不定期連載で、読者と出版人の声を採録していく。業界の内と外の温度差をどう理解するか、それぞれの本音を聞きながら、引き続き考えていきたい。貴重なコメントをお寄せいただいた中嶋廣さんに感謝します。

●中嶋廣(なかじま・ひろし)さん略歴:トランスビュー代表。1953年生まれ。東京大学仏文科卒。1978年、筑摩書房入社。1987年、法蔵館東京事務所に移り、『季刊仏教』編集の傍ら『上山春平著作集』、養老孟司、池田晶子、森岡正博などの単行本を編集。2001年、トランスビューを創設、島田裕巳『オウム』などを刊行。

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20世紀を代表する言語学者にして最もラディカルな思想家が、メディア、権力、知識人、経済、外交、言論の自由、グローバリゼーションなど、現代世界の主要な問題を語りつくし、新聞やテレビ等のマス・メディアが覆い隠した真実の世界像を、無造作に容赦なく暴き出す。詳細は http://www.transview.co.jp へ。
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初出:「[本]のメルマガ」mailmagazine of books vol.121 [1ミリから2メートルまで号] 2002.10.25.発行より。

(C) 2002, Hiroshi Nakajima and Gogatsu

 

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第7回:品切絶版本のオンデマンド化で、読者に購買の選択権を

○大学生協書籍部の声を聞く(本誌編集同人・五月)

約五ヶ月ぶりの再開になる。いままでの議論の方向性を自分自身で再度整理すべきだろうかと感じながら、その間にこの公開討論にたいしての反響をちらほら耳にした。やはり業界人の関心が高いようだ。もともとこの討論に終わりはない。対話は継続されるべきだし、議論は公開されるべきだ。小誌ウェブサイトのバックナンバーで、第6回の記事が削除されているが、これは寄稿者である書店員氏がウェブでの公開を希望されず、その意志を当方で尊重したからである。明言するが、内容に問題があったからではない(お読みになった方はお分かりだろう)。討論再開にあたって、私は大学生協書籍部の現場組合員や、古書店、そして読者に打診して、ご寄稿をお願いした。今回は東京大学生協駒場書籍部で日々書店業に勤しんでおられる糸日谷智さんとのやり取りを公開する。糸日谷さんは生協の若手職員の中で、専門書に対する意識の高さから版元営業マンからかねてから注目されており、まさに知る人ぞ知る存在である。

なお、これまでの議論は、 http://biblia.hp.infoseek.co.jp/g/index.htm でご確認いただきたい。

○出版社は一度刊行した書目を供給しつづける努力をせよ(糸日谷智)

[五月]
絶版問題(それが問題であるとしての話ですが)について大学生協書籍部の現場の方にお尋ねしたいのですが、名著古典の部類が新刊書店店頭で手に入りにくくなっていることや、お客様にとっての復刊や重版の恩恵はどんなものだろうかとかいったことにかんする生協の皆さんの立場や見解は、出版社や生協以外の一般書店のそれとは全然別次元のものがあるのではないか、と僕は経験的に推察しているのですが、その辺についてお話をぜひ伺えませんでしょうか。

[糸日谷]
僕の意見が生協の中で主流なのかといえば、それはわからないし、個人的には生協の人間であるのは事実だけど、出版社の人や書店の人と話す時にはほかの書店の人と同じ「書店員」のつもりです。扱う本の種類で専門書の比率が高いだけ。ところでなんで、書店とは別の「生協」ってくくりなのでしょうか。会員に値引き販売してるから?。それだったらしょうがないけれど、でも、明治大学に出店した三省堂や大学内に出店している紀伊國屋書店とか丸善はどうなるんでしょう。本をどうやって売っていくかを考えるのは違いはないのですよ。僕が働いている東大生協は扱う書籍のうちで教科書の比率が低いのですが、教科書の話ということなら、生協ならではになりますね。

[五月]
もちろん糸日谷さんに生協の立場を代弁してもらうつもりはさらさらありませんし、全国の生協書籍部を十把一絡げにしたいわけでもありません。仰るように、「本をどうやって売っていくかを考える上では一般書店も生協も違いはない」はずだというのは頷けます。立場の違いを超えたところから見えてくる風景もある。ただ、今回の主旨は、立場や環境や販売条件や客層などが違う方々には別々にインタビューしたいというわけなのです。生協さんと一般書店は客層や販売条件が違うでしょう。生協書籍部さんと、学内購買部の丸善や紀伊國屋書店との間にも違いはあると思う。糸日谷さんにだからこそ僕は聞きたいことがあるんです。別に東大生協だから、というわけではありません。

[糸日谷]
新学期の最中で忙しいので、実際お答えしている場合ではないのですが(笑)。本を売る側の立場からいえば、品切れ・絶版本はないほうがいい。実際に注文や問い合わせをうけるなかで問題になるほど、品切れ本があるわけではないのですが、とくにこの時期、教科書に指定された本が品切れ(重版未定)なんて返事を出版社からもらうと、諦めの境地にいたってしまう。教科書を学生が読むことを前提に講義を進めようと考えていた先生は、それどころではないでしょう。(書店としても機会損失を被るわけですが)人文系専門書の一括復刊などのラインナップをみると、やっと重版かというか、そもそもこの本が品切れになっていることがおかしいんだと思うような本が何点もありますが、多分、東大という全体においては少数派にあたる市場で売れ行きを見ている書店員の感覚だからでしょう。

出版社が在庫のなくなった本をなぜ品切れのままにさせておくかといえば、重版したところで利益がでないからであり(教科書でいえば何百人と受講者がいる授業で指定された本はだいたい重版予定がたっている)、経営としては当然の行動だということは理解できます。

しかし、出版業界が建前であったとしても、文化というものを使命としているというのならば新刊を出版しつづけること以外にも、一度出した本を供給しつづける努力というのをやらなくてはいけないのではないかと思ってしまうのです。それで会社潰したら笑いものでしょうけど。その文化を継承させていく、つまり品切れ本を供給する有力な手段のひとつがオンデマンド、有名なものでは日販系のBOOK Service、トーハン系のデジタル・パブリッシング・サービス(DPS、万能書店)がありますが、これが使い物になるのかさえよくわからない。まだ歴史の浅さからか、実際にお客様からの問い合わせでも品切れは品切れでしかない。その本ならオンデマンドで出せますなんていわれたことはなく、大体、重版予定はありませんで終わってしまいます。日常作業において、店頭で問い合わせを受けた場合、店に在庫していない本は、NOCS(本やタウンの業務用みたいなもの)等で取り寄せにかかる日数や価格を確認をするわけですが、そこで品切れと表示されていればそのまま、出版社にその本のリクエストがあったことも伝わらずに、品切れで手に入らないと応えることになってしまう。

もちろん、オンデマンドにした場合、価格の問題が出てくるでしょうが、例えば、アメリカのUMI http://wwwlib.umi.com/bod/ の本なんて、あの製本でこの値段なのかと思うほど高い価格ですが、「その値段なら買うから製本してくれ」「そんなに高いなら図書館で借りるなり、古本屋で時間がかかっても探す」という選択権を買う側が持てることになる。

品切れになった本を再度入手できるようにするための選択権は現状では出版社(と著作権者)にあるのですが、できるだけそれを、読者の側に渡して欲しい。

[五月]
絶版や品切はたしかにない方がいいに決まっていますね。最初の質問を部分的に繰り返すことになりますが、生協書籍部さんの現場の方の視線では、読者にとって名著古典の部類が復刊されたり重版されたりすることがどのような恩恵をもたらすのか、もう少し伺えませんか。

[糸日谷]
日常作業ではほとんどわかりません。復刊は一括でやった場合コーナー化することでわかりますが、あれも、一歩、引いて冷静に考えると変な棚。帯をはずすとなんでこの本たちが一緒に並べられているのという棚になっている可能性が。重版は新刊のように扱われていない。新刊コーナーはあっても重版コーナーは作っていない。

何が名著で何か古典なのかという問題がありますから、その言葉はここでは使いませんが、専門書、特に既刊書の場合は平台で売るというよりは、棚に一冊はしっかりあって、必要・興味を抱いたときに買われていくものが多いと思う。第一、平台で売るような本だったら、品切れにはそんなにならないだろうし、すぐに重版されるでしょう。だから、出版社にとっては大変でしょうが、一冊一冊売るという発想を持ちます。で、年に数冊、それが何年も。だから、少なくてもいいから出版社には在庫を持っていて欲しい。これだけ出版点数が多くなっている状況でそれが難しいのなら、せめて注文を店頭で受けた本を手に出来る仕組みが欲しい。本を手に入れるときの選択権をなるべく読者の側に渡したいですね。

例えば、万能書店で買えるらしい、『直訴と王権』朝日新聞社は日販の「本やタウン」でもアマゾンでもe−honでも紀伊国屋書店やジュンク堂でも万能書店の特約店でもある今井書店のでもネット上で検索すると品切れで取り寄せ不可になっている(せっかくの新たな取り組みももったいないな、という感想)。

[五月]
書店の現場で色々不便に思われていることがあることを、版元も取次ももっと知っていかなければならないと思います。いや、知っているのに、対処できていない。版元と書店の利害が一致しないからというより、糸日谷さんの言及された出版社の「文化的立場」が建前どころか霞のようになってしまったからかもしれない。対処できていないということは、いくら「知って」いても、その広い影響関係について明確に意識できていない(あるいは意識的に無視している)ということでもある。

[糸日谷]
補足的な話ですが、本はなぜ売れるのか、ということについてもお話ししたいと思います。結局、出版社の体力が落ちていることにも問題があるのでしょうか? そんなにコストをかけずに本が売れればいいんでしょうか? 本が売れて出版社に体力がつけば結構、問題は解決するんじゃないかと思うこともあります。

五月さんが数年前に某版元を辞めた直後くらいだと思うのですが、人文書コーディネーターなる肩書きを名乗る人物がいたようで、確か、彼の言い草が、人文書が売れないと言われているが、読むべき価値のある本はたくさん出版されている。それを求めている読者もいるが、書店が上手くその両者を結び付けられていない。そこで人文書コーディネーターの出番というわけでしたが、確かに、面白みのない本屋が多い中で、そのとおりだと思った半面、大学生を相手に本を売っていたものとしては、そうなのか、思うこともありました。だって、
本読まない学生は本買ってくれないもん(東大でもね)。

ネット書店は書評をつけたり、テーマごとのセットページを作って本を売ろうとしています。それにたいして、現物を手にとって確認できる書店は店頭に価値・魅力ある本を収まるべきところに納めておけば、優秀な読者が発見し、買っていってくれるのでしょう。だったら、その優秀な読者は一体どこからやってくるのか。それは年々自然と増えていくものなのか。

出版社が出す本には出版社が出すだけの魅力があります。(それが市場で読者にたいして魅力があると判断されるかどうかは別にして)その本の魅力を読者はどうやって知るのでしょうか。店頭で見つけて、著者への信頼感、書評や広告。誰かに薦められて。

書店というのは本を売る場所です。(とかいいながら本以外にも結構手、出してますが)大学生協の書籍部は専門書売る場所です(とかいいながら、レジ前にはコミック並べてますが)本を売るということは本を並べるということではなく、本の魅力(内容とそれにみあった価格)を読者に伝えるということで、並べるという行為は実際に手にとって、その魅力を伝えることを容易にする一つの手段にすぎないはずです。

魅力を知っても買わない人もいるし(大学で数学を研究する人なら誰もが読む本だということを伝えたとして、その重要性を相手が理解したとしても、文系の人ならその本は買わないだろう)伝えても、伝え方にもよるでしょうが、その魅力がわからない人もいる(ギルロイの『ブラック・アトランティック』がどんなに魅力的な本であっても、ハリーポッターを買った人全員がその魅力を理解するとは思えない)。

世の中の人全員が本を買うわけではないし、買わなくていいんですけど、自分のことでいえば、東大という市場で専門書という本の魅力(面白さと)を伝え、本に興味を持つ人達を一人でも多くしたいという思いはあります。

[五月]
人文書コーディネーターというのは僕自身のことじゃないの(笑)。おおよそそういう発言をしたことはどこかである気がするけれど、「そこで人文書コーディネーターの出番です」みたいなあからさまな介入は意図してませんし、書店に責任をなすりつけたいわけでもない。そもそも「人文書コーディネーター」というのは某オンライン書店のスタッフが「命名」した肩書き(らしきもの)なんです。それはともかく、「東大でも本を読まない学生はそもそも買ってくれない」と仰っていましたが、僕が読者と本の結びつきを新たに提案したいと言ったのは、「結局買わない人は買わないよ」という冷めた諦念がもたらすいやな雰囲気を打ち破りたいからです。糸日谷さんがなんとか読者に訴えかけたいと思っている気持ちとどこか通じるでしょうね。

一出版人としての僕の本音なのですが、販売や営業について、糸日谷さんにはいままで色々な具体的アイデアをご提案いただいて、とても役にたってきた(それも本当はここで紹介したいのですが話が長くなってしまいます)。意見交換をますます今後も活発にしたいのです。残念ながらそろそろ今回はお開きにしたいのですが、最後に一言あったらお願いします。

[糸日谷]
出版社がだす本の魅力をどう読者に伝えるのか、ということについて一言。この部分では出版社も書店も努力、改善の余地はまだ大きいのではないでしょうか。

例えば、新刊予定が各社のホームページで載っています。それだけでなく、その本の魅力を一番知っているのは、著者あるいは編集、営業なのだから、彼らがこの本はこんな魅力がある。だから今、当社でだす必要があるのだと、「力説」しなくてもいいのですが、書評的な機能、現実にレビューがほとんど存在しない以上、だったら、出版社が勝手に作って、その部分だけは転載自由にしてたくさんある出版社、新刊(実は新刊に拘る必用は全然ない)から書店が何点かセレクトしてフリーペーパーのようなかたちかなにかで読者に伝える手段、あるいは書店のHPで今月のお勧め新刊のねたにもなるのではないかと考えている最近です。

だったら読者が各社のホームページを勝手に見ればいいという話になりはしないかと思うのですが、勝手に見てもらえればいい。でも、既存の書店の魅力は読者に本との出会いを演出できる機能がネット書店より高いということにあるのだし、読者に対して情報提供をすることで、自分の店のファンを作りたいという考えもあります。

[五月]
それはすごく面白い。実現も不可能ではないと思います。大学生協さんとの共同戦線の新しい形をそうやってどんどん生み出していきたいですね。本日はありがとうございました。

○公開討論へのご意見ご感想を待望する(五月)

話しても話しても話したりない。そんな気がする。贅言を費やすつもりはないが、「絶版論争」では共通認識というものを早計に定立するつもりもないので、どんな細かいことでも、どんなに繰り返し述べられたことでも常に問いつづけ、発言し、相手の見解に耳を澄ませたいと思う。しかしこうした議論はすでに、業界的発想の枠内に留まる危険性にたえず晒されている。現在やりとりをさせていただいているある読者は、この「絶版論争」の敷居自体がそもそも高いことをやりとりのはじめから指摘してくれた。もちろんそれは意識せざるをえないし、一方でどうしても専門的な話にもなる。ただしそれを良しとする気はない。議論はさらなる「アウェイ」の地を目指すだろう。本稿をお読みになっておられる方々からの忌憚ないご意見を仰ぎたい。議論の枠組みが拡張され、業界が健全に批判されることを望んでいる(というレトリックがそもそも怪しいというご批判も含めて)。

この公開討論「絶版論争:なぜ再刊できないか/いかに再刊するか」は、不定期連載で、書物にまつわる様々な声を採録していく。業界の内と外の温度差をどう理解するか、それぞれの本音を聞きながら、引き続き考えていきたい。貴重なコメントをお寄せいただいた糸日谷智さんに感謝します。

●糸日谷智(いとひや・さとる)さん略歴:東京大学生協駒場書籍部所属。

初出:「[本]のメルマガ」mailmagazine of books vol.139 (2003.4.25.発行)より。

(C) 2003, Satoru Itohiya and Gogatsu

 

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copyright 2002, 2003 (c) Gogatsu and HonnoMerumaga


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